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フェリー「ユーリカ」ー栗林中将のダッジーサンフランシスコ海事博物館

2018-12-24 | 博物館・資料館・テーマパーク

サンフランシスコ海事博物館の展示、最後にフェリー「ユーリカ」をご紹介します。

「ユーリカ」は1890年に建造されたパドル式ホイールの蒸気フェリーで、
元々はサンフランシスコとティブロンという西海岸の街を往復していた貨物船でした。


現存する世界最大の木造船であり、また、唯一の木造のフェリーでもあります。

戦隊に大きくマークされた

「ノースイースタン・パシフィック」

は、最後の彼女のオーナー会社です。
それまで「ユカイア」という名前で貨物を運んでいた彼女は、同社に買われ、
フェリーして「ユーリカ」という名前をつけられ改装されました。

この頃、アメリカでは自動車が広く普及を始めていたのですが、人々は
「海を横切って運転」("drive across the bay". )することを欲し、
ノースイースタン・パシフィック鉄道者はすぐさまそれを叶えました。

冒頭写真を見ていただくと、車で「ユーリカ」に乗りこむ為の
ゲートの上に「ハイドストリート・ピア」という文字があります。

サンフランシスコのハイド・ストリートをまっすぐ港に向かって降りてくると、
その先端は「バルクルーサ」などが係留展示してあるこの突堤なのです。

また、ルート101の看板がありますが、ゴールデンゲートブリッジがなかった頃には、
ゴールデンゲート海峡を渡るフェリー航路がすなわちルート101でした。

海の上のフェリー航路が正式にルート101となったのは1922年のことです。
その航路そのものを「レッドウッド・ハイウェイ」と呼んでいたようですね。

サンフランシスコに住んでいた頃、どうしてルート101はロンバードストリートで
急に直角に曲がっているのか不思議に思っていたのですが、これで謎が解けました。

1937年、GGBが開通したので、まっすぐ港に向かっていた101を
無理くりブリッジを通る道につなげなければならなかったからです。

ブリッジの開通とともに、フェリーは即刻廃止されることになりました。

それでは、かつては車が乗り降りしていたランプを登って中に入っていきます。
ランプの坂にはかつて「ユーリカ」に装備されていた錨が展示されています。

ランプは車用のものだと思うのですが、はて、車はどこに乗り込むのか・・。

「ユーリカ」はダブルエンドのデザイン、つまり船の両端で車の乗り降りができますが、
どうもこの場合、船の左舷側に車は誘導されていたようですね。

そのまままっすぐ進んでいくと、かつてのように車がたくさん停まっていました。
いずれも当時の型式の車ばかりで、タイムスリップしたようです。

向こうに超高級車ロールスロイスがいるような・・・。

手前の車は1931年製のシェビー「ウッディ」ですが、
「Depot Hack」(デポ・ハック)という呼び名が一般的です。

なぜデポ(貯蔵庫)ハック(意味不明)なのかは英語の人にもよくわからないそうですが、
ハックは馬車馬の種類であった「ハックニー」から転じた馬車の意味、とする説があります。
ここでは

「ドライバーが乗客を様々輸送貯蔵庫(つまり待合所)から
市内の彼らの最終目的地まで送り届けるから」

となっています。

「今日では明るい色のキャブが同じサービスのプラットホームになっています」

1930年に発売されたダッジのセダン。

確か、栗林忠道中将がアメリカに武官として行っていた時期、
息子の「太郎くん」への手紙にこれと同じような車のパンフレットを
切り抜いて貼って、それに自分の絵を描き加えていたような・・・。

ほらこれ。同じ車じゃないですか?
栗林中将が購入したのはダッジだったんですね。

ホイールまでボディと同じ青に塗装したおしゃれな車は、
やはりダッジの1924年製エクスプレスワゴン。

 

車で引っ張るワゴン、これはサンフランシスコのチョコレート、ギラデリのマーク入り。
創業者はイタリアから移民してきたドメニコ・ギラデリさんです。

このサンフランシスコ海事博物館のすぐ近くに、ギラデリの巨大なレストラン付きショップがあります。
わたしはそもそもアメリカのチョコレートは全く評価しておらず、
ギラデリのチョコレートも味見くらいしかしたことがありませんが、
一応サンフランシスコ土産ということになっているようです。

農作物などを運搬するカーゴばかりが並んでいます。
実際にフェリーを利用する車両は、貨物が結構あったのではないでしょうか。

例えば、この右側のトラックはドロハー・コールという石炭会社の社用車で、
向こう側は郵便物を運搬する車です。

今現在のフェリーというのもそうですが、乗客のデッキは車の階の上にあります。
車を停めたら皆航行時間を過ごすためにこの階段を上がって行ったのです。

というわけでここを上っていくことにします。

外側に面したベンチの一角があります。
サンフランシスコから向かいのサウサリートまでここで過ごすのも可。

木に鋲で皮革を貼り付けた堅牢な作りのベンチが並ぶ客室。
昔を描いた映画の一シーンで見たような光景ですね。
座席の下にはライフベストが収納してあります。

広々とした明るい船内は天井が大変高く、開放感のある雰囲気。
椅子の下に見えているのはヒーターのようですね。

「ユーリカ」は1990年代に放映されていたドン・ジョンソン主演の警察ドラマ、
「刑事ナッシュ・ブリッジス」のロケに使われました。

この客室の中央に売店があります。
タイムなど雑誌や新聞、ミントやタバコ、キャンディーなど。
商品のホコリを取るための羽箒も健在です。

棚の右側にあるミントですが、浮き輪の形をしていて、
製品名が「ライフセイバーズ」(笑)

ものすごく凝った装飾の施されたレジスター。

近隣には当時からヨットハーバーが点在しているので、ヨット雑誌があったり、
ファーストエイドのハンドブック、映画スターの話題などつまりゴシップ誌なども。

乗客は最大で2,300人が乗ることができ、
車は120台搭載可能だったと言います。

平均乗客数は2,200人だったといいますから、いかにこのフェリーが
通勤や運送にサンフランシスコの人々の役に立っていたかがわかります。

サンフランシスコから対岸までわずか5分15秒のトリップでした。

 

内部を見ることもできます。

どこの部分かわかりませんが、機関部分。

サンフランシスコからの始発は0650、最終便は2325です。

料金は車一台にドライバー一人が40セント、バイクと三輪車が20セント。
車一台のドライバー以外の乗客は一人につき5セントとなります。

水飲み場のシンクはホーロー製だったせいで腐食してしまっています。

このフェリーを運営していた会社は鉄道会社であり、鉄道とフェリーで
マリンカウンティとサンフランシスコを繋いでいました。

シングル・エンダーというのはダブルエンダーのフェリーができる前の
通り抜けられない車のデッキをもつ船のことで、この時代から
つまりブリッジができるまでの80年間、フェリーは
マリーン郡で交通の手段として活躍を続けました。

「ユーリカ」にはレストランもありました。
大して長い時間でもないのに、ディナースタイルの食事を食べ終わることができたのか、
という気もしますが、この写真を見る限り、ほとんどの人がファストフードです。

1940年8月14日水曜日のメニューによると、

スープ

ビーフスープライスとともに 10c

チキンヌードルスープ  13c

トマトクリームスープ  15c

冷たいトマトスープ 10c

サラダ

レタスとトマトのサラダ 10c

レタスサラダ 13c  ポテトサラダ  10c

飲み物

フレッシュオレンジ  13c

グレープフルーツジュース  13c

レーニア・エール(商品名)  20c

パブスト・カンド・ビール  25c

フンボルド、アクメ、グレース兄弟、

レーニアビール(ボトル)20c

今日のスペシャル 55c

ビーフスープ(ライス入り)

ボイルドショルダーポーク、キャベツを添えて

レバーとベーコンのフライ

グリンピース、ポテト

デザート:パイ

コーヒー、紅茶、あるいはミルク

 

今日のスペシャルメインディッシュ

ポットローストビーフマカロニ添え 45c

クラブステーキフライドポテト添え 30c

ハンバーガーステーキフライドポテト添え 35c

チップステーキトースト 20c

トマトソーススパゲッティ 25c

ホットローストビーフサンドイッチ 30c

マカロニチーズ、クリームソース 25c

ホームメードコンビーフ・ハッシュ 25c

ラビオリ 25c エンチラーダ 25c

ベイクドビーンズ 25c チリコンカン 25c

デザート

カンタロープメロン、ハーフ 10c

パウンドケーキ 10c

ハーフグレープフルーツ 10c

スライスしたハワイアンパイナップル 15c

パイ各種 カット 10c

イチジクのコンポート 10c

プルーンのシチュー 10c

 

1940年の1ドルは当時の4.2円ですから、例えばパウンドケーキは
だいたい4銭くらい。
物価指数はかける2000くらいですから、現在の80円といったところです。


これによると、スペシャルディナーが2000円強というところで、
なかなかリーズナブルな値段で食事できたということになりますね。

 

続く。