ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

創作された「悪の憲兵」像〜新東宝映画「憲兵二部作」

2019-06-16 | 映画

新東宝の当時のポスターが資料として映画の解説に掲載されていたので、
それをご紹介することにします。

まず冒頭は、天知茂主演の「憲兵と幽霊」ですが、
これ見て主演が天知茂だと思う人はいませんよね。
真ん中で拷問されているのも、右上の血まみれのフランケンも
中川昭二で、天知茂は左上になぜか二体、右下で
三原葉子とキスしているシーンと一つのポスターで三様あるのに、
扱いがどうも端役っぽい。

こちらも、いかにも冷酷そうな天知を採用しておりますが、
中心となる構図はほぼ同じ。
これはつまり、拷問される人と亡霊のイメージを打ち出して、
猟奇的な映画であることをアピールする目的だと思われます。

わたしたちが思うほど、天知茂はこの頃
単体で客が呼べるというほどの俳優ではなかったってことですかね。

ところで、このポスターの煽り文句を見ていただきますと、

「生きていた血まみれの銃殺死体」(生きてたんじゃなくて幽霊ですが)

の他には、

日本陸軍の怪奇事件!」

「仕組まれた陰謀の犠牲!断末魔の呪いが呼び起こす日本陸軍の怪奇!」

など、とにかく宣伝部は「日本陸軍」を強調したかったらしいことがわかります。

こちら、「憲兵とバラバラ死美人」のポスター。
中心となっているのは中山昭二と犯人役の江見渉で、
天知茂は拷問されているシーンのみ。(拷問されただけの役ですので)

こちらもポスターはタイトルの「憲兵」という言葉と憲兵制服姿の中山、
わざわざ「軍隊の古井戸」として軍隊を強調しています。

この猟奇事件が特に有名になったのは、それが陸軍内の事件であったこと、
さらにその捜査が憲兵隊でのみ行われ、犯人が軍人であったからでした。

戦後においても、これらがただの猟奇映画でなく、軍隊を舞台にしていることで、
好奇心を刺激されて映画館に足を運ぶ客が多かったのに違いありません。

 

 

二つの作品に共通する、

憲兵=拷問で無理やり口を割らせる、権威をかさにきた非情の集団

という表現は、戦後の創作物では手を替え品を替え、
そのイメージを何度もなぞって既成事実化してきた経緯があります。

それはもはや「憲兵というだけでイコール悪」というもので、
ナチス・ドイツの「絶対悪」視を思わせるものがあります。

 

こんなエントリのときについでに話すことではない気もしますが、
一応ひっそりご報告しておきますと、わたくし先日、
海上幕僚長を表敬訪問するために市ヶ谷に伺ってまいりました。

その会談については、下手にここでご報告をすると、わたしのことですので、
そこでの体験をいらないことまで微に入り細に入り書いてしまいそうなので
自粛しますがそれはともかく、訪問が終わり、出口に向かって歩いていた時のこと。

迷彩服を着た二人の自衛官がいかついバイクに乗っている珍しい光景を目撃し、
あれはどういう人たちか、とエスコートの自衛官に聞いてみたところ、

「儀仗隊の隊員です。儀仗隊も本来は警備が任務なんですよ」

保安警務中隊は全国の駐屯地に置かれ、司法警察職務を行う部隊ですが、
東部方面警務隊もその一つで、決して儀仗だけをやっている部隊ではないのです。

陸自保安警務中隊って、つまり昔でいう憲兵だったてことですよね。

 

保安警務中隊も選抜された隊員で構成されているそうですが、
(特に儀仗を行う第302保安警務中隊は、容姿も選定の対象になる)
それでは憲兵はどうだったかというと、志願者の中から勤務態度、
身辺調査、学科試験、そして面接を経て選ばれました。

陸軍には憲兵を教育するための「陸軍憲兵学校」という組織が置かれ、
そこでは兵卒から採用されたものから将校までが一堂に教育を受けていました。

将校は初等教育を受けてから憲兵科に所属して憲兵将校となります。

 

音楽まつりなどの警務に当たる隊員の腕章には『MP』と書かれていますが、
これは全世界共通の「ミリタリーポリス」の頭文字で、陸軍憲兵隊もまた、
普通に警察権を行使できる保安部隊という位置付けでした。

ただ、現代と決定的に違っているのは、当時憲兵はMP、つまり
「軍事警察」の範疇を超えて、「国家憲兵」の性格を有していたことです。
自衛隊の警務隊がその職務を自衛隊内だけに限定されているのとは違い、
憲兵は軍人や軍の施設以外に対しても警察権を行使できたのです。

「バラバラ死美人」には、地元の警察が捜査を開始し、事件現場を
検証させて欲しいという依頼を、憲兵隊がにべもなく撥ね付け、

「軍隊の中のことは憲兵が片付ける」

と彼らを追い払うシーンがありますが、映画のモデルとなった事件でも、
仙台憲兵隊は仙台警察の捜査介入を拒み、そのため、メンツにかけても
自分たちだけで事件を解決せねばならなくなった、ということです。


この件に限らず、憲兵隊は国と軍を後ろ盾に強権的に振る舞うことが多く、
そのため戦前からすでに市民には嫌われる存在であり、のみならず、
彼らは軍隊内に於いて秩序維持を行う警察としての立場ゆえ、
他兵科の下士官兵からも、つまり内外から煙たがられる損な役割でした。

特に、驚天動地のゾルゲ事件(1941年)以降は、治安維持法に基づき、
一般市民を夜に昼に監視する国家の目となり耳となって、必要とあらば
それこそ拷問上等の荒っぽい手口でスパイや反社会組織、そして
思想犯を炙り出すことも辞さない仕事ぶりが、戦後のイメージを
決定づけ、その刷り込みに寄与したと言ってもいいでしょう。

近年「テロ等準備罪」を「現代の治安維持法」だとする反対派が、
社会主義者に対する憲兵の取り締まりを引用し、その悪のイメージを
反対論の補強として最大限利用したのは記憶に新しいところです。


本作、「憲兵とバラバラ死美人」において、主人公小坂曹長を、
正義感溢れる好青年で、民間に対しても腰の低い「良い憲兵」として描いたのは、
むしろ戦後の物語において常に悪役であり続けた憲兵の地位向上を図る試みであり、
従来の「拷問型憲兵」で、彼を敵視する仙台憲兵隊の萩山曹長と対比させることで、
「こんな憲兵もいましたよ」と宣伝する意味もあるやに見えます。

そもそも「バラバラ死美人」の原作「のたうつ憲兵」の著者
小坂慶助は、22歳で憲兵上等兵を拝命してから順調に出世し、

昭和7年には憲兵曹長となって叙勲された、というバラバラ、じゃなくて
バリバリの憲兵エリートの道を歩んだ人でした。

右側が小坂慶助。撮影の時にも役者に演技指導を行ったようです。

小坂慶助は、昭和10年に起きた相沢事件で、永田鉄山を刺殺した
相沢三郎の拘束を行なった憲兵であり、翌年に起きた二・二六事件では
襲撃された岡田啓介
首相がまだ邸内に生存していることをいち早く突き止め、
反乱部隊の監視下、
首相を弔問客に変装させて救出することに成功した
憲兵オブ憲兵ズでした。

戦後は多くの憲兵と同じく戦犯指名を受け、巣鴨プリズンで収監されますが、
不運だった他の憲兵たちのようにB・C級戦犯として処刑されることは免れ、
小説家となって憲兵時代の体験をもとに著作を残しました。

そんな小坂氏の著作ですから、憲兵と言っても人間社会の普通の集団と同じく

「良い憲兵、悪い憲兵、普通の憲兵」

がいたことを踏まえて書かれていて当然かと思われます。

ここで留意すべきは、本職の彼が書いた「のたうつ憲兵」には、
細川俊夫が演じた、ちょいワル憲兵など出てこないばかりか、
自白を引き出すための拷問シーンなど、全くないということです。

しかしながら、映画化に際しては

「拷問のない憲兵ものなんて」

とばかり、かわいそうな天知茂を痛めつけるシーンがこれでもかと盛り込まれ、
これが一つのハイライトとなっていますし、
翌年の「憲兵と幽霊」も、拷問によってやってもいない罪を自白させる、
という具合に、こちらも拷問がなかったら成り立たない話だったりします。


この理由を、ディアゴスティーニのブックレット解説は

『憲兵とバラバラ死美人』『憲兵と幽霊』の姿勢は、
戦時体制下での
憲兵の権力が、如何に無軌道になりうるかを通して、
戦争や
軍国社会の恐ろしさを訴えるものだともいえる。

と、それこそ「お定まりの」結論に落としこみ、平然としていますが、
これはわたしに言わせると、戦中嫌われていた憲兵を、常に悪役として
再生産してきた全ての創作者たちの、ていのいい自己正当化のようなものです。

 

よく、論敵を攻撃するのに、相手が言ってもないことを作り上げ、
酷い時には本人のセリフを捏造して相手を悪魔化し、それを非難するという、
ストローマン(藁人形)理論を用いる言論者がいますね。
(最近酷かった例は、杉田水脈議員を非難していた某漫画家の取り巻き)

憲兵隊が暇さえあれば罪のない人に拷問していたかのような創作物を構成し、
それをもって「戦争や軍隊の恐ろしさを訴える」というのは、
この藁人形理論以外のなにものでもないとわたしは思っています。

近年、韓国が慰安婦の強制連行や軍艦島での強制労働を描いた映画を制作し、
証拠がないから映画を作って世界にこれを訴える、と表明したとき、
われわれは驚愕し呆れたものですが、本質はこれと似たようなことです。


戦時下で治安維持の名の下に憲兵が行なったことは、当時の状況に照らすと
(誤解を恐れずに言わせてもらえば)憲兵に命じられた任務の範囲です。
自白の手段として拷問が用いられたことは現代の日本の価値観では間違いですが、
それをいうならCIAは?KGBは?シュタージは?

およそ世界の国家警察組織は全て悪であり間違っているということになりますが、
そもそもそれは善悪で論じるべき事柄なのでしょうか。


いかなる物事も、見る位置と時間が変われば、違う面が見えてくるものです。
例えば戦時下、国に忠誠を尽くし国家の命を受けて任務を遂行した憲兵と、
アメリカ共産党とソ連に国の情報を売っていたスパイについて、
戦後の価値観は、前者が悪で後者を被害者と断じ、今でも
特に前者への評価はほとんど変わらずにいるわけですが、果たして
その価値観とはどこに軸足を置いた状態でのものなのでしょうか。

 

戦後、旧陸軍、特に憲兵隊が、創作物などで悪しき面のみを強調され、
藁人形理論によってデモナイズされ続けてきたという一面を、
わたしはあらためて本稿の最後に強調しておきたいと思います。

 

さて、靖国神社境内には「憲兵之碑」なるものがあります。
その碑文は当時の靖国神社宮司の揮毫によるもので、全文はこのようなものです。

憲兵の任務は監軍護法に存したが、大東亜戦争中は
更に占領地の行政に或は現地民族の独立指導に至誠を尽した。

又昭和二十年三月十日の東京大空襲の戦火が靖國の神域を襲うや
神殿を挺身護持したのも憲兵であった。

然しその陰には異国の戦線に散華した幾百万の英霊と、
いわれなき罪に問われ非命に斃れた同僚憲友があったことを
忘れてはならない。

「謂れなき罪」とは、彼らが戦後、特に外地で果たした任務ゆえに
戦犯裁判で有罪となったことを指しているのですが、
憲兵が国家のために、時として我が身を賭して果たした任務への感謝どころか、
それらが全て「拷問」というパワーワードに上書きされてきたことそのものが
「謂れなき罪」=汚名を着せられてきたに等しいといえるのではないでしょうか。

 

さて、ついでと言っては何ですが、残りのポスターもご紹介しておきましょう。

「生きていた血塗れの銃殺死体!?」

→銃殺死体は生きてたんじゃないってば。

断末魔の呪いが呼び起こす日本陸軍の怪奇!

→日本陸軍の怪奇じゃなくて、怪奇現象は
犯罪を犯した人の脳内でのみ起こったことです。

「憲兵とバラバラ死美人」

「スーパージャイアンツ 鋼鉄の巨人」

「肉体の乱舞」(総天然色ヌード映画)

グロ・ナンセンス・エロの豪華三本立て。
半日映画館でこれを全部観たとしたらなんか脳内がすごいことになりそう。

STARMAN VS. THE EVIL BRAIN AND THE INVADERS FROM OUTER SPACE - clip 2

すかさず「スーパージャイアンツ」の英語バージョンを貼っておきます。

STARMANがSTRAWMANに見えてしまった(笑)
ちなみに宇津井健の登場は0:50から。(一応お知らせ)

というか、「バラバラ死美人」ってやっぱりこういう扱いの映画だったのね。

「今更驚きませんが『憲兵とバラバラ死美人』について
かくも熱く語る日本女性は中尉くらいのものでしょう(°_°)」

なんて裏コメが来るはずだよ(泣)

 

シリーズ終わり