一度「美人すぎる仲人」という題で、美人すぎると困る職業についてお話したことがあります。
先日、某慶応病院で定期チェックをしたときに、余診を取った医学生のおぜうさんが、
あまりにもかわいくてアイドルのようなのに軽く感動しました。
その項で「最近の女医はレベルが高い」と書いたように、昨今は医者だろうが弁護士だろうが、
高学歴=不美人
などという価値観は過去のものになっているのに気付きます。
女子の絶対数が増えているだけに、普通の割合で美人も出現してきているということでしょう。
本日画像は、北海道の帝国大学に入学した女子学生第一号、
日本初の理化学研究所主任研究員、そして日本で三番目の理化学博士となった、
加藤セチ。(1893~1989)
北大の佐藤昌介総長が女子学生の入学を認める発表をし、
東京女子師範を抜群の成績で卒業したセチがそれに応募してきたとき、
彼女の入校は教授会によって審査され、その際、
「美人過ぎるので科学者としてきっと大成しないだろう」
という反対意見もあったそうです。
これは当時の世間とほとんどの男性の、
容姿に問題があって、恋愛沙汰に縁のない女性にしか学問はできない
という、よく考えればとんでもない偏見で、今なら立派なセクハラ発言です。
しかしながら、彼女は「女子師範の名誉にかけて」勉学に邁進し、3年間で帝大を卒業、
理化学研究所の在任中に結婚し、さらには子供を二人もうけて、さらには研究テーマであった
吸収スペクトラムで分析した「アセチレンの重合」という論文で、京都帝大から学位を得るなど、
学者として大成しつつも家庭との両立を可能とし、日本の女子科学界の先鞭となりました。
今日は、この美人すぎる科学者と、日本初のロケット戦闘機、秋水の関係についてです。
先日、同盟国ドイツから技術供与されたメッサ―シュミットMe163コメートの資料を元に
ロケット推進型戦闘機「秋水」が日本で開発された、というお話をしました。
その際、三菱の航空資料室に展示されているのが「秋水」のではなく、
コメートの設計図であることが、リュウTさんのコメントによって判明(わたし的に)しました。
その時、その設計図が「供与されたにしては簡単すぎないか」という感想を持ったわけですが、
これはわたし個人だけの感想に非ず。
実際には受け取った日本側も
「こんな簡単なもので何をどないせいっちゅうねん」
と、頭を抱えたらしいのです。
実は撃沈されてしまった伊29潜には、設計図どころかMe163Bの機体が積まれていた、
と言われています。
極秘に行われたことゆえ証拠は残っていないのですが、当時空技廠では
「(伊29が)帰ってこないから困った」と皆が言っていた、という証言があるのだそうで、
このあたりの話は、また日をあらためて書きたいと思います。
とにかく、機体の設計図のみならず、搭載する肝心のエンジンの資料も実に簡単なもので、
仕方なく日本は、その資料をヒントに自主開発するしかなかったそうです。
(BGM:やっぱり地上の星)
というわけで、秋水に搭載するエンジンは日本開発の「特呂二号」、燃料は勿論、
そのエンジンに合わせて燃料概念図を参考にしたオリジナルとなりました。
資料室で右の写真を観ていた人が「どうして燃料をこんな甕に・・・・」とつぶやいていました。
これには訳があります。
メッサ―シュミット・Me163が戦闘においてほとんど役に立たなかった理由の一つに、
その燃料の特異性があります。
推進材として使用された高濃度の過酸化水素とヒドラジンは、爆発性と腐食性が極めて高く、
特別の保管設備を要したため、この設備を備えた飛行場でしか運用できず、
最初の頃こそ驚いた連合軍も
「コメートのある飛行場にさえ近づかなきゃいい」ということに気づいてしまいました。
しかも、この材料は人体に非常に危険な腐食性をもっていたのです。
ドイツの燃料貯蔵のシステムはどんなものだか分かりませんでしたが、
日本では、腐食のおそれのある金属ではなく、このような信楽焼の甕に貯蔵していたわけです。
陶器が影響をうけないということはよくわかるのですが、それにしても、
こんな酒甕のような牧歌的な貯蔵甕に溜めたりして、われたらどうするとか、どうやって運ぶとか、
こちらにも問題は山積、という気がするのはわたしだけではないと思います。
しかしまあせめてこのタイプなら・・・・・・。
さて、このあたりで、われらがセチ博士の研究について少し説明しておきます。
太陽の光をスリットのようなものに通し、さらにその先にプリズムを置くと、
プリズムを通った光は虹のように、帯状の光の像ができます。
これが、ニュートンが発見した連続スペクトルです。
これに対し、光を放射しない気体、流体、個体に連続スペクトルの光を透過させると、
その透過させた物質に固有の(波長の光が吸収された形の)像が投影されます。
どのような像が投影されているかを分析することで、その物質の正体を知ることができます。
このように光のスペクトルで物質の正体を調べる分野を分光学と言います。
セチ博士が学位を取った論文のテーマは、この分光学を応用してアセチレンを解析したもので、
吸収スペクトルによってアセチレンにベンゼンが含まれるということを実証したものです。
この研究はセチ博士の初期のものですが、昭和17年、これらの研究実績を評価され、
彼女は内閣戦時研究員に任命され、航空燃料の研究を行うことになりました。
簡単な設計図からでもすぐさま機体とエンジンを作ってしまった秋水チームですが、
燃料に関しては難儀をしており、そのため飛べないという状態であったのです。
燃料をも独自開発せねばならなかった当時の研究チームの悩みは、
燃料の燃焼熱のため、炉が溶融してしまうことでした。
その問題に対し、セチ博士はすぐさま
「ヒドラジンの20パーセントを水と交換すること」を提案します。
翌朝、100人近くの署員が見守る中でエンジンテストが行われ、実験は成功しました。
濃度80パーセントの水素を酸化剤に、メタノール57%、水化ヒドラジン37%、水13%、
というこの最終的な割合は、セチ博士の提案によって確定されたということになります。
簡単に説明すると、この燃料の仕組みは、前者(甲液)の供給する酸素で、後者(乙液)
を燃焼させる、というものです。
いずれにしても人体に危険であることに変わりなく、貯蔵は陶器の甕、そして、
扱いは必ず長そで長ズボンで手袋をして行いました。
実験成功に際し、加藤セチ博士は
「(部隊長は)理研の実績は大きいとほめてくださいました」
と、これはいかにも女性らしい言葉を残しています。
美人すぎて大成が危ぶまれた科学者が、戦闘機燃料の開発を成功させる・・・・。
今ならちょっとした話題になってマスコミが押しかけるのでしょうが、
当時は戦闘機の開発に女性を加えるということ自体、公にはしにくかったかもしれません。
しかし、加藤セチ博士の提案した燃料で秋水が日本の空を駆けたのは、ただ一度でした。
テストパイロットであった犬塚豊彦海軍大尉とともに、つかの間の希望を乗せたまま、
終戦直前の夏の空に消えてしまったのです。
そしてこの機体に関わった全ての人々の、情熱と夢も、終戦とともに潰えて無くなりました。(実験機と同じオレンジの秋水)
加藤セチ博士は男女一児ずつの母親でしたが、研究に没頭し、娘でさえ
「家に帰ってくるよそのおばさん」
のように思っていた、というくらい家庭のことは何一つしなかったそうです。
しかし、彼女はやはり母親でした。
彼女が政府から任命されて航空燃料の研究を始めた昭和17年。
息子の仁一は、徴兵により硫黄島に出征し、それっきり帰ってきませんでした。
そして終戦。
彼女は戦後、何度も知り合いに、硫黄島に行きたい、と言っていたそうです。
「だって、仁がまだ生きてるかも知れないから・・・・」