さて、前回朝鮮戦争時に彗星のように現れた
ソ連の戦闘機、MiG-15についてお話しするとともに、
そのMiGと対戦した海兵隊航空隊のエースをご紹介しました。
ソ連の戦闘機、MiG-15についてお話しするとともに、
そのMiGと対戦した海兵隊航空隊のエースをご紹介しました。
紹介した3人のエースはともに第二次世界大戦のベテランで、
(一人はエースではないけれどプロペラ機でMiGを撃墜する、
という大金星を挙げたパイロットだったわけですが)、
前者2名はいずれもF35セイバーで撃墜記録を立てました。
(一人はエースではないけれどプロペラ機でMiGを撃墜する、
という大金星を挙げたパイロットだったわけですが)、
前者2名はいずれもF35セイバーで撃墜記録を立てました。
今日ご紹介するのは、「前セイバー」というべき、
「いうてはなんだがMiGに苦戦した戦闘機」のご紹介です。
「いうてはなんだがMiGに苦戦した戦闘機」のご紹介です。
■マクドネル F2H2 バンシー Banshee
以前、「バンシー」を単に妖精の意味であるとだけ書いたことがありますが、
妖精と言ってもその辺をふわふわしている可愛いものではなく、
どちらかというと「もののけ」というか「妖怪」だったことがわかりました。
以前、「バンシー」を単に妖精の意味であるとだけ書いたことがありますが、
妖精と言ってもその辺をふわふわしている可愛いものではなく、
どちらかというと「もののけ」というか「妖怪」だったことがわかりました。
バンシー(Banshee)はアイルランドおよびスコットランドに伝わる
伝説上の生き物で、その叫び声が聞こえた家では
近いうちに死者が出るとされています。
その叫びは凄まじく、目はこれから死ぬ者のために泣くので
燃えるような赤色をしているとか・・・。
伝説上の生き物で、その叫び声が聞こえた家では
近いうちに死者が出るとされています。
その叫びは凄まじく、目はこれから死ぬ者のために泣くので
燃えるような赤色をしているとか・・・。
第二次世界大戦中、イギリス国民は、ロンドン空襲を知らせるサイレンを
「バンシーの叫び」と呼んでいました。
「バンシーの叫び」と呼んでいました。
ここにあるバンシーの機体は真っ黒に塗装されていますが、
「敵の死を知らせるために叫ぶ」魔女のイメージそのものです。
「敵の死を知らせるために叫ぶ」魔女のイメージそのものです。
【バンシーの歴史】
マクドネルF2Hバンシーは、1948年から1961年まで
アメリカ海軍と海兵隊で使用された単座の空母型ジェット戦闘機です。
朝鮮戦争ではアメリカ軍の主要な戦闘機の一つでした。
アメリカ海軍と海兵隊で使用された単座の空母型ジェット戦闘機です。
朝鮮戦争ではアメリカ軍の主要な戦闘機の一つでした。
高高度で高性能を発揮したため、当初はアメリカ空軍が
長距離爆撃機隊の護衛機として運用していました。
長距離爆撃機隊の護衛機として運用していました。
しかし、戦争が進むにつれ、海軍と海兵隊の戦闘機の任務は、
近接航空支援や北朝鮮軍の補給線の破壊など、
主に地上攻撃が中心となっていきます。
バンシーは、FHファントムの発展型ですが、
ファントムが生産される前から計画されていました。
FH-1
こうしてみると、派生型であることがよくわかりますね。
マクドネル社の技術者たちは当初、ファントムを改良して
多くの部品を共有するという予定をしていたのですが、
武装も燃料タンクもより大きなものである必要があるのに気づきます。
そこでバンシーはファントムより機体を大型にしました。
ところで、バンシーがMiG−15に劣っていた点はなんだったしょうか。
バンシーのような朝鮮戦争当時の海軍のジェット機は、
後のジェット機とは対照的に主翼がまっすぐでした。
バンシーのような朝鮮戦争当時の海軍のジェット機は、
後のジェット機とは対照的に主翼がまっすぐでした。
ジェット機をより高速に飛ばすためには、翼を広げればいいのですが、
そうすると空母への着艦が困難になってしまいます。
海軍は当初翼端を折る形のジェット機の使用に抵抗を持っていたため、
機体を大型にしたのに翼を大きくすることができないバンシーは
どうしてもMiG-15などの先進的な戦闘機に対して不利だったというわけです。
どうしてもMiG-15などの先進的な戦闘機に対して不利だったというわけです。
【偵察機としての活躍】
しかし、バンシーは決して”役立たず”だったわけではありません。
戦争が始まってすぐ英米空軍が航空優勢となったこともあって、
海軍の戦闘機がいるところまで滅多にMiGは来なかったからです。
海軍の戦闘機がいるところまで滅多にMiGは来なかったからです。
ガチンコでMiGと交戦すればおそらく勝てなかったと思われますが、
前線にはすでにF35セイバーが投入されて戦闘空中哨戒を担っていたので、
バンシーはその高速性能を生かして偵察機として活躍しました。
特に高空を飛ぶと地上から視認されにくい形をしていたこともあります。
前線にはすでにF35セイバーが投入されて戦闘空中哨戒を担っていたので、
バンシーはその高速性能を生かして偵察機として活躍しました。
特に高空を飛ぶと地上から視認されにくい形をしていたこともあります。
1949年から1952年にかけて、海兵隊では2つの飛行隊がF2H-2を飛行させ、
J-1バンシーは最高の写真偵察機という称号を得ました。
バンシーの偵察隊は「抵抗線」から中国国境の鴨緑江まで飛び、
撮影した写真の総数は、極東空軍のどの偵察部隊よりも多かったと言われます。
バンシーは通常はF-86戦闘機に護衛されて飛んでいましたが、
Mig-15と交戦することがなかったわけではありません。
しかし、朝鮮戦争期間の撃墜及び戦闘喪失記録はなく、
わずかに対空砲で3機が撃墜されただけとされます。
Mig-15と交戦することがなかったわけではありません。
しかし、朝鮮戦争期間の撃墜及び戦闘喪失記録はなく、
わずかに対空砲で3機が撃墜されただけとされます。
VMJ-1の有名な下士官パイロットの一人、MSGT. エド・チェスナットは
こんなことを言っていたそうです。
こんなことを言っていたそうです。
「もちろんさ、F2HはMigに勝つことができるよ。
リベットがいくつか飛んでいくのを気にせず急降下しさえすればね!」
これは・・・(勝てるとは言ってない)
朝鮮戦争後、第二次世界大戦のエースであるあのマリオン・カール中佐が
VMJ-1のバンシー隊の司令官に就任しました。
そして、中国上空での写真撮影任務において功績を挙げ、
飛行隊と自らの名声を高めました。
偉くなってからのマリオン・カール(最終少将)
【バンシー時代の終焉】
バンシーの後継はF9Fパンサーと同じくF9Fクーガーであるとされています。
時期的にはどっこいどっこいですが。
第二次世界大戦時にF-4Uコルセアを使用したVMF-114とVMF-533は
1953年にF2H-4バンシーでジェット時代に突入しました。
両飛行隊はMCASチェリーポイント海兵隊基地を拠点とし、
1957年にF9Fクーガーに移行するまでいくつかの空母に搭載されました。
時期的にはどっこいどっこいですが。
第二次世界大戦時にF-4Uコルセアを使用したVMF-114とVMF-533は
1953年にF2H-4バンシーでジェット時代に突入しました。
両飛行隊はMCASチェリーポイント海兵隊基地を拠点とし、
1957年にF9Fクーガーに移行するまでいくつかの空母に搭載されました。
しかし、VMF-214は1953年にF9Fパンサーを
新しいF2H-4バンシーと交換しています。
その後の15ヶ月間、部隊通称「ブラックシープ黒い羊」は、
計器飛行、爆撃、ロケット弾、機銃掃射、空対空砲術、空母着陸訓練、
空母の資格取得、高・低空での特殊武器投下など、
海兵隊航空のあらゆる側面をカバーし、
海兵隊で初めて特殊武器投下の資格を取得した飛行隊となりました。
そして1957年2月、「黒い羊」はFJ-4フューリーに移行しました。
新しいF2H-4バンシーと交換しています。
その後の15ヶ月間、部隊通称「ブラックシープ黒い羊」は、
計器飛行、爆撃、ロケット弾、機銃掃射、空対空砲術、空母着陸訓練、
空母の資格取得、高・低空での特殊武器投下など、
海兵隊航空のあらゆる側面をカバーし、
海兵隊で初めて特殊武器投下の資格を取得した飛行隊となりました。
そして1957年2月、「黒い羊」はFJ-4フューリーに移行しました。
ところでこの
「特殊武器スペシャルウェポンのデリバリーとドロップ」の資格
これはなんなのでしょうか。
バンシーは小さすぎる気がするのですが・・やっぱり核ですか?
これはなんなのでしょうか。
バンシーは小さすぎる気がするのですが・・やっぱり核ですか?
展示されているバンシーは、1951年にアメリカ海軍に納入されました。
1954年2月には、第1空母グループとともに
USS「ミッドウェイ」(CVA-41)に搭載されて
世界一周クルーズに出撃ししています。
1954年2月には、第1空母グループとともに
USS「ミッドウェイ」(CVA-41)に搭載されて
世界一周クルーズに出撃ししています。
1959年には、エンジンの研究開発のため、カンザスシティの
ウェスチングハウス・アビエーション・ガスタービン部門に貸与されました。
1961年に1,704時間の飛行時間で引退したこの機体は、
VMF-122の「キャンディ・ストライパーズ」のマーキングが施されています。
ウェスチングハウス・アビエーション・ガスタービン部門に貸与されました。
1961年に1,704時間の飛行時間で引退したこの機体は、
VMF-122の「キャンディ・ストライパーズ」のマーキングが施されています。
■ ダグラスエアクラフト F3D スカイナイト Skyknight
真っ黒な艶消しの機体、赤で書かれた機体番号。
さきほど、だいたい同世代の朝鮮戦争参加機、バンシーを取り上げましたが、
「奇声をあげるとその家の誰かが死ぬ」という、
一体なんのために生きているかわからない妖怪バンシーの
「目が赤い」という特徴を表しているのは、
バンシーよりこちらではないかと思いました。
さきほど、だいたい同世代の朝鮮戦争参加機、バンシーを取り上げましたが、
「奇声をあげるとその家の誰かが死ぬ」という、
一体なんのために生きているかわからない妖怪バンシーの
「目が赤い」という特徴を表しているのは、
バンシーよりこちらではないかと思いました。
ただし、黒い機体はスカイナイトの標準仕様ではありません。
これが標準仕様スカイナイト。
ダグラス・スカイナイトの風貌は決してグラマラスとは言えず、
どちらかというとありきたりのデザインで、性能も平凡でした。
この飛行中の写真を見ても、あまり魅力のあるシェイプとは言い難いですね。
しかし、このスカイナイトの設計者の名前を聞けば、
この平凡さにも、なんらかの意味があるのではないか、と
おそらく誰しも思うに違いありません。
その名はエド・ハイネマン。
今更いうまでもなく同時代の航空設計のトップであり、
第二次世界大戦中のダグラス・ドーントレスや、A-4スカイホークを生み、
1953年にはF4Dスカイレイでコリアートロフィーを受賞した鬼才です。
ハイネマンがスカイナイトの設計思想に込めたのは、
「スポーツカーではなくセダン」。
そしてそれは当時の海軍が必要していたものであり、
ハイネマンはまさに彼らが望んでいたものを形にし提供したのでした。
「スポーツカーではなくセダン」。
そしてそれは当時の海軍が必要していたものであり、
ハイネマンはまさに彼らが望んでいたものを形にし提供したのでした。
驚くべきことに、スカイナイトは20年もの間、
より速く、より軽快な同時代の戦闘機を簡単に凌駕し続けました。
スカイナイトはアメリカ海軍・海兵隊初の全天候型ジェット戦闘機です。
海軍は1945年にはジェットエンジンを搭載した
空母ベースの夜間戦闘機の研究を開始していました。
1946年には企画となり、そして1948年には試作機が飛び、
1950年には運用が開始されて20年間主力であり続けました。
「Willy the Whale (鯨のウィリー)」
これがスカイナイトのニックネームです。
鯨のウィリーとは、ディズニーのキャラクターで、
ミッキーマウスなどが登場するテレビ番組に
オペラ歌手という設定で出てくる脇役なんだそうです。
ディズニーなので一応目隠ししておいた
海軍は1945年にはジェットエンジンを搭載した
空母ベースの夜間戦闘機の研究を開始していました。
1946年には企画となり、そして1948年には試作機が飛び、
1950年には運用が開始されて20年間主力であり続けました。
「Willy the Whale (鯨のウィリー)」
これがスカイナイトのニックネームです。
鯨のウィリーとは、ディズニーのキャラクターで、
ミッキーマウスなどが登場するテレビ番組に
オペラ歌手という設定で出てくる脇役なんだそうです。
ディズニーなので一応目隠ししておいた
これですが・・・パイロットなら膝を打って納得するような
類似点がきっとあるのに違いありません。
類似点がきっとあるのに違いありません。
【朝鮮戦争でのF3D スカイナイト】
1950年に朝鮮戦争が始まるとさっそく投入されたスカイナイトは、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊VMF(N)-513のパイロットや、
レーダーオペレーターなどの有能な乗り手によって、その価値を証明しました。
複座式のF3Dは、朝鮮戦争に参加した全天候型ジェット戦闘機としては
海軍の他の単座式戦闘機より多い空中戦勝利数を記録しています。
最初の空対空勝利は1952年11月2日の夜。
ウィリアム・T・ストラットンJr.少佐とレーダーオペレーターの
ハンス・C・ホグリンド曹長が操縦するF3D-2が、
Yakovlev社のYak-15と思われる機体を撃墜し、
ジェット機による初の夜間レーダー迎撃に成功しています。
最初にMiG-15に勝利したのはその6日後の11月8日、
O.R.デイビス大尉とD.F. フェスラー軍曹のスカイナイトです。
デイビス大尉
当初12機投入されたスカイナイトは1953年には倍に増え、
夜間爆撃任務のB-29スーパーフォートレスの護衛が可能になりました。
B-29の護衛任務で交戦した敵機を相手に
スカイナイトは順調に勝利数を伸ばしていきます。
MiG-15のような後退翼も、高い亜音速性能も持ちませんでしたが、
強力な火器管制システムがあったため、夜間の戦闘は
夜間爆撃任務のB-29スーパーフォートレスの護衛が可能になりました。
B-29の護衛任務で交戦した敵機を相手に
スカイナイトは順調に勝利数を伸ばしていきます。
MiG-15のような後退翼も、高い亜音速性能も持ちませんでしたが、
強力な火器管制システムがあったため、夜間の戦闘は
地上のレーダーに誘導を頼るしかなかったほとんどのMiGより有利でした。
【ポスト朝鮮戦争】
【ポスト朝鮮戦争】
朝鮮戦争が終わると、ダグラス・エアクラフト社は
海軍や海兵隊と協力して、多くのスカイナイトを多機能に改造していきます。
スカイナイトは機体三箇所に独立したレーダーを備えていました。
機首に設置されたサーチレーダーと追跡レーダー、
そして後部胴体に設置された尾翼警告レーダーです。
海軍や海兵隊と協力して、多くのスカイナイトを多機能に改造していきます。
スカイナイトは機体三箇所に独立したレーダーを備えていました。
機首に設置されたサーチレーダーと追跡レーダー、
そして後部胴体に設置された尾翼警告レーダーです。
スカイナイトの胴体が「鯨のウィリー」呼ばわりされるほど広くて
深かった(つまりデブっぽい)のは、初期に搭載された
真空管レーダーが大きかったからであり、複座の乗員の座席位置も
エンジンの位置(胴体下部の外側)もそれで決まったようなものです。
索敵レーダーは1950年代初頭としては驚くほど効果的で、
爆撃機サイズの目標を20マイル(32キロ)先から、
戦闘機サイズなら15マイル(24キロ)先の存在を捉えることができました。
追跡レーダーは3600kmの距離でロックオンし、
スカイナイトを発射位置まで誘導することができます。
尾翼警告レーダーは、約6キロ後ろに迫った攻撃機を検知することができ、
乗組員に十分な反応時間を与えることができました。
スカイナイトの脱出システムは非常にユニークなものでした。
ハイネマンはパワー不足の機体を軽量化するため、
射出座席を廃止して座席の後ろから滑り出すシステムを作りました。
ハイネマンはパワー不足の機体を軽量化するため、
射出座席を廃止して座席の後ろから滑り出すシステムを作りました。
朝鮮戦争でのスカイナイトの戦績は8勝0敗であり、
護衛した空軍のB-29は1機も失われませんでした。
護衛した空軍のB-29は1機も失われませんでした。
喪失機は2機ですが、原因はいずれも不明とされます。
【ベトナム戦争】
スカイナイトは朝鮮戦争で活躍した戦闘機の中で唯一、
ベトナム戦争でも飛行しました。
ベトナム戦争でも飛行しました。
広い機内に電子機器を搭載するための十分なスペースが確保されていたため、
改造された6機のEF-10Bが電子戦に投入されたのです。
電子戦機(EW)スカイナイトはSA-2地対空ミサイル(SAM)の
追跡・誘導システムを妨害するための貴重な電子対策(ECM)武器でした。
電子戦でスカイナイトが歴史に名を刻んだ瞬間があります。
改造された6機のEF-10Bが電子戦に投入されたのです。
電子戦機(EW)スカイナイトはSA-2地対空ミサイル(SAM)の
追跡・誘導システムを妨害するための貴重な電子対策(ECM)武器でした。
電子戦でスカイナイトが歴史に名を刻んだ瞬間があります。
1965年4月29日、EF-10Bは米空軍の攻撃任務を支援するために
海兵隊初の空中レーダー妨害任務を遂行し、成功しました。
ベトナムでは多くの米軍機がソ連の高高度ミサイルSA-2によって失われており、
これらのレーダーシステムへの電子攻撃は
「フォグバウンド」(濃霧で立ち往生すること)ミッションと言われていました。
海兵隊初の空中レーダー妨害任務を遂行し、成功しました。
ベトナムでは多くの米軍機がソ連の高高度ミサイルSA-2によって失われており、
これらのレーダーシステムへの電子攻撃は
「フォグバウンド」(濃霧で立ち往生すること)ミッションと言われていました。
EF-10Bスカイナイトが最初に喪失したのもこのミサイルの攻撃です。
その後4機のEF-10Bが事故などで失われたのをきっかけに、
次第にその任務は、EA-6A「エレクトリック・イントルーダー」に
徐々に引き継がれていき、
米海兵隊は1970年5月に最後のEF-10Bを退役させました。
【ベトナム後】
しかし、海軍は引き続きF-10スカイナイトを
APQ-72レーダーを開発するためのテストベッドとして使用していました。
F-4ファントムの機首を追加したり、スカイホークの機首をくっつけたり、
レドームを改造したりしていたようです。
次第にその任務は、EA-6A「エレクトリック・イントルーダー」に
徐々に引き継がれていき、
米海兵隊は1970年5月に最後のEF-10Bを退役させました。
【ベトナム後】
しかし、海軍は引き続きF-10スカイナイトを
APQ-72レーダーを開発するためのテストベッドとして使用していました。
F-4ファントムの機首を追加したり、スカイホークの機首をくっつけたり、
レドームを改造したりしていたようです。
【FLAMのF3D-2スカイナイト】
ダグラス・エアクラフトのエル・セグンド工場で製造された
36機目のF3D-2で、1952年3月に海軍に引き渡され、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊542(VMF(N)-542)に2年間所属し、
パイロットやレーダーオペレーターの訓練に使用されていました。
36機目のF3D-2で、1952年3月に海軍に引き渡され、
海兵隊夜間戦闘機飛行隊542(VMF(N)-542)に2年間所属し、
パイロットやレーダーオペレーターの訓練に使用されていました。
その後米海軍の航空機乗組員の夜間訓練隊、北米防空司令部(NORAD)、
海軍戦闘情報センター士官学校の訓練機などを転々と。
カリフォルニア州チャイナレイクの研究開発試験評価ユニットでは
A-4Eの機首がボルトで取り付けられていたそうです。
その後レイセオン社とアメリカ陸軍に貸与されて
パトリオットミサイルのテストのサポート機が最後の職場となりました。
海軍戦闘情報センター士官学校の訓練機などを転々と。
カリフォルニア州チャイナレイクの研究開発試験評価ユニットでは
A-4Eの機首がボルトで取り付けられていたそうです。
その後レイセオン社とアメリカ陸軍に貸与されて
パトリオットミサイルのテストのサポート機が最後の職場となりました。
ところでスカイナイトの傍には、爆弾を利用した
このような構造物がひっそりとたたずんでいました。
この役割は「展示に登らないように」という注意札の置き場所。
それだけのためにわざわざ砲弾をぶつ切りに・・・。
続く。
この後がノース・アメリカンFJフュリー
陸軍が本機の試作機をベースに実用化したのがF86セイバーで朝鮮戦争に投入されました。
海軍が同機を空母用に改良したのが本機でした。
多くのバリエーションがあり、FJ-4やFJ-4Bがありますが1962年記号付与法が変り、FJがF-1となり、FJ-4BがAF-1Eとなりました。
グラマン社最初のジェット戦闘機がF9Fパンサーであり1949年から部隊配属。
朝鮮戦争参加、バリエーションが多くありますがF9F-5までが直線翼、F9F-6~8が後退翼でクーガーと呼ばれました。
1948年初飛行の音速域を狙ったヴォート社の無尾翼双発がF7U-3カットラスで1954年から部隊配置されましたが使用実績が良くなく1957年一線から退きました。
1951年初飛行の米海軍初のデルタ翼がダグラスF4Dで1956年部隊配置され、改良型F4D-2がF5D-1と改称されました。1962年F-6と改称され1960年代なかば退役しました。
F4Dと並行して整備されたのがマクダネルのF2Hの後継機F3H-2ディーモンで1960年代半ばのマクダネルF-4ファントムⅡが活躍するまで使用されました。
超音速制空戦闘機として1952年要求されたのがヴォートF-8クル―セイダーでした。
参照海人社「世界の艦船」No291
朝鮮戦争当時には、まだスパローはなかったと思いますが、捜索・追尾レーダーがあるとなると、遠距離から敵機を探知できるので、レーダーがないMiG-15やF-86なんて、目じゃないですよ。
前後ではなく、左右に二人乗れるというのも、機体が幅広だからですね。搭載機器のための余積が大きいので、将来性、拡張性に繋がります。エド・ハイネマンはなかなかセンスあります。