ミシガン州マスキーゴンに展示されているUSS「シルバーサイズ」。
第二次世界大戦中に日本と死闘を繰り広げた「ガトー」級潜水艦の一つです。
第二次世界大戦中に日本と死闘を繰り広げた「ガトー」級潜水艦の一つです。
前回、「シルバーサイズ」の初代艦長、バーリンゲーム大尉が指揮をした
就役後1年2ヶ月間の5回の哨戒から主に最初の哨戒を取り上げたのですが、
今日はその続きで、2回目からを取り上げます。
就役後1年2ヶ月間の5回の哨戒から主に最初の哨戒を取り上げたのですが、
今日はその続きで、2回目からを取り上げます。
■ 第2回目の哨戒
「シルバーサイズ」オフィサーズ・ワードルームの開戸に、
撃沈・撃破した日本艦船を軍艦も民間も一緒くたに旭日旗で表した
ペイントとその下に書かれていた船名をご覧ください。
撃沈・撃破した日本艦船を軍艦も民間も一緒くたに旭日旗で表した
ペイントとその下に書かれていた船名をご覧ください。
この船名は、乗員たちが当時撃沈あるいは撃破したと信じていたところの
日本艦船の名前となりますが、実際のところどの程度正しかったでしょうか。
日本艦船の名前となりますが、実際のところどの程度正しかったでしょうか。
当ブログでは、これを照らし合わせるために、色分けし、
●青字は扉にペイントされた船名あるいは種類、
🇯🇵緑色は日本側の記録、
🇺🇸茶色はアメリカ側の記録
として書き出してみました。
7月15日、「シルバーサイズ」は2回目の哨戒で日本近海に向かいます。
🇯🇵緑色は日本側の記録、
🇺🇸茶色はアメリカ側の記録
として書き出してみました。
7月15日、「シルバーサイズ」は2回目の哨戒で日本近海に向かいます。
●トロール船(漁船)500トン 撃沈
🇯🇵7月24日には北緯32度35分 東経158度54分の地点で
500トン級トロール船を砲撃で撃沈。
🇯🇵7月24日には北緯32度35分 東経158度54分の地点で
500トン級トロール船を砲撃で撃沈。
これはおそらく正確な情報だと思われます。
問題は、次です。
● テンヨウ-マル 10,105トン 撃破
🇯🇵7月28日、北緯33度21分 東経139度24分の八丈島の沖合いで
「大型貨客船」に魚雷を3本発射し、3本とも命中させたと判断された。
🇯🇵7月28日、北緯33度21分 東経139度24分の八丈島の沖合いで
「大型貨客船」に魚雷を3本発射し、3本とも命中させたと判断された。
🇺🇸4,000トン級の輸送船を沈めた
三者の情報が全くバラバラです。
きっとどれも正しくないのだろうと思います(笑)
ちなみに「天洋丸」という特設敷設艦は実在しましたが、
1942年3月10日にラエの空襲で戦没していたことがわかりました。
三者の情報が全くバラバラです。
きっとどれも正しくないのだろうと思います(笑)
ちなみに「天洋丸」という特設敷設艦は実在しましたが、
1942年3月10日にラエの空襲で戦没していたことがわかりました。
【外交官交換船『龍田丸』との遭遇】
🇯🇵8月1日、北緯33度05分 東経135度21分の地点で
日英交換船「龍田丸」(日本郵船、16,975トン)を確認。
「龍田丸」は、戦争が始まってから日英の外交官交換船となっており、
「シルバーサイズ」が確認した2日前の7月30日に、
454名の船客を乗せて横浜を出港したばかりでした。
これは、米潜水艦「キングフィッシュ」の潜望鏡ごしに撮られた
外交官交換船仕様の「龍田丸」の航海中の写真です。
「龍田丸」は横須賀出港後、途中寄港の上海で324名、
サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、
計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地、
ロレンソ・マルケスに8月27日到着しました。
外交官交換船仕様の「龍田丸」の航海中の写真です。
「龍田丸」は横須賀出港後、途中寄港の上海で324名、
サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、
計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地、
ロレンソ・マルケスに8月27日到着しました。
ここで日本人外交官、民間人877名、タイ人42名の計919名を乗せ、
9月2日出港。
途中シンガポールで日本人571名とタイ人42名が下船します。
その後、外務省関係者6名を乗せて9月27日、横浜に帰着しました。
「シルバーサイズ」が「龍田丸」を確認したのはその出港直後でしたが、
「キングフィッシュ」がこの写真を撮ったのは、帰着後の10月14日です。
つまりこの頃には「龍田丸」は外交官輸送の任務を終わっており、
10日後には民間に戻る予定になっていました。
「シルバーサイズ」が遭遇した時には、「龍田丸」の安導権が生きていて、
攻撃は国際法違反でしたから、彼女はそれをきちんと遵守して
攻撃を行うことはありませんでしたが、
「キングフィッシュ」が写真を撮ったとき、
書類上「龍田丸」はもうその特権の下にありませんでした。
しかし、塗装がそのままで、安導権を意味する十字の印が残っていたので、
攻撃を免れることができたと言うことです。
●ライオンズ(Lyons)マル 1万トン撃沈
🇺🇸7月28日 4,000トン級の輸送船を撃沈
🇯🇵 「りおん丸」2,225トン、
1943年ラバウルにてTBFの空襲で撃破
これも三者共に全く情報が違っています。
日本の資料がおそらく正確なものだと思われます。
「シルバーサイズ」が沈めたと思ったのは全く別の船だったようです。
●セイコーマル 5,400トン 撃沈
書類上「龍田丸」はもうその特権の下にありませんでした。
しかし、塗装がそのままで、安導権を意味する十字の印が残っていたので、
攻撃を免れることができたと言うことです。
●ライオンズ(Lyons)マル 1万トン撃沈
🇺🇸7月28日 4,000トン級の輸送船を撃沈
🇯🇵 「りおん丸」2,225トン、
1943年ラバウルにてTBFの空襲で撃破
これも三者共に全く情報が違っています。
日本の資料がおそらく正確なものだと思われます。
「シルバーサイズ」が沈めたと思ったのは全く別の船だったようです。
●セイコーマル 5,400トン 撃沈
🇺🇸 8月8日 客船・貨物船 日慶丸を沈めた
🇯🇵 8月8日、北緯33度33分 東経135度23分の市江崎沖で
輸送船日慶丸(日産汽船、5,811トン)を発見し、
魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈する。
夜になって浮上すると、2隻の哨戒艇や3隻の駆逐艦が見えたので、
「シルバーサイズ」は21ノットの速力でこの海域から去る。
輸送船日慶丸(日産汽船、5,811トン)を発見し、
魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈する。
夜になって浮上すると、2隻の哨戒艇や3隻の駆逐艦が見えたので、
「シルバーサイズ」は21ノットの速力でこの海域から去る。
珍しく、日米の記録が合致しました!
「シルバーサイズ」の記録はその場で本を見て確認した程度なので、
どれもいい加減で、史実とは全く違っているのが基本です。
これはどうしても当時の潜水艦という艦種にはあるあるの誤認でしょう。
「シルバーサイズ」の記録はその場で本を見て確認した程度なので、
どれもいい加減で、史実とは全く違っているのが基本です。
これはどうしても当時の潜水艦という艦種にはあるあるの誤認でしょう。
「シルバーサイズ」が撃沈した「日慶丸」と同型船です。
沈没地点は和歌山県市江崎南方 でした。
🇯🇵8月14日、北緯33度25分 東経135度31分で
輸送船「成田丸」(内外汽船、1,915トン)に魚雷2本発射、命中せず
🇯🇵8月17日、北緯33度17分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「室戸丸」(関西汽船、1,257トン)に魚雷3本発射、命中せず
2本は陸岸に当たって爆発した
🇯🇵8月21日、北緯33度12分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「浦戸丸」(関西汽船、1,326トン)に魚雷を2本発射、命中せず
輸送船「成田丸」(内外汽船、1,915トン)に魚雷2本発射、命中せず
🇯🇵8月17日、北緯33度17分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「室戸丸」(関西汽船、1,257トン)に魚雷3本発射、命中せず
2本は陸岸に当たって爆発した
🇯🇵8月21日、北緯33度12分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「浦戸丸」(関西汽船、1,326トン)に魚雷を2本発射、命中せず
「シルバーサイズ」、この頃は絶不調です。
おそらく、乗員一同(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)としていたに違いありません。
おそらく、乗員一同(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)としていたに違いありません。
ちなみにこのとき「シルバーサイズ」の攻撃を免れた「浦戸丸」は
1943年に松山沖で衝突事故のため沈没しました。
「室戸丸」も終戦直後の1945年10月、西宮沖で触雷して沈没しています。
1943年に松山沖で衝突事故のため沈没しました。
「室戸丸」も終戦直後の1945年10月、西宮沖で触雷して沈没しています。
戦後触雷で沈没して多数の死者を出したことで有名な「女王丸」も、
この姉妹船と同じ関西汽船所有の船でした。
この姉妹船と同じ関西汽船所有の船でした。
●トロール漁船 250トン 撃沈
●トロール漁船 350トン 撃破
🇺🇸 8月31日 敵トロール船2隻を撃沈した
🇯🇵8月31日、北緯33度51分 東経149度39分の地点で
漁船「美洋丸」と交戦。
「美洋丸」救援のために駆けつけた特設監視艇「第三萬亀丸」と
北緯34度07分 東経150度08分の地点で交戦する。
「美洋丸」は大破したものの沈没を逃れ、曳航されて日本に向かった。
「シルバーサイズ」は「美洋丸」撃沈、第三萬亀丸撃破と判断していた。
漁船「美洋丸」と交戦。
「美洋丸」救援のために駆けつけた特設監視艇「第三萬亀丸」と
北緯34度07分 東経150度08分の地点で交戦する。
「美洋丸」は大破したものの沈没を逃れ、曳航されて日本に向かった。
「シルバーサイズ」は「美洋丸」撃沈、第三萬亀丸撃破と判断していた。
というわけで、「シルバーサイズ」第2回哨戒における
正確な戦果の発表です!
正確な戦果の発表です!
【撃沈】
7月24日 500トン級漁船
8月8日 輸送船「日慶丸」
【撃破】
8月31日 漁船「美洋丸」
念の為、「シルバーサイズ」はこれを、
撃沈4隻、撃破2隻だと申告していました。
撃沈4隻、撃破2隻だと申告していました。
9月8日、「シルバーサイズ」は56日間の行動を終え、
母港である真珠湾に帰投しました。
母港である真珠湾に帰投しました。
■ 第3回目の哨戒
1回目、2回目ともに日本近海まで哨戒に出ていましたが、
3回目からあとは真珠湾から南洋をパトロールしています。
3回目からあとは真珠湾から南洋をパトロールしています。
航路は、ニューギニア経由でブリスベーンまで。
機関は1942年の10月2日から11月25日まででした。
機関は1942年の10月2日から11月25日まででした。
「シルバーサイズ」は、カロリン諸島方面に向かいました。
🇯🇵10月18日、北緯07度17分 東経151度20分の地点で
ジグザグ航行をする「衣笠」型重巡洋艦と思しき
大型艦を発見するが、攻撃の機会をつかめなかった。
ジグザグ航行をする「衣笠」型重巡洋艦と思しき
大型艦を発見するが、攻撃の機会をつかめなかった。
●マニラ-マル 11,200トン
🇺🇸 大型貨物船に大きな損傷を与えた
🇯🇵10月20日、北緯06度45分 東経151度30分の地点で
大型輸送船に魚雷を3本発射し、2本の命中を報じた。
大型輸送船に魚雷を3本発射し、2本の命中を報じた。
「シルバーサイズ」では、この時の船を「まにら丸」としていますが、
「まにら丸」の登録総トン数は6,500であり、さらには
その時期は病院船として就役していたので、この情報も間違いです。
「まにら丸」の登録総トン数は6,500であり、さらには
その時期は病院船として就役していたので、この情報も間違いです。
「まにら丸」は昭和19年の11月にその名と同じ、
マニラ付近で被雷沈没しています。
マニラ付近で被雷沈没しています。
●日本帝国海軍の雷装艦か駆逐艦 1300トン
🇺🇸 日本の駆逐艦や軽雷装船に魚雷が命中したが沈没はなかった
🇯🇵11月9日、南緯02度26分 東経149度36分の地点で
駆逐艦あるいは白鷹型敷設艦と推定される艦艇に対して
艦尾発射管から3本、艦首発射管から2本の計5本の魚雷を発射し、
2本から3本の魚雷を命中させたとする。
「シルバーサイズ」は2隻10,800トンの戦果を挙げたと報告したが、
実際の戦果は無かった。
駆逐艦あるいは白鷹型敷設艦と推定される艦艇に対して
艦尾発射管から3本、艦首発射管から2本の計5本の魚雷を発射し、
2本から3本の魚雷を命中させたとする。
「シルバーサイズ」は2隻10,800トンの戦果を挙げたと報告したが、
実際の戦果は無かった。
戸棚の扉を埋めるべき戦果が全くなかったこの哨戒で、
空いたところには大きなブーメランが描かれています。
今なら何か「おまゆう」的ミームかと勘繰られそうですが、
この頃なので決してそんな意味はなく、単に「シルバーサイズ」が
11月25日、54日間の行動を終えてブリスベンに帰投したことを意味します。
この頃はブーメランと言っても今のようにスポーツだったわけでなく、
アボリジニ(オーストラリアの原住民)の武器としてしか
認識されていなかったということなんですね。
アボリジニ(オーストラリアの原住民)の武器としてしか
認識されていなかったということなんですね。
というわけで、「シルバーサイズ」第3回哨戒の公式戦果の発表です!
撃沈・撃破、ゼロ
でした!
こうして見ると、特に潜水艦の場合、実際の戦果と相手の損失は
全くと言っていいほど一致しておらず、
そのカウントは常に自分側の数字をマシマシにする傾向があった、
ということがよくわかる結果となっています。
まあ、なんだ。 ドンマイ。
撃沈・撃破、ゼロ
でした!
こうして見ると、特に潜水艦の場合、実際の戦果と相手の損失は
全くと言っていいほど一致しておらず、
そのカウントは常に自分側の数字をマシマシにする傾向があった、
ということがよくわかる結果となっています。
まあ、なんだ。 ドンマイ。
次切りかえていこう。
続く。
電池力潜水艦は、高速を発揮すると電池が上がってしまうので、基本的には低速(普通、10ノット以下)で航行します。一方、潜水艦の標的となる船団や水上艦は20ノット程度で航行するので、船団や水上艦を発見しても、その後方であれば、永遠に追い付くことは出来ませんが、こちらに向かって来る態勢であれば、魚雷の射界に入って来ます。
二回目と三回目のみならず、すべての哨戒航行の行動図が上がっていますが、当時の日本の船舶は、内地と南洋の往復がほとんどだと思われますが、もうちょっと前進しないと、上記のように標的となる船団や水上艦を待ち受ける海面にはたどり着けない(見付けても、横を通られ、逃げられる)気がします。
上陸作戦等には連合艦隊の護衛がありましたが他はほ護衛なしで昭和17年4月に第1,2海上護衛隊が編成されても隻数が少なく、装備も悪く、昭和18年11月の護衛総隊編成においても艦艇航空機の多くを所轄していた連合艦隊は護衛総隊への艦艇航空機の移管をしぶり、船団を組んでも護衛艦艇が少数しか配置できませんので独航船が多かったので簡単に撃沈撃破されました。
昭和19年4月上海からフィリピン、ニューギニアへ陸軍2個師団輸送の竹船団は陸軍参謀部も疑問を呈した事案でした。護衛旗艦は石炭炊きの防潜網急設網艦「白鷹」であり、爆雷は18個しか装備せず、もうもうと煙を吐いて視認しやすく、護衛もフィリピンで連合艦隊の駆逐艦と交代しましたが司令官、旗艦はそのままでこの時期になっても対潜戦が連合艦隊も分かっていなくて駆逐艦が高速で航行し、効果の無い爆雷投下するばかりで敵潜を撃沈できず、1隻あたり2,000名以上の陸軍兵を救助しましたが4,000名近い戦死者溺死を出し、装備はほぼ海没、ニューギニアまで到達できず、陸戦にも寄与出来ないこととなりました。
最重要な陸軍部隊輸送護衛でもこのような不始末であり、民需用まで護衛が全く手が回らない事となってしまいました。
昭和18年4月のスルー海での客船「鎌倉丸」は2,500名以上の軍人等が乗船しているのにもかかわらず、速力が早いので敵潜に攻撃されないとの何の根拠もなく、独行させ、撃沈され2,200名以上の戦死者溺死を出しています。
雑誌「世界の艦船」に毎号写真シリーズ「思い出の日本貨物船」が掲載されますが、多くのこれら貨物船が潜水艦攻撃で沈没と記述されています。ほぼ航海速力10kt前後で位置も把握され反撃能力もなく、簡単に撃沈されていました。本当に情けない出来事となっていました。
前コメントで昭和17年の米潜水艦の日本商船の撃沈が記述しましたが昭和18年は増加し、1,000隻以上が攻撃され、約310隻、約128万総トンが撃沈され、昭和19年には飛躍的に増加しました。
なお米潜水艦の魚雷消耗は昭和17年が約1,450本、昭和18年で約3,800本でした。
参照原書房大井篤著「海上護衛参謀の回想」、海人社「世界の艦船」
「龍田丸」の潜望鏡写真は、解像度からもかなり近接しているようです。おそらく3000メートル以内でしょう。