ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

女流パイロット列伝~ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」

2014-02-06 | 飛行家列伝

ボストンの離れ小島、マーサス・ヴィニヤード。

「マーサのブドウ園」

という名前を持つケープコッド近くのこの島は、国内の著名人が多く住み、
生活費は国内平均の60%高く、住居費はほぼ国内平均の二倍。

ジェームス・テイラー、ポール・マッカートニーなどの住人や、
クリントン夫妻のように夏の間だけの住人となる有名人は枚挙にいとまがありません。

ケネディ家の別荘があり、かつてエドワード・ケネディが事故を起こしたり、
JFKの息子ジョンの操縦する小型機が墜落したり、
あるいはジョン・ベルーシの墓があって墓参りする信奉者が住民の不興を買ったり、
何かと派手な事件や話題にもことかかない島です。

わたしはここに一度遊びに行きましたが、エドガータウンは見事に統一された雰囲気の
「白い家」ばかりで、おそらくこれは住民の間で暗黙のルールとして決められた色なのだろうと
感心しながら話し合ったものです。
町中がそのようなセレブリティの矜持と排他性を感じさせる空気に満ちており、
美しくはあるが決して「よそ者」を受け付けない町、そのような印象を持ちました。


1976年、このセレブリティの住む町で、一人の女性が亡くなりました。
ナンシー・ハークネス・ラブ。
本日画像は彼女の写真をもとに制作しました。 

今まで何人かの女流パイロットをモデルに漫画タッチで描いてきたのですが。
この画像では、実は目の大きさ以外ほとんどデフォルメしていません。
細面の顔、くっきりした二重まぶたは、ほとんど写真の通りです。
いや、実に漫画的な美貌でいらしたようですね。

あまりこの図からは想像できませんが、彼女はエアフォース・オフィサー。

タイトルはルテナント・コロネル、つまり空軍中佐です。
彼女は、先日エントリに挙げたジャクリーヌ・コクランと並んで、
最初に米軍軍人となって空を飛んだ女流飛行士でした。



ナンシーは1914年、ミシガン州の裕福な医師の家庭に生まれました。
ニューヨークの名門女子大
ヴァッサー・カレッジマサチューセッツ・ミルトンアカデミー
に学んだ
「才媛」でしたが、早くから飛行機に憧れ、
16歳の時には飛行機の免許を持っていました。


どうもいたずら好きのお転婆だったらしく、ミルトン在学中のある日、飛行機で
近隣の男子校の上空を「急襲」し、低空飛行でグラウンドの上を飛び、
チャペルを避けるために
急上昇などをして皆を驚かせています。

びっくりしてこの若い女性の「狼藉」を観ていた一人が機体のナンバーを書きとめ、
近隣の空港に通報して、誰が操縦しているかが突き止められました。

皆の注目を浴びていい気持ちで学校に帰ったナンシーを待っていたのは学校関係者。
しかし、彼らは彼女が飛ぶことをやめさせることはできませんでした。

確かに学校側は当時、生徒の車の運転を固く禁じていましたが、
「飛行機を操縦しないこと」というルールはどこにもなかったからです。

彼女はしかも後年、ミルトンの学生に飛行機を貸してそれで商売までしています。
ミルトンはどうやら「飛行機操縦禁止」を彼女の「飛行問題」以降も
学校の規則に加えることはしなかったようですね。



1936年、彼女は当時陸軍航空隊の少佐であったロバート・ラブと結婚します。
プリンストンとMIT(マサチューセッツ工科大学)というこちらも名門校の卒業生でした。

それにしても、「LOVE」という名前が存在するというのには少し驚いてしまいますね。
映画「タイタニック」に、「ラブジョイLovejoy」という名前の人物がいましたが、
これはそのものズバリです。

この結婚によって彼の名前に変わったナンシーは、後に三人の娘を設けました。

パイロット同士の夫婦は、共同で飛行機会社をボストンに設立し、
彼女は自社のテストパイロットとして飛び、会社は受けに入ります。

1940年5月、彼女は陸軍航空隊の輸送部隊を設立したロバート・オールズ中佐に、
女性パイロットによる航空機輸送部隊を作ることを提案する手紙を書きます。
次いで彼女は49名の、飛行時間を100時間超える女性パイロットをリストアップし、
それを提出しましたが、オールズ中佐の上官ハップ・アーノルド准将はこれを却下。

理由は、どうやら、彼女たちに向けられる世間の偏見を体面上気にした、というところです。
「同性愛者か、そうでなければ商売女のようなあばずれの集団」
と言われるようでは、軍にとっても面子は丸つぶれだと考えたのでしょう。
(これはとりもなおさず、彼自身の偏見であったということなのですが)

しかし、意外なところから活路は開けます。
真珠湾攻撃以降、彼女の夫はワシントンの任務に転勤になり、彼女もそれに付き従うのですが、
会社のオフィスはボルチモア州のメリーランドにあったため、毎日そこまで自家用機で通勤しました。

そんなある日、夫のロバートが、輸送部隊のロバート・ターナー大佐と(どうでもいいけど、
この話の登場人物はどうして名前が皆ロバートなのか)雑談していました。
以下エリス中尉の妄想です。

「グッドモーニング、サー」
「モーニン、ボブ。毎日時間に正確だね」
「はあ、うちの家内の通勤の関係上、家を出る時間がいつも早いもので」
「ああ、会社を持っていたんだったな。それが遠いんだね」
「ええ、ボルチモアです」
「What a heck! そんな遠くまで毎日列車通勤しとるのか」
「No way! (笑)飛行機ですよ。彼女が自分で操縦していくんです」
「Holy Moly! なんだって?ユアワイフは免許を持っているのか」
「持ってるなんてもんじゃありませんよ。彼女はうちのテストパイロットです」

「・・・・・・・・ボブ、その話をもう少し詳しく聞かせてくれないか」

ちょうどターナー大佐は運輸専門の人員を集める任務にあたっていたからですが、
さらにナンシーのパイロットとしての技術を確かめるに従い、彼女が当初立案した
「女性だけの輸送航空隊」を本格的に始動させようと動きます。

パイロットを集めるのも彼女の仕事でした。
そのリクルートに当たって、彼女はパイロットたちにくれぐれも世間の目を気にするよう、
たとえばこんなことを言っています。

「WAFSが成功するもしないも、あなたたちが世間の偏見をはねのけられるかどうかです。
くれぐれもスキャンダルだけは起こさないでください。
男性パイロットと同乗することも避けるように。
WAFSが男性と一緒に飛んでいるところを世間が見たら、それはきっと
公費を使って一緒に部屋で過ごしているようなものだと思うからです」

今から見ると、考えすぎだよ、という気もしますが、もともと計画が立ちいかなかった原因を
彼女はよく認識しており、そのリスクをできるだけ排除したかったのでしょう。

それでなくてもマスコミと世間の彼女たちに対する注目は大変なもので、
ナンシー・ラブのことは

「今最も注目されている『脚の美しい六人の女性のうちの一人』」

などという揶揄交じりのセンセーショナルな記事がライフに載ったくらいでしたから。

これからわずか数か月後、

女性補助輸送部隊(Women's Auxiliary Ferrying Squadron)
WAFSが誕生し、ナンシーはその部隊29名の隊長として任命されます。


前回お話ししたジャクリーヌ・コクランは、
いわばナンシー・ラブの「ライバル」と見られていました

二人が女子航空輸送部隊の設立を、しかも同じオールズ中佐に訴えていたのは、
その経緯を見る限りどちらが先かはわからないのですが、
コクランがルーズベルト大統領夫人に手紙を書いたというのが40年の9月。

どうもわたしはこのコクランという女性の、特に前半生は、妙に功名心だけが先走っているせいか、
「女子部隊設立」に動いたのも、どこかでナンシーのことを聴きつけた彼女が、

「彼女が失敗しても、わたしならきっと成功させられるに違いない。
なんといっても夫は富豪の名士だし、ルーズベルトとも知己があるのだから」

と競争心を燃やしたのではなかったかと思えて仕方ありません。

しかし、同時に二人の有名な飛行家が同じ土俵に立った結果、
結論として陸軍が最初に「顔として採用した」のはエリート軍人を夫に持つラブでした。

これは、どうやらコクランにとっては屈辱であったらしく、
WAFSの初代司令がラブに決まったということを聞いた途端、
それまでイギリスで現地の女子航空部隊を視察して、帰国したばかりであった彼女は
すぐさま再びイギリスにもどっています。

そして、さらにイギリスで巻き返しを図り?、帰国後は別の女性部隊
女性飛行練習支隊(Women's Flying Training Detachment)
通称WFTDを作り、めでたく?その司令となったのでした。

よかったですね(棒)



陸軍という男の掌の上での二人の女の戦い、みたいな構図ですが、
彼女らがお互いについてどう思っていたのかについて記されているものはありません。

1943年にはコクランとラブの二つの部隊は統合され、
空軍女性サービス・パイロット(Women Airforce Service Pilots)
WASPになります。


ナンシー・ラブは、WASPの輸送部隊のヘッドとなり(本日のタイトルはここから付けました)
その指揮下で、第二次世界大戦中アメリカ軍が使用した航空機のすべてを
1944年の解散までの間に輸送する任務に携わりました。

ちなみにラブが輸送にフォーカスしたので、コクランがWASPの司令になっています。

あくまでも動機は「地位と名声」であったコクランに対し、ラブの「女子部隊創設」は、
純粋に飛行家として自分ができることを追求した結果だったという気がします。
(わたしがコクランに点が辛いことを考慮してお読みくだされば幸いです)


あくまでも現場で飛ぶことにこだわったラブは、
P-51ムスタング戦闘機、C-54スカイマスター輸送機、
そしてB-25ミッチェル爆撃機を操縦した最初の女性となりました。

戦闘には決して加わらない、という前提で創設された女性部隊ですが、女性飛行士の効用は
こんな点にもありました。

つまり、女性特有の慎重な操縦によって、未知の、あるいは評価の決まってしまった航空機さえも、
安全に乗ることができるということをデモンストレーションできたのです。

ターナー中佐によると、

「男性パイロットに『空飛ぶ棺』と言われていたP-39の評価を変えたのも
彼女たちによるところが多い」

ということです。

とはいっても、やはり女性の輸送部隊を戦時中に運用することは、何よりも
もし敵機に彼女たちの機が撃墜された時に巻き起こる非難を恐れて、
軍の上層部はそれを積極的に推し進めることは結果的にできませんでした。


英国から要求されているイギリス内地へのB-17の輸送を行うことになった時です。
ターナー大佐は、ナンシー・ラブにそれを行う最初の女性になることを命令しました。

彼女と副操縦士がセットアップをしているときに、ある人物がこの話を聞きつけました。

最初に「女子部隊なんて」とこれを排除した、ハップ・アーノルド長官です(笑)

まさにエンジン始動をしようとしていたラブは、タキシングの停止命令を受け、機を止めました。
翼の下に走ってきたジープから、長官命令を書いた紙が彼女に渡されました。

"CEASE AND DESIST,
NO WAFS WILL FLY OUTSIDE THE CONTIGUOUS US"


「停止せよ WAFの海外への航行はない」

初めての女性飛行士によるB-17離陸の歴史的瞬間を写真に収めようとしていたカメラマンは、
不承不承B-17から降りてきた二人のパイロットの写真を撮るしかなかったのです。

このB-17のニックネームは、奇しくも「クィーン・ビー」と言いました。

ナンシー・ラブ(左)とベティ・ギリーズ

戦後、彼女と彼女の夫は戦時中の功績に対し、同時に軍から殊勲賞を授与されています。



さて、月日は流れて1976年。
もう一度舞台はマーサスヴィンヤードに戻ります。

戦後、公的生活を退いてからこの島で三人の娘を育て、彼女は穏やかな生活を送ってきました。
現役を離れてもWASPにいたときの部下たちは彼女を慕い、生涯の友となった者もいます。

彼女が亡くなった時、かつての「クィーン・ビー」は62歳。死因は癌でした。


その遺品の中には、彼女が30年に亘って手元に置き続けた小箱がありました。
そこには、
かつて彼女が司令として指揮を執り、
その命令遂行中殉職した、
WASPの部下たちの写真が何枚も収められていたそうです。
 







NIKON1で撮るシリコンバレーの小鳥(カフェ駐屯部隊)

2014-02-05 | すずめ食堂

などというタイトルをつけると、まるでNIKON専属のカメラマンみたいですが、
もちろんこれは見てその通り、ニコン1で撮ったというだけの映像です。



ここシリコンバレーマウンテンビューにあるベイショアパークは、
何度かお伝えしているように自然保護区域なので、大きなカメラを持ち込んで
本格的に写真を撮っている人がたくさんいます。

わたしも、ここに来るときには必ずデジカメではなくこちらを携え、
あわよくばナイスショットを、と思うのですが、たとえば前回のペリカンも、
実際のところかなり遠くの被写体を狙うことになるので、どうしても
ナショナルジオグラフィックのような写真にはなりません。当たり前ですが。




こうなると欲が出て、「もっと倍率の高いレンズが欲しい・・・」
となり、人間の欲望のメカニズムを端的に見る気がしていたものですが、
最近ついにその欲望に負けてしまい、

空挺団降下始めのときに望遠レンズを買ってしまったのはいい思い出。


さて、ここにはこれも前回お話ししたヨットスクールのあるクラブハウスがあって、
カフェが併設されています。



レイクサイドカフェ。
ここは前年来てクロワッサンが美味しかったので感激し、
何度か訪れて野菜たっぷりのサラダとともに朝ごはんを楽しみました。

TOが休暇でやってきたときにここで食べるのを楽しみにしていて、
さっそく朝の散歩かたがた寄ってみたのですっが、どういうわけか、
サラダがメニューから姿を消し、卵とハムとか、そういう
「普通のアメリカ人の朝食」メニューに変わってしまっていました。

余談ですが、アメリカ人って、本当に「野菜だけ」を食べないんですよ。
日本のホテルの朝食バッフェでは当然のようにある生野菜のサラダ、
これがアメリカではめったに見られません。
さすがに夜になるとバッフェにはシーザーサラダみたいなのを並べますが、
朝はかたくなに野菜を食べようとしないのがアメリカ人。
かれらにとっては「フルーツジュース」が野菜がわりのようです。

ポテトフライ食べて「今日は野菜食べたから大丈夫」なんて言ってる人達ですから。

それで、ここのカフェでもメニューからなくしてしまったのではないかと。
かなりがっかりしましたが、クロワッサンとカフェオレという、
フランス式の朝ごはんで我慢することにしました。




うーん。クロワッサンの味が少し落ちたような・・・・。
いや、気のせい気のせい。
カフェオレもミルクの量が少なすぎて異様に苦いし・・・。
これも多分気のせい気のせい。

最近歳のせいか?濃いコーヒーが「しんどい」と感じるようになってしまって、
めったにコーヒーを飲まないのですが、これだけ苦いと問題外。
何口か飲んであとはギブアップしました。

 

とはいえ、色とりどりの花が咲き乱れる湖畔のカフェで、
水面に遊ぶ人々を眺めながらゆっくりと朝のひと時を過ごすのが
楽しい時間でなくてなんでしょうか。

爽やかな風に吹かれながらクロワッサンを味わっていると、



足元にいつものテリムクドリモドキが。

 

カフェの横の草地には、このようにむくどりもどきとグースが共存していて、
ケンカすることもなく平和に暮らしています。



まるで放牧場のようなグースの集団。

座り込んだまま餌をついばむ不精なグース。

一本足で立っていることもあるのですが、
このように片方を地面にたらすこともあるようです。
こっちを見て「何撮ってんのよ!」と文句言いたげなグース。



カフェ駐屯部隊の鳥たちのお目当ては、外のテーブルの客がこぼしたパンのかけら。
これは隣の一人で来ていた女性のテーブルで、じつはまだ座っています。
コーヒーカップがないのは彼女が今飲んでいるからで、
目の前に鳥がやってきても追い払わないため、だんだん調子によって
テーブルに大集合してきています。





隣のテーブルのマフィンの包み紙をつつく鳥。

むくどりもどきとは別の種類のカフェ駐屯部隊偵察兵。
下のテーブルに客が付くなり、伝令に走り、仲間が集まってきます。



ふと視線を感じるので横を見ると、じっと見られていました(笑)



テリムクドリモドキといつも一緒にいるため、勝手に「雌認定」している茶色い鳥。
いまだに種類が判明しません。



そばの椅子に座って物言いたげにひたむきな視線を投げかけられると、
日本に残してきた「すずめ食堂」のすずめどものことが思い出されました。

「いまごろどうしているのかな」
「もう忘れてるんじゃない?鳥だし」
「餌が無くなってもしばらくは探しに来てたんだろうねえ」
「ダメ押しで猫がテーブル占領したから、もう来ないと思うよ」

そんな話をしながらも、ついついかけらを下に落としてしまうわたしたち。


「鳥には絶対にエサをやらないでください」
と立札まであるというのに、期待されるとこういうことをしてしまうんですね。

ちゃんとした餌でもダメなのに、こんなバターたっぷりのクロワッサンのかけらや、
砂糖たっぷりのマフィンのくずをやるのはもっといけないことだと思うのですが・・・。




この鳥さんはしかも、片足が使えないようでした。
片足でしか立てないので、じっとテーブルの上で待機。

まさかこれ、糖尿病(鳥の)とかじゃないよね?

気のせいか、ここに常駐しているらしい鳥さんには「足腰の立たなさそうな」
つまり、生きている虫などをとらえる能力のなくなったものが多いような・・・。

我々としては鳥が糖尿病になるほど餌をやったわけではなく

量的にも彼らの期待に添えたとはとても思えないのですが、
ふとカフェの隅にある「食器置き場」に目をやると・・・
 

鳥その1。

鳥その2。



その1その2配置図。

下げられたお皿の一時置き場のごみを漁っているんですね。




人間が温情でパンくずをやらなくても、勝手にごみを漁っているのでした。

ところで、夏の間休業していたすずめ食堂ですが、帰って来て少ししてからふと思い立って、
お皿にお米を入れておきました。
驚くことにお米は一ヶ月以上手つかず(すずめだからくちばしつかず)で放置され、
雨風にさらされたので、仕方なく廃棄することになりました。


その後、例のネコが遊びに来たので煮干しをやったりしているうちに、
さらに危険ゾーン認定されてしまったようです。

すっかり諦めたまま、いつの間にか年が明けてしまいましたが、
先日ふと思い立って冷蔵庫の中の
賞味期限切れのごまをおいてみました。
優秀な偵察隊の斥候が気づくのは何日目か、今観察中です。

というか、すずめって、ごま、食べるんでしょうか。







 


空母「ホーネット」~空母「ワスプ」メモリアル

2014-02-04 | 軍艦

「空母ホーネットの空母ワスプ」ってなんですか?

といぶかしく思われること必至のタイトルですが、
つまり、博物館になっている空母「ホーネット」の展示コーナーの中に、この

「空母ワスプ メモリアル」

があったということです。
先日「ワスプ」というのが「ホーネット」と共に「スズメバチ」を意味するということで、
コメント欄では「スズメバチの鬼畜?さ」について盛り上がったりしたことがありますが、
今日はその「ハチ繋がり」で、ホーネット博物館の仲のワスプ展示部分をご紹介します。

冒頭画像はハンガーデッキに飾ってあった、アメリカの艦船のマークから、
空母「ワスプ」のものをアップにしてみました。


ワスプ (USS Wasp)はアメリカ海軍の航空母艦で、エセックス級空母の8番艦。
その名を持つ強襲揚陸艦もありますが、ここに展示されているのは「最後のワスプ」
である、CV-18。
第二次世界大戦中に建造され、1970年に退役になった空母の記念の品の数々です。



ハンガーデッキを歩いていると、このような掲示板が。
ハンガーデッキの一階下の住居区を記念コーナーにしているようです。



どれどれ、下に降りてみましょうか。
しかし、あいかわらずフネの中というのは狭い。
階段の幅が異様に細いんですよ。
アメリカ人には、30センチはあるんではないかというくらい巨大な足の人がいますが、
のぼりはともかく降りるときはいったいどうやっていたんでしょうか。
日本の護衛艦に最初に乗った時も驚きましたが、アメリカの軍艦でも
全く同じ、いや、「ひゅうが」と比べるとむしろこちらの方が狭いのではと思われました。

いずれにしても太っている人間に艦隊勤務は務まらないということですね。



こういう記念館には必ず巨大なモデルシップが飾られています。
後ろ側が見やすいように鏡張りになっているので撮影者が写っていますが気にしないでね。

時計も上のコーヒーカップも、「ワスプ」の意匠入りの特別仕様。



額に入っているのは、元乗組員によるこのような詩です。


仲間の絆はたとえようもなく強い

ワスプが台風に突き上げられバンク(寝床)にしがみつきながら

彼女のフライトデッキが軋み唸り声をあげるのを自分の痛みのように聞いた


仲間の絆はさらにたとえようもなく強い

仲間にキャンバスの覆いをかけ「さようなら」とつぶやき

彼らは静かに波間へ滑り落ちていく

仲間と一緒にMOG MOGに座って「地上はどのくらい静かなんだろう」と思う時

仲間の絆は永遠に強くなる


そして今俺たちは老い、思い出に生きてる

しかしいまだに俺たちは仲間だ

俺たちは俺たちの物語を語る そしていまだに夢をみる

誰かがこう言って笑うだろう「何年も経っているのに」

しかしわれらの仲間はそれに頷き、彼らに我々の物語を語るだろう

俺たちの絆は永遠だからだ

たとえ老いて思い出の中にだけ生きているのだとしても





これもワスプの刻印を入れた銀器。
下段にはWASPと書かれた当時のキャップがあります。

それにしてもここにある「警棒」のようなものはなんでしょうか。
アメリカにも「海軍精神注入棒」に相当するものがあったのかしら。


海軍はじめ日本軍の「体罰体質」は、元を言うとイギリス海軍をお手本にしたからで、
なんと本家のイギリスでは体罰が普通になされていたそうです。
アメリカの体罰事情はどうだったんでしょうね。


映画「頭上の敵機」で、赴任そうそう仕事をバックレてバーにいる先任士官を、
グレゴリーペックがいきなり憲兵に逮捕させて、そのあと
「生まれたことを後悔させてやる!」
などと厳しすぎる叱責をするのですが、その飛行隊長は

「あなたを訴えます」

なんて言っちゃったりしているんですね。
アメリカ軍では下級の軍人が上官を訴えることもできたのか・・・・。

根性注入棒なんてとんでもないですね。

・・・・・だったら、これはなんでしょうか。



ホーネット仕様の食器。

んまあ、これなんというかオシャレじゃなくって?
お皿の真ん中が手書きでブルーに塗ってあるあたりが気が利いてるわ。
自由が丘のイデーショップあたりで買えそう。



アップにしてみるとわかる、空飛ぶ艦載機から見た海上のワスプ。
まわりに散りばめられたマークは6種類。
金の縁取りが高級感をアップしています。
高級将官用の特別仕様でしょうか。






サンフランシスコで配られた真珠湾攻撃を伝える記事。おそらく号外でしょう。
この時点で死者は6人で負傷者21人となっています。
第一報はどんな大事件でもそんなものですよね。 



艦上機のパイロットたち。
全員が航空帽を飛行メガネを着用していますから、帰投してきたばかりかもしれません。
後ろで翼をたたんでいるのはTBFアベンジャー?



おそらく艦長はじめワスプの偉い人。

後ろの壁に描かれているのは左から航空機、アイランドつまり艦橋が撃沈した艦船。
ちなみにワスプは、ウェーク島、南鳥島の攻撃を行ったことがあります。

航空機の撃墜は、艦船ほど正確ではなく、戦後になって両側の記録を比べたら
どちらも「自軍が圧倒的に勝っていた」
とするケースが非常に多いのだそうです。
我方が優勢であった!と思いたいのはいずこも同じというわけですね。
ですから、いわゆる撃墜数なども、本人がそう思っているだけで実は落ちてなかった、
というようなこともかなりあったのだろうなと思われます。




1945年の3月に艦内で行われた追悼礼拝のプログラム。

第81航空群と、216,217部隊のメンバーのため、とあります。

「彼らエアメンに、自由と正義の敵を殲滅する英雄的な仕事を賜った神に感謝する」

とか、

「彼らエアメンは、われらと共にあり、 われらを神の御意志の元に守ってくれる」

「幾人かの行方不明の者たちが、 神のナビゲーターの与えるチャートによって、
愛する者の元に戻れるように我々は心から祈りたい」

このような文の後、聖書の一節が書かれ、亡くなった26人の名前が記載されています。
艦載機が一挙に敵に(ってそれは日本軍であるわけですが)撃墜されたのですね。


 

1944年6月19日、ジャップの航空機に急降下爆撃を受けているワスプ。
だそうです。
もう普通に「ジャップ」だもんなあ。
もう少し遠慮しようよ。戦争終わったんだからさ。



ダイブしているジャップの航空機はジュディ、と書いてありますから、「彗星」ですね。
(えへん、これは覚えていたもんね)
 
・・・・・・・あれ?

1944年6月19日と言えば・・・・・・。

 マリアナ諸島侵攻作戦に向けて、南鳥島の攻撃をした、と先ほど書いたその日です。
このときにワスプの艦船は日本軍の激しい対空砲火に晒された、とありますが、
それでは先ほどの「慰霊礼拝」されていたのは、この作戦による戦死者であったと考えられますね。

 

戦時中にワスプ艦上で催された、クリスマス会・・・・・・
みたいなんですが、なぜか「戦術的進化」という副題が・・・。
ちょっとわかりにくいのですが、真中の絵は、ハチが「ワスプ」に乗って、
四つの手にボクシングのグラブをはめているのですが、
それを取り囲むのがクリスマスのリース。

パーティなのか、戦略会議なのかよくわかりませんね。
もしかしたら戦略会議ついでにクリスマスパーティもしましょうってことだったのかしら。



右はサンクスギビングの特別メニューですね。
描かれている絵は、七面鳥と、右側はカボチャです。

アメリカにいると、サンクスギビングというのが非常に重要な行事であることを実感するのですが、
必ず彼らはどんなに遠くても故郷に帰り、親族がターキーローストとパンプキンの食卓を囲みます。

故郷に帰ることを許されない将兵のために、ワスプのダイニングは腕を振るったのでしょう。

それにしても、テンプレートでも使ったのか、カボチャの大きさが変ですね。


左は、レイティング・デスクリプションつまり評価説明です。

航空兵の飛行評価だと思うのですが、肝心の評価のところ、
A.O.Mの意味がどうも分かりません。

それはいいのですが、日付が・・・・。

そう、1945年8月15日。
日本が降伏した日ですね。
戦争が終わったとは知らずに飛行評価テストをワスプではしていたってことでしょうか。



はい、戦争に勝ちましたね。よかったよかった(投げやり)

ワスプ内で配布されたアメリカ勝利のお知らせ。



あんまり調子に乗ってんじゃねえよ、と思わず毒づきたくなる、
「戦勝記念ディナーメニュー」。

戦争までしておきながら、この期に及んで中国と日本の違いがわかっとらんという・・・。






戦争が終わってワスプがサンフランシスコに帰ってきたというお知らせ。
もしかしたら、母港はアラメダの海軍基地だったのかもしれません。



帰還後港で妻や恋人と抱き合いキスをするワスプの乗員。
それにしてもこれ、1952年のことなんですよ。
戦後何年間もいったい何をしていたのか、ワスプは。

その理由が、これ。




千葉県館山にあった館山航空隊のことが書かれています。
これはおそらく 、終戦後、昭和20年の9月になって、
アメリカ軍が4日間にわたって直接占領し、本州において
唯一軍政が敷かれたことがあったのですが、そのためのチャートではないかと思われます。

8月31日にまず海兵隊の先遺隊が235名上陸し、占領部隊の主力である
アメリカ陸軍第8軍第11軍団麾下第112騎兵連隊戦闘団約3,500名その三日後上陸しました。



これも、円の中心は館山です。

 

東京湾から日本を眺めているらしいワスプ乗員。



これも日本の光景ですね。

ところでさあ。
ホーネットもそうだけど、このCV-18ワスプの先代、CV-7ワスプって、


日本軍に沈められたんですよね?


どうして、アメリカ人って、沈められたフネのことは無かったことにして、
全く語ろうとしないのかしら。
ここにメモリアルを作るんであれば、一緒に日本軍に沈められた先代ワスプのことも
すこしは触れてあげましょうよ。


CV-7は、1942年の9月に、伊号19の魚雷3発で海の藻屑と消えてしまいました。
そういえば、かわぐちかいじのSF戦記マンガ「ジパング」では、ワスプを沈没させたのは
伊潜ではなく、護衛艦「みらい」のトマホーク一発だということになってましたね。

詳しいいきさつは忘れましたが(おい)、伊19に乗り込んでいたのが、滝少佐だったような。

水雷長の菊池二佐が、沈みゆくワスプを凝視しながら、

「たった一発であの巨大なワスプが・・・。
きっと中には脱出できなかった人間が百人、いや千人単位でいたかもしれない」

といいながら茫然としていましたっけ。


しかしながら実際はもっとすごくて、伊19号は、この時航空母艦に対して撃つことを許されている
最大限の魚雷数6本を(律儀に国際法を順守して)撃ち、そのうち三つが命中。

しかも。

ワスプを逸れた残りの3発のうち一発は10キロ先を航行していた戦艦ノースカロライナに、
もう一発は駆逐艦オブライエンに命中し、オブライエン大破沈没、ノースカロライナは
修理に6か月を要したそうです。

なんと、命中確率6分の5。

「みらい」のトマホーク(巡航ミサイル)より伊19の水雷長の方がこの場合優秀だったってことですね。


 


空挺館~バロン西と「愛馬の別れ」

2014-02-03 | 陸軍

靖国神社の遊就館には、戦争で亡くなったスポーツ選手のコーナーがあります。
その一番最初の部分に、西竹一陸軍中佐の展示があり、
ガラスケースの中には、愛用の乗馬用鞭、ベルリンオリンピックで贈られた
ドイツ馬術最高徽章のメダル、そして愛馬ウラヌスの蹄鉄が2本飾られています。

乗馬用鞭は、戦車隊長だった西中佐が硫黄島での最後の日々、
エルメスのブーツを履き、必ず手には乗馬用の鞭を持っていた、
という話を思い出すのですが、この鞭は取っ手のところが僅かに亅状になっていて、
滑り落ちない工夫がしてあり、しかもその部分は象牙でできていて、
彼が常に贅沢な乗馬用具を使っていたという逸話をあらためて思い出します。


以前「高貴なる不良・バロン西の血中海軍度」というエントリで、

一度は書きたかった伝説の馬術家、西竹一中佐のことを語ったことがあります。

その頃のわたしはつゆ知らなかったのですが、ここ空挺館、
つまり昔
陸軍騎兵学校の「御馬見所」であった建物を利用した展示には、
バロン西についての資料があることがわかり、感激した次第です。

西竹一陸軍中佐

騎兵師団の将校であり、ロスアンジェルスオリンピックの優勝者でありながら、
騎兵隊廃止後、編入された戦車連隊の隊長として硫黄島で戦死。



その悲劇的な死から、常日頃軍人らしくなく、奔放だった西中佐を疎んだ陸軍が、
懲罰的人事として硫黄島に、つまり死地に追いやった、とか、酷いものでは
LAの次のベルリンオリンピックで落馬したことに対する懲罰であったとか、
いずれにしてもバロン西の物語で語られる陸軍の役どころはろくなものではありません。

しかしわたしはこれも、戦後の「軍叩き」の一環みたいなものではないかと思っています。

硫黄島を死守するのは要地防御の観点からも日本の悲願であり、いくらなんでも陸軍が

「どうせこの島は取られるのだから、死んでもいいような奴を追いやってしまえ」

という島流しのような配置をしたはずはないからです。
指揮官の栗林中将も、それまで指揮官としての知名度があったわけではなく、
硫黄島の指揮官になり、米軍を感嘆させたからこそ有名になった軍人ですが、

軍部は本土防衛の最前線としての司令部を父島に置こうとしていたわけですから、
決して「左遷」人事であろうはずはないと思います。


確かに今日の感覚では

「オリンピックの功労者、しかもメダリストを激戦地に配置するなんて」

ということになりますが、これは繰り返しますが「今日の感覚」にすぎません。

だいたい帝国日本軍というところは、中国戦線で水泳のオリンピック入賞者を、
武器を帯びたまま泳いで敵地まで偵察に行かせようとしたこともあるくらいで、
むしろ

「メダリストだからこそ戦功をも立てるべきである」

って考えなんですよね。



この写真、説明がなかったのですが、どれがバロンかお分かりですか?

後列右から三番目が中尉時代の西竹一であろうと思われます。
小学生にして男爵を継ぎ、有り余る財産をカメラやオートバイにつぎ込み、
このころもアメ車を取っ替えひっかえ乗り回していたバロン。

当然ですが、この軍服も特別誂えでございます。

そこんところを考慮した上で写真を今一度見ていただくと、まず、
他の中尉クラスよりは遥かに仕立ての良さそうな、
変なところにしわの全くない、ドレープすらエレガントな
上質生地を使っていそうな軍服を着ているのにお気づきかと思います。

さらに帽子をご覧下さい。

前にも一度説明しましたが、西中尉の軍帽だけがまわりの軍人より大きく、
横に張り出している形をしています。
これを「西式軍帽」と言いました。

因みに、この前列真ん中の皇族軍人にも注目。

確信はありませんが、この方は21歳の

北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう)

ではないかと思われます。
バロンより8歳年下ですが、この宮様が陸軍砲兵少尉に任官されたとき、
つまり1931年にはバロンは29歳で中尉でしたから計算が合います。
バロンがかなり童顔で若作りだったみたいですね。

永久王であるとしてお話ししますが、王のスタイルにも注目して下さい。
西中尉のと殆ど同じ割合というくらいに軍帽が大きいのがお分かりでしょうか。

従兵と(略)していたというスキャンダルのあった閑院宮春仁王もそうでしたが、
当時の若い皇族軍人たちは皆一様に伊達男ぞろいで、さらに特別仕立ての、
瀟洒で工夫を凝らした粋な軍服を身につけていました。



帝国陸軍の青年将校文化の中でも特に瀟洒なスタイルであり、
軍帽(チェッコ式)の襠前部や襟は極めて高く、
襟章・肩章・雨蓋の造形美には凝り、ウエストは強く括れた細見でタイトな仕立て
wiki


「西式軍帽」はつまりもともと「チェッコ式」だったんですね。
チェッコ、とはチェコスロバキアのことで、当事のチェコ軍が
このような軍帽であったのかもしれません。
帽子の大きさは、ナチスドイツのものに酷似しているように見えますが、
チェコ軍がナチス風を真似たのが間接的に日本に伝播したのでしょうか。

いずれにせよそれはトップを大きく、高くしたもので、
この頃の若い軍人にとってはそういうのがイケてる、と思われてたんですね。
西中尉のような男爵や、中々の好男子ぞろいでもあった陸軍在籍の「若様連」が
こぞってこのような軍服で身を飾ったため、流行というのが作られたのでしょう。

そしてこれが大正末期から昭和初期にかけて、陸軍の青年将校の間で大流行。
皇族の若様やバロンは軍人の「ファッションリーダー」でもありました。

(この部分ファッションタグ)


話のついでに北白川宮永久王のその後について触れておきましょう。

王は任官後砲兵連隊の中隊長を経て陸軍大学に学び、
卒業後は参謀部附としてモンゴルに赴任しておられましたが、
演習中に不時着してきた戦闘機の右翼先端に接触し、重傷を負われ、
病院に運ばれたものの8時間後に薨去するという悲劇的な死を遂げられました。

事故による殉職ですが、世間的には「戦死」とされ、世には
王の死を悼むこんな歌も、二葉百合子によって歌われています。

嗚呼 北白川宮殿下   ニ荒芳徳 作詞  古関裕而 作曲 

一 明るくアジヤの大空を護る銀翼はげまして 大御光を天地に 
輝かさんと征でましし  嗚呼若き参謀の宮殿下

ニ 日本男児の意気高く超低空の射撃すと 命を的に急降下 
莞爾と笑みて統べませる  若き参謀の宮殿下


北白川宮家は初代智也親王がわずか17歳で薨去し、2代能久親王は台湾で戦病死。
三代成久親王は自動車事故で薨去されたりしたため、悲劇の宮家と言われることもあります。 

永久王も、わずか31歳の生涯でした。

やはり遊就館には、順路の中程に巨大な白い北白川宮の彫塑があり、
元近衛野砲隊の部下が、隊長であった永久王を慕って製作したという説明があります。



さて、空挺館一隅には、騎兵学校時代に使われていた馬具などもあります。
乗馬を少々嗜むわたしとしては、この鞍の形状にも注目してしまいますが、
鞍って、基本的には全く変遷しないものなんですね。
あぶみの長さの調節方法も、今と全く同じのようです。

サドルの先端に付いている突起が謎ですが、今の鞍には、
ここにはハンドルが付いているものが殆どです。
キャンター(駈歩)の練習のときに、時々このハンドルを持たされますが、
このヘラみたいなものは一体何に使うのか・・・・?



この鞍の上にあった騎兵連隊の写真。
こういうところでも最近はつい馬の方に注目してしまいます。
手綱が”はみ”から二本ずつ出ていますが、これは馬に頭を「上げ下げさせない」ため。

それにしても、乗馬をする前と今では、こういう写真に対する感想もまるで違ってきます。
映画「戦火の馬」も、今観ればきっと泣いてしまうんだろうな・・・。



今でこそ馬は競走馬、趣味としての騎乗馬、農耕馬、
あとはお肉になるくらいですが、
1900年初頭までは、馬は戦争には欠かせない兵器でした。

その頃の日本にも「馬政」と言う言葉があり、国の調査委員会を持ち、
そこからの発令で戦争に必要な馬の生産数を計画したり、
また品種の改良なども業界への奨励と言う形で行なわれたのです。

「罵声」じゃなくって「馬政」として出されたおふれとしては

一、100万頭の5歳~17歳馬を内地に保有する
一、馬の質を上げ、軍用馬の鍛錬に耐えられるように、競技会を実地する
一、競馬法による公認競馬は、馬の改良に必要な種馬の能力を検定するために実地する

こんな感じです。



学芸会で馬の役をする人が被りそうな感じですが、これは、馬用の「防毒覆」。
毒薬が敵によって散布されたときを想定したマントです。

目の部分が大きいのは、馬によって目の位置が多少違うからでしょうか。



どうも目の部分だけ革のお椀状のものを付けている模様。



そして実験中。
わざわざこんな高い脚立を用意して、

「空から毒物が振って来たという想定」

で、訓練用の薬を撒いています。
馬上の人物も防毒衣を付けていますね。
それにしても思うのは、こんなもの被せられ、目隠しまでされて、
よくこの馬さんはじっとして立っているなってこと。
騎手との信頼関係ができていないと、まず無理なことに思われます。

騎乗していて、馬がちゃんと動いてくれたときに乗り手が
「よくやった」と首をぽんぽんしてやることを、乗馬用語で
「愛撫」というのですが(時々コーチから指示が出るくらい大切なケア)
きっとこのあと騎手はこの子を愛撫しまくってやったんじゃないでしょうか。



さて、バロン西です。
かれがこのようにクルマを跳躍している写真は二つあり、
一つはwikiに載っている、ロスアンジェルスオリンピックの「ウラヌス」、
こちらはわたしの記憶に間違いがなければ「福東号」という馬です。

乗馬をするようになってあらためてこういう写真を見ると、その凄さがわかります。
ウラヌスもこの福東号も非常に大きな馬で、おそらく普通に駈歩しただけで
乗っている方はかなりダイナミックな躍動感があるとおもうのですが、
その大きな馬で車を飛び越すと言うのは、もうほとんど空を飛ぶ感覚でしょう。

それにしても車の横に立っている人、怖いもの知らずなのか、
超高級車が心配な運転手なのか。



このアスコツトと書かれた馬ですが、この名で検索すると
ちゃんとページで紹介されているので驚いてしまいました。

アスコツト

オグリキャップかディープインパクトか、というくらい強かった競走馬で、
馬術競技に転向し、西が乗ることでさらに有名になった名馬、となっています。
最初に「ベルリンでは失敗」と書いたのですが、このとき実際は、
初日に西が落馬したものの、続く耐久と障害で順位を上げ、
最終的には50頭中12位の成績を納めています。

さらに「バロン西懲罰人事説」は可能性が無くなります。
西以外の騎兵隊から参加した4人の選手は、入賞にかすりもしなかったのですから。



これは写真を撮ったものの誰か分かりませんでした。
上の写真で北白川宮の右隣に居るのと同一人物であるように見えますが。

 

馬が三頭こっちを見ている、なんだかシュールな写真ですが、
謡曲か浪曲か・・・、
いずれにしても内容は、習志野騎兵隊で愛馬と別れるという内容です。
そんなこと言われんでも分かる、って?

戦争の形態が代わり、騎兵による戦いは過去のものとなり騎兵隊が廃止になったときに、
機甲となり馬の代わりに戦車に乗ることになった彼らは、それまで自分の愛馬だった馬と
別れなければいけなくなったはずです。

おそらく浪曲か謡曲かは知りませんが、この曲は、
そんな愛馬との別れの辛さを歌っているのだろうと思われます。

バロン西の愛馬であるウラヌスは、東京の馬事公苑の厩舎で
メダリストの功労者としての余生を送ることを許されましたが、
「普通の馬」は習志野から一体どこにやられてしまったのでしょうか。
世の中は競馬どころではなく、さりとて農耕馬にもなれず、時節柄、
愛玩動物として馬を養う場所もあろうはずがありません。

やはり、別れた後の馬たちは・・・・・。

写真の馬たちの運命を考えただけで、今のわたしは涙さえ浮かべてしまうのですが、
騎兵隊の将兵たちの哀しみはそれどころのものではなかったでしょう。


西竹一中佐は、機甲師団の隊長として転戦中、
乗っていた船が米国の潜水艦に撃沈され、戦車が沈んでしまったため、
補充のために一度東京に戻った際にウラヌスに会いにいったそうです。

厩舎につながれていたウラヌスは、バロン西の足音を聞きつけただけで狂喜し、
首を摺り寄せ、愛咬をしてきたということです。
これは、馬にとって最大限の愛情の表現です。

この出会いは彼らにとって今生での最後の邂逅となりました。
7ヶ月後、バロンは硫黄島で 戦死しましたが、
ウラヌスはその一週間後、彼の主人の後を追うように静かに息を引き取りました。
 

西竹一は、生前、

 「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」

と言っていたそうです。

これも、馬と言う動物を少し知っていれば、深く頷くことの出来る話です。
言葉が通じないのに、ではなく、言葉が通じないからこそ感じる「何か」が
互いを理解させてくれる瞬間を、わたしのような初心者ですら感じるときがあるのです。



人間が馬を乗りこなそうとすれば、そこに馬との「人間的なふれあい」が生まれます。

また、そうでないと馬と言うのは中々思うように動いてくれないのです。

騎兵隊という軍隊であっても、人と馬の間には我々が思うよりずっと緊密な交流があり、

そういう馬を兵器として戦地に投入することに何の痛痒も感じないなど、
まともな情の持ち主であればありえません。
 
だからこそ人はたかが畜生であるはずの軍馬の魂を悼んでやるのです。

靖国神社やここににある軍馬の慰霊碑は、
戦火に斃れた馬たちを愛すればこそ、その犠牲に心を痛め、
さらに彼らに感謝する心から建てられました。

今となっては、これらの慰霊碑に込められた馬を愛する人々の気持ちが、
わたしは痛いほどわかります。




 


 
 

 


空挺館~陸軍騎兵学校と秋山好古(と閑院宮)

2014-02-02 | 陸軍


「騎兵学校の資料もあるから、乗馬をするエリス中尉には興味深いのではないか」

という理由で空挺館の見学をおすすめされたわけですが、
なぜここが騎兵学校に関するものを所蔵しているのかを全く知らず、
行ってみて初めて空挺館そのものが騎兵学校の訓練を鑑賞するための

「御馬見所」(ごばけんしょ)

であることを知りました。
考えればもともとここには先に陸軍騎兵学校が出来ていたんですね。

当時の名称は「陸軍乗馬学校」あるいは「習志野騎兵学校」であり、
ここ習志野は「騎兵の町」であった歴史があるのです。



陸軍騎兵学校が出来たのが1988年。
陸軍乗馬学校として目黒に設立されましたが、その後習志野に移転しました。
写真は目黒に創設されたころの騎兵学校門です。


その移転に関しては街道の宿場町だったこの辺りが鉄道の開設によって
立ち寄る客が減少したため、いわば「町おこし」として、

「習志野を騎兵の町にしよう!」

と周辺住民が誘致した、といういきさつがありました。

習志野駐屯地付近住民の方々、ご存知でした?
あなたがたの先住者が陸軍をわざわざここに誘致したのですよ。

騎兵の必要性が薄れたたため昭和16年には、機甲師団となって馬に乗っていた陸軍将兵は
そのままどういうわけか殆どが戦車に乗ることになってしまいました。
そしてその戦車学校は千葉県穴川に移転してしまったため、ここ習志野には
昭和16年から空挺作戦に投入するための落下傘部隊が駐屯し、
それが第一空挺団の前身となって現在に至るというわけです。

つまりここに現在第一空挺団があるのも、元はと言えばこの辺りの当時の市民による請願、
ということなのですけど、そういう歴史を知らずとも、自分が生まれる前から
とっくにあった基地や駐屯地に対して、今更のように文句をつけるのが左翼の常套ってやつです。

今回、「赤旗」のサイト?でこんな微笑ましい記事を見つけました。

(解説)

ある日、空挺団の訓練のとき落下傘が近隣の高校に流されて降下してしまいました。

そのことを受けて地元の共産党員が第一空挺団に

「 グラウンドに人がおらず人的被害はなかったが、重大事態になりかねなかったと指摘。

面積も狭く住宅密集地で幹線道路も通るため、
降下訓練に最もふさわしくない演習場としてこれまで訓練中止を求めてきたにもかかわらず、
事故が起こったことに対し、「絶対に許すことができない」と抗議しました。
今年3月にも場外への降着事故が起こり、2004、06、08年と事故が繰り返されたことを批判。
原因と責任を明らかにし、パラシュート降下訓練の中止を」と強く要求しました。

第1空挺団の広報は、事故の原因について隊員が風向きなど状況判断を誤ったこと、
上昇気流の回避行動が不十分だったこと、降着地域に降りることを優先しなかったことをあげ
「このようなことがないよう対策を講じていく」
としましたが、訓練は今後も行う考えを示しましたむ(←原文の間違いをわざと放置)

要請参加者は
「十数回も降下している隊員でも、演習場外へ降着してしまうことがある以上、訓練は中止すべきだ」
と改めて求めました」

というものです。


これまで述べたような歴史的経緯を鑑みても、いやたとえ鑑みずとも、
今更共産党が「やめろ」と言ったところで陸自が訓練をやめるとは到底思えんのだが。

だいたい「訓練」ですからね「訓練」。

皆が一発で思ったように降下できるくらい簡単なことなら、そもそも訓練いらないっつの。 

もう一つ突っ込んでおくと、空挺隊員が降りてくるって
・・・・この人たちが言うほど危険かなあ。 
わたしなど、日大グラウンドに降下してしまった隊員がパラシュートを抱え、
キャンパスをダッシュして脱出、などという時折あるらしいこの「事故」など、
ほのぼのニュースくらいに思っていたんですけどね。

降下始めのコメントに読者の方から頂いた

「そのころ駐屯地には柵がなく、子供たちは敷地内の原っぱで寝転びながら空を眺め、
落下傘が落ちてくるところに駈けてゆき、傘を畳むのを手伝った」

なんて昔の話を思うと、さらに嫌な世の中になったものだと嘆息せずにいられません。


いたい、共産党の人たちだって自分たちが「訓練やめろ」といったら
陸自が本当に訓練やめるなんてまさか思ってないよね?

・・・・・・ないよね?




さて、習志野駐屯地に入っていくと、見事な松林と、妙に古い建物が目につきます。
正門から向かって成田街道沿いにならんだスレート葺きの建物は、
昭和16年(1941年)、戦車格納庫として急造されたものだそうです。

じつは駐屯地内にはこのような古い建物が他にもいくつかあるのだそうですが、
建物が新しく相次いで建てられ、保存が危ぶまれているのだそうです。
前回懸念した「趣のないプレハブ調の建物」に、これらが取って変わられるかもしれないと。

ただでさえそんな資金など逆さに振っても出てこない防衛省ゆえ、
歴史的な建築物を仕方なく壊してしまう、ということは避けられないことなのでしょうか。



空挺館の近くにこのような碑があります。
50周年記念。
何の50周年記念かと言うと、

「軍人勅諭下賜50周年記念」。

この形は紛れもなく砲弾を模しているものと思われます。
軍人勅諭が下賜されたのは明治15年のこと。
この碑は、それから50年後の昭和7年に騎兵学校によって建立されました。

このときは全国の軍隊で記念行事が行われ、各地に碑が建てられたそうです。

そして、この砲弾型碑の奥にあるのが、これ。



軍馬慰霊の碑。
この字は、日本騎兵の父であった秋山好古の揮毫によるものです。
言わずと知れた「坂の上の雲」の主人公で、秋山真之の兄。
秋山は第二代騎兵学校校長でもあります。

この碑は元からここに在ったのではなく、騎兵学校西側柵の、
小庭園に設置されていたものを移設したのだそうです。

道理で「砲弾の碑」が前を塞ぐ感じで、変な配置だと思った(笑)



その秋山好古、晩年時代。
最後の日々、秋山は故郷松山の中学の校長をしていた、ということは
映画「坂の上の雲」でもラストシーンとして描かれていました。


かつての陸軍大将が、除隊後校長先生をする・・。
当時の教職は「聖職」と言われ、名門中学の校長ともなると

生徒からの畏敬もかなりのものだったと思われますが、
今の教育界を考えるとまるで別の国のことのように思えます。

もっとも、これは当時としても異例のもので、
予備陸軍大将でかつて教育総監まで(陸軍三長官の一)務めた人物が
中学の校長になるということは、「格下人事」でもありました。

大将として予備役に編入されるにあたり、元帥位への昇進の話もありましたが、
なんと本人はこれを断っています。

このことだけを見ても、秋山好古が無欲で功名心のない、
高潔な人物であったかが窺えようと言うものです。



自己を必要以上に大きく見せることをしないその大物ぶりは、
たとえばかれが若き日、色白で目鼻立ちのはっきりした長身の好男子で、
故郷松山や留学先のフランスでは女性に騒がれるほどであったにもかかわらず、
本人は「男は容姿の美醜などに拘泥するものではない」という考えで、
そのことを意識する様子もなかった、というエピソードにも現れています。

ここに見える写真の「大尉時代」が、フランス留学の頃だということです。



フランス留学で騎馬戦術を学び、それを日本に持ち帰って騎兵学校の礎を築き
「日本騎兵の父」となった秋山ですが、その生涯で最も大きな功績は、
日露戦争で騎兵第1旅団長として出征し、
沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦ったことです。

このときの秋山の功績については、騎兵学校に来校したフランス軍人による

「秋山好古の生涯の意味は、
満州の野で世界最強の騎兵
集団を破るというただ一点に尽きている」

という賞賛にこれも尽きるでしょう。



冒頭に挙げたこの写真は、彼らの軍服から察するに明治時代の、
近衛騎兵連隊の写真。

皆凛々しいですが、特に「旗手の今村」が実にしゅっとした好青年ですね。

昨年秋の音楽まつりの際、会場となった武道館のある敷地に、
近衛第一歩兵連隊の碑があったのをご紹介しましたが、
この師団の特別なことは、東宮即ち将来の大元帥(天皇)となるべき皇太子は
必ずこの近衛第一歩兵連隊附になることが決まっていたということです。



右、皇太子時代の昭和天皇、左は・・・・
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)かな?(未確認)


ある読者の方とのご縁により海兵67期の越山清尭大尉のエントリをアップしたとき、
越山大尉の祖父がもともと西郷隆盛の近衛兵で、第一歩兵連隊となったこと、
そしてその歩兵連隊は全国でも特に選りすぐり俊秀であったことを書きました。

「禁闕守護」(きんけつしゅご・禁闕とは皇居の門のこと)の使命を帯び、
任務が東京であったこの近衛騎兵ですが、司令本部はここ習志野にありました。




陸軍騎兵学校の出身者には、この後お話しするオリンピックのメダリスト、
西竹一大佐・バロン西、そして玉砕した硫黄島の守備隊指揮官であった栗林忠道大将、
そして蒋介石などがいます。

写真は騎兵連隊附であった閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう)。
飛行服に身を固め、なかなかのイケメン若様です。

ここで超余談です。

この宮様は、戦後皇籍離脱後事業を起こし、元皇族の中でもかなり経済的に成功し、
余生も穏やかなものであったということなのですが、
戦後になって離婚した元夫人が、彼が軍隊時代男色家であった、とリークして、
マスコミの好餌となりスキャンダルになった、ということがありました。

夫人によると、陸軍の官舎は狭く、ベッドは二つであったのですが、
王は高級将校に必ず付いていた従兵と一つのベッドに寝ていました。
井上大将にも艦隊勤務時、そんな話がありましたが、これはその話と違い、
両者合意の上での同衾であったようです。

戦後になってもその従兵と夫妻は同居生活を続け、言い争いになると
元従兵が彼女を殴ったりする異常さに耐えかね、離婚に至ったとか・・・。




高級将校の従兵、特に宮様の従兵ともなると、人物は勿論、
容姿もかなり厳選考慮されたものだと思われますが、それゆえ
元々そういう性癖のお方としてはその色香に抗えず(?)そうなってしまわれたのでしょうか。

だとすれば秋山閣下とは対極に、宮様は

「男の美醜は(勿論)こだわる!(好みもあるけど)」

というポリシーをお持ちであったかもしれません。










習志野駐屯地・空挺館~「空の神兵」

2014-02-01 | 陸軍

空挺館の「空の神兵」についてまず書こうとしたところ、
いきなり「陸海軍読売遊園対決」という、エリス中尉好みのネタを掘り当ててしまい、
つい順序が後になってしまいましたが、今日は王道の「空の神兵」についてです。

ところでいきなり余談です。

空挺館初回で、「降下塔と跳出塔を見たい」と書いたのですが、検索の段階で、
習志野駐屯地の夏祭りに行けば、降下塔広場にお店が並び、
自衛隊員手作りの焼きそばを食べながら施設見放題、ということが分かりました。
ただし、例年夏祭りは8月第一週頃。
まずそのころ日本にいないわたしには当分無理なイベントです。

それにしても、写真を見て「跳躍塔」とやらが飛行機から飛び出すための訓練施設で、
見たところビルの三階位の高さは裕にありそうなのにびびりました。
下にクッションとか敷くんでしょうけど、生身で飛び降りるんでしょうか?


昔の空挺団の映画によると、跳出塔の下は砂地で、せいぜい(といっても高いけど)
2メートルくらいの高さから姿勢を正しく飛び出す訓練をしていましたが、
クッションの素材の開発に伴って跳び出し訓練の高さも上がっていた、ってことなんでしょうか。


さて、冒頭写真は空挺館の階段踊り場にある「空挺隊員の像」です。



だれの作品なのか、いつ作られたのか、どこを探しても見つからないのですが、
実際はとても小さなものです。
入り口にある「空の神兵の像」がポーズといい雰囲気といい勇ましいのに比べ、
この像は落下傘の器具を付けた降下兵は小さいでなく、
おそらく航空機のシートに座って降下の瞬間(とき)を待っているにしては
あまりにも穏やかな、まるで仏像のような佇まいをしています。

この像を作った作家の名と、なぜこのような像を造ったのかを知りたい・・。

 

空挺館一階の階段下部分には、こんな模型がありました。
これはどうやら旧軍の挺進連隊時代の訓練設備を、
空挺団OBなどが模型にして寄贈したのではないかと思われます。

4つまでの落下傘が降下きる塔に・・・、

 

映画で観た跳出塔。
そして・・



あれ?

今習志野駐屯地にあるのと同じ高さの跳び出し塔がある。 
ということは、クッションを敷いて飛び降りるためのものではなさそうです。

そこでよく見ると、この模型には日の丸のはちまきを付けたキューピーさんが、
なにやら紐を付けていまにも跳ぶ姿勢ですね。

・・・・・いや、 これがキューピーの基本姿勢なんですが、それはともかく、
紐を付けて飛び降りる?

バンジージャンプなら分からないでもないけど、1941年当時、バンジーに使えるような
弾力性のある素材はなかったはずだし・・・。

この疑問にたまたま(というかこのために)観たDVDが答えてくれました。

空挺団の訓練で、腰に紐を付けてこの跳出塔から隊員が 飛び降りると同時に
そのロープの端が二股につながれており、二方向から他の隊員たちが引っ張る、
というものをやっていたのです。

下にはクッションも網も何も敷かれていませんから、もし隊員たちが縄を放したら、
両手両足を開いて空中に跳び出した者は確実に地面に激突して死亡です。

事故のないようにロープを二本に分かっているのでしょうが、
跳び出す方はかなり最初は度胸が要るものだと思われます。


 

おそらく戦時中に描かれた戦争画の一つでしょう。
なんだか銃はさっき空挺団の訓練で見たのに似ているぞ。
挺進隊の銃は分解可能な二式小銃だと思っていたのですが、
ここでは九九式軽機銃を使っているようですね。

陸軍挺進隊の武装は、この九九式と、重機関銃では92式が基本でした。



官品の降下用帽子。
鉄兜では降下するのに重過ぎる、しかし降下後戦闘行動があるので防御性も必要である。
という観点から制作された革製の降下帽。
ラグビーボールのような縫い目で、なかなか凝っています。
今なら日本製・ハンドメイド・天然皮革で超高級品ですね。

この降下帽が最初に支給されたときの様子が、映画「空の神兵」にありました。

多分「やらせ」だと思うのですが、訓練のあと練習生が休憩室で
思い思いに過ごしているとき、

「降下服一式支給」

の号令がかかります。
この兵隊はそれまで髪を刈ってもらっていたので、肩にケープをかけていますが、
さっそく貰ったばかりの降下帽をかぶり、それまで使っていた鏡を覗き込み、
皆には

「おお、よく映るぞ」

と声をかけられています。
展示してある降下帽には耳当てもついているのですが、折り込んでいるので見えません。



「模範的な跳び出し」

飛行機を模した跳出口から跳び出す訓練。
降下の際の「よい姿勢」の見本は

「くの字状になるまで背をそらし、足はまっすぐ」 

であることがわかります。
現在の空挺においてもこれは踏襲されているのでしょうか。
それとも、これはこのころの落下傘の仕様に則した、
「もっとも事故の少ない」
跳び出し方なのでしょうか。



「空の神兵」より。

高さはやはり2メートルというところでしょうか。
見ていると簡単そうですが、二メートルの高さから全く下を見ずに跳ぶ、
というのはなかなか最初は怖いことのように思われます。 

 

旧陸軍空挺部隊に使用されていた落下傘の装具一式が展示されていました。

落下傘にも制式名がついていて、一式落下傘といいます。
予備傘がついていて、これで高い安全性を誇りました。

落下傘の操作は、肩に吊り帯が二本着いており、
これを操作して落下傘を操縦したり進行方向を変更しました。

この習志野駐屯地の地図を先日上げたときに、
敷地内に「落下傘整備場」があって、どうやら自衛隊では、
傘のメンテナンスや調整は専門の部署が行なうことになっているらしい、
と書いたのですが、映画「空の神兵」でも描かれていたように、
当時の落下傘兵は、一人一つ、自分の落下傘を与えられ、
それを自分で包装(たたむことをこういうらしい)したのだそうです。



傘を揃えるのにきっちりと定規を使ったり・・・



吊索は確実に絡まずにほどけるように、細心の注意を払って包装しています。


こういう話を聞くとつい考えるのですが、
飛行機の事故における整備のように、もし空挺団で落下傘の事故が起きた場合、
やはり傘の調整をする部署は原因がどうあれ責任を感じるのではないでしょうか。

割と最近、フリーフォールの訓練で傘が開かなかったという事故があったようですが、
これもなぜ予備傘までが開かなかったのか、などと考えると、
傘の整備調整に果たして不備はなかったのか、と整備する部署(部隊?)では
きっと気が気ではなかったでしょう。

その点旧軍は兵士一人に負担も責任も負わせていたということで、
良くも悪くも自己責任、で終わってしまっているあたりが凄い。

しかも、この傘、やはり開発当初の欠陥もいろいろとあったようです。

一式落下傘は、輸送機から跳び出すと真っ先に傘が開く、

「傘体優先方式」

だったため、傘が開いたときに受ける衝撃が大きく、また、後から放出される紐、
吊索(ちょうさく)が人体に絡まり、訓練中に死亡事故が起きました。

「空の神兵」より

これは最初の訓練生の降下訓練ですが、この写真を見ると、
背中からはまず真っ先に落下傘本体が出て来ていることがわかります。
この映画の頃はまだ傘は開発前で、事故も起こっていた頃だと思われます。

この事故は、2009年に自衛隊第一空挺団で起こったものそのままです。
死亡した隊員はヘリから飛び出した際、
ロープが首に巻き付いて宙づりになってしまっています。

ロープの端はヘリに固定されており、通常は飛び出した際の重みで傘が開き、
ロープもヘリから外れる仕組みであるはずなのですが・・・。

いずれにせよこの事故の原因は「先に傘が開いたこと」ではなく、なぜか
自動索が切り離されなかったことにあります。

現代の科学技術によって安全性を考慮された落下傘でもこんな事故が起こるのですから、
もしかしたら、黎明期の挺進部隊ではこのためかなりの殉職者を出したのかもしれません。

いずれにせよこの死亡事故を受けて、傘の開発は重ねられました。

 

それがこの図の「吊索優先方式」です。
最初に傘ではなく吊索が引き出されることによって、 
体に索が絡まる可能性を減らしたものです。



この落下傘を作っていたのは女性たちでした。

女子報国勤労隊と呼ばれる彼女らは、製造を一手に請け負った藤倉航空工業で、
24時間ノンストップ体制による作業による落下傘製造に携わっていました。

この藤倉工業という会社は昭和14年に創立されたばかりで、
翌年の15年に、陸軍からの依頼で落下傘の大量生産を始めました。
戦後は民需品の生産に転換していましたが、昭和26年からまた落下傘生産を再開。
現在はその名を「藤倉航装株式会社」として、第一空挺団の使用している
696MI(フランスのエアルーズ社のライセンス生産)、60式空挺傘(ろくまるしきくうていさん)
はいずれもこの会社によるものです。


さて、昭和17年3月、パレンバン空挺作戦が大成功を収め、世間は彼らを
「空の神兵」と讃えました。 
そのニュースを見て、ある意味一番驚いたのは、藤倉航空工業で連日連夜、
パラシュートの製作にあたった女子報国勤労隊の女性たちだったにちがいありません。

何しろ、彼女らは、自分たちが作っていたものが南方作戦でこのように使用された、
ということを、そのニュースを見て初めて知ったのですから。