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パンサーとクーガー MiG-15との戦いを経て〜フライングレザーネック航空博物館

2021-11-28 | 航空機

フライングレザーネック航空博物館の航空機展示より、
今日は、朝鮮戦争でMiG−15と戦ったパンサーと、
そのパンサーの教訓を生かして設計されたのに、
結局あまり脚光があたることのなかった、
「不遇戦闘機」クーガー(の写真偵察バージョン)をご紹介します。

■グラマン F9F-2 パンサーPanther


パンサーは、海軍初の空母艦載用ジェット戦闘機として成功した機体の一つです。

バンシーは朝鮮戦争で重要な役割を果たしましたが、
それでも実績においてパンサーには及びませんでした。

海軍と海兵隊で最も広く使用されたジェット戦闘機で、
朝鮮戦争では78,000回以上の出撃を行いました。

グラマンという会社は傾向として新技術に慎重な姿勢であったため、
航空機メーカーの中でいちばん最後にジェット機製作に突入しましたが、
後発なりの調査が生きたというところかもしれません。

F9Fのエンジンには、イギリスのロールス・ロイス社製の
遠心流動式ターボジェットエンジン「ニーン」が採用されました。
これは奇しくも同時代の敵、MiG−15(クリモフVK-1ターボジェット搭載)
が積んでいる動力と同じものでした。

このため両機の胴体後部の形状は大変似ているといいますが、


ご参考までに。
ニューヨークのエンパイアステート航空博物館に行った時撮った
MiG−15の後ろ姿です。
この角度からだと、そんなに似てるかな?って感じですが。


しかし、グラマン社は、新しいエンジンを導入すると、
機体の開発プロセスが複雑になるのでこれを嫌がりましたし、さらに
米国議会は、生産機用に外国製エンジンを輸入してはならないと定めていたため、
海軍はプラット・アンド・ホイットニー社に、
米国内でニーンエンジンを生産するライセンスを取得させました。


1950年12月7日に朝鮮半島に到着したVMF-311は、
海兵隊のジェット戦闘機の中で最初に戦闘に使用された陸上機であり、
地上の海兵隊や兵士のために近接航空支援を行いました。

1952年6月下旬には、スイホー・ダムの攻撃に参加しました。
(『ダムバスターズ』ですねわかります)


この時代の伝説的なパイロットには、前回ご紹介した
後の宇宙飛行士ジョン・グレン上院議員のほかに、
野球選手のテッド・ウィリアムズなどがいます。

【テッド・ウィリアムズ】


海軍予備軍に入隊したテッド・ウィリアムズは、1944年
海軍飛行士としてアメリカ海兵隊の少尉に任命され、
民間人パイロット養成コースを受けたあと、
予備軍に籍を置いたままボストン・レッドソックスでプレーしていましたが、
朝鮮戦争が始まると召集されました。

ウィリアムズにはパイロットとしての才能があったようで、
訓練では大卒の士官候補生が1時間かかる複雑な問題を15分でマスターし、
空中射撃では標的を文字通りズタズタにするほどの腕前だったといいます。

戦闘機パイロットの能力を競い合うテストでは、
反射神経、協調性、視覚反応時間、すべての歴代記録を更新し、
その操縦技術は、さながら芸術のごとし。

同期のパイロット曰く、

「飛行機と6つのキイ(機関銃)を交響楽団のように演奏することができた」

ちょっとよく意味が分からないのですが、おそらく彼は
交響楽団の指揮者のように、と言いたかったのではないかと思われます。

WW2でF4Uコルセアに乗っていた彼は、朝鮮戦争が始まると
海兵隊大尉として現役に呼び戻されました。

戦場に出なくてすむように、野球選手として従軍野球チームのメンバーに入り、
(広報の意味があるので猶予された)そこで快適に戦争をやり過ごす、
という道もあったのですが、彼は再び自分の意思で航空任務に就きました。

といっても、決して喜び勇んで出征したわけではなく、
むしろ招集されたことに怒りを表明していたという話もあります。

ウィリアムズは1952年からF9Fパンサージェット戦闘機の資格を取り、
海兵隊航空機グループ33(MAG-33)のVMF-311に配属されました。

1953年、ジョン・グレンのウィングマンとして飛行していたウィリアムズは、
機体に対空砲火を受け、胴体着陸をして辛くも生還し、
負傷をしたのでそれをきっかけに退役して球界に復帰しました。


ジョン・娘、アニー・グレン

ちなみにジョン・グレンはウィングマンとしてのウィリアムズを
自分が知っている中で最高のパイロットの一人だった、と評しましたが、
グレンの妻のアニーは彼を、
これまでに会った中で最も不敬な男
と言ったそうです。

何をやったウィリアムズ。


2002年ボストン・レッドソックスのホームグラウンド、
フェンウェイ球場で行なわれた
「テッド・ウィリアムズ・トリビュートデー」の写真。
球場には彼のパイロット時代のコクピットの写真が飾られています。

朝鮮戦争で兵役に行っていなければ、野球選手としての記録を
もっとのばすこともできたと思われますし、先ほども書いたように
招集されたことにも怒りすら表明していた、
というウィリアムズですが、そこは彼の、

「かくすれば斯くなるものと知りながら やむに止まれぬヤンキー魂」

のなせるわざだったのかもしれません。しらんけど。

他にパンサージェットに乗った野球選手としては、
ヤンキースの二塁手だったジェリー・コールマンがいます。

ジェリー・コールマン ブロンズ像(ぺトコパーク ロスアンジェルス)

【FLAMのパンサー】

1949年、VMF-115は海兵隊で初めてグラマンF9F-2パンサージェット機を装備し、1952年2月には韓国の浦項に派遣され、戦闘活動を行いました。

9,250回の出撃で合計15,350時間の飛行時間を記録し、19機の航空機を喪失。
1日に6人のパイロットが機体とともに失われ、
合計14人のパイロットが戦死したこともあります。



VMF-115「シルバーイーグル」飛行隊の編隊飛行

展示されているF9F-2パンサーは、1950年アメリカ海軍に納入後、
空母「ボクサー」USS Boxer, CV/CVA/CVS-21の艦載機部隊に配属され、
朝鮮半島の空で活躍しました。

この機体は、フライング・レザーネック航空博物館の設立にも貢献した、
西海兵隊航空隊司令官のウィリアム・ブルーマー准将
大尉時代搭乗したVMF-311の機体塗装が施されています。


■ グラマン F9F-8P ( RF-9J) クーガ Cougar



【パンサーの派生型】

グラマンF9F/F-8クーガーは、アメリカ海軍と海兵隊のために開発された
空母艦上専用の戦闘機です。

MiG-15がまだ世に出る前から、アメリカは
ソ連が後退翼機を開発したという情報を耳にしていました。
しかし、前にも書きましたが、海軍は後退翼の導入に消極的でした。

この理由はいくつかありますが、まず海軍の主眼だったのが
迎撃機による高速・高高度爆撃機からの戦闘群の防衛と、
あらゆる天候下での中距離空母艦載機の護衛だったからで、
1、空対空戦闘には関心を持っていなかったこと、
2、空母という狭い場所での発着艦を行うためには、
どうしても制御の点で直線翼の方が理にかなっていたからです。


しかし、直翼を持つF9Fパンサーは、いざ実戦に投入されると、
MiG-15や空軍のF-86など、後退翼を持つ戦闘機に比べると
性能的にイマイチということが顕になりました。

F9FパンサーがMiG-15を撃墜したことももちろんありましたが、
基本的に旋回翼を備えたMiG-15の高速機動性には及ばなかったというわけです。

そこで海軍としては、代々頑丈で扱いやすいことで定評があった
ワイルドキャットに始まるグラマンの猫戦闘機である
パンサーに後退翼さえつければなんとかなるはず、と考えたのでした。

グラマンは海軍の要求に応えるために、

1、フラップを大きくする
2、自動の高揚力装置(スラット)をつける
3、主翼の上面にブレーキ(スポイラー)をつける


ことで推力とそのコントロールを可能にしました。

急降下において音速を破ることもこれで可能になったのです。
ちなみに、パンサーとクーガーの設計図を並べて比較しておきます。






つまりクーガーはMiG-15との戦いの経験を経て生まれたのです。

戦争というものが良くも悪くも、科学技術の”実験場”であり発展のきっかけである、
ということをよく表している例ですね。

「クーガー」という異なる正式名称がつけられたものの、
海軍はこれを「パンサーのアップデート版」つまり同じ機種とみなしていました。




【運用】

関係各位の努力の結果、クーガーは、パンサーよりも高い機動性を備え、
操縦しやすい戦闘機として評価されました。

しかし残念なことに、クーガーは朝鮮戦争で使用されるには遅すぎました。

結局MiG-15と交戦する「実験」はなされないまま戦争が終わり、
クルセーダーやスカイホークのようなより速くて新しい戦闘機が出てくると、
一線を知らぬまま自動的に陳腐化の運命を辿ったのです。


というわけで、クーガーはベトナム戦争ではほぼ出番なし。
唯一戦闘に参加したクーガーは、TF-9J練習機で、
空爆の高速前方航空管制と空挺指揮を行なった1機に止まります。

先代のフォトパンサーを受け継ぐ形で
写真偵察機に改造されたクーガーもいましたが、4年ほど運用したのち
1958年から超音速のF8U-1Pフォトクルセイダーに置き換えられ、
最後のF9F-8Pは1961年初めに退役しました。

【飛行特性】

F9FクーガーとノースアメリカンFJ-3フューリーの両方に搭乗した
パイロット、コーキー・メイヤー(Corky Meyer)は、後者に比べて
クーガーは急降下速度限界が高く(マッハ1.2対マッハ1)、
操縦限界も7.5g(対6g)と高く、耐久性も高いと述べています。

もっともフューリーもエンジントラブルが多く、
そう評判のいい機体というわけではなかったのですが、
クーガーはそれより配備期間も短く短命でした。

直接の原因としては、F9Fクーガーはなまじ多用途でなんでもできたため、
専門の戦闘機に比べて選択を避けられがちだったことがあります。
器用貧乏とでもいうのか、なんでもできることがアダになったんですね。

つまり、クーガーは戦闘機として致命的な欠点があったというよりも、
ただひたすらタイミングの問題で、A4D-1スカイホークなどの
新型ジェット機に取って代られる過渡期に全盛期を迎えてしまったのです。

戦闘機にもデビューのタイミングが悪く、日の目を見ない不運があるとすれば、
それはまさにクーガーそのものの運命でした。


というわけで、実際の配備についても書いておくと、最初のF9F-6は、
1952年末に艦隊飛行隊VF-32に配属されました。
実際に配備された最初のF9Fクーガー飛行隊はVF-24で、
1953年8月にUSS「ヨークタウン」に配属されたものの、
朝鮮半島での空戦に参加するには遅すぎたというわけです。


F9F-8は1958年から59年にかけて第一線から退き、
F11FタイガーやF8Uクルセイダーにその座を明け渡した後は
1960年代半ばまで海軍予備軍が使用していました。

【大陸横断速度記録】

しかし、クーガーの能力を示すこんな記録もあります。
アメリカ海軍は1954年、F9Fクーガーで大陸横断記録を樹立しているのです。

艦隊戦闘機隊の3人のパイロットが23,924kmの飛行を4時間以内に終え、
F・ブレイディ中佐が3時間45分30秒の最速タイムを記録しました。

この距離を4時間以内で飛行したのは航空史上初めてのことです。
3機のF9F-6はカンザス州上空で、
ノースアメリカンAJサベージから空中給油を行いました。


【ブルーエンジェルス】

アメリカ海軍の飛行デモンストレーションチームであるブルーエンジェルズは、
1953年、使用機をF9F-5パンサーからクーガーに入れ替えていますが、
これは4年しか続きませんでした。(理由はわかりません)

海軍はその後クーガーを決して航空ショーに使用することなく、
艦載機としてのみ使用することになりました。

ブルーエンジェルスは結局グラマンF11F-1タイガーを選択し、
2人乗りのF9F-8Tが1機、報道関係者やVIP用になっていたということです。


【アルゼンチン海軍】

F9Fクーガーを使用した唯一の外国空軍は、アルゼンチン海軍航空隊で、
1971年まで現役で運用していたようです。
その結果クーガーはアルゼンチンで初めて音速を破ったジェット機になりました。

1機は今もアルゼンチンの海軍航空博物館に展示されていますが、
もう1機はアメリカの個人に売却され、
その後、事故で失われてしまったということです。


【FLAMのクーガー】

FLAMに展示されているF9F-8Pクーガー(案内にはパンサーと書かれている)は、
1950年代に生産された110機の写真偵察機のうちの1機でです。

砲や関連機器を廃止し、写真機器や自動操縦装置を搭載るなど、
3つのカメラステーション用のスペースを確保するため、
一般的なクーガーより機首が長くなっています。

ほとんどの標準的な海軍の写真偵察機は、
最大7台のカメラを設置した三つのベイを持っていました。

自動カメラ制御システム、画像モーション補正システム
自動速度と高度情報用の移動グリッドを備えた
ビューファインダースキャナも内蔵されています。

これらのシステムを使用すると、昼夜を問わずフォトクーガーは
偵察やマッピングを行うことができました。

低高度、中高度、高高度つまり全ての高度における写真偵察が可です。

1960年に寿命を迎え、偵察機は当館でも展示されている
クルセイダーF8U-1P(RF-8)に置き換えられました。

当機は、1956に海兵隊に納入されたそうですが、
我々日本人にはちょっと興味深いことに、その後
海兵隊複合偵察飛行隊3(VMCJ-3)に配備されたため、
その耐用年数が切れるまでMARS岩国で過ごしていたそうです。

1959年、飛行時間1,196時間が経過した後、
NASアラメダの海軍兵器局に保管され、翌年退役しました。

続く。





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1 Comments

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心静かに (Unknown)
2021-11-28 09:12:09
>戦闘機パイロットの能力を競い合うテストでは、反射神経、協調性、視覚反応時間、すべての歴代記録を更新し、その操縦技術は、さながら芸術のごとし。

戦闘機乗りの知人曰く「優れた戦闘機乗りは、極端に運動神経が優れているか、鈍いかのどちらか」なんだそうです。全く別な話ですが、拳銃射撃を見ていると、球技がうまい、反射神経が優れている人は、引き金を引く時に「あー。もうすぐバンって来る」と思うと、ガクッと引いてしまう、いわゆる「ガク引き」で、それまできちんと的を狙っていても、その瞬間に銃口が下か上を向いてしまい、弾痕不明があったりしますが、反射神経がそこまでない人は心静かに引け、よく当たる傾向があります。操縦技術も似たようなところがあるんじゃないかと思います。

>「飛行機と6つのキイ(機関銃)を交響楽団のように演奏することができた」

戦闘機の操縦桿は、戦闘中に離すことは出来ないので、機銃やミサイル、レーダーの操作ボタンがすべて付いていて、手放ししないでも操作出来るようになっています。手元を見る余裕がないので、ブラインドタッチで操作する訳ですが、そのことを言っているように思います。

>直接の原因としては、F9Fクーガーはなまじ多用途でなんでもできたため、専門の戦闘機に比べて選択を避けられがちだったことがあります。器用貧乏とでもいうのか、なんでもできることがアダになったんですね。

今は一つの機種でいろいろな役割をこなすMulti Roleな戦闘機を入れて、機種を出来るだけ絞るのが流行りですが、何でもこなすということはすべてに平均点な訳で、なにかに秀でている機種には、やっぱり、敵わないと思います。
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