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「トーキョー・レイド」ドーリトル帝都空襲〜スミソニアン航空博物館

2021-10-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空宇宙博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
いかがでしたでしょうか。

5機の戦闘機を核に据えた展示と、当時の軍航空に関する話題で
しばらくお付き合いいただいていたわけですが、
もうあとのこすところ1回で最終回となります。

■ 軍用機搭載弾丸のいろいろ

このコーナーのタイトルは「Armament」となっています。

アーマメントは一般的に「兵器」「装備」を指し、大きな意味では
国の軍備や軍事力そのものを意味する言葉で、ここではおそらく
「装備」というのが一番近いのだろうと思うのですが、
展示してあるのは全て弾丸です。

「軍用機の主な任務の一つは、
様々な種類の発射体(projectiles)の発射です」

という文章から説明が始まります。

ここでまた違う言い方をしていますが、これも要は「弾丸」ということです。

「1940年から1945年の間に、アメリカだけで

42, 875,676,000個

以上の「millitary munitions」(軍需品)が
敵軍に対して使用するために生産され、これらのうち、
410億個を遥かに超えたのが、口径20ミリ以下のカートリッジでした」

また違う言い方がでてきましたね。

つまり英語では弾丸的なもの=装備=発射体=軍需品であると。
日本語の弾丸も、発射されるものによって
「砲弾」「銃弾」と変わってくるので、
英語でもこのような様々な言い方があるのでしょう。

弾丸そのものだと英語は「Bullet」となり、「砲弾」(shell) を包括しますが、
bulletは一般的に「ライフルから撃ち出される弾」です。

第二次世界大戦時代の航空機の弾薬は、
特定の目的を達成するために設計されました。
ここで説明する5つの弾薬は、
全ての使用者(交戦者)が利用した標準的な種類となります。

多くの場合、複数の弾薬を連結して使用することもあり、
標的の選択やダメージの与え方に柔軟性を持たせました。

航空戦が行われ始めた頃には、爆発性の高い焼夷弾が
他の航空機に対して効果的であるとされていましたが、
より強力な航空エンジンが登場すると、
爆発性及び焼夷弾の効果を軽減するために、セルフシーリング式燃料タンク、
そして装甲構造が機体に追加されるようになります。

徹甲機能を爆発物と焼夷弾に追加すると、
より強意攻撃力となることがわかり、
1944年までに、徹甲、爆発性、焼夷というダメージを与える要素を
一つのユニットに盛り合わせた発射体が使用されるようになります。

第二次世界大戦で証明されたのは、大容量の爆発性弾薬を利用した、
速射式高速航空機砲の威力だったと言って間違いありません。

ここで各国の弾丸についての紹介がありました。
全部紹介してもいいのですが、とりあえず日本のところにこうあります。

「焼夷弾」(Incendiary Ammunition)

は、バレルと空気の摩擦による衝撃で発射体の温度を上昇し発火する
非常に可燃性の高い物質(多くの場合リン)を運びます。

焼夷弾はあらゆる種類の可燃性標的に対して使用され、特に
石油やガソリンのタンクに対して効果的です。


その国特有の「発射体」についての説明かと思ったのですが、
わりと一般的なことしか書かれていませんね?

図部分に日本語訳をつけてみました。

ついでにドイツの爆発性弾丸の図解にもつけてみましたが、
おそらく専門的にはこういう訳はされないんだろうなー。

そもそもgain って何?←調べてもわかりませんでした

上から:

陸軍20mmタイプ97式徹甲トレーサー・航空機ガス作動銃用

陸軍20mmタイプ「ホ-5」徹甲弾

海軍ホッチキス型銃用

同型

同型(中身が見えるように裁断してある)

ヴィッカースM1924型ブローニング航空機銃用

同型

89型および92型陸軍海軍兼用銃用

そしてこちらはドイツの銃弾色々。
他にもアメリカ軍、イギリス軍、イタリア軍のものが展示されています。
イタリア軍は「Breda」という製品以外は
イギリスのヴィッカース社が多かったようです。

■ ドーリトル空襲



折に触れては取り上げてきた「帝都空襲」ですが、
スミソニアン博物館がどのようにこのイベントを取り扱っているか、
ということをお伝えしたいと思います。

この写真は、東京空襲の後、中国上空からベイルアウトした、
ドーリトル中佐とそのクルーたちの記念撮影で、一緒に
現地の中国人(通訳などをした人らしい)が写っています。

現地の説明です。 

「1942年、アメリカ合衆国は日本の真珠湾攻撃に対抗し、
日本本土の五都市を急襲するという計画を立てました。

ジェームズ・H・ドーリトル中佐率いる16機のB-25ミッチェルが
USS『ホーネット』の甲板から発進したのは4月18日。
場所は日本から1325キロ離れた海面でした。

ターゲットは東京・横浜・神戸・大阪・名古屋。
(ちなみにこの名古屋が”Nagoyo"になっているのはご愛敬)
それらの都市を空襲で叩いた後、中国大陸に逃げました。

3機が中国に到着する前に燃料切れとなり、そのうち2機は
日本軍の基地に、そして1機はロシアに着陸し、
そのほかは中国本土に達したものの墜落しました。

『ドーリトル・トーキョー・レイダース』(空襲者)は、
当時のアメリカ人たちに計り知れない士気の高揚を促し、
日本国民は国土を襲撃されたことに衝撃を受けました」

わかりやすいドーリトル隊の行動図。
空母を発進し、日本の目的地を空襲後、中国の自国基地まで飛ぶ、
というのが当初の計画でしたが、
攻撃終了の時点で燃料が極端に少なかったため、
あえてロシアに向かった1機がいました。

信用していないとはいえ、一応ソ連はアメリカの同盟国だったのです。

東京空襲に向かうため「ホーネット」を発進する
ノースアメリカンのB-25ミッチェル。

1機に乗っていたのはパイロット、コーパイロット、ナビゲーター、
爆撃手、そしてエンジニア兼銃手の5名でした。

東京空襲のために、ドーリトル隊機には特別に増槽が追加され、
搭載武器も通常より増やされ、さらにカメラが取り付けられていました。

ただし、ノルデン照準器は取り外されたそうです。

このことは、計画する方も、彼らの生還を期していなかった、
という過酷な現実を物語っています。

いままさに東京爆撃の任務を帯びて発艦するB-25ミッチェル爆撃機。

発艦するミッチェル。
「ホーネット」のそばにいた駆逐艦からの撮影でしょうか。

「東京空襲は、空母から発進した爆撃機による
初めての本土攻撃となりました。

攻撃隊は、発進地点を日本から725kmに要求しましたが、
沿岸から1290kmまでは日本側の哨戒が厳しかったため、
結論としてギリギリの地点からの出発を余儀なくされました。

このため、飛行機は全機が燃料不足となり、計画していた
中国への基地に達した機はいませんでした。

1942年4月18日午前8時20分、ドーリトル隊長を乗せた最初のB-25が
USS『ホーネット』の甲板から発進を行いました。

図にはマークがついていますので、まず
ドーリトル隊が空襲を行った日本本土の部分をズームします。

現地の地図では青い丸だったのですが、あまりにも見難いので
赤い星印に変えておきました。

東京、横浜、名古屋、大阪、神戸と地域的には計画通りです。
実際の攻撃が軍事施設だけであったという彼らの主張は、
大いに間違っていることは当初から明らかでしたが。

は2機が落ちた日本の陣地のあった場所です。
乗員は捕獲され、うち3名が銃殺されました。

はその他の13機が到着した地点。
そのほとんどがアメリカ軍にとって安全な場所でした。

ドーリトル准将(最終)が獲得した勲章の全て。
なぜここにそれらがあるかというと・・・本人が寄付したからです。

しかも本人が生きているときに。

アメリカからだけでなく、レジオン・ドヌール、クロワ・ド・ゲールなど
フランス政府から、またベルギーや中国からのメダルもあります。

中国で発見されたドーリトル隊のB-25の機体の一部。
見つけたのが誰かはわかりませんが、
よくそういうものだと分かったなという感じです。

拡大してみると、中国語でびっしりと、
見つけた場所などが書き込まれていますが、
残念なことに展示が上下逆さまです。

ドンマイ。

■ フランク・カーツ大佐の軍帽

フランク・アレン・カーツ大佐(1911 - 1996)
本博物館に寄贈した軍帽が飾ってあります。

大佐とともに50回のミッションをこなした軍帽は、
そのままアメリカ陸軍航空隊の飛行の象徴でした。

標準仕様のサービスキャップからハトメを取り外し、
通信のヘッドセットを装着できるようになっています。

カーツ大佐はアメリカ陸軍航空隊の飛行士であると同時に、
オリンピック出場歴のあるアスリートとしても有名でした。


彼の航空歴はなんと16歳から始まっています。

いきなりオープン・コックピットの飛行機で航空レースに出場し、
新記録を打ち立てた彼は、飛び込みが得意でもあり、
1932年のオリンピックでは10メートル台で銅メダルを獲得し、
1936年には肩を負傷しながらも5位に入賞しています。

Frank Kurtz 1935.jpg

民間航空会社への就職するため、陸軍で操縦訓練を受けた彼は
そのまま陸軍に残ることになります。

1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の2日後、
フィリピンのクラーク飛行場で起きた空襲の生存者でもあります。

カーツ大佐の戦歴というか功績は、スミソニアンにも記されているように、
この「スゥース」というB-17D-BO型フライング・フォートレス
後世に残したということなのかもしれません。


「スゥース」は第二次世界大戦の南西太平洋で幅広く使用されたものです。
現存する最古のB-17であり、
現存する唯一の初期の "シャークフィン "B-17であり、
1941-42年のフィリピンで活躍した唯一の現存するB-17であり、
アメリカの参戦初日に運用されたB-17でもあります。


真珠湾攻撃の8時間後、1941年12月8日に
日本軍がフィリピンの米軍施設を攻撃し、
極東空軍の多くが窮地に立たされました。

フィリピンにいた35機のフライング・フォートレスのうち、
破壊や深刻な被害を免れたのは19機だけという状態で、
地上作業員は破壊された他の航空機から回収した部品で
戦闘による損傷を修復しました。

このB-17Dは、ボーイングB-17Dの尾翼を接ぎ木して、
ハイブリッドになったのですが、それは当時人気のあった
ノベルティソング "Alexander, The Swoose "の歌詞のように、
「半分白鳥で半分ガチョウ」という状態だったので、あだ名もそのまま
「スゥース」となったというわけです。

Alexander is a Swoose
(子供の声真似をしている男性ボーカルがすごい)

終戦を前に、「The Swoose」はスクラップにされ、
アルミニウムの含有量を減らすために精錬される予定でした。

そこで出てきたのがカーツです。

オリンピックのアスリートとして、陸軍パイロットとして、
発言力のあった彼は、ロサンゼルス市を説得して、
この爆撃機を第二次世界大戦の記念に残すことに成功しました。

このB-17は、第二次世界大戦の始まりから終わりまで飛行した
唯一の機体です。

機体はわたしが見学したオハイオ州フェアボーンの
ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館で修復中、
という噂ではありますが、もしかしたら
もう修理が終わっているかもしれないので、
期待して写真を検索することにします。

ちなみにカーツ大佐ですが、24年間の軍生活を終え、
企業のエグゼクティブに迎えられ、国際水泳殿堂入りを果たすなど
悠々自適の余生を送ったようです。

彼はのちに女優になった "Swoosie "カーツという名前の娘を設けました。
もちろんその名前は、彼が第19および第463爆撃群で操縦した2機の
B-17 "The Swoose "および "Swoose II "に由来しています。

 

続く。



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2 Comments

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諸々 (Unknown)
2021-10-29 06:57:16
米軍の装備品で見ていると「Armament」と書いてあるのは、戦闘機の機銃の整備点検用のハッチくらいで、他にはあまり見ません。整備員に「この中には機銃と弾薬があるよ」と知らせるために書いてあるんだと思います。

「武器」(Weapon)とすると、外装するミサイルや爆弾と区別がつかなくなるのだと思います。爆撃機や哨戒機で爆弾や魚雷を格納する「爆弾倉」は「Weapon Bay」と言っています。

Munitionは、爆弾を含む「弾薬類」全般です。

Bulletは軍では使いません。正式には「Ammunition」口語では「Ammo」と言います。

Projectileは砲弾や銃弾のように「飛ぶ」やつですね。自由落下する爆弾には使いません。

焼夷弾は爆発しません。着弾した際に、油脂が広範囲に飛び散るので、爆発するように見えますが、実際には引火している(燃えている)だけです。

先端導爆線は「弾頭信管」です。これが目標に当たると、弾丸内の火薬が点火されます。

電気式導火線は「電気雷管」です。発射時、機銃がここに電気を流すと、薬莢内の火薬が点火され、弾丸が飛んで行きます。
返信する
ドーリットル空襲B-25 (お節介船屋)
2021-10-30 14:01:44
B-25は1939年初飛行の新鋭機でテスト結果良好のため即刻量産され総数11,000機生産されました。
ドーリットル空襲に使用されたB型は全長が短く武装が強化されたタイプですが自重増加で性能的に不十分で119機しか生産されていません。
また空母搭載のため下部銃座は取り外されて、後部銃座もダミーでした。
そのため武装は上部銃座の12.7㎜連装1基と機首の7.7㎜単装機銃1基のみでした。
エリス中尉の記述のように簡易照準器とされ燃料タンク増設、オートパイロットを装備されましたが3,000ポンドの搭載量はありましたが500ポンド爆弾4発とされました。
攻撃予定は4月19日でしたが18日早朝東京から約800浬離れた場所で第23日東丸に発見されたため8時15分1番機発艦、最後の16番機が9時16分発艦後艦隊は反転帰投となりました。直後長渡丸に発見されましたが、第23日東丸及び長渡丸とも軽巡ナッシュビルに撃沈されました。
関東地区攻撃の13機は12時から14時空襲し、離脱、3機が名古屋、阪神地区空襲後離脱、1機がウラジオストックに不時着、乗員抑留、15機は中国本土にたどり着きましたが発艦が早くなり、夜間となったため11機の乗員は落下傘降下、4機は不時着しました。乗員1名戦死、2名行方不明、8人が日本軍捕虜となり3名処刑、1名病死でした。残る乗員は中国からインド経由で米国に帰還しました。なお捕虜となった1名、フェロー中尉操縦の16番機デ・シェーザー爆撃手は解放後、宣教師として再度日本を訪れました。

被害は死者45名、重傷者153名、家屋全焼160戸、半焼129戸、全壊21戸、半壊21戸、主な物は早稲田大学講堂、西大久保住宅地、横須賀鎮守府裏、横須賀工廠機械工場、入渠中の潜水母艦「大鯨」損傷、名古屋三菱飛行機、東邦化学等
第23日東丸の決死の6通の通報にも関わらず、1機も撃墜できず、米空母も捕捉出来ませんでした。ただこの通報により発艦が早くなり全機が基地に着けず、大破させたことがその功績でした。
参照光人社NF文庫「写真太平洋戦争第3巻」
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