呉の入船山記念館についてお話ししています。
検索していたら、昭和45年に放映された呉の映像が見つかりました。
【カラー映像】昭和45年の呉 KURE 1970
刑事ものですね。
ちなみに登場していた「音戸ロッジ」は取り壊され、7年前になりますが、
「汐音(しおん)」という温浴レストランがオープンしたそうです。
千福の煙突は今でもあります。
映像には呉地方総監部からなぜか敬礼しながら団体で出てくる自衛官、
地方総監部内では観閲行進、「海行かば」の演奏とともに映し出される
「日向」「信濃」の慰霊碑、当時はまだ綺麗だった「大和」の碑など、
(どうもこのおじさんは大和に乗っていたという設定らしい)
現在のテレビドラマではありえないシーンが満載。
おじさんが「戦後呉は変わった」と呟くのですが、今の日本は
このころから見ても大きく変わっていることに気がつかされる映像です。
さて、地方長官庁舎の内部見学の続きです。
昔洋風部分が公務に使われていたころ、こちらは土足可だったと思われますが、
問題は生活の場だった和室から応接部分に行く時、どこで靴を履いたのかということです。
もしかしたら一旦外に出て入り口から入ったのでしょうか。
ちなみに、ここが占領軍(オーストラリア陸軍)に接収された時、
彼らは和室部分も土足で歩き回っておりました。
廊下の壁は金唐紙(きんからかみ)が貼られています。
金唐紙は版木である大きな棒に彫刻を施し、それを紙にエンボスするもので、
素材は和紙に金箔などを貼り付けたものです。
博覧会に出品され、世界から賞賛されたという美しい工芸品でしたが、
あまりにも手間がかかるせいか、昭和の中期には技術が途絶えていました。
しかし、この技術を復活させ後世に残そうという人たちの力で、
ここ入船山の長官庁舎内をはじめ、国内に金唐紙の制作が復活し、製作者は
文部科学省から選定保存技術(文化財の修理復元等のために必要な伝統的技術)
の保持者に認定されました。
ちなみに「金唐紙」は復刻した技術者の命名による造語です。
「蝶に導かれて」見つかった版木で作った金唐紙。左上に蝶のモチーフが見えます。
前回の見学の時にも怒りまくった覚えがあるのですが(笑)
進駐軍は引き上げに際して、占領の記念も兼ねてか、ここにあった
ロンドン製の高価な家具を一切合切略奪して帰ってしまいました。
これはなぜか一つだけ残った籐椅子。
良心が咎めたのか、それとも単に積み込めなかっただけなのか。
真鍮のような素材で作られた「大和」の立派な模型がありました。
大変な労作です。
玄関ロビーを入ってすぐ右にあるのがこの応接所。
とりあえず来客に最初にお待ちいだだく部屋です。
この隣には公開されていませんが、書生部屋がありました。
「ウィリアム・モリスの様式に大変似ている」と説明には書いています。
モリスはビクトリア王朝でそのデザインされた製品が大量生産されるようになり、
それまで職人だった労働者が「プロレタリアート」となってしまったことを憂い、
初老に差し掛かってマルクス主義者になってしまった「ザ・自家撞着」の人です。
進駐軍接収時、この部屋の金唐紙は真っ白に塗りつぶされました。
占領したのが物の価値もわからないオーストラリアの田舎陸軍ではなく、
イギリス海軍であったなら、まだモリス風を尊重してもらえたのでしょうか。
鏡に映る画像がかなり歪んでいるので年代物だと思いますが、
復刻版の鏡が歪んでいる可能性もあります。
GODINというのはフランスのジャン・バティスト・ゴダンが作った会社の製品です。
このゴダンという人、日本ではあまり有名ではないようですが、実は
鋳鉄を使ったストーブの発明者だったりするんですね。こりゃすごい。
この人も実業家でありながら社会主義者として、ファミリステールという名の
労働者のためのコミニュティタウンの建設に情熱を傾けた人です。
今の基準でいうと「自家撞着」ですが、このころは実業家が社会主義者、
というのは自然発生的に共存しうる概念だったのかもしれません。
実業家であるからこそ、労働者のための理想郷を追求したところ、
それは新しく生まれた社会主義社会に違いないという結論に達したのでしょう。
ここではある夕食の席に供されたメニューが再現されています。
海軍の正餐については、項をあらためてお話ししたいと思います。
部屋の隅に見えていた組み木の床(再現部分)。
ここまでで洋館部分の見学は終わりになります。
長官の居住区になっていた和室部分を見ながら歩いて行くことになります。
この居住部分の畳部屋は、畳廊下を除くと9間あり、その中には
母屋から飛び出した形で接している使用人家と離座敷を含みます。
ここは主である鎮守府長官の居室であったと思われます。
ところどころにこんな監視カメラがありました。
「建物に設置できないからこうやって三脚で立ててあるんでしょうね」
「それにしても全体的に大きすぎないですか」
「小さかったら盗難されるかもしれないからじゃないですか」
監視カメラに写ってはまずいことをして、持って帰る輩がいることを
想定してのこの無粋なカメラ設置だと思われます。
でも、これその気になればカメラを反対側に向けることはできるわね(´・ω・`)
改装したときにこの居間の鴨居の裏側から見つかった大工のサイン。
京都の業者が明治38年に竣工したことを表す証拠ですが、
現存保持のポリシーに乗っ取り、サインはまた元どおりに埋められました。
昔はどこにもあった日本家屋そのもの。
夜間には遮光と防犯のため、一番外側にかつてあったであろう雨戸を
戸袋から引き出して全部閉めました。
廊下は隙間から下が見えていました。
洋館部分はゴダンのストーブで暖をとったのでしょうが、和室は基本
火鉢しかないので、廊下やトイレは冬寒かっただろうなあ。
ボランティアのおばちゃんたちがみんなで障子の張り替え作業をしていました。
「ご苦労様です」
声をかけると、
「(写真の)邪魔になってごめんなさいねー」
いえいえ、そのお仕事中の写真を撮りたいんです。
「やっぱり時々は張り替えないとだめですか」
「子供さんが来たりするとね。破いてしまうんですよ」
国の重要文化財の中で子供を放し飼いにするんじゃない、親。
しかしおばちゃんがいうには
「今はお宅に障子がある方が珍しくなってしまったので、
子供さんもそれでわざわざ触ってしまうみたいです」
金唐紙は破損したら再現するのは至難の技ですが、障子であれば、
おばちゃんたちにお手数をかけるとはいえ、復活させることができます。
この廊下に寝間着の浴衣などを着て佇む歴代呉鎮守府長官の姿を思い浮かべましょう。
鈴木貫太郎、山梨勝之進、野村吉三郎、嶋田繁太郎、南雲忠一・・。
離座敷、と言っても別に離れている訳ではなく、母屋から飛び出すように、
つまりここだけ付け足したような作りです。
使用人室の離れとは真反対側にあり、こちらには床の間もあるところを見ると、
来客が止まる時に使われた部屋ではないかと思われます。
離れの障子にも破れ跡がありますが、はて、ここには誰も入れないはず。
浄化槽の蓋の周りにある飾りは瓦を埋め込んで作っているようですが、
なかなかおしゃれですね。
復元された便所は使用禁止。
入り口でロープが張られ中に入ることもできませんでした。
数年前に来た時には、改装されていない昔のままの風呂場も
公開されていたと記憶しますが、今回は見ることはできませんでした。
さて、というところで入船山の長官庁舎の見学は終わりです。
入って来たところから外に出て、呉の街を歩くことにしました。
美術館通りの方位盤は操舵のデザインです。
この通りには海自の呉音楽隊の練習室が面しています。
さすがに窓から覗き込むことができないように鎖がありますが、
音楽隊が練習していると、その音が通りにいると聴こえてくるので、
観光客が脚を止めて聴き入っていることもあるそうです。
新しい音楽練習室が完成していたので移転したのかと思ったのですが、
この時点ではまだここで練習が行われていたようです。
この赤い建物は下士官集会所だったところで、呉市への返還が決まったことから
音楽隊の移転も決まり、新しい庁舎を建ててそこに移るのも間近だと思いますが、
美術館通りから音がなくなってしまうのは寂しい限りです。
全裸に帽子だけ被ってサックスを吹く男。
音楽練習室のそばにあるシュールな彫像です。
後ろから見るとさらにシュール。(脇の贅肉が)
呉ではマンホールの蓋ですらこの通り。
竣工時の大和の雄大な姿を正面から。
さりげに背景のショベルが左右対称だったりします。
「くれし」「おすい」。
ひらがな表記にすると護衛艦の名前みたいにソフトな印象になりますね。
ソフトにしたからなんなのか、と言われると困りますが。
ちなみに日本のマンホールの蓋は世界でも有名で、
で検索すると、ご覧の画像が出て来ます。
マンホールの蓋ですらアートにしてしまう国、ジャパン。
そんな国に生まれて本当によかったとわたしはあらためて思うのでした。
さて、そろそろお昼ご飯の時間です。
「ここはやっぱり一つ・・・・」
「愚直たれメニューでしょう!」
わたしたちはこのあと愚直に愚直たれを求めて、呉の街を歩き出しました。
続く。