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U-2事件と捕らえられた偵察パイロット〜スミソニアン航空博物館

2022-02-25 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の軍事偵察・写真のコーナーから、
今日は偵察機ロッキードU-2を取り上げます。

その前に、アメリカ空軍の偵察パイロットであり、
数奇な運命により有名になったある人物の話をしましょう。

■捕らえられたU-2パイロット
 フランシス・ゲーリー・パワーズ大尉
Francis Gary Powers 1929-1977


パワーズ大尉

米ソ冷戦の真っ只中であった1960年5月1日、アメリカのU-2偵察機が、
ソ連領内深くで空中偵察を行っている最中に、ソ連防空軍に撃墜されました。

これをU-2撃墜事件といいます。

CIAパイロット、フランシス・ゲリー・パワーズが操縦する単座機は、
スベルドロフスク、現在のエカテリンブルグ付近上空で
S-75ドビナ(SA-2ガイドライン)地対空ミサイルを受けて墜落し、
機体から脱出したパワーズはパラシュートで降下し、捕らえられます。

アメリカ政府は当初、NASAの民間気象調査機が墜落したと言い張っていましたが、
数日後、ソ連政府が捕虜となったパイロットとU-2の監視装置の一部、
作戦中に撮影されたソ連軍基地の写真などを公表したため、
それがアメリカ軍の軍事偵察機であることを認めざるを得なくなりました。


【U-2事件の背景】

当時の両国首脳はアイゼンハワー大統領とフルシチョフ首相でした。


キャンプデービッドにおけるアイクとフルシチョフ

まずいことに、両巨頭は2週間後にパリでの東西首脳会談を控えていました。

フルシチョフとアイゼンハワーは、前年すでにキャンプデービッドで
歴史的な直接会談を行なっており、その成果がまずまずだったことから、
アメリカ政府は、次の会談を、米ソ関係の雪解け、
冷戦の平和的解決につなげようと大きな期待を持っていました。

ところがよりによって最悪のタイミングでこの事件が起こってしまったのです。

先の会談の開催地名から、両者の歩み寄りと友好具合をして
「キャンプ・デービッドの精神」と世間にもてはやされているときに事件が起こり、
予定されていたパリでの首脳会談は中止となってしまいました。

U2の事件はアメリカの顔に泥を塗ることになってしまったのです。
アイゼンハワーは、この知らせを受けて俺おわた、と思ったに違いありません。


そもそも、どうしてよりによってこんな時期に、
アメリカはソ連の領地奥深くに入り込んで偵察をしていたのか。

そのきっかけとなったのは、他でもないアイゼンハワー大統領その人でした。

キャンプ・デービッド会談の前年となる1958年7月、
アイゼンハワー米大統領は、パキスタンのフェローズ・カーン・ヌーン首相に、
パキスタン国内にアメリカの秘密情報施設を設立することを求めました。

当時のソ連戦闘機では届かない高高度を飛行し、ミサイルも届かないと考えられた
U-2偵察機を、ソ連になんとか潜入させることができる場所、ということで
ソ連領内の中央アジアに交通至便なパキスタンが選ばれます。

その結果、アメリカ国家安全保障局(NSA)は大規模な通信傍受を行い、
ソ連のミサイル実験場、主要インフラ、通信の監視が可能になったのでした。

U-2、通称「空のスパイ」は、衛星観測の技術がない時代に、
敵の重要な写真情報を得るための大変有効なツールであったのです。

【アイゼンハワーの誤算】

しかしながら、アイゼンハワー大統領本人は、そもそも
自国のパイロットを直接ソ連の上空に飛ばすことには否定的だったといいます。

それは、もしこのパイロットの一人が撃墜されたり捕らえられたりすれば、
それが侵略行為とみなされる可能性があると考えたからに他なりません。

とくに冷戦時代には、侵略行為とみなされるだけでも、それが
両国間の紛争に発展しかねない一触即発の緊張関係にあったからです。

しかし、せっかくパキスタンに偵察の根拠地を得たので、なんとかここを使いたい。

というわけで、CIA(中央情報局)の代わりに、同盟国であるところの
イギリス空軍のパイロットがソ連の空を飛ぶ
という案が浮上しました。

当時イギリスは、スエズ動乱でエジプトに負けてスエズ運河を取られ、
国内もしっちゃかめっちゃかという「スエズ後遺症」が残っており、
アメリカの要請を無視できる立場ではなかったので、
結局この提案を飲み、英軍パイロットを偵察に出すことを了承します。

U-2をイギリス人パイロットに操縦させることによって、
アメリカは何かあってもシラを切れる、いや関与を否定できるというわけです。

汚いさすがアイゼンハワー汚い。

しかしこの作戦、イギリスには一体どういうメリットがあったのかと思いますよね。
ジャイアンアメリカの機嫌を損ねることを恐れていたのかな。
イギリスさん、スエズ動乱でそんなに弱り目だったのでしょうか。

それはともかく、最初の2人のイギリス人パイロットは偵察に成功しました。
これはいける、と喜んだアイク、ソ連の大陸間弾道ミサイルの数を
より正確に把握するために、さらに2つの偵察ミッションを許可しました。

その後、2回の成功で調子にのって、パイロットをアメリカ人にしたことが、
アイクとアメリカ政府にとって大きな後悔を生む結果となります。

これが5月16日に予定されていた4カ国首脳会議(パリサミット)の前のことです。

そして1960年4月9日、CIA特別部隊「10-10」のU-2C偵察機は、
ソ連の南側国家境界線をパミール山脈付近で越え、セミパラチンスク実験場、
Tu-95戦略爆撃機が配備されているドロン空軍基地、
サリシャガン付近にあるソ連防空軍の地対空ミサイル(SAM)実験場、
チウラタムミサイル射場(バイコヌール宇宙基地)
という
ソ連の4つの極秘軍事施設の上空を飛行しました。


国家境界を飛行した時点でソ連防空軍に探知され、U-2は飛行中に
MiG-19とSu-9による数回の迎撃を受けますが、これを回避し、
諜報活動をまず一回成功させました。

【U-2撃墜さる】

パリでの東西首脳会議開催予定日の15日前の5月1日。

ロッキードU-2C偵察機「アーティクル358」に搭乗した
ミッションパイロットのフランシス・パワーズ大尉は、
作戦コード「グランドスラムGRAND SLAM」を受けて基地を出発し、
バイコヌール宇宙基地プレセツク宇宙基地のICBM発射場などを偵察、
撮影するというミッションを成功させました。

しかしながらソ連側はU-2の飛来を十分予測していたため、
ソ連ヨーロッパ地域と極北のソ連防空軍の全部隊が警戒態勢に入っていました。

機影が探知されるやいなや、全空軍部隊の指揮官に、

「進路範囲内を全てくまなく警戒飛行し、
侵入者を攻撃、必要とあらば『体当たりram』せよ」


という過激な発令が下されました。


ramというのはAir rammingともいいます。
昔の軍艦に装備されていた衝突用の「衝角」をラムといいますが、
航空機のラムは、空中での体当たりのことで、
戦法として行うため自身は生き残ることを目的としているところが戦略であり、
自死が前提の神風特別攻撃とは全く違っています。

このときソ連軍司令部が出した「体当たりしてでも」という命令は
偵察機に対する戦法としてはあまりにアグレッシブですが、
「資本主義者の侵略意地でも許すまじ」とでもいう気概だったのでしょう。


しかし、ソ連軍の戦闘機による迎撃は失敗に終わりました。
先ほども書きましたが、U-2の航行高度が極端に高かったためです。

戦闘機の攻撃を難なくスルーしたU-2はウラル地方のコスリノ付近まできました。
そこで、ミハイル・ボロノフ中佐が指揮する砲台が発射した
3発の地対空ミサイルSA-2ガイドライン(S-75 Dvina)のうち、
最初の1発がU-2にヒットし、撃墜されることになります。



なぜか写真ではなく似顔絵しか残っていないボロノフ中佐


U-2を撃墜した対空ミサイル


スミソニアンに現物展示中

皮肉なことに、CIAはすでにこのミサイルの発射位置を
情報活動によって把握していたはずでした。

このとき、U-2を追っていたソ連のMiG-19戦闘機の1機も
ミサイル一斉射撃で破壊され、結局撃墜されて
パイロットのセルゲイ・サフロノフ中尉死亡しています。

さすがはおそロシア(あ、ソ連か)と思ったのですが、
いくらソ連でも、味方と分かって撃ったわけではなかったようです。

サフロノフ中尉にとって不幸なことに、この日5月1日が祝日だったため、
MiGのIFFトランスポンダーが5月の新コードに切り替わっておらず、
その結果、機体がミサイルオペレーターに敵と認識され、
さらに一斉射撃が行われたというのが真相のようです。


気の毒すぎるサフロノフ中尉(享年30歳・妻子あり)

しかも、サフロノフ中尉には赤旗勲章が授与されたものの、
勲章には死亡理由などは書かれておらず、彼の存在は、そ30年後の
グラスノスチの時期まで明らかにされなかったそうです。
(やっぱりおそロシア)

没後50周年には、ボリショエ・サビノに駐留するミコヤン製のMiG-31戦闘機に
サフロノフの名前が付けられたそうですが、なんだかなあ。


【パワーズ捕虜になる】

パイロットのパワーズは、この時点では軍人ではありません。
U-2を運行していたのは、軍ではなく、CIAだったからです。

もともとF-84のパイロットであった彼は、朝鮮戦争で数々の戦果を挙げ、
CIAに引き抜かれた後、空軍を除隊し、CIAのU-2による偵察活動に加わりました。


操縦用のスーツを着用したパワーズ

撃墜された機からベイルアウトしようとしたパワーズは、
酸素ホースを外すのを忘れていたため、ホースが切れるまで格闘した末、
ようやく機体から離脱することができました。

さすがのベテランも初めてのことで少しパニクっていたのかもしれません。

パラシュートで降下したパワーズは落下地点の住民に救出されました。
当初ソ連軍兵士と思われていたのですが、すぐに
所持品からスパイであることがバレて逮捕されることになりました。

U-2パイロットのためのサバイバルキット。
U-2パイロットは、フィールドでのサバイバルのために、
驚くほど完全かつコンパクトなキットを装備していました。

マチェーテ(サバイバルナイフみたいな刀)
リップバーム(左真ん中の注射器状のもの)
水分補給キット
サメよけ
浄水タブレット
日除けゴーグル
虫除け

シャープストーン(砥石)
サンスクリーン
バッテリー
サバイバルマニュアル
ホイッスル
コンパス

釣り道具(左下のカードのようなもの)
ウォーターバッグ
ラジオ
シーダイ・マーカー(海難救助用マーカー)
シグナルミラー
単眼鏡


この他、おそらく偵察パイロットの多くが、捕らえられたときのために
何らかの自決用道具を持っていたと思われるのですが、このときパワーズも、
貝由来のサキシトキシンを含んだ致死性の針を改造した銀貨を持っていました。

しかし、彼がそれを使うことはありませんでした。
すぐに没収されてしまってできなかったのか、それどころではなかったのか、
あるいは自決は全く考えなかったのかは謎です。


アメリカ軍司令部は航空機が破壊されたことに30分以上も気づきませんでした。


ソ連当局に捕らえられたパワーズは公開裁判にかけられました。
偵察スパイ行為を行っていたことを自白し、有罪判決を受けた彼は禁固10年、
それもシベリア((((;゚Д゚)))))))送りの刑を言い渡されます。

ちょっと待て、アメリカがパワーズのために何もしなかったはずはないだろう?
と思われた方、あなたは正しい。

もちろんアメリカ側もパワーズの救出のためにいろいろと画策しましたともさ。

その策とは、アメリカでスパイ容疑で逮捕されていた
捕虜KGB大佐ルドルフ・アベルとの身柄を交換するというものです。

結果申し入れが成立してパワーズは解放され、無事帰国することができました。


パワーズの有罪を伝える国内紙



帰国することを知り涙するパワーズの妻(美人)

【アメリカ帰国後のパワーズ】

パワーズがアメリカに帰国したとき、アメリカ国内では英雄扱いどころか、
偵察員としての彼の行動に非難の声が起きました。

つまり、撃墜されてからソ連側に逮捕される前に、U-2機密情報や偵察写真、
部品を自爆装置を用いて処分するべきだったでしょ、というわけです。

そして、やはりというか、一部からは
CIAの作った自殺用毒薬を使用しなかったという批判
もなされました。

戦時中までの日本なら当たり前だったかもしりれない、この
「生きて虜囚の辱めを受けず」論ですが、アメリカでも
軍人に対してはこういう言説があるのかとちょっと驚かされます。

もっとも、今回はパワーズが偵察員であったことが批判の原因でした。
「恥」などではなく、機密保持のためなら自殺も辞すな、というわけです。

パワーズは、帰国後にCIA、ロッキード社(U-2の製造者)、空軍から
事情聴取を受けたあと、1962年3月6日、上院軍事委員会に出頭しましたが、
その結果、重要な機密は一切ソ連側に洩らしていないと判断されました。
無実が証明されたというわけですが・・・・本当かしら。

彼はその後、ロッキード社にテスト・パイロットとして勤務し、
1970年、事件における自身の体験を綴った本、
“Operation Overflight”を共著で出版しています。

この本の中でパワーズは、かつてソ連に一時亡命した、あの
リー・ハーヴェイ・オズワルドがソ連側に渡したレーダー情報が
U-2撃墜事件につながったと指摘しているそうです。

これはどういうことか、5行くらいで説明しておきます。

オズワルドというと、ケネディ大統領の暗殺犯の疑惑がかけられたまま
暗殺されてしまっったあの人物ですが、彼は海兵隊員として
厚木で航空管制官をしていたことがあり、そのときに得たU-2の情報を
のちにソ連に亡命したときに当局に売り渡し、その情報をもとにして
ソ連軍はこのときU-2のミサイル撃墜を可能にした、というのが彼の説です。

ケネディ暗殺が謎に包まれているのでこの辺のことも全く明らかになっていません。



1998年、U-2偵察活動についての情報が極秘解除され、
この偵察活動は合衆国空軍とCIAの共同作戦だったことが判明しました。

今もなおアメリカ国内では、パワーズは逮捕時自殺すべきであった、
との世論も根強くあるといいます。

しかし、高度2万メートルで搭乗中にミサイルに撃墜された事例は他になく、
また通常脱出装置が作動しても生還できないケースも多いことから、
自爆操作や自殺が可能であったかなどについては疑問が残されています。

■パワーズが着用したU2フライトスーツ


このときのパワーズの写真が添えられたU-2搭乗員の装備が展示されています。


フランシス・ゲリー・パワーズがソ連から帰国後
ロッキード社のU-2をテストパイロットとして操縦した際に着用した高高度分圧服。
(実物です)

高高度飛行による生理的影響を防ぐために1950年代に開発されました。
U-2の高高度服のさらなる改良は、
初期の宇宙服開発の技術革新によるものでもあります。

U-2のフライトスーツは、パイロットの体にスーツを密着させるために、
膨らませたチューブとクロスステッチを使った
「キャプスタン原理」を初めて採用していました。

キャプスタン原理については詳しいことはわからなかったのですが、
おそらくこれが関係あるかと・・・。

キャプスタン方程式

これにより機械的な圧力が発生し、
高高度での体内のガスや液体の膨張を抑えることができました。

【フランシス・パワーズの死】

1977年8月1日、パワーズは、ロサンゼルスでKNBCテレビのレポーターとして
ヘリコプターに搭乗中、墜落死しました。

事故の原因は燃料計の故障でした。

自分の操縦する機体を撃墜されてその人生を狂わされた男が、
その人生を墜落事故によって終わらせたということになるのですが、
運命とはなんと手の込んだ皮肉な真似をするものです。

墜落中の彼は、かつてU-2から脱出した瞬間を思い返したでしょうか。

2000年、事件から40年後、既に亡くなっていたパワーズに
捕虜章(Prisoner of War Medal)、
殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross)、
国防従軍章(National Defense Service Medal)
が授与され、
彼の遺族がそれを受け取りました。




パワーズの遺体はアーリントン国立墓地に埋葬されています。

続く。



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1 Comments

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突っ込んで来る目標は撃っちゃえ? (Unknown)
2022-02-26 09:41:12
>サフロノフ中尉にとって不幸なことに、この日5月1日が祝日だったため、MiGのIFFトランスポンダーが5月の新コードに切り替わっておらず、その結果、機体がミサイルオペレーターに敵と認識され、さらに一斉射撃が行われたというのが真相のようです。

地対空ミサイルは、こちらから遠ざかる目標に向かっての射撃は難しく、近付く目標に向けてしか撃てません。IFFコードの入れ間違いもあったのかもしれませんが、ソ連(ロシア)軍は、2014年にマレーシア航空の民航機も落としているので、射撃規律に欠ける(突っ込んで来る目標は撃っちゃえ)のではないかと思っています。

ただ、先日からのウクライナ侵攻の動画を見ていると、低空を飛ぶヘリコプターや戦闘機がバンバン写っているので、防空網制圧(電子戦)能力は高いと思われます。

横ですが、今世紀最初のエースが誕生したかもしれない記事があったので貼っておきます。「キエフの幽霊」ロシア機を6機撃墜
https://kininarukunn.com/9230
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