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フェリー客船「ユーリカ」 30分×2の社交場〜サンフランシスコ海事博物館

2018-12-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

サンフランシスコ海事博物館についてお話しするのも最後となりました。
今日はフェリー「ユーリカ」の続きです。

「サンフランシスコからマリン郡まで5分では無理」

と前回コメントを頂き、調べてみたら今のフェリーでも30分かかることがわかりました。
ゴールデンゲートブリッジを車で走ったらあっという間なので、
船でも5分くらいで行ける気がしていましたが・・<(_ _)>

さて、1848年、メキシコがアメリカにカリフォルニアを譲渡した後、
ジェームズ・マーシャルなる人物がアメリカン・リバーで金塊を発見して以降、
ゴールドラッシュが起こり、ベイエリアの人口は爆発的に増加しました。

1850年にフェリーサービスが生まれ、当時のサンフランシスコのフェリーターミナルは

「世界で一番忙しい旅客ターミナル」

となります。

ノースイースタン・パシフィックの「タマルペ」(Tamalpais)は
ベルベデア島を就航していた当時最新鋭のフェリー船でした。

二基の巨大なパドルホイールを持ち、1300馬力の
two cilinder compound steam engine を搭載していました。

当時のベイエリアのフェリーターミナル。
ターミナルには汽車が連結していて、ここで乗り継ぎをしていました。

1901年、相変わらず霧の濃いサンフランシスコで、「サンラファエル」号が
アルカトラズ島を後ろに航行している様子です。

この写真では、船の上部にダイアモンドの形の梁のようなものが確認できますが、
これが「ユーリカ」も採用していた

「ウォーキング・ビーム・エンジン」

です。

ウォーキング・ビーム・エンジンは外輪船のエンジンの型式で、
エンジンが嵩高いので、荒れた海では不安定になることもあり、
軍用には使用できませんでしたし、海での運用は嫌われましたが、
ベイエリアのような浅い海岸線や内陸水路では重宝されました。

技術的に時代遅れになってもアメリカではこのエンジンが作り続けられた理由は、
まず一つに、製造に精度を必要とせず、簡単にできて木材を使うことができたこと、
そしてウォーキング・ビームが動いている様子は人々に人気があったことです。

革新的なことの好きなアメリカ人ですが、こと船に関しては
いつまでも旧式の船を使い続けるような一面も持っていたということです。

霧の中サンフランシスコに入港しようとしている「サウサリート」号。

先端には今から降りる車が3列に並んで到着を待っていますが、
特に転落防止などのロープはなく、到着寸前と思われます。

徒歩で降りようとする人の姿もデッキには見えていますね。 

フェリーの歴史には悲惨な事故が起こったこともありました。

霧の中での操船は昔も今も事故が起こりやすいわけですが、
「サウサリート」は1931年11月30日、アルカトラズ付近で
霧から出た途端に現れた「サン・ラファエル」の船腹に衝突しました。

(それくらいこの地域の霧は濃いことがあるのです)

沈みかけた「サン・ラファエル」から渡された細い板を歩いて
「サウサリート」に乗り込もうとしていた人のうち3名が死亡し、
「オールド・ディック」という「サン・ラファエル」に乗っていた
貨物馬車の馬は、どうしてもその板を渡ることを拒んだため、
かわいそうに船と一緒に海に沈んでしまったということです。

写真はその時「サン・ラファエル」の船長だったジョン・マッケンジー。

少なくともこの人の操舵していた「サン・ラファエル」は
霧の中慎重にマリン郡へと向かっていたということです。

彼が船を後にしたのは、乗客が全て退船し終わるのを見届けてからで、
最後の退出者となりました。

事故後、両船の船長はいずれも資格停止になっていましたが、
マッケンジー船長に対しては彼の勇敢な行為を見ていた乗客が
署名運動を行い、その結果船長職に復帰することができました。

ずらりと椅子が並んだ客室を前回お見せしましたが、このように
立ったまま過ごせるキャビンもあったようです。

運行時間はサウサリートーサンフランシスコ間だとそんなにかかりませんので、
特にアメリカ人は通勤電車で立つように立っていたのだと思われます。

階段の手すりを利用したベンチ。
今日のようにお天気のいい日には外で過ごす人も多かったことでしょう。

左側に、上に通じる階段があるので登ってみました。

一番上の屋根の部分はこんな感じ。
ちなみにここは立入禁止となっています。

フェンネルの周りに前後に向けて4本の大きな管が設置されています。


船体は随分きれいですが、1994年2月、ドライドックで修復を受けたからです。

このとき、45人の熟練した職人の乗組員が作業に携わり、
2.5マイルの板張りの縫い目をかしめ、
9000個以上の8インチ鋲が打ち込まれ、
タールが塗られ、フェルトが敷かれ、1万2千平方フィートの銅が塗装されました。

その時主甲板の端はすでに腐敗しており、船体間のコーキングは軟化、
パドルホイールとそのケースを支えている巨大な梁は劣化していたため、
新たなスチールに置き換えられました。

フェリーの両端部分もまた修復されました。
腐敗の再発を防ぐために、新しい木材のすべてにホウ酸塩棒を設置しました。

これは、当博物館独自の技術で開発された最先端の船舶保存技術で、
作業後、時間が経つと雨水侵入によって棒が溶解し、ホウ酸塩が木材に浸出し、
これが腐敗を防ぐというわけです。

本来なら雨は乾性腐敗の主な原因なのですが、それを逆手にとって
保存作用を促進させるという画期的な方法です。

しかし、たかが(といってはなんですが)一隻のフェリー船の歴史的保存に
これだけの労力と何よりお金をかけられるというのがアメリカの凄いところ。

その意欲と意思、技術があっても、最後の「お金」の段階で
全てを諦めざるを得ないことの多い日本から見ると羨ましい限りです。

上部構造物の中は船員たちの居住区となっていた部分です。

二段に分かれたベッドも設えてあり、ここで寝泊まりすることもできた模様。
皮のトランクは雰囲気を出すための装飾です。

操舵室にやってきました。
ここに立ってみると随分高いところから操舵していたのだなと感じます。

舵輪の大きさはほぼ成人男性の背丈くらいあるように見えます。

写真は同じような場所で操舵をする、
1941年当時の船長、ヴィクター・ヴェルデレット氏。

しかしこの写真、どこを見ても舵輪がないんですが・・・・。

この説明は

「当時船長かあるいは一等船員(ファーストメイト)が
操舵室の前方から操舵を行なっていて、あなたがいるところは
サンフランシスコの終着点である」

つまりここは舵輪のある側で、写真に写っているのは
公開されていない船の反対側にあるという理解でよろしいでしょうか。


二つのホイールハウスはそれぞれでコントロールが可能で、(当たり前?)
レバーは蒸気ステアリングエンジンに連結していました。

エンジンルームテレグラフは、例えば

「フルアヘッド」(前進全速)「スロー・アスターン」(徐行後退)

などといった命令をメインデッキのエンジニアに送ります。
ここにもあるテレグラフの目盛りを見るとわかりますが、

ヘッド(前進)アスターン(後退)

とあり、その速度が速いものから順にストップを挟んで

フル、ハーフ、スロー

と三段階に分かれているというわけですね。

ほとんど手動だった当時の大きなフェリーは操舵に技術と経験が必要です。
ここの操舵手たちは毎日、毎回、毎時、流れの速い波はもちろんのこと、
雨期に降る激しい雨や、サンフランシスコの霧と戦っていました。

同じ日でも朝と夕方では全く条件が変わることもここでは珍しくないのです。

操舵室から見たサンフランシスコの市街地。

お馴染みコイトタワーやダウンタウンの高層街、はるか向こうには
ベイブリッジが一望できます。

この眺めの良さも、高いところにある操舵室からならではです。

船からの眺めも乗客の楽しい時間つぶしになるのは、
ここがサンフランシスコという街だからに他なりません。

通勤でフェリーに乗る人は、一日2度、同じ航路を往復することになり、
自然と「お気に入りの場所」に座ることになります。

そうすると顔見知りもできてきて、おしゃべりが始まったり、
いつもポーカーをするグループができたりするわけです。

いろんな階層の人たちが利用しますが、勤め人たちと、
いわゆるエグゼクティブは別の場所に集い、自然と分かれたそうです。

レストランに現れる顔ぶれもほとんど毎日同じ。
読書家は本を読み、あみ物好きは必ず固まって編み針を動かしました。

フェリーから眺める波間に珍しい鯨の姿が見えることもあり、
そんな時には船客が撮った写真が新聞を飾ったりしました。(右上の絵)

ゴールデン・ゲート・ブリッジができて船の通勤がなくなったこと、
束の間ではあるけれど気楽な社交場がなくなってしまったことは、
ベイエリアに住む人々にとって便利になったと喜んでばかりでもない、
一抹の寂しさを感じさせる時代の変化だったに違いありません。




舷側には、現役時代に救命ボートが牽引されていたデリックが直立しています。
こちら側の海面には個人所有の小さな船が中心に係留されています。

Annunciator(アナンシエーター)というのは電光やブザーにより
信号の発信元などを示す装置のことをいいますが、この場合は
各デッキのスプリンクラーの設置場所を示しています。

改装したときにこのような消火設備を新たに付けたようですね。

加山雄三さんのヨットではありませんが、船、特に世界でも稀な
木造の巨大な船である「ユーリカ」が不審火によって消失する、
ということなどあっては大変な文化財の損失になってしまいます。

というわけで、見学を終え、かつて「ユーリカ」がサンフランシスコに
到着したとき、車でない人が歩いたのと同じ光景を見ながら退出です。

海事博物館のあるフィッシャーマンズワーフから車でピアを見ながら走っていくと、
ベイブリッジが見えてきます。

その近くの突堤には、ビルかと見紛うような巨大な客船が停泊していました。
かつて海上交通の発展形として生まれたフェリーが繁く行き交った同じ湾に、
今ではこんな輸送力を持った客船が錨を下ろしているのです。

100年前のサンフランシスカンがこれを見たら如何に驚愕したでしょうか。

 

 

サンフランシスコ海事博物館シリーズ 終わり