ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

舩坂弘陸軍軍曹の戦い その「超人伝説」

2016-04-15 | 陸軍

市ヶ谷の記念館には何振りかの軍刀が展示されています。
出処不明の青龍刀などもあるのですが、このように



誰の所蔵品であったかはっきりと素性の分かるものもあります。
荒木貞夫大将の「日露戦争記念の関孫六」。
おそらくは何十年も手入れしていないと思われるのですが、
それでもこの不気味なくらいの光は・・・・。

またご報告しますが、先日島根県でたたらを見学してきました。
そこで日本刀になるための鉄が、最初の段階から

どれほど手をかけ精神を込めて作られているかを知った今となっては
この輝きも決して不思議なものには思えませんが・・。

この記念館展示を見るのはわたしにとって二度目なのですが、
前回は全く意識に上らなかった、(もしかしたらなかったのかも)
冒頭写真の日本刀。
今回はその所蔵者を見て、思わずあっと心の中で叫びました。

この3年の間に戦史を読んだり調べたりするなかで、
「超人」としてその名を記憶していた軍人の名前が記されていたのです。

それが、舩坂弘陸軍軍曹でした。

いつの頃からか、その名前のイメージは「不死身」「超人」という
ズバ抜けた身体能力と恐るべき運、の象徴のように伝播しています。

白い悪魔と恐れられた狙撃手シモ・ヘイへ、安定の悪い黎明期の飛行機で
何百機も敵機を撃墜したエーリッヒ・ハルトマン、
戦車やなんか壊しまくったハンス・ウルリッヒ・ルーデルらとともに、
「サイボーグ」とか「チート」と呼ばれる舩坂軍曹とは何をしたのか。

というわけで、ご本人の著書、「英雄の絶叫 玉砕島アンガウル戦記」
から、その超人ぶりを探ってみました。

まず、舩坂弘軍曹が戦っていたアンガウルというのは、パラオ群島の一つで、
周囲わずか4kmの小さな島でした。
カナカ族が数百人住み着いていて、鉱石の産地でもありました。

もともと太平洋の要地というわけではなかったのですが、
昭和19年になり、戦況が日本に不利となると、防衛ラインがじりじりと
後退してきて、パラオ諸島まで追い詰められてきたのでした。

ペリリュー島に米軍が上陸したのが昭和19年9月、そして11月24日玉砕。
アンガウル島への上陸も9月17日のことです。

舩坂軍曹のいた宇都宮歩兵第14師団は、それまで満州に司令部を置いて
ノモンハン一帯の国境警備隊を務めていましたが、3月に南方への
動員命令が出されると、船坂軍曹もまた皆と同じように死を覚悟しました。

アンガウル島を守備したのは精鋭と言われた第一大隊を始めとする1382名。
この人数で迎え撃つアメリカ軍は2万人。
帝国陸軍がこの島で闘ったその日から舩坂弘の超人神話が始まったのでした。


●9月17日、13名の擲弾筒部隊が空襲と艦砲の嵐で10名戦死

舩坂、かぶっていた鉄帽が砕けるも無傷
この後舩坂隊3名は退却して反撃 

この後至近弾が足元で炸裂し大腿部を負傷
破片が大腿部の肉を25センチ切り取る重症だった
壊疽の予防をしてもらおうと軍医を呼んでもらったら、
黙って凝視しながら手榴弾を置いて行かれた

このままでは死ねないと思い、気が咎めたが持っていた日章旗を
傷口に当てゲートルで巻き止血をする 血が止まる


アメリカ側も決して楽な戦争をしていたわけではありません。
コウモリと蟹の気配が夜間も兵士の心をかき乱し、精神的に
異常をきたす者が続出していますし、指揮官がやられて撤退した
という局面もあったそうです。
それはたいてい日本軍からの「斬り込み隊」「肉攻」の成果でした。

「そこにひらひらと揚がった日の丸の旗を、私はわすれることができない」

●9月28日、擲弾筒を当てまくって敵を倒しまくっていたところ、
眼前で真っ赤に焼けた重迫撃弾が 炸裂
左腕上関節に破片が入り、またしても負傷、退却

米軍側の記録によると、このとき船坂軍曹の臼砲攻撃によって
一個小隊60名の将兵が全滅していました。
ちなみにこの間、舩坂軍曹は怪我をしていたはずの左足も使って戦闘しており、
終わった途端ばったりと倒れてしまいます。

●擲弾筒の弾を投げ続けたため、右肩捻挫していた
しかしそのまま9月末まで闘い続ける

戦闘の合間に船坂軍曹はゲリラに出て米軍兵の屍体から
食べ物を取って帰るも、それまで一緒に戦ってきた部下を失います。

やがて彼は微笑をすら浮かべて水筒を指差した。
<うんと飲めよ。松島!>
私の差し出す水筒の水を、彼はゴクゴクと音を出して実に美味そうに飲んだ。
その幸せそうな顔ーそれは私の一生が終わるまで忘れられないものである。
松島上等兵は水を飲んで間も無く息を引き取った。


●10月6日、敵に斬り込んで死ぬことを決意
屍体の間に横たわって近づいてきた米兵を三八式で射殺
その後銃剣で突入し、一人を刺す
左頭部に衝撃を受けて失神したが、6時間後
気がついたら
周りで米兵が全員(3名)死んでいた

ちなみに一人は舩坂の頭に銃剣を突き刺したままの姿だった


このころ、日本軍はもはや飢えと戦闘ショックで全員が幽鬼のようでした。
いきなり自決してしまったり、自分の血を飲み肉を食べるように
言い残して自分で引き金を引いて死んでいくのです。
しかし、舩坂軍曹始め日本兵たちは涙を流すだけで肉を食べようとはしませんでした。


●水を汲みに夜海岸線に行ったら目の前に潜水艦が浮上、
迫撃砲の集中砲火を浴び、左腹部に盲管銃創を受ける
次の日気がついたのでジャングルに這って逃げ込む
潜水艦乗員が捜索に来るが近くの茂みをつつかれるも見つかることなく無事

持っていた千人針を傷口に当て、雑嚢をかぶせて結び止血し、
尺取り虫のように這って陣地に帰還


陣地の兵隊は舩坂班長が生きて帰ってきたのを見て喜びましたが、
水を汲みに行ったのに手ぶらだったため皆そっぽを向きました。
傷からは蛆虫がわいて、うずうずと動くたび苦痛を与えます。

●痛くてたまらないので、小銃弾から火薬を抜き取って、
傷口に振りまいて消毒の代わりとする
焼け付くような痛みに襲われたが、
翌日になると蛆虫は減って
痛みも少なくなっていた



しかしそれでも苦しいのでついに舩坂軍曹は手榴弾を抜いて自決しようとします。
逡巡しながらも平穏な気持ちで右手に手榴弾を取り、安全栓をとり、
黒く突き出した右側の岩角にコツンと叩いて胸に抱いたのでした。

●信管が砕ける程力を込めて手榴弾を打ち付けたが、不発だった

どちらにしても盲管銃創で助かった兵隊を見たことがないので、
自分もすぐ死ぬだろうと思っていたら、手榴弾6個を発見。
自分が手榴弾で自決しようとしていたことなど忘れて大喜びし
これで米軍に一泡吹かせてやろうと意欲に燃える舩坂軍曹でした。

手榴弾全部を体に結びつけ、100メートル13秒くらいの速度で
司令部テントに走り、高級将校を巻き添えにして自爆することにし、
敵陣に近づき、丸一日茂みに潜んでチャンスを待ちます。

「南無八幡菩薩!我を守りたまえ!」
私は叢を飛び出すと、傷だらけの体に鞭打ってもう無我夢中で突っ走った。
(略)そのうち一人の米兵が、何気なく背後を振り返ったのである。

「ジャップ、ジャップ!オブゼアー、ジャップ!」

彼にとって何より幸いだったことは、その日本の斬りこみ兵は、
自分では疾走しているつもりであったろうが、実際には傷だらけで、
かろうじてよろよろと進んでいることであった。

<あとわずかだ!>

司令部は目前である。
(略)私が右手に握った手榴弾の信管を叩くべく固く握り直した瞬間、
左頚部の付け根に重いハンマーの一撃を受けたような、
真っ赤に焼けた火箸を首筋に突っ込まれたような暑さと激痛を
覚えると同時に、すうっと意識を失ってゆくのがわかった。

●10月4日、左頚部盲管銃創を受けて一旦”戦死”するが野戦病院で回復する

「屍体」となった舩坂軍曹の周りには米兵が群れをなして集まり、
ある者は唾を吐きかけ、ある者は蹴飛ばし、また砂を叩きつけたりしました。

駆けつけてきた米軍の軍医は、「屍体」の微弱な心音を聞き取り、
「99%無駄だろうが」と言いながら野戦病院に運ばせます。
そのときに軍医は、舩坂軍曹が握り締めたままの手榴弾と拳銃にかかった
指を一本ずつ外しながら、

「これがハラキリだ。
日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」

「日本人は皆、このように最後には狂人となって我々を殺そうとするのだ」

と語り、アンガウルにいた米全軍は、突撃してきた日本兵の
最後を語り合って「勇敢な兵士」という伝説を作り上げたのです。
このことを舩坂軍曹は、戦後、当時将校としてアンガウルにいた
マサチューセッツ大学の教授という人から手紙で知らされています。

「あなたのあのときの勇敢な行動を私たちは忘れられません。
あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ります」

元駐日アメリカ大使館のオズボーン代理大使も、そのとき情報将校として
アンガウルにいてその話を耳にした一人でした。

「あのように戦って生き還られた奇跡的行為には驚きました・・」


このときまでに受けていた舩坂軍曹の身体の傷は

左大腿部裂傷

左上博部貫通銃創二箇所

頭部打撲傷

右肩捻挫

左腹部盲管銃創

火傷・擦過傷無数

左頚部盲管銃創

という壮烈なものでした。
このうち一つでも死んでいて不思議ではない重傷もあります。
なぜこれだけの傷を受けながら生きていられたのか。

たとえば左腹部を潜水艦にやられたとき、
彼は「死ぬもんか。死ぬもんか。死ぬもんか」とリズムをつけて
実際に口に出しながら這って茂みまで移動したといいます。

自決しようとした手榴弾が不発だったのは間違いなく彼の運ですが、
この生への意欲と、仲間の仇を取るために生きるという激しい気力が
その生をつないだとも言えましょう。

ただ、本人に言わせると、これは

「どんな傷でも1日寝ればよくなる”体質だったから”」

ということになります。体質かよ。
さて、というわけで死んだと思ったら野戦病院で3日目に蘇生した
驚異の日本兵舩坂軍曹ですが、その奇跡はここで終わらなかったのです。


ここから先は、捕虜収容所で舩坂軍曹が出会った一人のアメリカ兵が、
その「不死身伝説」に大いに関わりを持つことになります。


続く。


参考:「英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記」舩坂弘著 光人社