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真珠湾攻撃を見た水上機〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-09-16 | 航空機

SR-71、ブラックバードを観てから、わたしは正面から見て右手の
緩やかな傾斜になっているデッキを歩いていきました。

手前から紹介していきます。

リパブリック F-105D サンダーチーフ

どこかで見たような気がするのですが、初めてかもしれません。
F-105は超音速の爆撃戦闘機としてデザインされたもので、
核あるいはそれ以外の爆弾を搭載することができました。

いわゆる全天候型の機体で、モノパルスとドップラーの両方のレーダーを
夜間、または悪天候の時のオペレーションのために装備していました。

ウェポンベイは基本核爆弾を運ぶために密封され、
密着型の燃料タンクを装備していました。

(通常の飛行機は空中給油を想定した燃料タンクを持っている)
爆弾は機体にマウントされたウェポンラックや翼のパイロンに牽引されます。

F-105が初飛行したのは1959年で、610機が製作されました。

ここにある機体は、1967年のベトナム戦争時代に製作され、
タイのコラットに配備されていた空軍基地第388戦略戦闘機隊、
第42戦略戦闘部隊の所属でした。

サンダーチーフ、Thunderchiefはその最初の綴りから、『Thud』
(サッド、ドスンと落ちるという意味。擬音)と呼ばれました。

「ローリングサンダー」作戦

「スティール・タイガー」作戦

「バレル・ロール」作戦

などの「コンバット・ツァー」に参加し、その後は
コロンビア地区のナショナルガード空軍に所属していましたが、
1981年に当博物館に譲渡されたものです。

SA-2 ガイドラインミサイル

てっきりサンダーチーフが運んだことがあったのかと思ったら、
なぜかソ連のミサイルなんだそうです。

ソ連ではこれをDvina (ドヴィナー)と呼んでおり、SA−2は
NATOのコードネームで、SAは”surface-to-air”のことです。

ちなみに、ドヴィナーは1960年、アメリカの

U-2 ドラゴンレディ

というスパイ偵察用の飛行機を撃墜したことがあります。
その時U-2のパイロットだった

フランシス・ゲイリー・パワーズ大尉

はソ連に拘束され、その後人質交換で帰国しています。

この記事を読んで驚いたのは、スパイとして拘束された時、

「パワーズ大尉は自決するべきだった」

(CIAから自決用の薬も渡されていた)という世論が
アメリカ社会に起こり、それはいまだにあるらしいということです。

アメリカ人って人命尊重が第一なので、そういう精神論はないと思ってました。
いや、精神論というより、機密を漏らしたことがいかんかったんでしょうけど。

ちなみにU-2は今でもバリバリの現役で、ISILの掃討作戦にも参加してます。

ベル AH-1F コブラ

とってもよく見慣れた機体を見てつい懐かしさを覚えるのだった。
というか、日本では富士重工業がライセンス生産しているので、
コブラの製造元がベル・エアクラフトだと改めて知ると新鮮です。

これがあのヒューイからの派生形であることもここで初めて知りました。

コブラは、初めてガンシップを目的に生産されたヘリコプターで、
1967年、南ベトナムでデビューして以来、AH-64アパッチに置き換えられる
80、90年代まで陸軍の攻撃機として君臨しました。

今でも海兵隊ではコブラの発展バージョンを運用している他、
世界の様々な国で使われています。

ええ、そこはよく存じ上げておりますですよ。

コブラは1993−4年、ソマリアに展開した陸軍第10山岳部隊、
タスクフォース・レイブンでも使用されました。

これも陸自でおなじみ、

ベル UH-1H イロコイ

ヒューイの愛称で知られるイロコイがデビューしたのは1956年、
H-13メディバックに置き換えられることが決まってからのことです。

20世紀が終わるまでに、ベルは他の軍用機を圧倒する数
(1万6千機以上)のヒューイを生産しています。

現地の説明には

「ただしB-24コンソリデーテッドのぞく」

と書いてありました。
派生型も含めてB-24は1万8千機以上作られていますから。


ヒューイは空中機動力にたいへん優れ、救難任務に活躍し、
ベトナム戦争といえばヒューイ、ヒューイといえばベトナム戦争、
という具合に、ある意味ベトナムのシンボルでもありました。

特に1966年から1970年までの間におけるベトナム戦争で
傑出した働きを挙げた出動はそれこそ数え切れないほどでした。

本体に書かれている『スモーク・シップ』の字は、強襲作戦の煙幕の中でも
このイロコイが難なくミッションを果たしたことを意味しています。

ツインローターの海兵隊のヘリコプターは

ボーイング -バートル CH-46E シーナイト

型番から想像するに、CH-47の前の形ですね。(←得意げ)
これを主要攻撃ヘリとして運用していた海兵隊では
『Phrog』(プローグ?)と呼ばれていたそうです。

運用が開始されたのは1966年。
海兵隊の「殴り込み」的任務に最高に適したヘリと言われ、
その後も、ほぼすべての主要な米軍の任務、災害救援に始まって
大きなミッションとしては大使館人員の避難などにも使われました。

ここに展示されているヘリの独特な緑色は、(カーキではない)
引退する前年度に参加したベトナムでの特別任務の際施されたのと
同じ歴史的なペイントをそのまま再現しています。

このミッションで、ヘリ部隊はネイビークロスを授与される働きをしました。

またプローグは、2004年にアフガニスタン、2007年から2009年にかけては
イラクでの最も激しい戦闘の時期にも参戦しています。

ところで、この列の端に、一際目を引くボロボロの水上機がありました。
ほぼ全ての航空機が、歴史的な意味を持つバージョンに塗装されている
このスミソニアン航空博物館で、一種異様な空気を放っています。

シコルスキーJRS-1

写真ではこれでもそうでもないですが、実際に目にすると、
おどろおどろしいその姿からは「呪いの飛行機」という言葉さえ
ふと脳裏をかすめるような・・・。

それにしても、どうしてスミソニアンはこの飛行機を全くレストアせず
そのままの姿で展示しているのでしょうか。

スミソニアンのHPを検索すると、一応スミソニアンではこの飛行機を
2014年現在で将来修復させるつもりをしていることがわかりました。

Museum technician Patrick Robinson talks about restoration plans
for the Sikorsky JRS-1 in the Mary Baker Engen Restoration Hangar
during the Udvar-Hazy Center's 10th Anniversary Open House on January 25, 2014.

なので、今はあくまでも「仮の姿」なのだと思われます。
しかしもう4年も経っているのに、作業が始まっている様子もないなあ・・。

まるで障子紙のようにベラベラに破れまくっています。

「呪いの飛行機」という言葉が浮かんだのですが、
この飛行機には
因縁らしいものがあるといえばあります。

実はこの水上機、あの1941年12月7日にハワイ州パールハーバーにいました。

スミソニアン博物館のあまたの航空機の中で、JRS-1は、
真珠湾を「目撃」した唯一の存在なのです。

真珠湾攻撃が始まったとき、このJRS-1は海軍基地にいました。
未曾有の攻撃を受けた海軍は、直ちに無事だった非武装の飛行機に
敵の艦隊を捜索するために出動を命じています。
その一機が、このJRS-1(1937-1944年使用)だったのです。

民間機にシコルスキーS-43「ベイビー・クリッパー」がありますが、
これはその軍用バージョンです。

真珠湾当時、当機は非常にカラフルな塗装を施されていました。

機体のほとんどはシルバー、底部は黒、尾部の表面はグリーン、
そして胴体後方には周りに赤い帯が巻かれており、そして
操縦席の側にダイヤモンド形の飛行隊の記章が描かれていたそうです。

真珠湾攻撃の数日後、「非常時」に突入したということで、
地上員はカラフルな塗装を青で塗りつぶして目立たなくしました。

しかし、ここにある機体をよく見ると、表面の青が風化して
元の塗料が透けて見えます。 

JRS-1がこのようになってしまったのは、長年、
外部に放置しておいたことによる劣化だそうです。

先ほども書いたように、スミソニアン博物館は飛行機の保全と復旧を
今後予定しているようですが、飛行機というのは放置しておくとこうなります、
ということがある意味ものすごくよくわかるので、
これはこのままで置いておいたほうが展示としてよろしいのでは・・・。
いかんいかん、廃墟好きの血が騒いでしまった(笑)

ちなみに、上に貼り付けたwikiには、ここのJRS-1の写真とともに

「スティーブン・F・ウドバー・ハジー・センターでの復興中のシコルスキーJRS-1」

として、こんな写真が載っていますが、

このわたしが、2018年9月現在、全く作業に取り掛かる様子もなく
ボロボロのまま展示されていたことを力強く宣言しておきます。

・・・もしかしたらご予算の関係かなあ。

 

続く。