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掃海艦「はちじょう」除籍〜甲板の上の男たち

2017-06-12 | 自衛隊

 

さて、掃海艦「はちじょう」除籍に伴う艦旗返納式のレポートに戻ります。

前回、現場では聞き取れなかった艦長の「〇〇を解く」の◯に入るのが
「指揮」であることを、unknownさんのコメントでも教えていただいたわけですが、
これは、艦長たる指揮官が今まで「指揮を取っていた」状態から、

総員が艦艇の除籍と同時に「指揮を解かれる」ことになることを宣言しているのです。

ちなみに着任の際、指揮官は例えば

「海軍中尉エリス、ただいまから掃海艇『ちびしま』の指揮を執る

と宣言し、離任に際しては、「指揮を解く」ということになるのです。

なお、前回戦車や飛行機、無人のSAMなどに、このような儀式がない理由について
ブログ上で疑問を呈したところ、

「そこが“住み処”であるや否や」

がその分かれ道ではないか、というご意見をいただきました。

この話が大変興味深いものであったので、そのまま転載させていただきますと、


護衛艦や掃海艇、潜水艦勤務の発令は、

「護衛艦〇〇乗り組みを命ずる」

です。
科長以上は「補職の職」となり、

「護衛艦〇〇□□長を命ずる」

になります。
乗り組みの士官、乗員とも、船が勤務場所であり、家:住み処になり、
居住区があり、風呂も食堂もあり、食事も支給されます。

住民票も船の定繋港がある場所、例えば「はちじょう」乗員ならば、
横須賀市田浦港町国有無番地というところに届け出ます。

従って、「乗り組み手当」が支給されますが、独身者には、
下宿を持っていても、住居手当も通勤手当も支給されません。

ただし、保護すべき(養育する)家族ができた場合は、
そこに住むことが認められ、住居手当は出るようになりますが、
やはり本人は船に起居することが義務づけられているので、通勤手当は出ません。

船乗りにとって、船は単なる職場ではなく、海に生きるために乗員の命を守る住まいであり、
乗員は一家であり、憩いの場でもあり、究極のときは死に場所なのです。

戦闘機や戦車が同様に“死に場所”であっても、そこで日常を過ごしたり、
年月の単位で乗っていることはないでしょう。

こうして考えていただくと、船がどんなに特殊な勤務場所がわかっていただけると思います。

 

独身者は船に住むことを義務付けられるため手当が出ない、というのはかなり驚きました。

ともあれこのような船乗りの思想が根底にあるからこそ、艦艇の就役にも除籍にも、
いろんな思いと願いを込めた丁重な儀式が必要となってくるのでしょう。

 

さて、護衛艦旗返納の儀式が終わり、乗員が皆で記念写真を撮ったところからです。
この後、来賓と幹部の記念写真撮影が行われ、わらしべ長者並みにトントン拍子の()
偉い人扱いを受けていたところのわたくしも、一緒に写真に収まり、式典は終了しました。

写真を撮り終わった乗組員は全員でまず艦長を胴上げ。
周りの人たちも胴上げに合わせて手を挙げています。
実際に胴上げしているのは六人くらいでしょうかね。

「え?次、俺?」

階級が見えませんが先任伍長かな?

急いで写真撮影台の上から撮ったのですが、艦長ほど高くは上がりませんでした。
その理由は主に体重いや何でもない。

式典の間と違って、自衛官も自由に写真を撮ることができるので、皆が
スマートフォンで「はちじょう」最後の姿を収めていました。

改めて喫水線を見ると、燃料と機材がなくなった「はちじょう」のそれは、
こんなに艦体が浮き上がっています。

燃料は式典のため岸壁に横付けするだけのギリギリしか入っていなかったそうです。

23年もの間、何回も何回もペンキを塗り重ねられた艦首部分(ここだけ金属)は
地図のようなまだらな模様を艦体に浮かび上がらせています。

ここ倉島岸壁には自衛艦以外の船もいるようですが、敷地内工事現場の土を運搬するためでしょうか。

掃海関係の幹部だけで記念写真を撮るようです。

掃討具、これはS−7 の1タイプとなります。
この「やえやま」型と「うわじま」型掃海艇が搭載している機雷処分具で、
中深度の掃海を行うために1990年に開発され導入されたものです。

魚雷型をしているのは、流体力学的により優れた形を追求したからで、
ここからも見えている先端部分には、

超音波水中映像装置(イメージング・ソナー)

が搭載され、映像を光ファイバーケーブルを通して取り込むことができます。

新しい掃海艇には日進月歩で新型の装備が搭載されるので、
おそらくこの掃海具も、艦体とともに廃棄処分になるのだと思われます。

先日ご紹介した週末の「よこすかワイワイのりものフェスタ」の時には、
吉倉桟橋に繫留してあった「うらが」がこの時にはここにいました。

掃海母艦として、「はちじょう」の除籍を近くで見守っていたのでしょう。

気がつきませんでしたが、もしかしたら「うらが」からは護衛艦旗の降下を
乗組員がともに見送っていた可能性もあります。

のりものフェスタの時、潜水艦「ずいりゅう」の横に立っていた潜水艦乗員に
散々「うらが」のことを質問して困らせていたおじさんがいましたが、
あのとき「うらが」は一般人に姿を見てもらうためにわざわざあそこに移動したのでしょうか。

それなら、「うらが」に興味を持ったおじさんのような人がいたということは
自衛隊にとって『狙い通り』だったという考え方もできます。

まあ、おじさんの場合は質問した相手が大いに間違ってたんですけどね。

別の桟橋には「えのしま」もいます。
今年の3月に「あわじ」型掃海艦のネームシップが就役するまで、最新型の掃海艦艇で、
むろん掃海艇としては未だに最新型です。

港に「軍港めぐり」の遊覧船が入ってきました。
風に乗って聞こえてくるアナウンスを垣間聞くと、船内では
先ほど「はちじょう」の除籍が行われ、護衛艦旗が降ろされた、
というようなことを言っているようでした。

式典に使われた式台には、「はちじょう」の艦名プレートが掛けてありました。
ラッタルに掛けるバナーと同じく、こういうものの行き先は決まっておらず、
そのときその時で手を挙げた人がもらえるらしいのですが、今回、
このプレート、誰が持ち帰ることになったと思いますか?

それは、わたしがのりものフェスタでも購入した「はちじょうカレー」を
「はちじょう」艦長、もとい、「はちじょう」最後の艦長と一緒に持って
一緒に写真を撮っている、こちらの女性です。

本日の式典に、わたしはミカさん(仮名)とこちらのミカさん2(仮名)、
三人でやってきたのですが、ミカさん2(仮名)は皆さんもご存知、
スカレーくんでおなじみ、横須賀海軍カレー本舗の方であります。

この時には、艦長にプレゼントするためにカレーを授与しているのですが、
その後、プレートの行き先を決める段階になって、彼女が、
というか横須賀カレー本舗さんがその引き取り先に決まったというわけです。

海自カレーは呉と同じく横須賀でも主に本舗さんで発売されていて、
「はちじょう」カレーも、レシピを「はちじょう」の給養部から直伝され、
それを再現したレシピをレトルト並びにレストランでも出しています。

横須賀カレー本舗

HPトップ中央に「はちじょう」カレーの説明が。

ここを見て、以前一度行ったことのあるミリタリーショップが
カレー本舗の経営であることを初めて知りました。

本舗のミカさんによると、除籍になっても「はちじょう」ポークカレーは
廃番にせず、永久配備を続けるそうです。

この「はちじょう」ネームプレートとともに・・・。

「はちじょう」任務経験のあるみなさま、「はちじょう」プレートに会いたくなったら、
その時にはいつでも横須賀カレー本舗へ!(宣伝)

わたしが艦尾付近の写真を撮っていると、年配の一般男性の団体が
まとまって「はちじょう」に乗り込んでいくのが見えました。

まさか、一般人に中を見学させてくれるとか・・・・・?

近くにいた自衛官に聞いてみると、

「あれはこの『はちじょう』を作った造船関係の方々なんですよ」

わたしは衝撃のような深い感動を覚えました。
海上自衛隊が、23年前にこの掃海艦をゼロからその手で作り上げた方々を
自衛艦旗返納という、別れの式典に招待していたということに。

「そうだったんですか・・・・皆さんもう退職なさった方ばかりですか?」

「お二人だけまだ現役の方がおられるそうですが、そのほかは皆リタイアされたようです」

岸壁から見ていると、この方々は感慨深げに甲板の上を一回りし、
若き日に自分が手がけた艦体に時々話しかけるように手を触れながら、
最後には全員で甲板の上の記念写真を撮っておられました。

技術者、自衛隊側の設計者、もしかしたら木造の艦体を造った船大工・・?

一人一人がどのような形でこの最後の木製掃海艦に関わったかはわかりませんが、
一つ確かなことは、23年前、この同じ艦上にあったときに若く働き盛りであった人々が、
人生を重ね、そのほとんどが引退して、今ここに艦の終焉を見届けにきていることです。


このとき、彼らの心中に去来する23年の歳月の流れはどのようなものだったでしょうか。
わたしは甲板の上の男たちの姿を、なぜか泣きたいような気持ちで見ていました。

 


続く。