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皇軍兵器の何たるかを彼らは知っていたか〜大久野島 毒ガス工場跡

2018-12-11 | 日本のこと

瀬戸内海に浮かぶ小島、大久野島。

昨今の「うさぎの島」のイメージはまるで取ってつけたようなもので、
実はその実態を昔から知る地元の人たちにとっては、おどろおどろしい
「毒ガスの島」という負の面だけが語られて来たらしいことを、
わたしは島を訪問し、現地の遺跡を目の当たりにすることで知りました。

阪神基地隊司令夫人やHARUNAさんら元地元民の証言もまた、
それを裏付けるものとなって、わたしはある仮定に行き着きました。

それは、

「うさぎの島というのはあくまでも客寄せのための”方便”で、
実は毒ガス工場があったという『負の歴史遺産』を見せるのが
大久野島の真の目的なのではないだろうか」

つまり、

「うさぎが目当てでやって来た客が否が応でもここの凄惨な歴史に気づき、
目を向けることになるのを」

誤用でない方の確信犯的に期待しているのではないかということです。

オウム真理教の地下鉄サリン事件を経験した我が国は、
ハーグに本部を置く化学兵器禁止機関(OPCW)の査察を積極的に受け入れ、
査察局長には陸上自衛隊第101化学防護隊長出身で、オウム真理教の
査察を統括した経歴を持つ秋山一郎氏をノーベル平和賞授賞式に出席させたこともある
「化学兵器廃止問題の優等生国家」でもあります。

大久野島の展示を見る限り、ここがOPCWの深謀遠慮によって
その負の歴史を語り継ぐ役割を負わされているようにはあまり見えませんでしたが、
少なくとも生きた歴史の語り手として、その高邁な理想に向かって
物言う立場を担っていることは間違いないことに思われました。

さて、島を一周歩いたら、部屋に入って時間になったら食事に出かけ、
温泉に入るしかすることがないこの島での一夜が明けました。

わたしは旧型の温泉宿客室で一人で眠るのは、高松の掃海隊追悼式以来
人生で二度目だったのですが、実はちょっと、というかかなり怖かったです(笑)
シティホテルやビジネスホテルならなんでもないのに、床の間付きの座敷が
なぜこんなに怖いのか、ちょっと自分でもその理由がわからないんですが、
枕元の灯を消す直前までiPadを見て平常心を保ち、いよいよ眠くなってから、
えいやっと電気を消し数分以内に寝るという方法で一夜を乗り切りました。

休暇村内に温泉は二ヶ所、つまり廊下の端と端に男女浴室が一つづつあり、
わたしはせっかくなので夕食前と翌朝早くにどちらも行ってみました。
ちょうど湯船に浸かった目の高さに開閉自由の窓があり、開けてみたら
日が暮れて暗いというのに大量のうさぎが走り回っていたのには驚きました。

うさぎって夜行性だったのか?

すぐさま調べてみると、以下のことが判明しました。

うさぎは正確にいえば薄明薄暮性(はくめいはくぼせい)の動物で、
明け方(薄明)と夕方(薄暮)など、昼や夜ではないこれらの時間帯に

行動が活発になる生き物なのだそうです。

まったくの夜行性ということではなく、夜行性に近いと表現されることもありますが、
とにかく犬や猫と同じく、日中は基本じっとしていることが多いとか。

翌朝は、朝ごはんを食べてからチェックアウトの時間まで
島内の昨日行っていないところを歩いてみることにしました。

ホテルを出ると、明け方で行動が活発化したうさぎが
懸命にビニールシートを喰いちぎり引きちぎっております。

まさかとは思うけど食べてるんじゃないよね?

島の南西部分の小高い山部には展望台と灯台があるというのを
フロントで聞いて、そこに行ってみることにしました。
この階段はそこに続いている道の一つなのですが、昔からあるらしい
この舗装された階段を登り切ってしまうと、あとはとんでもない
未舗装の山道が続いています。
それこそ清水門の二倍くらいの高さに脚を上げなくては
登れない階段があって、小柄な人には無理じゃないかというくらい。

そんな山道を登っていくと、まず東屋が現れました。
向こうに浮かんでいるひょっこりひょうたん島みたいなのは
「小久野島」(こくのしま)という名前の周囲1.6kmの無人島。

その昔、神功皇后三韓征伐へ向かう途中、床浦神社に戦勝と航海安全を祈願し、
ご自分の冠と沓(くつ)を海中に投じられました。
その時、神功皇后は冠が流れ着いた所を冠崎、沓が流れ着いた島を大沓島
横の小さい島を小沓島と名付けられたという故事があるそうですが、
後にそれが大久野島と小久野島になったと伝わっています。

さらに続く道沿いに進んでいくと、夜明けで活発化したらしい
うさぎさんたちに早速遭遇しました。

わたしが急に現れたせいか、なんかすごく驚いているんですが。

このびっくりうさちゃん、わたしが通り過ぎてから慌てて道に出てきました。
餌をくれそうな人だと判断したのかもしれません。

それともカバンの中の餌の匂いを嗅ぎつけたかな。

振り向いてカバンに手を入れると、タッタッタ、と駆け寄ってきます。

ういやつじゃのう。餌を遣わす。

おねだりした子にうさ餌を撒いてやると、そっくりの兄弟がやってきて
一緒に食べ出しました。

仲間と群れずに一匹だけでいた孤高のうさぎ。
なぜかこのうさぎだけは餌をねだってくることもしませんでした。

大三島の尻尾と本土が見えるこの高台には、昔探照灯が設置してありました。

巨大な探照灯をこの円形の部分に置いて海上を照らしたようです。

毒ガス工場時代より前の、芸予要塞時代のことです。
ここを「探照所」と呼んでおり、台座の半円部分は探照灯の可動域です。
この写真に写っているのは肩章からもわかるように陸軍軍人ですね。

明治時代とはいえこのような大掛かりな仕組みになっていました。
見にくいですが、「電灯井」(でんとうい?)というのは
英語で言うところのエレベーターで、探照灯そのものが
地下の収納庫に出し入れできると言うものです。

操作は下で行ったようですが、人力で動かしていたようですね。

背中を反らして背筋を鍛えているうさぎ。

朝一番の訪問者だったのか、人の姿に走り寄ってくるうさぎ。
皆が足元でお愛想を始め、そのうち争うように
ストールやバッグに手をかけようとしてぴょこぴょこし始めます。

うむ、これが本当の

”うさぎぴょこぴょこみぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ”

というやつか・・・。

(審議中)

柵を超えればそこは崖。
崖から落ちたらそこは海。

そんな誰にでもわかることをわざわざ看板にするのは
世界広しといえども日本だけだとわたしは断言します。

サンフランシスコのソーサリート、GGB付近の自然公園は
一歩踏み出せば真っ逆さまのところにベンチは作りますが
柵はもちろん危ないとか命を大切にとか命のホットラインとか、
そういう余計な看板の類は一切作りません。

訴訟天国で何かと無茶な訴えをする人が多い割には
日本のように先回りした警告などは無駄だと思っているようです。

フランスでも思いましたが、これは「自己責任」の問われ方の違いです。
政府が行くなというのに危険地帯に行って人質になるのは
世界的に見ても自己責任に帰結するべき事案であって、
むしろあれに同情したり英雄扱いする層が現れる国が異常なんだと思います。

 

話がそれましたが、このお節介な立て札の向こうに見えるのは大三島。
中学時代「少年の船」団員に学年から二人ずつ選ばれて
(基準はなんだったのかいまだにわからず)瀬戸内海クルーズした時、
大三島に寄港して現地の中学生と交流行事したことがありましたっけ。

あの時に仲良くなった女の子、まだこの島に住んでるのかな・・・。

明治27年に初めて点灯したという石造りの灯台があります。
当初は石油を使用して点灯していましたが、大正年間にアセチレンガスに、
さらに昭和11年になって電灯式に変わっていき、昭和33年、
無人化されて現在は呉海上保安部が管理している、とありますが、
なんとこの灯台は2代目で、平成4年に竣工したばかりのものだそうです。

初代の灯台は高松の四国村(博物館)に移設されているのだとか。

光達距離は25km、光度は8500カンデラ。

灯台の光り方を灯質ということを初めて知りました。


灯台に立って真後ろを振り向くとお地蔵様の祠がありました。
木の立て札には由来が書いてあったのかもしれませんが、
すでに何も読めない状態になっていました。

灯台からは下り坂になり、反対側の海岸に出られることが判明。
石段と木の階段を降りていくと、「大久野島燈台」の石碑が埋もれていました。

夏の間はここが海水浴場になるそうです。

海岸に面した山裾には昔病院がありました。
建物は撤去され、その跡はただ空き地になっています。

もしかしたら戦後島内を無毒化作業した時、被災した患者を収容していた
病院もまた焼却処分してしまったのかもしれません。

かつての病院。

白い長い裾の白衣を着ているのは看護婦、しゃがんでいるのは
着物を着た女性患者ではないかと思われます。

写真を撮るためにイメージフォト?的に絵になる二人を配したのかもしれません。

毒ガスを扱っていた工場ではその作業中事故が起こり、それによって死亡したり、
明らかに障害が出た例もあったわけですが、当時は被害が出るたびに
処する安全対策が取られたため、年々障害は少なくなっていたという証言があります。

ただしそれは直接的な事故による被害者のことであり、当時何もなくとも、
そこで生活し仕事をしながら、ガスで汚染されている空気を長期間吸うことで
のちに起こってくる恐ろしい障害とは全く別の話でした。

大久野島の工員を募集するとき、軍は毒ガスという言葉を一切使いませんでした。

「化学を応用した皇軍兵器」

それが毒ガスのことであるのは、工員という立場になってみれば
誰にでもわかったわけですが、その時には彼らは厳格な機密保持を誓約させられ、
軍人のみならず非軍人も、男も女もすでに秘密兵器を製造する
軍の組織の末端に組み込まれていたのです。

 


事故による毒ガス被害に遭った人(死亡第一号は建設会社松村組からの転職者だった)
の、その後の経過は、
当時実験台にされていたうさぎの辿った死に至る経過そのもので、
人々はその死に様を、ただ凝然と見守ったそうです。

彼らが息を引き取っていった病棟のあった場所には、何も建てられず、
ただこの水栓だけが当時を知る痕跡として遺されています。

 

 

続く。