ピッツバーグのカーネギー博物館に展示されている潜水艦、
「レクィン」を紹介するシリーズ、いよいよ最終回です。
後部魚雷室を改装して設置した航空管制室(乗組員はCICと呼んだ)には、
かつての名残であるロッカーが並んでおり、
そのうち4つの窓が展示ケースとして利用されていました。
最後のウィンドウは、殉職した「レクィン」乗組員のメモリアルです。
■ 殉職した「レクィン」乗組員
マール・ハロルド 'ティンク’ ガーロックJr.
Marl Harold "Tinker" Garlock, Jr.
の、ペンシルバニア州にある墓地の碑銘には、こうあります。
「レクィン」を紹介するシリーズ、いよいよ最終回です。
後部魚雷室を改装して設置した航空管制室(乗組員はCICと呼んだ)には、
かつての名残であるロッカーが並んでおり、
そのうち4つの窓が展示ケースとして利用されていました。
最後のウィンドウは、殉職した「レクィン」乗組員のメモリアルです。
■ 殉職した「レクィン」乗組員
マール・ハロルド 'ティンク’ ガーロックJr.
Marl Harold "Tinker" Garlock, Jr.
の、ペンシルバニア州にある墓地の碑銘には、こうあります。
Gave his life in faithful service in his country
aboard the submarine USS Requin
潜水艦レクィンに乗艦し、祖国への忠実な奉仕に命を捧げた
死亡日は1962年9月21日、没地はヴァージニア州ノーフォーク。
このことから、「ティンカー」ことガーロックJr.水兵が、
潜水艦基地での「レクィン」艦上で死亡したことがわかります。
死亡時、ガーロック二等機関兵はわずか20歳でした。
「レクィン」が初めて第二次世界大戦末期の哨戒に出たときには
まだ2歳でものごころもついていなかったに違いありません。
第二次世界大戦で戦闘を行わず、さらにはレーダーピケット艦として
冷戦中の哨戒に出たときも、「レクィン」は敵への魚雷を撃つことなく、
したがって戦闘による乗員の損失はないまま、退役を迎えました。
その「レクィン」で唯一、たったひとり殉職したのがガーロックでした。
展示ブースにある当時の新聞記事にはこのように書かれています。
”ティンカー” ガーロック、海軍潜水艦で死亡
マール・H・ガーロックの故郷の両親に悲劇が襲ったのは、
彼らが息子の死を知らせる以下のテレグラムを受け取ったときだった。
aboard the submarine USS Requin
潜水艦レクィンに乗艦し、祖国への忠実な奉仕に命を捧げた
死亡日は1962年9月21日、没地はヴァージニア州ノーフォーク。
このことから、「ティンカー」ことガーロックJr.水兵が、
潜水艦基地での「レクィン」艦上で死亡したことがわかります。
死亡時、ガーロック二等機関兵はわずか20歳でした。
「レクィン」が初めて第二次世界大戦末期の哨戒に出たときには
まだ2歳でものごころもついていなかったに違いありません。
第二次世界大戦で戦闘を行わず、さらにはレーダーピケット艦として
冷戦中の哨戒に出たときも、「レクィン」は敵への魚雷を撃つことなく、
したがって戦闘による乗員の損失はないまま、退役を迎えました。
その「レクィン」で唯一、たったひとり殉職したのがガーロックでした。
展示ブースにある当時の新聞記事にはこのように書かれています。
”ティンカー” ガーロック、海軍潜水艦で死亡
マール・H・ガーロックの故郷の両親に悲劇が襲ったのは、
彼らが息子の死を知らせる以下のテレグラムを受け取ったときだった。
ノーフォークの海軍基地所属、マール・H・ジュニアについて:
「私はアメリカ海軍を代表して、あなた方のご子息である
マール・ハロルド・ガーロック・ジュニア(S394898)が、
去る9月21日、酸素欠乏による窒息によって死亡したことを
ご夫妻に対し深い遺憾の意をもってお知らせします。
ご子息は国に奉仕中に亡くなりました。
あなた方の大きな喪失に、心よりお悔やみを申し上げます。
もし、あなたがた、そして何か特別なご要望に対し、
わたしたちが力になれることがありましたら、
すぐにでもテレグラムでノーフォークまでご連絡ください」
マール・ハロルド・ガーロック・ジュニア(S394898)が、
去る9月21日、酸素欠乏による窒息によって死亡したことを
ご夫妻に対し深い遺憾の意をもってお知らせします。
ご子息は国に奉仕中に亡くなりました。
あなた方の大きな喪失に、心よりお悔やみを申し上げます。
もし、あなたがた、そして何か特別なご要望に対し、
わたしたちが力になれることがありましたら、
すぐにでもテレグラムでノーフォークまでご連絡ください」
テレグラムの送信者は、「レクィン」艦長である
E・L・フラニー大尉であった。
のちに分かったことによると、この界隈の誰もが知る人物、
「ティンカー」は、潜水艦のエンジンルーム(ポンプ室という説もあり)で
ソルベール10グリース除去剤を使用して作業中だったが、
密閉された空間で除去剤に含まれていた溶剤を吸って死亡したのであった。
「ティンカー」は海軍に勤務3年目で、メカニックの資格を持っていた。
彼の遺体はその後フィラデルフィアの故郷に運ばれ、葬儀が行われた。
E・L・フラニー大尉であった。
のちに分かったことによると、この界隈の誰もが知る人物、
「ティンカー」は、潜水艦のエンジンルーム(ポンプ室という説もあり)で
ソルベール10グリース除去剤を使用して作業中だったが、
密閉された空間で除去剤に含まれていた溶剤を吸って死亡したのであった。
「ティンカー」は海軍に勤務3年目で、メカニックの資格を持っていた。
彼の遺体はその後フィラデルフィアの故郷に運ばれ、葬儀が行われた。
ガーロック機関水兵の死亡診断書を見つけました。
直接的な死因(A) 窒息と中毒
による(B)トリクロロエタン吸入
直接的な死因(A) 窒息と中毒
による(B)トリクロロエタン吸入
とあり、「任務中」にチェックが入れられています。
そして、
退役軍人の場合は戦争の名前、平時の場合は平時
という欄に、
Peactime
とあります。
’e’が欠落しているのがミスなのか、これが正式な省略のかはわかりません。
いずれにしても、戦争が終わって(冷戦中とはいえ)平時に、
直接の戦闘などが予測できない中で、まだ20歳の息子を失い、
家族や友人はさぞ狼狽し、悲嘆にくれたことでしょう。
■ 潜水艦を使った戦時広告
航空管制室となって全ての魚雷装備が撤去されたスターンルームは、
ここだけ見ると全く普通の船室のような様相になっています。
ドアの向こうは現在もスタッフが使用する部屋になっています。
そして、
退役軍人の場合は戦争の名前、平時の場合は平時
という欄に、
Peactime
とあります。
’e’が欠落しているのがミスなのか、これが正式な省略のかはわかりません。
いずれにしても、戦争が終わって(冷戦中とはいえ)平時に、
直接の戦闘などが予測できない中で、まだ20歳の息子を失い、
家族や友人はさぞ狼狽し、悲嘆にくれたことでしょう。
■ 潜水艦を使った戦時広告
航空管制室となって全ての魚雷装備が撤去されたスターンルームは、
ここだけ見ると全く普通の船室のような様相になっています。
ドアの向こうは現在もスタッフが使用する部屋になっています。
このコダックの宣伝ポスターは、1943年に製作された
一連の「軍隊もの」のひとつです。
私たちの安全を守るために、彼らが毎日直面していることを考えると
......彼らにこの喜びを与えるには十分小さいように思える。
任務の合間に彼らが互いに笑い合う姿は、
実は彼らがホームシックにかかっていることなど窺い知れない。
本当のことを語ることができるのは、狂気の日々なのだ。
家からスナップ写真を受け取ったときの彼らの表情。
まるで何か素晴らしいものを手に入れたかのように。
フィルムはまだ不足している。
陸軍と海軍は多くのフィルムを必要としている。
だからこそ、あなたも、手に入れることができるすべてのロールを
最大限に活用してください。
彼が見たがっている人や場所を写しだし、交換するのだ。
あなたの手紙を本当の "故郷からのスナップショット "にしてください。
イーストマンコダック、レチェスター、N.Y.
右上には戦時中らしく、プロパガンダというか戦意高揚の意味で
”Take her down "を覚えていますか?
という文言が読めますが、残念ながらそのあとは
ぶれていて判読できませんでした。
「テイク・ハー・ダウン」(潜航させよ)は、第二次世界大戦において
日本海軍の特務艦「早崎」と潜水艦「グロウラー」が交戦した際、
甲板で銃撃を受けて倒れたハワード・ギルモア艦長が、
自分を犠牲にして艦を潜航させるために最後に叫んだ言葉です。
「戦時のタフな使用のために、
一連の「軍隊もの」のひとつです。
私たちの安全を守るために、彼らが毎日直面していることを考えると
......彼らにこの喜びを与えるには十分小さいように思える。
任務の合間に彼らが互いに笑い合う姿は、
実は彼らがホームシックにかかっていることなど窺い知れない。
本当のことを語ることができるのは、狂気の日々なのだ。
家からスナップ写真を受け取ったときの彼らの表情。
まるで何か素晴らしいものを手に入れたかのように。
フィルムはまだ不足している。
陸軍と海軍は多くのフィルムを必要としている。
だからこそ、あなたも、手に入れることができるすべてのロールを
最大限に活用してください。
彼が見たがっている人や場所を写しだし、交換するのだ。
あなたの手紙を本当の "故郷からのスナップショット "にしてください。
イーストマンコダック、レチェスター、N.Y.
右上には戦時中らしく、プロパガンダというか戦意高揚の意味で
”Take her down "を覚えていますか?
という文言が読めますが、残念ながらそのあとは
ぶれていて判読できませんでした。
「テイク・ハー・ダウン」(潜航させよ)は、第二次世界大戦において
日本海軍の特務艦「早崎」と潜水艦「グロウラー」が交戦した際、
甲板で銃撃を受けて倒れたハワード・ギルモア艦長が、
自分を犠牲にして艦を潜航させるために最後に叫んだ言葉です。
「戦時のタフな使用のために、
バッテリーに新しいスタミナを」
オーウェンス・コーニング社
(Owens Corning Corporation,NYSE:OC)
は世界最大のガラス繊維及び関連製品製造会社です。
主力製品はガラス繊維製の断熱材であり、第二次世界大戦中、
同社はグラスファイバーのバッテリー素材を生産していました。
(Owens Corning Corporation,NYSE:OC)
は世界最大のガラス繊維及び関連製品製造会社です。
主力製品はガラス繊維製の断熱材であり、第二次世界大戦中、
同社はグラスファイバーのバッテリー素材を生産していました。
現在、この他の主力製品は繊維強化プラスチック (FRP) などの複合材料で、
船体や自動車のルーフ、パイプ、風力発電向けの羽根に利用されます。
"Fiberglas"®は、同社の商標だったというのはちょっと驚きです。
船体や自動車のルーフ、パイプ、風力発電向けの羽根に利用されます。
"Fiberglas"®は、同社の商標だったというのはちょっと驚きです。
■「レクィン」”サルベージ”ドローイング
国立公文書館から提供された USS「 レクゥイン」の原画のコピーです。
アーカイブには、数枚の大判図面、数千枚の青写真、
およびレクインの勤務時代の多くのログと通信が含まれています。
ほとんどがレーダーだったので、今ここのコンパートメントには
これくらいしか当時の機器が残されていません。
ハイドロステアリングのギアモーター。
航空管制に必須だったジャイロ。
さあ、というところで、艦内の見学を全て終わりました。
あとはこのラッタルをのぼっていきます。
最後に、階段の上からスターンルームを撮っておきました。
甲板に上がります。
他の同じツァーのメンバーの姿はほぼ影も形もありませんでした。
赤いシャツのツァーガイドは、何か質問があったら聞いてください、
程度のことしかいわず、ほとんど何も説明してくれませんでしたが、
とにかく全員を艦外に出すために、私たちが上がっていくのを待っています。
急かされている感があってゆっくりできませんでした。
もうちょっと見学時間に余裕が欲しかったなあ・・・。
もうちょっと見学時間に余裕が欲しかったなあ・・・。
というわけで、カーネギー博物館の「レクィン」見学レポートでした。
終わり。
ジャイロと書かれている機器は、レーダー表示器ではないかと思います。
潜水艦が好きなので世界各地の博物館を巡っています。ネイビーさんの足元には及びませんがご参考までにまとめてあるURLをお知らせしておきます。
https://www.facebook.com/groups/24987760307482048