ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

キスカ撤退作戦 軍人精神と認知バイアス

2012-03-09 | 海軍

前半に続き、「太平洋奇跡の作戦 キスカ」から、実際の作戦経緯について今日はお話しします。

・・・・と言いながら、この画像は何だ?

と思われた方。
もうそろそろブログ主の偏向した嗜好とブログならではの狼藉に慣れていただかないと困ります。
前回も、脇を固めているにすぎない軍医長役の平田昭彦をわざわざアップにして画像を描き、
さらにこの工藤軍医長中心に無理やり話を進めるという暴挙に及んだわけですが、
さすがに今日は、作戦そのものを語るので軍医長はお呼びではありません。

ですから、せめて冒頭だけでも平田画像を挙げさせていただく。
「それはいいけど、この映画には女性が出ていなかったんじゃなかったっけ」と思われた方、
その通り。
「キスカ」とは全く無関係のこの画像をアップする機会がないので無理やり掲載しました。

この画像は、平田様が長髪の海軍航空士官野口中尉をそれはかっこよく演じた、
「さらばラバウル」(1954年)の一シーン。
白いマフラーと搭乗員服の平田昭彦の最もスマートな姿が拝めるお宝映画です。
この画像の平田昭彦も素敵ですね。
でもはっきり言ってカナカ族の娘、っていうのが邪魔だわ。脚太いし。

ところで、この「さらばラバウル」の当時のポスターに書かれている文句って

「南十字星燦めくラバウルの大空に燃える 清純の恋と灼熱の恋!」

なんですが・・・どう思います?
ポスターはに池部良+岡田茉莉子、そしてこの二人の恋人たちが描かれているんですが、
「清純の恋」が池部チームで、この平田昭彦チームは「灼熱の恋」の方。
これって、こういう煽りだったのか・・・。

それにしても、海軍の、しかも航空士官が、現地の飲み屋の、しかも原住民の娘と恋に落ちる。
・・・・・お話としても、かなーり無茶ではないかとも思うがどうか。
百歩譲って飲み屋の娘というだけなら、命削るような戦場では可能性もないわけではないけど、
カナカ族は・・・ないんじゃないかな。

さて、キスカです。
前回、作戦が動き出したところまでお話ししました。

キスカの前に玉砕したアッツ島を大本営は決して見殺しにしたかったわけではなく、
当初は救出作戦も計画されていました。
しかし地理的にも時期的にも陸海軍の調整がつかず、結局
「アッツはあきらめてキスカに全力を注ぐ」という形での作戦にせざるを得なかったのです。

前項最後で、工藤軍医長が
「ケ号作戦という名をガダルカナルの撤退で聞いた気がする」と言うシーンを紹介しましたが、
日本軍は撤退作戦にはこの「乾坤一擲」から取った「ケ号」を付けることになっていました。

そこで、なぜこの大作戦に、ハンモックナンバードンケツ、アウトオブ出世コースな木村少将が
(映画では大村ですが感じが出ないので以降本名で行きます)抜擢されたかです。
映画の中で、兵学校同期の、こちらは勿論、出世コース順風満帆そうな川島中将が、
この抜擢を不満に思う佐官連中にこのように言います。

「今度の作戦は敵を攻めるのではない。戦果ゼロの決死作戦だ。
なまじ手柄を立てたがる奴には務まらんのだ。
あいつは腰は重いが、ここぞというときには必ずやる男だ」


重い腰を上げた木村少将が立案した作戦成功の要は、
視界の全く利かないほどの濃霧が発生していること。
この気象情報を司令に伝えるのが、おそらく短現将校ではないかと思われる
福本少尉(児玉清)
天候のデータを作戦遂行のために毎日取る係です。



映画では詳細は省かれていますが、本作戦前に木村少将は二次にわたり、
潜水艦隊15隻による救出作戦を行っています。
そして、キスカへの糧食の搬送と数百人の病人の後送には成功しています。

しかし、この作戦はレーダーによる米軍の哨戒網を突破できず、
結果三隻の潜水艦と人員を失うことになりました。
損害の割に成果が少ない作戦と言うことで、これは中止になり、
以降、水上艦艇による撤退作戦に切り替えられます。



昭和18年6月29日。作戦発動。
軽巡「阿武隈」を旗艦とする第一水雷戦隊を中心に、計15隻からなる高速水上戦隊です。
この作戦に当たり、木村少将はいくつかの準備をしました。

天候を入念に調べること。
これは視界ゼロの濃霧の中でしか成功の見込みがないと思われたからです。

万が一米軍に発見されても良いように、
米軍艦を思わせるような艦の偽装をすること。


一足先に第一次作戦に参加した潜水艦を先行させ、
気象状況を通報させること。

電探を搭載した艦を配備すること。

木村少将は連合艦隊に当時の最新鋭駆逐艦、就役したばかりの「島風」を配置させました。
「島風」は最新の電探逆探を搭載していました。

日本軍の強みは、先日「藤田怡与蔵の戦い~日航パイロット編」でもお話ししたように、
その優れた見張能力にありました。
しかし、さしもの優れた肉眼を持つ日本軍といえども、
向こうにも見つからないような濃霧の中では、こちらからもその能力を発揮することはできません。
つまりこの作戦には「島風」の電探設備が必須であったのです。

これらの入念な準備の末、キスカに向かった艦隊ですが、何たることか。
キスカに向かう途中で霧が晴れてきてしまいます。

 

そこで発せられた木村少将の驚くべき言葉。

「引き返す」


皆さん。
あなたがこの場にいたら、この決断ができますか?
霧が晴れれば作戦成功は難しくなる。それは明白です。
しかし、キスカは目の前。将校たちは皆一様に「ええええ~?」(右画像)

さらに後ろにくっついてきている艦までがやいのやいのと「意見具申」してくるんですよ。
「突っ込みましょう、ここまでせっかく来たんですから」

おまけにキスカでは一時間以内に乗船をスムースに済ませるため、5千余の兵が、
文字通り首を長くして浜に集結していて

こんなことになってしまっているのです。

こういう状況で自分以外は皆自分の意見に反対。
しかし自分さえGOサインを出せば、全ては動きだし、皆が取りあえず納得する。
言えますか?「引き返す」。

先日何回かに分けて話をした真珠湾攻撃の酒巻少尉のことを覚えておられるでしょうか。
潜航艇のジャイロが壊れ、これでは、「目隠しをした車が幹線道路をぶっ飛ばすようなもの」
であると熟知していながら、出撃をやめませんでした。
いや、やめられませんでした。
本人も言っています。
「わたし一人の考えで今さらやめるなどとても言えなかった」
おそらくこの故障では、作戦の成功は覚束ないと熟知しながらです。

自分以外のすべての人間に期待され、それをするのが当然の状況に置かれたとき、
酒巻少尉は先を見通して冷静に状況を判断して身を引く勇気を持ちませんでした。
こんなときに「やめる」と言うのはとてつもない勇気を要するのです。

しかし、酒巻少尉の弱さを責めることは誰にもできません。
むしろ、こちらが普通の人間というものであろうと思われるからです。



気象を報告する役目の福本少尉には、兵科士官が詰め寄ります。
「貴様、臆病者の大村少将がとっとと決断できるように、霧は5日持つと言え」
学者である福本少尉には嘘は言えません。
霧は三日と持たない、というのが観測の結果でした。
このときこの士官のうち一人がこう言います。
「五分通り霧が晴れてしまっても、五分は軍人精神で補えるのだ」

これですよ。
陸軍よりは科学的と言われた海軍でも、
冷徹な科学の結果など軍人精神でどうにかして覆してみせる、などという、
根拠のない精神論を振りかざす人間がここでもほとんどだったということでしょう。

そして、酒巻少尉が「故障さえも軍人精神で何とかして見せる」と無謀な出撃を決めたように、
途中で霧が晴れても、たとえ敵に発見されても、さらに攻撃される可能性があっても、
今後の危機も「軍人精神」で何とかなるだろうと考えてしまうのが、普通の人間だということです。

皆さんは「正常性バイアス」という言葉を聞いたことがありますか。
正常性バイアスは、どんな人間にも起こり得るもので、
災害や事故、テロなど、明らかに被害が予想される状況が現実に目の前に起こったとき、
なぜか、自分にとって都合の悪い(危険な)情報を無視したり、
「自分だけは大丈夫」「今回だけは大丈夫」と思いこんでしまうことを言います。
(先の災害ではずいぶんこの心理が被害を大きくしたということです)

「安全であろうと人間が信じたい心理」、心理学的に言うところの認知バイアスの一種、
これを「正常性バイアス」と言います。 
つまり、この作戦における木村少将以外全ての軍人、「ここまできたんだから行っちまえ派」は、
おしなべてこの軍人精神の形をした認知バイアスがかかってしまっていたということでしょう。
心理的にむしろ普通のことである中で、木村少将の判断はむしろ「特殊」であったとも言えます。

木村少将はただのドンケツ軍人ではなかったのです。
「帰ればまた来ることができる」
この一言で、15隻の艦隊を引き変えさせ、さらに数度にわたる再出撃の際も、ことごとく、
霧が晴れるたびに根拠地に帰還することを選びました。
叩きあげの木村少将は、掩護なしの攻撃を受けたときに艦隊がどうなるかを熟知しており、
それがこの慎重な撤退決断につながったと言われています。

しかし、当然のごとく少将は各方面から凄まじい批判にさらされます。
直属の上官である第5艦隊はもちろん、連合艦隊司令部、果ては大本営に至るまで。
これだけの組織が、木村少将一人の決断を口をきわめて非難してきました。

「普通の人」、酒巻少尉もそうでしたでしょうが、普通の軍人が怖れるのがこれでしょう。
「怖気づいて手ぶらで帰ってきた卑怯者」と日本中から罵られるくらいなら、失敗だろうが、
霧の中敵に見つかって戦死してしまった方がましだという実に軍人的な心理です。

さらに、罵る側も「やらずにおめおめと生きるなら失敗して死ね」というメンタリティですから、
いかに木村少将が強靭な精神力とよほどの覚悟を持っていたかが分かります。

木村少将はこのバッシングに耐え、ただひたすら濃霧を待ちました。

そして7月28日、ついにチャンスが訪れます。
その霧の濃さは、艦隊同志が全くお互いを確認することができず、
国防艦「国後」旗艦「阿武隈」が、接触事故を起こし、さらにその混乱で
「初霜」「若葉」「長波」が玉突きのように衝突するというものでした。
傷ついた「若葉」は戦線離脱を余儀なくされます。



キスカに到着した艦隊は、米軍と遭遇する可能性のある正面からの侵入を避け、
島の西側を島陰に添って静かに進みます。




必死の目視で座礁しないように航路をチェックする乗員。
危険を冒してもこのルートを選んだことがこの作戦の成功の要因の一つでもありました。

 

一方、キスカの将兵は、いつ来るかわからない艦隊を待って、
毎日浜に集結し、来ないと分かると元の配置に戻る、という過酷な毎日を送っていました。
繰り返される期待と絶望の日々。

この島には陸軍もいたのですが、ある陸軍部隊の配置は山を越えたところにあり、
浜辺に集結する為に山中を総員でランニングして来なくてはなりません。
「海軍はうそつきだ」「我々陸軍を弱らせるためにわざとやっているのか」
こんなことを言う者さえおり、ここでも陸海軍の仲は険悪でした。
誰もがぎりぎりの精神状態であったのです。



しかし、ついに艦隊はやってきました。
お迎えするのは彼らの飼い犬。というか、軍用犬ですね。
そして、キスカに突入した瞬間だけ霧が晴れるという奇跡のような天祐があったそうです。

 

喜び、各艦に乗りこむ将兵たち。
投錨からわずか55分後、五千二百名全員がたった一人の損失もなく撤退に成功。
ここに、世界の戦史史上でも類を見ない「完璧な撤収作戦」が完了したのです。




二回に分けて書くつもりが、長くなりました。
最も書きたかった「ちょっといい話」や「不思議な話」を次に譲りたいと思います。

「関係ない平田昭彦のことを冒頭ででれでれ書いてるからだ」って?
いや、それは分かっていたんですよ。でもね。

こういうのを認知バイアスで言うと、あと知恵バイアスと言いまして(以下略)


 

 


太平洋奇跡の作戦 キスカ

2012-03-07 | 海軍


「太平洋奇跡の作戦 キスカ」(東宝1965年作品)を観ました。

はて、あの映画は確か主人公が三船敏郎であったはず、と思った方、その通り。
豪華男優陣の中で、三船でも藤田進でも、山村聡でもなく、
なぜ平田昭彦の画像を描いたか、というと、単に個人的に贔屓にしているから。
このあたりが、わがままの許されるブログのいいところですね。

陸軍士官学校(60期)卒、戦後東大法学部に学んだという経歴もお気に入りの理由。
世が世なら陸軍士官としてカーキ色の制服を着ていたであろう平田様は(つい様付け)、
戦争映画に出演の際には、圧倒的に海軍軍人(必ず士官)を演じてきたわけですが、
これも当然。
エリス中尉独断にて言わせていただければ、平田昭彦は

海軍軍医役の日本一似合う俳優

であるからです。

この映画での平田の役どころは太平洋の島、キスカ島に防衛隊として駐留する海軍軍医長。
孤島で孤立無援。
玉砕の色濃くなったある日、自分が手術した兵が絶望のあまり自決します。
工藤軍医は病棟を回って全員から手榴弾を取り上げます。
「もし敵が来たら、そのときは軍医長が殺して下さい」と頼む兵に

「わかった。しかし、最後の瞬間まで生きることをあきらめるな」

 

ああ、このセリフ、聞いたことがあるような。
「潜水艦イ-57降伏せず」で平田昭彦演じる中沢軍医中尉が、
あまりの辛さに「死にたい」と弱音を吐く我がまま娘イレーヌにこんなことを言ってましたね。
こういう説教臭いセリフも、この人が言うと
「ああその通りだ。この軍医のいうことなら信じてみよう。ついでにもっと叱って下さい」
って気になりませんか?
それはわたしだけですか?

ところで、こういう硬派な映画、女性の一切出ない、男だけの戦争映画を観ると思うのですよ。
たとえお金がなくて、東京オリンピックの次の年だというのにまだフィルムが白黒で、
潜水艦沈没シーンがその「潜水艦イ‐57降伏せず」の使いまわしで、
なぜか米軍の配置であったこの地域で英軍機スピットファイアが飛んでいる、
という不思議なことになってしまっていても。(説明っぽいな)

この映画のころが、日本でまともな戦争映画が作れた唯一の時代だったのではないかと。


芸者との絡みや幼馴染の涙なんて、戦争映画にはいらん!
兵が「おかあさーん」と叫びながらみんなでおいおい泣く恥ずかしい戦争映画なんぞいらん!

この映画を観て、全ての出演男優が一人残らず、司令官から下士官のおっちゃんに至るまで、
そのあまりのかっこよさに光り輝いているように思ったのはわたしだけではないでしょう。
特に、三船敏郎の木村少将と、クラスメートだという山村聡演じる川島中将の、
互いを「貴様!」と呼びあうツーショットの渋さ。
この二人が一種軍装で並んでいる画面の美しさには、背中がゾクゾクするほどしびれます。

 ね?

さて、このブログに来られる方ならもしかしたらご存じかも知れませんが、この映画のテーマ、
第二次大戦末期にあった、キスカ島からの撤退作戦について説明しておきましょう。

キスカは、今は北方領土と言われている北海道の先の先にあり、
アラスカは眼と鼻の先、という位置に存在する島。
ミッドウェー作戦の支作戦としてアッツ島とともに防衛のため陸海軍が駐留していました。

アメリカにすれば本土の近くに日本軍基地があることそのものが脅威であったため、
日本軍がさして戦略上重視していなかったこの地点を徹底的に叩きだしました。
そして昭和18年5月、アッツ陸軍守備隊はバンザイ突撃打電を遺して玉砕します。

制空制海権を全て米軍に掌握され、まさに孤島に取り残された形のキスカ島の将兵。
アッツ島と同様の運命はもう迫っているかに思えました。
彼らが覚悟を決めつつあった昭和18年6月、大本営はキスカの撤退作戦を計画します。

作戦立案者、川島中将。
実際の第5艦隊司令長官は河瀬四郎中将と言います。



こういう人もいたようです。
なぜかしつこく?作戦を反対する軍令部の赤石参謀。(西村晃)



軍令部に米内光政発見!この俳優さん、誰かは全く分かりませんでしたが、似てません?



取り残された島、キスカに駐留する5千余名の将兵の司令官、秋谷少将(藤田進)
うーむ。何たる存在感。何たる渋さ。
海軍将官を演じさせてこの人の右に出るものなし。
どう解釈してもうまいというわけではないこの人の演技が、むしろ軍人らしい!とこれも独断。
この人の演技は、これでいいんです。(断言)



救出作戦のトップに抜擢されたのは、兵学校をドンケツ(118人中107番)で出た大村少将
実際は木村昌福少将と言いますが、なぜか仮名扱い。
全く史実通りの映画ではないための配慮でしょうか。
(NHKにも、少しこのあたりの配慮が欲しいところですね。とイヤミを言ってみるテスト)
これが、あんまり成績ドンケツに見えない三船敏郎
おそらくハンモックナンバー上位のクラスメート、山村聡の川島中将と、
すでに昇進に差がついています。



しかし、川島中将は大村少将の実力を見込んでこの大役に大村少将を抜擢。
「救出作戦にはフネを最低でも5ハイ出してくれ」と頼み、川島中将がはったり効かせ
交渉に成功するのですが、全くそれが当然のことのようにしているので、
艦隊参謀の国友大佐(後右側)は「川島中将に失礼じゃないですか!」と怒ります。

 

国友大佐を演じるのが中丸忠雄
最近亡くなった俳優さんですが、この映画の頃はニューフェース。イケメンです。
ある意味一番活躍する中心的キャラクター。
艦隊参謀国友大佐は、キスカに艦隊が救出に向かうことを知らせる重大な任を帯び、
ひそかに潜水艦に乗り込みます。
無電では敵に作戦が傍受されてしまうからです。

国友参謀のキスカ潜入の成功合図は連送「サクラ」。
応答はやはり連送で「サイタ」。

 

「我々の命に掛けても参謀をキスカに送り届けます」
ときっぱりと言うイ号潜水艦長天野少佐(佐藤充)
「この辺の海は水温が低く、15分も浸かっていたら凍死します」と言われ、
一人船室で不安におののく国友大佐。



この潜水艦は、キスカ到着後浮上したところを敵航空機に攻撃され、艦長天野少佐は戦死。
残った乗員は文字通り自分たちの命と引き換えに発射管から大佐だけを外に逃がします。
国友大佐を脱出させた後、ハッチを閉める間もなく、垂直になった艦は乗員と共に沈んでいきます。

 

沈む潜水艦。それをただ敬礼で見送る国友大佐。
大げさな演出も、もってまわった余計な感情表現も何もなく、
キスカの将兵を救うために、ただ任務を完遂するために、莞爾として死んでいく潜水艦の乗員。
涙の「さようなら」も遺言も無しです。

素晴らしい。

でも、この潜水艦の存在そのものが映画上の創作でした~。(ちゃんちゃん♪)
と、ここでこの映画はこの映画なりに「盛って」いるということに気づくんですが、
でも、これくらい許してあげようよ。
NHKと違って仮名を使ってちゃんと創作だとことわっているし。(とさりげなくイヤミを略)


ところで、この頃キスカではどうなっていたのでしょうか。

 

脚を切断されたあと、自分をかばってくれた上官が戦死するのを目の当たりにし、
手榴弾で自決する兵。
このころのアメリカ軍の攻撃は非常に苛烈で、応戦する方にも被害は日に日に増えました。
ただ、キスカ特有の濃い霧が立ち込めたとき、攻撃がないのでそれは彼等にとって
「良い天気」だと言われていました。

そしてキスカの撤退作戦も、この霧を利用して行われました。
攻撃の来ない間に霧に隠れてキスカ湾に突入、1時間以内に全員が撤退するという作戦です。
そして、平文で、キスカの将兵に向けて玉砕を勧告するような電文を打ちます。
つまり、アメリカ軍が盗聴していることを逆手にとって、
日本軍はすでにキスカを見捨てたのだと油断させるための作戦でした。



しかし、なまじ希望を持たさぬよう、本当の作戦の経緯を聞かされない兵たちは、
自分たちは日本から見捨てられたのだという絶望的な思いを強くします。

「お盆の日には、キスカ島守備隊は全員幽霊となり、
幌莚の五艦隊に殴りこみをかけるから覚悟しろと返事を打とうじゃないか」


という笑えない冗談でむりやり笑う兵たち。
このキスカで生還し生存していた中に、このときの主計士官がいて、
このDVDの特典で生存者証言をしている近藤敏直大尉と共に、
戦後「キスカ会」を立ちあげました。

 

左は第二種軍服の近藤大尉。
実にスマートな感じのする海軍士官ですね。
右画像、右が映画撮影時にアドバイザーとして参加した近藤氏。
真ん中はどうやら中丸忠雄氏のようです。
左人物は皮手袋をしていますから、阿武隈の艦橋にいた誰か、おそらく、
近藤大尉を演じた俳優、土屋嘉男ではないかと思われます。

近藤氏は砧の撮影所で俳優のオーディションに立ちあい、出演俳優を選ぶ手伝いもしたそうです。
監督は、自身の俳優を観る目より、近藤氏の元海軍軍人の眼を信頼していたようで、ここにも
今とはかなり違う、戦争を扱うことに対する当時の映画界の姿勢が覗えるような気がします。

近藤氏がキスカの生存者に新聞で呼びかけ、それに呼応したのがその主計長。
さらに呼びかけに応じてきたのが小林新一郎元軍医長で「今キスカの本を書いている」
その本の製作に二人は手を貸し、出来上がった本「霧の弧島」は靖国神社に奉納されました。

ある日その本はあるきっかけで映画関係者の目にとまり、それがきっかけで、
「キスカ」は世界でも稀有な奇跡の成功撤退作戦として映画化されることになったのです。

映画化を打診されたとき、近藤氏には一つの希望がありました。
「映画会社の力で各地にいる生存者がもっと名乗り出てくれたら、
皆で慰霊祭をやりたい」

というものでした。


さて、映画に戻りましょう。
絶望に陥ったキスカの彼らに、救出作戦が動き出したことを伝えるべきか。

 

この作戦は「乾坤一擲」のけを取って、「ケ号作戦」と称します。

「今回傍受した五艦隊から連合艦隊の無線にケ号という作戦名がありました。
私の記憶の間違いでなければ、ガダルカナルの撤退作戦でこの名が使われています。
艦隊は我々を迎えに来てくれるのではないでしょうか」

と工藤軍医長。

「彼らに希望を与えたいので直ぐにみんなに知らせてください」

と訴えますが、
「五艦隊だけでこの作戦が成功する望みは薄いのだ。
あてのない希望を与えて何になる」
「軍医長、いいか。
このことは君の胸にだけしまっておいてくれ」

とそれを口止めする秋谷司令官。

うつむいて唇をかみしめる軍医長・・・・。

平田昭彦の画像ばっかりだしていますが、実は出演個所はそう多くありません。
この項だけ見たら、まるで主人公みたいですが(笑)


この項は二部に分け、キスカ撤退作戦の実際については、後半に譲ります。 




街、建物、景観~百年前、百年後

2012-03-06 | 日本のこと

        

「明治村と坂の上の雲」という項で、明治村と、その前に訪れた小牧という、
日本のどこにでもある地方都市の景観的問題点についてお話しました。
この稿に、秋水の件でコメントいただいていたリュウTさんが、明治村に移設された
三重県庁県民のよしみで、興味深いコメントをお寄せ下さいました。

コメント欄でやり取りをしていたのですが、今日再び頂いたコメントへの返事が
あまりにも長大になってしまったので、いっそここにアップすることにしました。

これまでのやり取りは、「明治村と坂の上の雲」をご覧ください。
それでは、リュウTさんのコメントからどうぞ。


タイトル*マンボウは可愛いけれど、食べ物です(謎)

街並みのデザイン、何とかして欲しいですよね。
百歩譲って現代的な建て方でもいいので。
林立する電柱が当たり前の風景では叶わぬ事でしょうか。
景観を得る事はコスト増大と思い込んでいる方々のなんと多い事か。
一時的にはコストかもしれませんが、長い目で見ると「資産」なのですが。
何十年、場合によっては何百年と続く資産。

愛着が湧く街づくり。
実はすぐそこにあるのに気づかずに捨てられてしまう物が多々ある気がします。
県庁舎もそうですし、
例えば我が市では海軍航空基地、海軍工廠、陸軍航空基地と、
昭和10年代に建物が続々できたのに、戦後すぐにほとんど取り壊されてしまいました。
残すか移設すれば何かと活用できたハズなのですけど。
空いた土地には大きな企業が入ってそれなりに繁栄しましたが、その代わり、
無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、
或る地方都市が残ってしまいました。

卵が鶏かの話になりますが、「作り手の美意識」もそうですが、「施主側の美意識」も変わらないと。
施主がその気になれば「こだわる建築士や大工」を見つけます。
坪単価が倍でも(実際はそんなでもない)災害等のリスクはあれど、100年保てば一般的な建築寿命の2~3倍。
逆にお得じゃん。(自分の負担は大きいけど)
100年保たす為には、子や孫もこの街の事を好きにならないと出て行ってしまう。
では、この街をより魅力的にする為には・・と地域への働きかけが生まれます。

すいません。とりとめのない事ばかり。


(返事コメント)
タイトル*マンボウって食べられるんですか(汗)

尊敬する犬養道子氏が
「戦後、東京を復興する際に、せめて今くらいの社会的な力があったら、
何としてでも景観を保持する為の法律を作るために奔走していたのに、残念でならない」
と書いていました。

美的感覚もさることながら、我が日本の景観を悪くしている根本の原因は、
「法律で決められない部分でやりたい放題」とか
逆に「法律があるので何もできない」「法律があるのでこうするしかない」
という相反するジレンマの悪循環なのだと思います。

リュウTさんのおっしゃる「施主の意識」については、もうこれは本当に、
皆意識を高く持ってくれよ!
目先の安さにつられて安物買いの醜悪な住居で満足しないでくれよ!
と声を大にして言いたいくらいですが、マクロで景観のことまで意識を高く持てるのは
お金に余裕のある人のみ、ということなってしまっているのが現状です。

軍関係の建物に関しては、進駐軍の旧軍パージが、技術者の仕事復帰にまで及んだ
ということを聞いても、むべなるかなという気もしますが、このあたりも日本人は極端ですね。
壊せと言われたわけでもないのにマッカーサー様におもねって、
さっさと壊してしまった建物や設備も結構あるのではないかと思います。

被統治国だった韓国はヒステリックに日本製の歴史的な建物を皆壊してしまいましたが、
台湾にはまだまだ残されたり使用されている統治時代の建物があります。
総督府、旧台北帝大、郵便局、銀行、それこそその数はもしかしたら日本より多いかも。

どうして台湾に残せて日本に残すことができないのか?
と言いたくなるのですが、なかには日本軍の建てた軍施設だってあるのです。
なぜ彼らが日本製のその建物を使い続けるか。
美しくて趣があって、そして何より堅牢で長持ちするからでしょう。

シベリアに抑留されていた日本人の作った建物(劇場)が、大地震の時にそれだけ倒壊せず、
ロシア人はあらためて日本人の(しかも抑留されて骨と皮のような囚人の)建築技術に
驚嘆したという話もあります。
美しく長持ちする、そういうものを建てる技を持っていて、その気になればヨーロッパのような
街並みを作ることも不可能ではなかったのに。

そして、その街並みなら、いつまでも鑑賞に耐えうる、趣のある、日本人の大好きな
「ロマンチックな」風景で、住む人に誇りを与え、訪れる人の目を楽しませることができたのに。

・・・ああ、なんだか書いていて悲しくなってきました。

しかし、そんなわたしも、最近この冒頭の景色、完成に近付いている東京駅庁舎を観ると、
心から幸せな気分になれるのです。
1914年に造られ、その後100年弱の年月を経て、もう一度当時の姿のままに
よみがえろうとしている東京駅。

老朽化にあたって、レンガの建物をすべて取り壊し、安○忠○デザインの、とてつもなくモダンな、
でも世界のどこにでもありそうなインテリジェント駅ビルにしてしまう、なんてことにならなくて
本当に良かった。
ホテルの部屋からホームの見える「東京駅ホテル」が再オープンするというのも嬉しい。

まだまだ、日本は美しい街を取り戻すチャンスがあると信じたい。
百年先の景観のことまで考えて今日の建築をする、そんな人たちも日本にいるのですから。

まだ新しくてピカピカ光っている駅舎の銅の色。
百年前の日本人もこの色を見ていたのだなあと、ついうるうるしてしまうわたしです。








映画「クヒオ大佐」~わたしの出遭った詐欺師

2012-03-05 | 映画



「振り込め詐欺」「オレオレ詐欺」は、これだけ社会問題になり、注意を喚起する呼びかけが
多くなされているのにもかかわらず、被害を受ける人は後を絶たないようです。

認知症気味の一人暮らしのお年寄りは勿論のこと、
電話の声に騙されて数千万を振りこんでしまった、などという事件の報道を
「確認もろくにしないで大金を振り込むなんて馬鹿だなあ」と笑っているような人々でも、
いざその場になるとあっさりと騙されてしまうということでしょう。
最近の犯罪の手口は巧妙に進化していっているそうです。

詐欺罪の犯人を知能犯と言います。
どうすれば電話だけでカモを信じさせ、さらにその足で歩いて銀行まで行かせ、
大金を振り込ませることができるか。
犯人グループは知恵を絞って日夜その研究と手口を錬成しているそうですが、
メンバーに劇団員崩れの「演技指導係」までいるなどとという話を聞くと、
「だまし取る金もさながら、犯罪を成功させる達成感や充実感も犯行動機のひとつか?」
とつい思ってしまいます。

「結婚詐欺」は、電話で全てを済ます振り込め詐欺などと違い
こちらはがっぷりと被害者と対峙して、相手を信用させ、貢がせるのが商売。
中長期的な臨機応変の対処が必要とされますし、そもそも相手に
「惚れさせてナンボの商売」ですから、詐欺の難易度ランクとしては高いように思われます。

果たしてそうでしょうか。

この映画「クヒオ大佐」の製作発表があったとき、世間は(ごく一部)騒然となったようです。
実在した結婚詐欺師「クヒオ大佐」を映画にするというのもさることながら、
それを演じるのが、コアなファンを持つといわれるアルカイックスマイルの優男二枚目俳優、
堺雅人であるというマッチングが
「なにそれ~、観たい」(笑)
というキワモノ興味を激しくそそるものだったからでしょう。

実はわたくし、クヒオ大佐事件が実際に起きていたときには、
経過を全く把握せずにすごしてしまい、今回、初めてその何たるかを知りました。

ゴムで付け鼻をして、どう見ても「鼻の大きな日本人に扮している」だけの堺雅人と違い、
実際のクヒオ大佐は、身長163センチの短躯ながら、こちらは
「どう見てもアメリカ人」に見える(整形手術を受けていたといわれる)顔、片言日本語、
びしっと着こんだ米軍の軍服で
「わたしはアメリカ空軍特殊部隊パイロット。
ハワイ出身で、父はカメハメハ大王の末裔母はエリザベス女王の双子の妹である」
と名乗り、さらに
「私と結婚すれば、軍から5000万円の結納金が支給される。
イギリス王室からも5億円のお祝い金が出る」

さらに「軍の機密費を使いこんでしまった」などと言って大金を貢がせたそうです。

この怪しげな設定と、怪しげな容姿、さらに誰が見ても怪しい理由でお金を要求されて、
4500万(51歳)、850万(25歳)120万(33歳)―カッコ内は女性の年齢―という具合に
大金を疑いもせずに渡してしまったというのですから驚きです。

傍から見ていると「なんだってこんな胡散臭い人間を信用するのだろうか」と、
女性たちの馬鹿さ加減を嗤わずにはいられないのですが、ちょっと待った。

表層的に見れば確かに騙される者がバカ、の一言で済んでしまうこの結婚詐欺。
しかしもしかしたらそこには本人にしかわからない「騙されるべき事情」があったのではないか?
そして、騙す方にも、振り込め詐欺のように、金だけが目的ではなく
「そういう自分を演じ切ることに対する喜び、ひいてはターゲットへの(ある意味)本気の愛」
があったのではないか?
こういった観点から描かれたのが、この映画「クヒオ大佐」です。

弁当屋を細々と営むしのぶ(松雪泰子)、
子供が嫌いなのに自然科学館で指導している春(満島ひかり)、
店を出したがっている銀座のホステス未知子(中村優子)。

詐欺師と知っていて、逆にお金を取ろうとする海千山千のホステスには歯が立ちませんが、
従順な弁当屋経営者をずっと食いものにしてきたクヒオ大佐。
なぜか、どうみてもお金の無さそうな春に目をつけます。

詐欺を知ったしのぶの弟が、それをネタにクヒオ大佐を強請ってくるというのはお笑いですが、
弟に渡す金を、クヒオがその姉からだまし取るというのが何とも哀しい。

この映画で堺雅人は、どこまでも胡散臭く、いたるところで目を覆うような間抜けぶりを見せ、
それゆえ憎めない詐欺師を演じて秀逸です。
どこかで「堺雅人なら騙されてみたい」という女性ファン?の感想も見ましたが、
少なくともこの映画上では、堺雅人は全くと言っていいほど男前にも素敵にも見えず、
トレードマークの「いつも笑っている顔」が、何とも安っぽく、軽薄で愚かにすら見えます。

現実のクヒオが、どう見てもハンサムとか二枚目とか言う言葉とは程遠い男であったこと、
それでいながら数多くの女性が彼を信用し、もしかしたら彼を愛したこと。
このあたりが、「事件史」には残らない、男と女の機微の不可思議といえますし、
ましてやこの、お馬鹿そうな堺雅人のクヒオならさもありなんと思わせるあたりが、巧い。

ところで、エリス中尉、学生時代にこの手の結婚詐欺と接触したことがあります。
本を読んでいた喫茶店で隣り合わせた男が、丁寧な口調で話しかけてきました。
何を読んでいるのかに始まり、当たり障りのない話が続きましたが、そのうち
「知人の会社が書類の整理をするアルバイトを探しているのだが、やってみる気はないか」
と言いだしました。

一人で街を歩いていると
「お土産買わせて下さい」とか
「お話ししているだけでお金もらえるアルバイトがあるんだけど、興味ない?」
などという怪しげなお誘いをしょっちゅう受けていた頃ですから、
勿論頭から信用していたわけではないのですが、
雑談の段階で、非常に物識りかつ教養のありそうに見えたので、
(これが詐欺の詐欺たるゆえんですね)
つい電話番号を教えたのです。若かったんですね。
アルバイト、というのにも少し興味はありましたし。

すぐに電話がかかってきて、面接のために相手の指定したのは、シティホテルの一室。
人を疑うことのできなかったわたしですが、さすがに一人では怖いので、
予告せずに大学の先輩(無茶苦茶辛辣で世知に長け、頼りになる男前な大阪出身女性)を、
相談のうえその場に連れて行きました。

男は先輩を連れていったことをその場では何も言いませんでしたが、
仕事の話を具体的に進めることもなく、眼の前でかかってきた電話に長話をしたりして、
時間は過ぎていくばかり。

先輩はもう完全に「見破りモード」。
かかっていた英語の歌についていきなり男が
「この曲、どういう内容か、知ってる?・・・馬鹿な女が騙されて泣く歌さ(ふっ)」と言うと、
先輩、鼻で笑って
「そうですかあ?ウェイクアップなんていってますけど?」
男「・・・・・・・・」

ホテルの部屋を出るなり
「なにあれ!これ見よがしに英字新聞広げて、詐欺丸出しやん!
アンタみたいなぼーっとしてるコが、騙されてツボ買わされたりするんよ」
「いや、まだ何にも騙されてないんですけど」
「いいから名刺持って警察行き!あいつ絶対怪しい」

家に帰ったら男から電話。
「何で今日一人で来なかったんですか」
「あの、先輩が、心配だからどんな人か見てやると言って」
「失礼な!あなたもあなただ。あんな生意気な女の子をいきなり連れてきて」
なぜか電話は叩き切られ、母親も
「この人、あなたがいないときも何度も電話してきて、やっぱり変よ」
と言いだしたので、警察に行きました。

「あのー、詐欺課ってどこですか」
「詐欺課ってのはなくて、二課ですね」
そう言われて刑事さんに名刺を見せ、犯罪リストを検索してもらうと、

「寸借詐欺、追い出し盗、結婚詐欺」

の立派な前科三犯であったことが判明。
ひえええ~。
クヒオ大佐と違って、この人は本名で詐欺活動していたのです。
亡くなった有名人と同姓で、その甥というのがウリだったからでしょう。

勿論わたしは何の被害も受けていなかったので、刑事さんに
「何もなくてよかった。気をつけてくださいね」と言われて警察を出ました。
しかし、このときにわたしの思ったこと。
「何故わたしに声をかけたんだろう。どう見ても学生でお金なんて持ってなさそうなのに」

この映画「クヒオ大佐」で、詐欺だと知った「春」(満島)が、全く同じことを言います。
「どうしてわたしだったの?お金なんて無いのに」
それに対して、松雪泰子の「しのぶ」がこういうのです。
「好きだったからに決まってるじゃない。だから騙したのよ」

少なくともジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐を名乗った男は、クヒオという存在を
深く愛し、こだわりを持っていたことは確かでしょう。

なぜなら彼は、詐欺で捕まり、逮捕されても逮捕されても、
刑務所から出てくるたびに、同じクヒオ大佐になって、詐欺を繰り返したのですから。
今と違い、インターネットで事件を知ることもできないとはいえ、
なぜあくまでも「アシのつき易い」クヒオ大佐にこだわり続けたのか・・・・・。

クヒオとして愛されること、クヒオを演じることが彼の人生そのものになっており、それどころか
女性と会っているときはかれは自分でもクヒオだと思い込んでいたのかもしれません。
(彼は捕まったときクヒオ大佐として結婚し、子供までもうけていたということです)

そのうえで「好きだったから騙した」というこの映画における解釈は、妙に納得がいきます。
詐欺のテクニックが「その人物に完全になりきる」ことにあるのなら、
結婚詐欺師が相手を好きという気持ちは、自分が本気であると思いこんでしまうくらい、
あくまでも限りなく本物に近くなくてはならないはず。
クヒオ大佐は相手を「本気で愛していた」と言っても、なんら問題はないのではないでしょうか。

言い方が悪ければ、「本気で愛していたが、ついでに騙すつもりでもあった」。
ノーマルな恋愛と違うのは、後半であるというだけで。

世の中、騙すつもりなどなくても「本当に好きかどうかわからないけど付き合っている」
「好きでもないのに付き合っている」
つまり「恋愛詐欺」をしているカップルはいくらでもいますよね。
勿論、こちらは犯罪として問われることはありませんが。

堺雅人のクヒオ大佐は、詐欺であることがばれ、心中を迫る弁当屋のしのぶに
「ぼくは北海道で生まれたんだ・・・・」と告白を始めます。

「バラ屋敷と言われているうちで・・・・父親はスーパーを経営していて・・・・」

言いながら彼の脳裏を過るのは、本当の幼い日の陰惨な記憶。
それを語るクヒオ大佐の表情に浮かぶ貼りついたような微笑み。
堺雅人のキャスティングはこの瞬間のためにあったのではないかと思いました。


え?わたしの出会った詐欺の話はどうなったのかって?

警察で前科を知ったことは言わずに(怖いから)、居留守などで距離を取ることに成功し、
その後、前科三犯氏からの連絡は途絶えました。
そして一年ほど経ったクリスマス。
なぜかもの凄く豪華なクリスマスカードが、その名で送られてきたのです。

気味悪く身構えるような思いでしたが、それ以来何も起こらず、
さらにもう何年か過ぎたある日、わたしは彼の名前を新聞の片隅に見つけました。

それは、三犯氏が結婚詐欺で捕まった、ということを報じる記事でした。






明治村と「坂の上の雲」

2012-03-04 | つれづれなるままに

                       

京都の四条河原町、ロイヤルホテルの近くに立派な教会があります。
現在の教会が建つ前に、ここにあったものが、これです。
重要文化財、聖ザビエル天主堂
中に入るとフランス、イタリア、スペイン・・・・・・ヨーロッパの古い教会そのまま。
歴史の重厚さを感じる壮麗なものです。

市街地の四条河原町にあるときには勿論無かったこの石段。風光明媚な環境。
この教会にとって、ここが本来あるべき場所だったのではないかとすら思えます。

おまけに、ここでは教会も「現役」。

明治村には、結婚するカップルのために、ここを始め園内の三つの教会で挙式、
帝国ホテルや、三重県庁庁舎の一室で披露宴ができるウェディングプランがあるそうです。

三重県庁庁舎
なんと、鹿鳴館を模して造られた豪華な宴会場があるのだそうです。

それにしても・・・。
三重県の県庁が、現在どんな庁舎を使っているのかは知りませんが、
全国津々浦々の「お役所」のほとんどに、
いるだけで気が滅入ってくるような醜悪な建物が使用されていることを考えると
「どうしてこうなった」と嘆かずにはいられません。


明治村ウェディング、いいなあ・・・。
もしもう一度結婚式をすることがあったら、ここでしてみたい・・・・・



・・・というのは悪質な冗談ですが、

それにしても、この「建物の移設技術」って、どうなっているんだろう。
よくぞこんなものを前と寸分たがわず同じに持ってこれるものだと、これは明治村の全ての
建築物に対して感慨を持ちました。
移設にあたって、きっと耐震設備も施されているんでしょうね。



一番向こうに見えているのが、千代田区にあった内閣文庫
現在の国立公文書館ができるまで、そこにありました。

川崎銀行本店
東京日本橋の本店が昭和六一年取り壊しになった際、外壁部分の一部が移築されました。

こういう歴史的、そしてなにより趣のあって美しい建物が、
どうして日本には残せないのでしょうか。

アメリカの古都、ボストンでは、外壁に1800年代の建築であることを記した建物を、
壁を塗り替えてジムやネイルサロンに使っている、なんていうのは普通です。
(アメリカでは住人が変わるたびに壁のペンキを塗り替えます)

ニューベリーの目抜き通りは100年以上経ったアパートメントが立ち並び、そこに住むのは
ボストニアンのちょっとしたステイタスでもあるのですが、内装はいくらきれいにできても、
裏側の配管やらなんやらは、もう大変なことになっていて、
地下室では鼠が人間より先住者として大きな顔をしている、という代物だそうです。
にもかかわらず、彼らは決してそれを取り壊そうとしません。

勿論、都心のオフィスビルなどは、最新の設備を備えたインテリジェントビルですが、
オフィス街はともかく、街の景観そのものを変えてしまうことに対して、
彼らは日本人から見ると異様なくらい否定的です。

先日小牧というローカルな場所で、日本の地方都市の醜さについて少し書きましたが、
たとえ都心部でも、街の景観という点では、醜悪さにおいて大差ないと言えます。

以前、目黒通り沿いに、まるでお城の城壁のような外壁を持つ、立派な日本家屋がありました。
「どんな人が住んでいるんだろう」
などと、通るたびに妄想をたくましくしていたのですが、なんと、去年暮れに取り壊され、
跡地には集合住宅が建てられることになってしまっていました。

嗚呼、またしても・・・。

古いお屋敷が、相続税などの関係で支えきれなくなり、
分割して売られたり、マンション建設地になったりして、元の街並みがどんどんと
陳腐に変わって行く流れは、もうどうしようもないことのようです。

うちの近所も、空いた土地を三分割して、おもちゃのような、ピカピカ光る外壁の、
「建売住宅」(しかも三軒がみな同じ形)になってしまったところがあり、
その、工事開始からあっというまに立ち並んでしまった、みっともない家を眺めながら、
「こんなものに何千万も出す人がいるのね・・・」
と慨嘆したばかりです。

江戸時代の街並みを、航空写真のように高いところから撮影した写真を見たことがありますが、
整然として実に清々しい、美しいとしか言いようのないものでした。
その頃の日本人に「街の景観」を考慮するような意識は、全く無かったに違いないのですが、
それでも、もしかしたら犬養道子さんの言うように、
「日本人の美的感覚(景観に対する)は、どこでおかしくなってしまったのか」
といぶからずにはいられない現在の「変節ぶり」です。

日本で「しっかりした建物を建てて大事に使い、それを何代にもわたって守って行く」
という概念が根付かないことの原因の一つに、地震をはじめとする天災の多さがあるでしょう。
一瞬にして倒壊し、いったん火がつけば燃え広がって一角が全て焼けてしまう日本家屋。

文化や文明は、干ばつ地帯や砂漠、あるいは永久凍土の地に決して発達しません。
自然の脅威から生命を守ることが優先されて文化どころではないからです。
そういう意味では、自然災害の多い日本という国は最初からハンディが多すぎるのです。

この、決して住みやすいとも言えない国土で、それでも、
これだけの文明を発展させ維持して、独特の文化を花開かせてきた日本人。
ハンディに打ち勝ってきたことは賞賛されるべきなのでしょうが、いかんせん、
地震と戦っていくのが先決問題で、建築物の半永久保存や、ましてや街全体単位で考えた
景観の美的価値などあまり考慮されてこなかったということかもしれません。



明治村で一番新しい建築展示物、西宮市にあった柴川又右衛門邸
阪神大震災で右のように損壊し、これを機会に明治村に移設されました。
明治に建てられた歴史的建築物を保存しようにも、こうなってしまっては住み続けるわけに
いかず、ここへの移転となったのです。
 
ふすまを開けたら収納式の暖炉。



ふと眼をとめると、豆球の差し口がハート型・・・。
ここは、普段ガラスを被せて、人の目に触れない場所だったはず。
見えないところにこの遊び心。なんて粋なんでしょう。


これはしかし、幸福な一例で、うちの実家の周辺にあり「お屋敷」と呼ばれていた日本家屋が、
震災の後取り壊されて安っぽいマンションになったように、たくさんの価値ある建物が、
あの地震で永遠にこの世から消えてしまったのです。

先日、陸軍士官学校卒の建築家の方の話をしましたが、この方が長をしているプロジェクト
は、建築家や歴史家が、あの大震災で失われた歴史的建造物の記録をまとめ、
修復できるものをよみがえらせる、というものでした。



余計なもの、夾雑物の全く無い町並みというものが、いかに美しいものか。
明治村に来ると、それがよくわかります。
ヨーロッパやアメリカの古い町が、頑迷で偏執的にすら思えるくらい、
昔からの街並みを保守するのはなぜか。

ここ明治村で、時の経過に耐えた建築物が整然と並ぶこの街角に佇み、
理屈抜きにその美から安らぎと落ち着きを感じるとき、
「それが文化というものだから」
という答えが、自然と出てくるのです。



「山本五十六」もここで撮影されました。
町並みは勿論、山本家のご飯シーンも、この中の建物を使って撮影されたようですね。

ところで、今回、園内では繰り返し繰り返し、久石譲氏作曲の、NHKドラマ
「坂の上の雲」のテーマソング、歌バージョンが放送されていました。

確かに、最初に耳にしたとき「この曲は、この街並みに確かにぴったり」などと思ったのですが、
何回も何回も何回も何回も聴いていると、まるで、拷問。
特にわたしは、どんな曲でも3回以上繰り返されると、もうダメです。

昔訪れたとき、こういうBGMが流れていたかどうかは記憶にないのですが、
またまた犬養道子さんの言葉を借りると
「電車の中、街中、エレベータ、デパート、スーパー、日本人は音に対して無神経すぎる。
街に音が氾濫しすぎているのにこれでもかと押しつける・・・」
煙草の煙を吸わないですむ権利のように「音を聴かずにすむ権利を守ってほしい」

いくら「坂の上の雲」がいい曲でも、一日中エンドレスで流すのはいかがなものでしょうか。
客はそれでも一日我慢すればすみますが、おそらく従業員は苦痛すら感じていると思いますよ。

明治時代を再現するここ明治村で、電気再生音は全く無用。
当時の静けさこそを再現して、訪れる者に空想の余地を与えてくれることを心から望みます。
 








伊号33潜を引き上げた人々

2012-03-03 | 海軍

二回にわたって、昭和19年6月、伊予灘に事故のため沈没し、
9年たった終戦後の昭和28年、
引き揚げられた帝国海軍の
伊号33潜水艦について書きました。


今年も3月3日がやってきましたので、伊33潜について書くことにします。


行方不明の急報を受けて、呉工廠から事故後5日たってから救援隊が派遣されました。
捜索方法は網を張って底引きのようにくまなく海底を探り、
伊予灘由利島南方3500メートル地点、
鎮座している伊33が発見されました。

沈んだ艦の外からハンマーで叩いて生存者を確認するも、中からは応答がなく、

そのときには艦内の全員が死亡していると判断されました。
その時点で艦内の空気は残っているようでしたが、
全員死亡と判断された時点で救出作業は行われないことになりました。


潜水艦は非常に事故の起こりやすいもので、第二次大戦中戦没した潜水艦のおよそ半分は、
敵の攻撃ではなく事故によって沈没したのではないかと言われています。

しかし機密性の高い潜水艦は、たとえ事故で海底に沈んでも、
伊号、呂号レベルであれば50時間くらいまでは救出が可能です。
たとえば呂64潜が大竹沖で事故を起こしたときは40時間、
呉港外で特殊潜航艇「蛟竜」が沈んだときには24時間目に艦が引き上げられ、
いずれも全員が生還しています。

しかし、今と違ってそのほとんどを潜水士に頼らざるを得ない当時の引き上げ作業は、
それ自体が困難なものでした。
例えば伊33潜は海深60メートルの海底に沈んでいたわけですが、そのくらいの深度だと
海底での作業は潜水士でもわずか5分から7分に限られます。
さらに、潜水病を避けるために、浮上するのに1時間半をかけておこないます。

ある減圧事故の例ですが、その潜水士は、30メートルの海底に潜ってから
道具を忘れたのに気が付き、急激に浮上しました。
忘れ物を携えて再び潜るときには一見何ともないように見えましたが、
二度目に浮き上がってきたとき、死亡しました。
血管中に窒素が残った状態のまま浮かび上がることによって急死に至ったのです。

その頃の潜水士は呉式という階段式の浮上方法を守っていました。
例えば60メートル潜ると、浮上するときにはまず30メートル上がって水中で30分休む。
この方法が普及してからは死亡事故もかなり減ったのですが、
何度も深海に潜っているベテランの潜水士でも、海深60メートル以上深い海には
「地獄が真っ暗い口を開けて待っている」と怖れたものだそうです。

この伊33潜引き揚げは、戦後の記録で世界一の深さからのサルベージ作戦となりました。
引き揚げを請け負ったのは北星船舶工業という会社。
この会社は、ある豊後水道での引き揚げ作業のときに酸素ボンベが爆発し、
たくさんの作業員が無くなる事故があったのですが、その生き残りの人々が、
力を合わせて作り上げた会社でした。

当初9年前に伊潜が沈没した地点はすでに分からなくなっていて、
当時の事故を知る漁師に案内を頼み、彼が示す位置付近の海上を、
三本の糸におもりをつけたものをたらしたまま往復して捜索しました。
三回目に、錘が艦体にあたった「コツン」という音がし、艦の位置が確認できたのです。

引き揚げ作業は「ちょうちん釣り」という方法で行われました。
棒で沈んでいる艦の底の砂に穴をあけ、そこにワイヤーを通し、
それに100トンの大きさのタンクを沈めて縛り付け、
20個ほどのそのタンクの浮力で艦を浮かせていくという方法
です。

世界のサルベージ作業の歴史を見ても二番目の深度でのもので、
先ほども書きましたが、この深さゆえ潜水士の作業時間はわずか5分。
材料不足などもありましたが、指揮官先頭を体現する北星工業の又場社長が、
みずからワイヤーを握って陣頭指揮を行い、心身ともに過酷な状況の潜水士をまるで
慈父のように労わるなど、社員が一丸となって作業にあたった結果、
四次に分けた作業は天候の不順な日を除き、順調に進みました。

この作業の第三段階で、艦首が一部分だけ海面に出ていました。
このため、このころから艦の前部に多量の空気の入った(つまり浸水していない)部屋が
あるのではないか、と見られていました。
それが報道されるや「もしかしたらミイラ化した死体が出てくるかもしれない」という予想に、
マスコミや世間は異常な関心を寄せ出したのです。

作業の第四次段階には報道陣がつめかけはじめました。
彼らの目の前で作業員が指を切断するという事故も起こり、危険な作業であることを
目の当たりにしているはずなのに、そこは今も昔もマスコミです。
魚雷に入っている特用空気はカメラのフラッシュにも引火しかねず、それだけでなく
他にも危険はいくらでも転がっている現場で、彼らは平気で煙草を吸い、寝ころび、
艦体を叩いたりして、作業員のひんしゅくを買ったそうです。

「今考えたらぞっとして冷や汗が出る。知らぬが仏とはあのことだぜ」

艦が浮上し、遂にハッチが開けられました。
問題の前部発射管室の扉が開けられる時が来たのです。
そのとたん、白いモヤの充満した艦内から「ぐっと来る悪臭」が作業員の鼻をつきました。
懐中電灯を照らしてみると、その光の中に完全なままの釣り床のマットが見えます。
しかし、ガスをある程度換気するまで、危険なので誰も立ち入ることができませんでした。

この悪ガスの正体は、希硫酸と鉛、非鉄金属などが海水に作用して化学反応を起こし、
有毒に変わり、それに死体の匂いが加わったものです。

そのうち全ての空気が入れ替わるのを待たず、一人の記者が艦内に飛び込み、
中の様子をまず目撃しました。
9年前死んだのと同じ姿で床に臥せ、あるいは首を吊っている死体、その数13。

作業終了直前にようやく区画内の写真を撮ることができましたが、
それが前回お話しした「三葉の写真」です。
日頃大抵のものには驚かないカメラマンが、このときは額からアブラ汗をタラタラ流し、
ほとんど失神寸前であったそうです。
艦内の異様な空気の汚れに身の危険を感じたせいもあるでしょう。

しかし、写真を撮ったら後も見ずに飛び出してくればいい報道記者の体験など、
実際に死体をハッチから引き上げるために、死体をむしろで包み、
あるいは抱きかかえるように担いで降ろした潜水士の凄まじい作業に比べれば、
何もしていないに等しい、というものではなかったでしょうか。

ある遺体はまだ少年のようなあどけない顔に苦しさをにじませたままでした。
どの遺体も、面影は変わらず、ただ眼球が少し陥没しているだけだったそうです。
まだ死体は硬直していなかったため、手足を動かすとパクリと口を開けました。

こんな遺体を収容するたびにデッキに上がっては、彼ら作業員は酒を飲んだそうです。
これは彼らを労わる又場社長の計らいだったのでしょうか。
普通の作業であれば仕事中に酒などありえないことでしょうが、
あえてそれをしたところに、この作業がいかに異常なもので、
作業員の精神が過酷な状態にあったかが覗えます。

かれら潜水員のほとんどは、

戦艦陸奥、日向、伊勢、榛名、巡洋艦青葉、利根、空母天城、
阿蘇

の引き揚げ作業に関わっています。
陸奥のときは沈没直後で、まだ艦内に遺体が残っているころでした。
(海軍はこのとき陸奥を引き揚げて再利用しようとしたが、
再生は不可能と分かり重油の回収だけでこのときは終わった)

破孔(破れ目)から一歩艦内に入ると、天井にピッタリと人体がくっついています。
潜水員が部屋に入り、海水が動くと、まるで後を追うようにそれらがついてくるのです。

しかし、彼らは登山家がさらに高い山を目指すように、
前人未到の沈艦をみずからの手で引き揚げることにかける情熱を、
当時(昭和28年)このように語っています。

「沖縄の戦艦大和を引き揚げたい。
もっとも水深200メートルだから、深海潜水作業機でもなくちゃ。
フィリピンの武蔵に、熊野灘の空母信濃もだめだ。
まあ我々ダイバーは一生の三分の二を海底につかって、
そんな果てしない夢を追うのさね、ハハハ・・・。」






三菱航空資料室~いろいろ

2012-03-02 | 海軍

        

昨日の記事に、コメント入りました~!
そのリュウTさんのコメントから読んでいただくと話が早いのですが、何とわたしは
メッサ―シュミットはメッサ―シュミットでも、メッサ―シュミット違いで、違う機種、
Me262の資料から秋水ができたと勘違いしてたってことですね。
ドイツはMe262とMe163の資料を、どちらがメインかは知りませんが、同時に送ってくれたと、
こういう理解でよろしいでしょうか。

秋水のモデル、Me163コメート
写真、見ました。
・・・・・・・そっくりです。

よく設計図なしでこれだけそっくりにできたなあ。
・・・と、またもや脳内に地上の星が鳴りだしたところでふと気付くと
リュウTさんのコメントの中のこの一文、
「先端にプロペラが付いてかわいさ倍増」
・・・・・って・・・・ってことは・・・。

これ、(上↑)コメートの設計図ではないですか。

ちゃんとプロペラついてるし。
「伊潜と一緒に沈んだ」と言うから、てっきり残った資料をもとにしたら、あんなおもろい形に
なってしまったんだと勝手に思っていたんですが・・・。
こちらの設計図はご無事でしたか。
でも、何だか設計図にしてはおおざっぱすぎる気がするのはわたしだけでしょうか。

そこでナチスドイツのコメートの画像を調べたのですが、
もう・・・・かわいすぎて生きるのが辛い・・・。

とまでは言いませんが、発電用と知らなければ、飾りとしか思えないかわいいプロペラ。
「着地が下手でよくころんだ」とか、「自力では移動できないので対地攻撃の的になった」とか、
おまけにボディに描かれた「怒!」みたいな井桁マークがさらに一層愛おしさをそそります。

そう言えば、説明係の方が
(コメートは)「燃料が切れてグライダー滑空している間は、ダイブのときと違って遅いので、
この間にやられちゃったんですよ」とおっしゃってたなあ。
しかもウィキペディアによると、スピードが違いすぎていざ接敵となっても弾が当たらないとか。

しかし、不思議じゃありませんか?

そんな不安定で事故の多い、欠陥品とも言えるコメートを、
なぜドイツは日本に技術供与したのか。

日本なら・・・それでも日本なら何とかしてくれると・・・
・・・・思ったわけでもないだろうになあ。

そしてMe262=橘花ですね。
ジェット&ロケット推進は花の名前、ということで「橘花」そして「櫻花」とつけられたんでしたっけ。

ちなみに「秋水」は「秋水(利剣)三尺露を払う」という短歌から取られました。



さて、そのような具合に、ここで見学した零戦と秋水についてお話してきたわけですが。
ここに展示されている実機は全部で三機。
零戦、秋水、そして、三菱製の自家用ジェット機です。
外観を写真に撮るのを忘れた・・・・・orz

 

中に入って、操縦席に座り、操縦棹も動かし放題。
いわゆるジェットセッターのための豪華仕様ですから、居住性はまずまずです。
いすに腰掛ければ、決して圧迫感も感じません。
ただ、いすにはリクライニング機能など付いていませんので、寝るのはかなり辛そうです。



旅客機が全面禁煙になったのも2001年のことで、それ以前は航空機内での喫煙は、
普通に可でしたから、パイロット席の肘かけにも灰皿があります。
空気供給だけでなく、換気もここで行われたそうです。

機体の後部にはトランクなどを収納する棚、ドアを閉めると引き出せるミニキッチン、そして
トイレがあります。
手が押さえているところに取っ手があり、ここを持って引き出しのように出して使用。
聴きそびれましたが、まさか射出式ってことはないと思います。



翼が窓より上につけられているため、窓から下の景色が遮られない、というのがウリ。



ジェット機の窓から零戦を臨む。
時空的に決してありえないセッションが、今ここに。



この機体をお買い上げになったお客様のひとり。指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン
なんだかまわりを三菱の偉い人がびっしりと取り囲んでますね。
プロレベルのスキー技術を持っていたと言われるように、運動神経抜群であったカラヤンは、
勿論のこと操縦免許も持っており、自家用機を自ら操縦して演奏旅行に行ったそうですが、
その自家用機が三菱製だったとは知りませんでした。




右、CCV研究機。左は・・・・ヘリコプター。・・・・見たら分かるって。



次期支援戦闘機FX-S




三菱マークの入った時計、そしてクローゼット。
なんだって重工業会社がこんなものを作っていたのか?

昭和6年ごろ、三菱が不況時に製作し、社員に販売した木製品です。
重工業とはいえ、もとはと言えば飛行機は木製。
木の加工はお手の物で、テニスラケット、ピアノ台などもあったそうです。
飛行機の翼や胴体を作る技術で作られたクローゼットは堅牢で、70年間使ってもこの通り。
これ、中がハンガー式なのだったら、昭和6年にしては超モダンデザインですね。



鍋釜、秤の類の製品も作っていました。
これは終戦時の製品とのことです。

ところで「重工業」という言葉は、三菱創業者4代目の岩崎小弥太が、
Heavy Industriesの訳にあてた、いわば造語だということをご存知でしたか?



海軍大臣嶋田繁太郎の名前で、九六式陸攻の製作に対し出された賞状。



航空本部長だったころの山本五十六が来て、記念写真。
一番後列で立っている、眼鏡の人物を見ていただきたいのですが・・・。
これ、もしかしたら堀越二郎技師ではないですか?



朝日新聞社は1937年、ロンドンで行われるジョージ六世の戴冠式の奉祝の名のもとに、
亜欧連絡飛行を計画しました。
当時、日本とヨーロッパの間を結ぶ定期航空路はなく、逆風である東京、欧州間の飛行は、
非常に困難とされていたのです。
この連絡飛行の機体に採用されたのが「神風号」という名前。
一般公募によるものだったそうですが、いやまったく、今現在築地にある、あのアサヒ新聞と
同じ新聞社のことであるとは、信じられませんね。
この麗々しい記事は、勿論のこと朝日新聞に載せられたものです。

神風号は1937年4月6日日本を出発。
離陸後94時間17分56秒で、ロンドンに到着しました。
イギリスの新聞は朝刊のトップに神風号の接近を報じ、ロンドンの空港や前経由地の
パリの空港は人が詰め掛け、神風号の二人の乗員はフランス政府から
レジオンドヌール勲章を受勲しました。

この歴史的な快挙を成し遂げたその飛行機が、ここで作られていたのです。


十式艦上戦闘機の元図。
繊維の入った丈夫な紙でできており、ゆえに今日まで完ぺきな図面が残存しています。

ここは、時間さえ許せば案内が終わった後何時間でも滞在することができますし、
ガラスケースの中のものも、係の方にお願いすれば出して手に取ることができます。
図面や、資料なども、ページを繰って見ることができる、貴重な史料室なのです。



この写真でもお分かりのように、に零戦のコクピットに(ちゃんと左から乗れるように)
階段がつけられていますし、いつもではないとは思いますが、操縦席に座ることもできます。
復元されたものだからこそこのようなことができるとは言え、零戦の試乗体験ができるのは、
もしかしたらここだけ?


写真を撮り忘れましたが、格納庫の外にも三機、自衛隊で使われていた初期の戦闘機が
展示してあって、先のとんがったところを(はめてあるスポンジを外して)触ることもできます。

航空、零戦ファン、歴史好きの方々にも機会があればぜひ立ち寄ってほしいところです。
あ、それから、結構たくさんいるに違いない秋水とコメートのファンには、特に。



資料室には売店もあり、Tシャツを購入。
これは背中のデザイン。

 

実演を見てその可愛さに、つい買ってしまったねじまきおもちゃ。
ころんとしたボディと色も秋水のようで、つい。
ネジを巻くと、このようにくるくると宙返りします。



ときどき失敗して、この姿勢で停止します。





 

 


三菱航空資料館~秋水

2012-03-01 | 海軍



この資料館に足を踏み入れて真っ先に目につくのが零式艦上戦闘機五二型。
その横に、鮮やかなグリーンがある意味零戦より目立っている、この「秋水」があります。

秋水と言えば、幸徳?それとも梨の種類?
この程度の知識で、(つまり全く存在を知らぬまま)初めて実物にお目にかかったわけですが、
これが・・・これが・・・

かわいすぎる。

なんすかこれー。
ころんとしてるというか、まるっとしてるというか。
ぽてっとした愛嬌のあるボディ、安定のあるようなないような、なんといっても、
シャープな零戦の横にあると何かのおまけ?とでも言いたくなります。

これは、ひとえに空気抵抗を極限まで抑えた、当時の近未来型フェイス(というかボディ)
だったんですねー。
この翼、なんと木製だそうです。


昭和19年6月、「空の要塞」と言われるB29が、初めて本土空襲を行いました。
このB29にあっては、零戦も隼も、「過去の飛行機」にすぎず、全く歯が立たない状態。
日本の新鋭機、飛燕、紫電なども健闘しましたが、迎撃に上がるのに時間がかかりすぎ、
さらに高高度でもレシプロエンジンの従来機では、排気タービン(現在のターボと同じ原理)
のB29に速さで勝てません。

いよいよ本土に襲来するB29を迎え撃つために、高空性能と、上昇力の優れた、
ロケットエンジン搭載の局地戦闘機の開発が計画されました。

目標は「一万メートルの高度まで3分で上昇できること」。
ちなみに、そのころの新鋭機でも、一万メートル上がるのに数十分かかりました。
三分で到達し、敵機を一撃だけして、あとは滑空して帰ってくる、というのですが・・・。




考えても見てください。
秋水は一人乗り、全長6メートル。
かたやB29は11人乗りの全長30メートルの超巨体。
鷲にスズメが挑むようなものです。

こんな、もしかしたら「焼け石に水」かもしれない武器の開発に、
切羽詰まった日本軍は期待をせざるをえないような状態であったともいえます。



同盟国ドイツとの技術交換協定により(といっても日本から供与した技術はなく、ドイツからの
一方通行でしたが)、メッサ―シュミットMe262の資料が伊潜によって運ばれ・・・・

・・・・る予定だったのですが、その伊潜が資料の一部を積んだまま撃沈されてしまい、
別便で行ったため何とか運よく難を逃れた残りの資料をもとに、
海軍、陸軍、そして三菱重工業の民間による、三者協力体制での開発が始まります。




メッサ―シュミット。
名前はやたらかっこいいですね。
秋水ほどころんとしていず、この日本の作成した秋水の設計図を見ても、
全く似ていません。
どちらかというと、車の方のメッサ―シュミットが、秋水にそっくり。

さて、せっかくの資料も伊潜とともに海に沈められたため、
不完全な資料と、たった一枚の写真をもとに、日本は設計を開始しました。

BGM:地上の星)

そして、二カ月後。
わずかの間にチームは設計を終了してしまいます。
早っ。

ペリーの黒船来航のわずか二カ月後、中を詳しく見聞した情報だけで図面を造り、
一年後に独自に日本製「黒船」を作ってしまった、日本の技術魂は、ここにも。

しかし、その日本の技術も、今回という今回は拙速に過ぎると言わざるを得ない
手痛い敗北を喫する結果となってしまったのです。

資料を手に入れてから一年後の昭和20年7月7日、横須賀海軍飛行隊追浜飛行場で
試験飛行が行われました。



試験パイロットは犬塚豊彦海軍大尉。
しかし、高度350メートルでエンジンの停止により、滑空状態から鉄塔に接触した秋水は、
不時着大破。犬塚大尉は頭蓋底骨折のため、翌日殉職します。

犬塚豊彦大尉。

離陸から不時着までの時間はおよそ2~3分であったとされます。



秋水のために考案された戦法は、一瞬で一万メートルの高高度まで上がり、
B29の唯一の弱点に思われた、直上方500メートルから背面ダイブで一撃を加え、
燃料があっという間になくなってからは、グライダー滑走で護衛のアメリカ機からひたすら逃げる、
というものでした。

このテスト飛行の失敗後、その問題点を克服すべく、エンジンの改良に取り組んでいるうちに
終戦になってしまい、ついに秋水は実戦投入されることはなかったのですが、
現実に運用されていたら、どんなことになっていたでしょうか。

よほどの腕のパイロットでも、たった一度のチャンスであのバカでかいB29に致命傷を与え、
なおかつ反撃の手も持たないままグラマンから逃れて生還することなど、
まず不可能だったのではないかと、素人でも思うのですが・・・。

日本軍は秋水の新技術にに多大な期待を寄せたらしく、恐るべきことに、
「まず155機、1945年9月に1300機、1946年には3600機」
という生産計画を立てていたと言われています。

無茶です。というか、無理です。

秋水をこれだけ作れる余力が仮に日本に残っているようなら、
本土にまで敵戦闘機が押し寄せてくる前に、なんとかなっていたのではないのでしょうか。
秋水の機体は全部で5機ほど作られましたが、そのうちの一機はアメリカに、もう一機が、
ここ三菱工場の資料室に展示されています。

もしこのとき研究が間にあって、実戦に秋水が投入されていたとしましょう。

計画はおそらく、B29の高高度から背面ダイブして、そのまま体当たりする、
「秋水特攻」になったはず、とわたしはこの資料室で話を聞いた瞬間思ったのですが、
その後調べると案の定、海軍は800名の隊員を秋水の特攻部隊として錬成していたようです。


犬塚大尉は無念の死を遂げましたが、もしこの実験が成功していたら、或いは、
終戦までの一カ月の間に、特攻としてさらに失われていた命もあったかもしれないということです。



また日を改めて、秋水についてはお話したいと思います。