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舩坂弘陸軍軍曹の戦い 四月十七日の再会

2016-04-17 | 陸軍















 

 

 




舩坂弘超人伝説を制作していて、4月17日が近いことに気づきました。
奇しくも漫画中の羽田での二人の出会いは4月17日だったそうです。

舩坂氏の経営する大盛堂書店の名をアメリカに紹介するという意図のもとに

発足させたクレンショー氏の貿易会社「タイセイドー・インターナショナル」
の船出も4月17日であったということで、この日は生前の舩坂氏にとって、
もちろんクレンショー氏にとってもー「特別な日」だったということです。

舩坂弘の「超人伝説」を読んだとき、これは漫画にしてみたいなあと
思ったのですが、氏の著書、「英雄の絶叫」においても、最も氏が
その著書によって後世に残したかったのは決して自分の不死身ぶりではなく、
あの地で死んでいった戦友たちの姿であることは明白です。

不死身伝説は氏の遺志を慮ると少々不謹慎になるやもしれぬ、
と考えたこともあって、代わりに米海兵隊伍長で通訳をしていたクレンショー氏と
舩坂氏の数奇な友誼をテーマに描いてみました。



船坂軍曹の「不死身伝説」の前半は、主に彼の驚異的な体力と

運の強さの賜物でしたが、米軍機地に単独突入して銃撃を受け、
三日三晩経ってから奇跡的に復活した後、もし舩坂軍曹が
クレンショーと知り合わなければ、伝説が残らなかった可能性があります。


舩坂軍曹は二度捕虜収容所を脱走し、飛行機を爆破して自分も死のうと試み、
いずれもクレンショー伍長に(彼は舩坂の”見張り役”だった)阻止されました。

このときもし相手がクレンショーでなければその場で射殺されていたでしょうし、
漫画に描いた「ピアノ線が仕掛けられた罠」でいうと、
その少し前に脱出した
日本兵の捕虜は、実際にそこで射殺されたということです。




ちなみに舩坂氏が戦後実業家となって起こした「大盛堂書店」は、
昨今の書店の不振で規模が縮小したものの、まだ渋谷駅前で営業を続けています。

クレンショー氏は舩坂と再会した時には運送会社の副社長でした。

本屋を開業していた舩坂氏は、クレンショーに会うために昭和23年から
毎年問い合わせの手紙を各方面に配り、米国陸海軍省、外務省、
国防長官、参謀総長に至るまでくまなく連絡を取り続けました。

ちょうど手紙を110通書いたとき、米海軍の「ネイビータイムズ」が、
舩坂氏を取り上げたのがきっかけで、クレンショー氏の行方がわかったのです。


かつて、米軍基地で敵同士として出会った二人。
海兵隊に入ってから「人を殺したくなくて」通訳になろうと思い
日本語を勉強したというクレンショー伍長は、
まず自分の命を惜しまず突入してきた日本人に個人的な興味を持ち、
船坂軍曹に近づいてきました。

二人は生と死について語り、船坂軍曹はクレンショー伍長に、
「花は桜木、人は武士」つまり「桜の花のように散ることを侍は尊ぶ」
という精神を伝えようと試みたのですが、最後までこのことは
クリスチャンであるクレンショーには理解できなかったようです。


「その考えは勇ましいが、やっぱりそれでもなぜ死にたがるのかわからない」

舩坂氏がクレンショー氏を4月17日に日本に呼んだのは、
桜の散り際を彼に見せてやりたいと思ったからでした。
かつてどうしても理解できなかった「武士と桜木」
の思想を、その片鱗でも感じ取って欲しかったのでしょう。

彼は捕虜収容所で私に「神と平和」について教え、
私は彼に「大和魂の闘魂」を身を以て示したのである。


武士道についての研究は、今や世界で行われており、名著が数多くあります。

クレンショー氏は戦後、そういう武士道について書かれたものを読み、
「ユーカンナ フナサカ」が言っていたことを理解しようと
試みたことがあったでしょうか。

わたしは「あった」と断言してもいいと思います。
クレンショー氏が舩坂氏と再会してから5年後、彼は貿易会社を始め、
その傍らアメリカの子供達に日本語を教えていました。
彼が舩坂氏にしばしばこう語っていたそうです。

「これからの世界をリードするのはアメリカと日本である、
日本にはアメリカにない精神的な『もの』がある。
それを手本にしなければならない」

その「もの」とは間違いなく、武士道の精神でもあったはずだからです。