ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「メンフィス・ベル」アメリカン・アイコン〜 国立アメリカ空軍博物館

2023-10-14 | 航空機

ピッツバーグに滞在していた2020年の夏、一人で車を駆って
オハイオ州デイトンにあるアメリカ空軍の公式航空博物館、

国立アメリカ空軍博物館
National Museum of the United States Air Force


に一泊二日の見学旅行に行きました。

アメリカでもコロナ禍真っ最中の頃で、ホテルは安く取れましたが
肝心のわたし自身が体調を崩してしまい、見学出撃以外は
ホテルでほとんど寝て過ごし、朝早くから近隣のドラッグストアに
市販の薬を買いに行くなどして乗り切ったことは忘れられません。

といいながら、他に紹介したい物件を優先していたら、
ここの展示について紹介するのを忘れていたことに気がつきまして、
久しぶりにテーマを決めて取りあげることにしました。

あまりにも膨大な航空機の展示であるため、
写真を観ていても、いつも圧倒されてテーマが絞れないくらいでしたが、

今回のシリーズでご紹介するのは映画でも取り上げられたB-17爆撃機、
「メンフィス・ベル」と戦略爆撃機についてです。



第二次世界大戦中世界的に有名だった爆撃機は、B-24リベレーターと、
やはりボーイングのB-17フライングフォートレスが双璧でしょう。

もちろん爆撃機としてはB-25ミッチェル、我々日本人にとって
DNAレベルでその名前が真っ先に出てくるB-29もありますが。

そして、B-17が登場する戦争映画で有名なのが、当ブログで扱ったこともある
グレゴリー・ペックの「頭上の敵機(Twelve O'clock High)」
そしてこの度の「メンフィス・ベル(Memphis Belle)」です。

また、まだ観ていませんが、スティーブ・マックィーン主演の
「戦う翼(The War Over)」でもB-17が登場するそうです。

B-29は日本の本土攻撃でその名前を知られていましたが、
B-17は主にヨーロッパ上空でその活動を行いました。

B-24とともにアメリカの戦略爆撃の屋台骨を形成し、
主にドイツの軍需産業の機能を麻痺させることを目的にして
連合国側のその地域における勝利に大きく寄与した爆撃機です。

ここ国立博物館には、「メンフィス・ベル」のノーズアートを持つ
B-17爆撃機の本物が展示されていて、これを実際に見ることができます。

少し特殊というか他の展示機と違うのは、このコーナー全てが
この「メンフィス・ベル」とその搭乗員たちがアメリカに与えた
社会現象ともいうべき影響についての詳細な説明となっていることです。

■ 作られた「アメリカのアイコン」



「アメリカン・アイコン」というサブタイトルの通り、
爆撃機「メンフィス・ベル」は当時の爆撃機の象徴的存在でした。

1990年にイギリス映画が制作されましたが、実はこれは初めてではなく、
先日、ジョン・フォードの「海の底」という映画ログで言及した、
フォード=海軍、キャプラ=陸軍、でいうところの
陸軍航空隊のお抱え監督?ウィリアム・ワイラーをヨーロッパに派遣して
「メンフィス・ベル」のドキュメンタリーが撮影されています。

わたしにとって映画「メンフィス・ベル」は、戦争というジャンルを超えて
全く軍事に詳しくなかった当時でも好きだった作品の一つでした。


出演者の一人、ジャズピアニストで歌手、俳優の

ハリー・コニックJr.のファンだったという理由で観たらこれが良くて、
何度も観るくらいすっかりハマってしまいました。
(特に彼が劇中歌う「ダニーボーイ」のシーン)

Harry Connick Jr sings Danny Boy in "Memphis Belle"

しかし、「メンフィス・ベル」がアイコンとまで言われ、
国民に絶大な人気があったことは、随分後になるまで知りませんでした。



まず、なぜメンフィス・ベルとその搭乗員がそれほど有名になったかですが、

それはなんと言ってもワイラーのドキュメンタリーが宣伝となったからです。

そして、なぜアメリカ陸軍がワイラー(当時陸軍少佐)を派遣して、
一爆撃機のドキュメンタリーを制作させようとしたかですが、これには
当時のアメリカ陸軍航空隊第8空軍のローカルルール、

「25回爆撃任務を達成した爆撃機の搭乗員は帰国して良い」

の初めての達成にメンフィス・ベルがリーチをかけていたためでした。
陸軍は、これを大々的な広報に繋げる計画を立てたのです。

危険なミッションを無事に成功させ全員が生きて帰れば、
彼らとその爆撃機は、ナチス・ドイツの打倒への貢献をもって、
存在そのものが奉仕と犠牲の永遠のシンボルと讃えられ英雄となれる。


これを大きく宣伝すれば、国民の関心を引くと同時に、
何よりも陸軍航空隊への入隊希望者の増加が見込めるだろう、というわけです。


メンフィス・ベルは、アメリカ空軍の戦略爆撃作戦が開始されてすぐ、
イギリスの第91爆撃群第324爆撃飛行隊に配属されました。

1942年11月から1943年5月までの間(つまり6ヶ月ということになります)
メンフィス・ベルとその乗員はドイツ、フランス、
ベルギーの目標に対する攻撃を含む25の爆撃任務を行いました。

爆撃機を前にした搭乗員のパネルでは、当時の新聞記事が読めます。



ダグラス飛行場に帰ってきたメンフィスベルの機体に群がる民衆。
「メンフィスベルが沿岸にやってきた!」という見出しです。

「メンフィス・ベルの乗組員がブリッジポートで歓声を受ける

勇敢なチームと闘いの傷を残したフライングフォートレス、
明日ハートフォードに到着の予定

轟音を立てて降下した爆撃機B-17 フライング フォートレス
メンフィス ベルの 10 人の控えめな乗組員は、
そのすべてに少し圧倒されているかのように見えた」

「これまでの4回の出撃で、有名なフライングフォートレス、
メンフィス・ベルの隊員たちは、爆撃機がドイツのブレーメンにある
フォッケウルフ航空機工場の日中爆撃をどのように完了したかを語った」


で、機体に群がっているのが全員若い女の子であるのに注意。
彼女らは、憧れのメンバーに一目会うため、そして
爆撃機を実際に触って自分の痕跡を残そうとしているのです。

まるで彼らの娘がエルビス・プレスリーに、あるいは
ビートルズに熱狂するように、彼女らは10人の搭乗員に夢中になりました。


もうこういうのももはや報道写真ではなくプロマイド。
さぞ女の子は胸をときめかしたに違いありません。


この黒いスコッチテリアの名前は「シュトゥーカ」。
知ってる人は知ってるあのシュトゥーカです。

マスコットを抱いているのはコネチカット州ニューヘブン出身、
副操縦士ジェームズ・ヴェリニス大尉で、彼はこれからアメリカに
ウォーボンド(戦争債券)販促ツァーのために出発するのですが、
窓から顔を出して自分と愛犬に「イギリスの見納め」をしています。


 
「メンフィス・ベル」のマスコットは生後5か月のスコッチテリア。

スコッチテリアのことを「スコッティ」といいますが、
「シュトゥーカ」は語感が似ているってことでつけられたみたいですね。

副機長とスコッティの取り合わせは、カメラマンのお気に入りの構図となり、
いろんな写真が撮られて残されています。

背景のベルの機首には、撃墜したドイツ機数を表す8つのの鉤十字と、
乗組員が参加した空襲の数を表す25個の爆弾マークが刻まれています。

さらにいくつかの記事を後ろから拾い読みしてみます。


モーガン大尉(メンフィス・ベル機長)の言葉だ。

”爆撃任務に就いているときは、終わるまで怖がっている暇はない。
それが、乗組員たちに共通の感情だった。
しかし、一度帰投すると、いろんな気分が押し寄せてくる。

上空で待機しているときの緊張感、
天候がうまくいくかどうかについてもいつもピリピリしていた。”

別の搭乗員は語る: 


”最初の5回はかなりビクビクした。
そのうちに慣れてきて、次の15回は行けるかどうかが気になりだす。
20回目には、どうにか乗り切れるような気がしてくる。
そして25回を成功させる。
そして25回を無事に終えた時、何かを成し遂げたと感じた。

もう家に帰れるんだと。"



この写真には、彼らの爆撃機の名前の由来の意味が込められています。
新聞の見出しは、

「メンフィスベルとスキッパー」

右は爆撃機機長、ロバート・K・モーガン大尉、そして左は
彼の恋人、テネシー州メンフィス在住のマーガレット・ポーク嬢です。

お気づきのように、「メンフィス・ベル(メンフィス美人)」は、
彼女にちなんで命名されました。

当時、爆撃機の愛称は搭乗員が自分たちでつけており、
特に機長はその命名権を持っていたようですね。

というわけでモーガン大尉は当初、爆撃機の愛称を
マーガレットの愛称である「リトル・ワン」にするつもりでしたが、
副操縦士のジム・ヴェリニス大尉が待ったをかけ、
「メンフィス・ベル」っていうのはどうか、と提案したのでした。

ヴェリニス大尉は、ちょうどそのときジョン・ウェイン主演の
長編映画『 レディ・フォー・ア・ナイト』を鑑賞した後でした。



映画の主人公が所有するリバーボートの名前、「メンフィス・ベル」が
爆撃機の愛称としてぴったりくる、と思ったのかもしれません。

もっとも、この映画そのものは決してハッピーなものではなく、
「メンフィス・ベル」はカジノ蒸気船で、しかも劇中火事になっており、
験(げん)を担ぐ日本人なら絶対に選ばなさそうです。

モーガン大尉はこれを受け入れ、ノーズアートのために
『エスクァイア』誌専属画家だったジョージ・ペティに連絡を取り、
名前に合わせた「ペティ・ガール」の絵を依頼しました。


「ペティ・ガール」とは、エスクァイア誌の1933年の創刊号から
1956年までの間掲載された女性のピンナップ画シリーズのことです。

Crew of the Memphis Belle with the Petty Girl nose art

左から4人目の黄色いセーフティベスト着用の士官が、

「本当の名付け親」副機長ヴェリニス大尉、そしてその右が
「オリジナルの名付け親」機長モーガン大尉です。

後のメンバーについてものちのちくわしく語っていくことにします。


続く。

 


最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。