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”上海”されたブラスバウンダー(真鍮野郎)たち〜バルクルーサ・サンフランシスコ海事博物館

2018-07-10 | 博物館・資料館・テーマパーク

しばらく遠ざかっていましたが、実はまだ
サンフランシスコ海事博物館の帆船「バルクルーサ」についての
見学記が途中なので、ここでちょっと割り込みます。


上部デッキのバウスプリットを見て、この時代特有の投錨用設備
「キャットヘッド」なるものの存在を確認して降りてきたところからです。

この構造物の上に上がる階段は、後から見学者用に付けたものではないか、
と前回推測したのですが、それが違っていたことが判明しました。

この絵です。
階段に腰をかけて船員たちが憩いのひと時を過ごしている様子。

「ドッグワッチ・コンサート」と題された絵です。
4時から6時、6時から8時、というこの4時間のワッチのことを
「ドッグワッチ」ということは、以前「コンスティチューション」の項で
お話ししたことがあります。
通常の見張り時間の半分で、どちらのグループも夕食を食べる時間ができ、
ドッグワッチは船員たちの唯一と言っていいほどの楽しみでした。

一日の中でヘビーな仕事のない唯一な時間だったので、
軽い作業をしながら歌が出ることもあったのです。

 

この上部構造物全体を「デッキハウス」と言いました。
前回お話ししたギャレー、カーペンターショップ、
見習いの者と”idlers”(怠け者たち)の居場所などがあります。

ボースン、セイルメイカー、大工、コックなどは、乗員の中でも
特に仕事がハードで、朝6時から仕事が始まり、朝食と夕食を取る30分間を除き、
夜6時まで休むことなく働き続けなくてはいけませんでした。

「怠け者たち」はそんな彼らに与えられたわずかな特権で、
夜通し仕事に就く代わりにワッチに立たなくてもよかったのです。

デッキハウスという構造物はバルクルーサが建造される50年ほど前、
商船に導入されたのが最初だそうです。
「カブース(Caboose )」と呼ばれる大きなコンロを備えた調理室が
それまでの小さく持ち運び可能なな構造物に取って代わりました。

それまでは構造物がコックごと(!)波にさらわれることもあったのだとか。

デッキハウスはバルクルーサのもののように鋼鉄製になっても、
(それまではチークのパネル製だった)難攻不落というわけにはいきません。

「ビーコン・ロック」という帆船は1905年、ありえないほどの強風で、
鋼鉄製のデッキハウスが綺麗に薙ぎ払われ、構造物が何もなくなり、
船体が三つに砕けたという記録があります。

「ミッドウェイ」の艦首楼は広大なスペースに鎖が渡されていますが、
帆船の船首楼、フォクスルはどのようなものでしょうか。

このドアから入っていきます。

規模は全く違いますが、基本構造は同じですね。
全く違うところは、「バルクルーサ」のフォクスルは、船員のベッドがあることです。
壁に沿って備え付けられているのは二段ベッド。

こちらは「バルクルーサ」ほど広くない船の船員居住区です。

しかし、船員は自分の寝床で機嫌よく楽器(マンドリン?)などを弾いてます。
船の中で唯一の「自分の場所」であるベッドには、布団の他
棚などを作り付けにしているようですね。

写真の説明には「寝室は狭く、病気が蔓延しがちだった」とあります。

もっともそこが快適かというとやはりそうでもなかったようです。

この絵はデッキ下のフォクスルでの生活を描いたもので、

「我々は船の暗くてジメジメした船首楼に寝床を割り当てられた。
そこは暗くていつもウィンドラスの周りからの潮で濡れていた」

そりゃまー、外につながる穴が空いてるのが仕様ですから。

しかし、「バルクルーサ」の水兵たちはこの絵の頃の船に比べれば
かなり待遇は改善されていたと言われています。
快適さは船の大きさも大いに関係していましたが、「バルクルーサ」の
メインデッキ上のクォーター(ここです)はご覧のように三角形の
壁に沿ってベッドがあったわけで、これは格段の広さだったのです。

「フォクスルにピアノが置ける」

というのはこの広さに対する彼らの印象です。
(もちろん置いてませんが)

近年は法律で乗員の寝室を艦首に設置することは禁止されています。
万が一衝突などの事故が起こった時の被害を避けるためというのですが、
先日のアメリカ海軍の事故を鑑みると、どこで寝ていても
事故が起こった時に安全な場所など船にはないという気もします。

海軍の水兵でなくとも、セレモニーの時にはこんな正装をしました。
1904年に行われた「水兵労働組合」の行進の様子です。

一般に当時の「バルクルーサ」のような船の船員の仕事は過酷でした。
もしかしたら、ビクトリア朝の船員より、後期のスクエア・リグの
帆船の船員の方がひどかったかも、というくらいです。

水兵と消防士の労働組合ができたのは1889年ですが、もちろん
外国航路を回る船に乗り組む外国人船員はその対象ではありません。
超過酷と言われた英国の水兵よりは、アメリカの帆船の乗組員は
ましと言われていましたが、それでも士官からはほぼ人間扱いされませんでした。

当時のサンフランシスコの船員たちの間にはこんな話も囁かれていました。

「タールをこぼしたのを咎められ殴り殺された男の体が、
ずっとワッチをする場所に手首を縛られてぶら下がっていたが、
仲間の気まぐれで彼のボディパーツはどんどん無くなっていった」

写真の水兵さんたちは、世界初の成功を収めた海事労働組合の会員です。
「シーマン・ユニオン」は最初スクーナーの船員の間で創立し、
蒸気船の船員が加わり、組織を大きくしていきました。

「シーマンズ・ユニオン運動」は、アメリカの船でかえりみられていなかった
船員たちの権利を守るために起こり、1915年には実を結びました。

「船を辞める権利」「賃金の支払いを要求する権利」

が初めて認められたのです。
居住区の改善と、船のオーナーに対し、士官の指揮全般の
責任を持つようにと要求する権利もその時初めて与えられました。

船が港に着き、荷を降ろすと、船員は給料をもらい、船を去ります。
その時に歌われる彼らのチャントの歌詞が書かれています。

目を瞑れば老いた男がいうのが聞こえる 船を去れ、ジョニー、船を去れ

「もう一度舫を引いてビレイピンに掛けろ」 船を去る時がやってきた

ああ、船はオンボロ、あっという間に水が漏る 船を去れ、ジョニー、船を去れ

ああ船はオンボロ、これが最後じゃない 船を去る時がやってきた

ああ、仕事は辛くて賃金は安い 船を去れ、ジョニー、船を去れ

荷づくりをして上陸だ 船をさる時がやってきたよ


船に残された書類が拡大して掲示してあります。
その一つが船員名簿。

全部自己申請なので、偽名も年齢詐称もし放題なわけですが、
やっぱり船にはそういう素性のわからない人も紛れ込んでたんでしょうか。

それはともかく、この船員名簿は1888〜9年、「バルクルーサ」が
イギリスのウェールズからサンフランシスコにきて帰っていった時のものです。

最初のページには雇われた人の名前とともに、支払われた賃金が書かれているのですが、
これによると、平の船員は驚くことに、何ももらっていないことがわかります。


乗組員はイギリスとアメリカの往復でみっちり二年間は船の上にいたわけですが、
彼らが始めて金を受け取るのはこの航海が終了した時。
おそらくはその金額は
二年間の苦役に相当するほどではなかったでしょう。

リストには24名の船員のサイン、年齢、国籍、前に乗っていた船、賃金、
"AB" (Able Bodied 五体満足)”OS"(Ordinary Seaman 普通船員)
などが記入されています。

給与規定などもポンドで書かれており、これによると大工は二等水兵より高給です。

これを仔細に読むと、イギリスからサンフランシスコに着いた時、
サンフランシスコで8人が船を降りたので、代わりに現地で採用した船員が
8人いて、彼らは昔からいたメンバーよりかなりの高給で雇われたこともわかります。

 わたしは見た 彼ら航海する海の男を

コットンクラッド船で、濡れた犬小屋で寝起きし、暖かい餌を与えられ、
騙され、こき使われ、一ヶ月3ポンドを小さな喜びとする者たちを

穏やかな波と天国の風を守る者たちを

しかし、彼らの汗を伴う強さから生まれる号令によって
帆船は楽しげなラインを張る

ジョン・メイスフィールド(詩人)

 他の船より広かったといえども、彼らの寝床でもある船首楼というのは
基本こういう鎖が海に向かって引かれている場所であるので、
寒さはもちろんのこと、終始海水か雨水のどちらか、
あるいはどちらもが吹き込んでくるような環境だったということです。

「手の空いた者はデッキに出ろ!」

という叫び声がフォクスルに聞こえるときは大抵が緊急事態だ。
ワッチに最後に参加していた者が帆の操作のためにデッキに出る。

ボートがドアのところにつっかえたようにあり、

「デッキで手の空いた者はとにかく出てこい!」

と叫んでいる。
叫んでいる者はランプを掲げ、彼の防水着はその上で割れて
落ちてくる薄い氷のようにカチカチ鳴っている。

「寝てる者は叩き起こせ!」

彼のアクセント大声で叫ぶにつれ低くなる。

「俺たちは氷の中にいるんだ。地獄みたいな吹降りだ。
両方のトップセイルをなんとかするぞ」

「ハーフデッキ」〜ブラスバウンダーズ(士官見習い)が住んでいた

というパネルの写真です。
後ろの四人が「ブラスバウンダーズ」。(Blassbounders )
真鍮野郎、みたいな呼び名と考えたらいいのでしょうか。

ただしこの写真を撮るときは、いつもの「ブラスバウンダー」が着る
汚れたダンガリーではなく、ちゃんとしたスーツの格好をしています。

ハーフデッキとやらはここではないかと思うんですがね。

この説明によると15〜6歳でハーフデッキの生活を始めるということは
ある意味もっともチャレンジングで勇気のいる決断だ、というんですよ。

その年齢で火の中をくぐり抜け、強風と上からの激しいシゴキと叱責、
港につけば荒んだ男たちからの誘惑にあらがわなくてはいけない。

しかし、この洗礼によって弱々しい少年が海の男に育てあげられるのです。


英語には「上海する」(SHANGHAIING)という船員の隠語があります。

人の意思に関係なく連れて行く、拉致する」という意味で、日本人なら
ここは怒りを込めてPyongyangを同義語にしたいところですがそれはともかく、
「上海される」(shanghaied)で拉致された、となります。

イギリス軍が、成り手のない軍艦の船員にするために、港で
若い男を片っ端から拉致していた、という話をしたことがありますね。

イギリスだけでなく、ここサンフランシスコでも、システマチックに
男の子を攫って人手を欲しがっている船に『調達』し、手数料を稼ぐ、
という超ブラックな人材派遣組織が存在したことが知られています。

この傾向は十九世紀末には世界中の港港で見られ、大型帆船が入港すると
なぜかピカピカのブラスバウンダー(誰うま)が増えていたとか・・・。

 

攫われてきた”ブラスバウンダー”たちは、拉致されて海の上に連れてこられ、
当時のことですからそのうちこれも運命と諦めて、そこで生きていくことに慣れ、
いつの間にか「海の男」になっていったのかもしれません。

この写真後列の四人が「上海」されてきたのでなかったことを祈るばかりです。
(-人-)

 

 

続く。