ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

空挺館~バロン西と「愛馬の別れ」

2014-02-03 | 陸軍

靖国神社の遊就館には、戦争で亡くなったスポーツ選手のコーナーがあります。
その一番最初の部分に、西竹一陸軍中佐の展示があり、
ガラスケースの中には、愛用の乗馬用鞭、ベルリンオリンピックで贈られた
ドイツ馬術最高徽章のメダル、そして愛馬ウラヌスの蹄鉄が2本飾られています。

乗馬用鞭は、戦車隊長だった西中佐が硫黄島での最後の日々、
エルメスのブーツを履き、必ず手には乗馬用の鞭を持っていた、
という話を思い出すのですが、この鞭は取っ手のところが僅かに亅状になっていて、
滑り落ちない工夫がしてあり、しかもその部分は象牙でできていて、
彼が常に贅沢な乗馬用具を使っていたという逸話をあらためて思い出します。


以前「高貴なる不良・バロン西の血中海軍度」というエントリで、

一度は書きたかった伝説の馬術家、西竹一中佐のことを語ったことがあります。

その頃のわたしはつゆ知らなかったのですが、ここ空挺館、
つまり昔
陸軍騎兵学校の「御馬見所」であった建物を利用した展示には、
バロン西についての資料があることがわかり、感激した次第です。

西竹一陸軍中佐

騎兵師団の将校であり、ロスアンジェルスオリンピックの優勝者でありながら、
騎兵隊廃止後、編入された戦車連隊の隊長として硫黄島で戦死。



その悲劇的な死から、常日頃軍人らしくなく、奔放だった西中佐を疎んだ陸軍が、
懲罰的人事として硫黄島に、つまり死地に追いやった、とか、酷いものでは
LAの次のベルリンオリンピックで落馬したことに対する懲罰であったとか、
いずれにしてもバロン西の物語で語られる陸軍の役どころはろくなものではありません。

しかしわたしはこれも、戦後の「軍叩き」の一環みたいなものではないかと思っています。

硫黄島を死守するのは要地防御の観点からも日本の悲願であり、いくらなんでも陸軍が

「どうせこの島は取られるのだから、死んでもいいような奴を追いやってしまえ」

という島流しのような配置をしたはずはないからです。
指揮官の栗林中将も、それまで指揮官としての知名度があったわけではなく、
硫黄島の指揮官になり、米軍を感嘆させたからこそ有名になった軍人ですが、

軍部は本土防衛の最前線としての司令部を父島に置こうとしていたわけですから、
決して「左遷」人事であろうはずはないと思います。


確かに今日の感覚では

「オリンピックの功労者、しかもメダリストを激戦地に配置するなんて」

ということになりますが、これは繰り返しますが「今日の感覚」にすぎません。

だいたい帝国日本軍というところは、中国戦線で水泳のオリンピック入賞者を、
武器を帯びたまま泳いで敵地まで偵察に行かせようとしたこともあるくらいで、
むしろ

「メダリストだからこそ戦功をも立てるべきである」

って考えなんですよね。



この写真、説明がなかったのですが、どれがバロンかお分かりですか?

後列右から三番目が中尉時代の西竹一であろうと思われます。
小学生にして男爵を継ぎ、有り余る財産をカメラやオートバイにつぎ込み、
このころもアメ車を取っ替えひっかえ乗り回していたバロン。

当然ですが、この軍服も特別誂えでございます。

そこんところを考慮した上で写真を今一度見ていただくと、まず、
他の中尉クラスよりは遥かに仕立ての良さそうな、
変なところにしわの全くない、ドレープすらエレガントな
上質生地を使っていそうな軍服を着ているのにお気づきかと思います。

さらに帽子をご覧下さい。

前にも一度説明しましたが、西中尉の軍帽だけがまわりの軍人より大きく、
横に張り出している形をしています。
これを「西式軍帽」と言いました。

因みに、この前列真ん中の皇族軍人にも注目。

確信はありませんが、この方は21歳の

北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう)

ではないかと思われます。
バロンより8歳年下ですが、この宮様が陸軍砲兵少尉に任官されたとき、
つまり1931年にはバロンは29歳で中尉でしたから計算が合います。
バロンがかなり童顔で若作りだったみたいですね。

永久王であるとしてお話ししますが、王のスタイルにも注目して下さい。
西中尉のと殆ど同じ割合というくらいに軍帽が大きいのがお分かりでしょうか。

従兵と(略)していたというスキャンダルのあった閑院宮春仁王もそうでしたが、
当時の若い皇族軍人たちは皆一様に伊達男ぞろいで、さらに特別仕立ての、
瀟洒で工夫を凝らした粋な軍服を身につけていました。



帝国陸軍の青年将校文化の中でも特に瀟洒なスタイルであり、
軍帽(チェッコ式)の襠前部や襟は極めて高く、
襟章・肩章・雨蓋の造形美には凝り、ウエストは強く括れた細見でタイトな仕立て
wiki


「西式軍帽」はつまりもともと「チェッコ式」だったんですね。
チェッコ、とはチェコスロバキアのことで、当事のチェコ軍が
このような軍帽であったのかもしれません。
帽子の大きさは、ナチスドイツのものに酷似しているように見えますが、
チェコ軍がナチス風を真似たのが間接的に日本に伝播したのでしょうか。

いずれにせよそれはトップを大きく、高くしたもので、
この頃の若い軍人にとってはそういうのがイケてる、と思われてたんですね。
西中尉のような男爵や、中々の好男子ぞろいでもあった陸軍在籍の「若様連」が
こぞってこのような軍服で身を飾ったため、流行というのが作られたのでしょう。

そしてこれが大正末期から昭和初期にかけて、陸軍の青年将校の間で大流行。
皇族の若様やバロンは軍人の「ファッションリーダー」でもありました。

(この部分ファッションタグ)


話のついでに北白川宮永久王のその後について触れておきましょう。

王は任官後砲兵連隊の中隊長を経て陸軍大学に学び、
卒業後は参謀部附としてモンゴルに赴任しておられましたが、
演習中に不時着してきた戦闘機の右翼先端に接触し、重傷を負われ、
病院に運ばれたものの8時間後に薨去するという悲劇的な死を遂げられました。

事故による殉職ですが、世間的には「戦死」とされ、世には
王の死を悼むこんな歌も、二葉百合子によって歌われています。

嗚呼 北白川宮殿下   ニ荒芳徳 作詞  古関裕而 作曲 

一 明るくアジヤの大空を護る銀翼はげまして 大御光を天地に 
輝かさんと征でましし  嗚呼若き参謀の宮殿下

ニ 日本男児の意気高く超低空の射撃すと 命を的に急降下 
莞爾と笑みて統べませる  若き参謀の宮殿下


北白川宮家は初代智也親王がわずか17歳で薨去し、2代能久親王は台湾で戦病死。
三代成久親王は自動車事故で薨去されたりしたため、悲劇の宮家と言われることもあります。 

永久王も、わずか31歳の生涯でした。

やはり遊就館には、順路の中程に巨大な白い北白川宮の彫塑があり、
元近衛野砲隊の部下が、隊長であった永久王を慕って製作したという説明があります。



さて、空挺館一隅には、騎兵学校時代に使われていた馬具などもあります。
乗馬を少々嗜むわたしとしては、この鞍の形状にも注目してしまいますが、
鞍って、基本的には全く変遷しないものなんですね。
あぶみの長さの調節方法も、今と全く同じのようです。

サドルの先端に付いている突起が謎ですが、今の鞍には、
ここにはハンドルが付いているものが殆どです。
キャンター(駈歩)の練習のときに、時々このハンドルを持たされますが、
このヘラみたいなものは一体何に使うのか・・・・?



この鞍の上にあった騎兵連隊の写真。
こういうところでも最近はつい馬の方に注目してしまいます。
手綱が”はみ”から二本ずつ出ていますが、これは馬に頭を「上げ下げさせない」ため。

それにしても、乗馬をする前と今では、こういう写真に対する感想もまるで違ってきます。
映画「戦火の馬」も、今観ればきっと泣いてしまうんだろうな・・・。



今でこそ馬は競走馬、趣味としての騎乗馬、農耕馬、
あとはお肉になるくらいですが、
1900年初頭までは、馬は戦争には欠かせない兵器でした。

その頃の日本にも「馬政」と言う言葉があり、国の調査委員会を持ち、
そこからの発令で戦争に必要な馬の生産数を計画したり、
また品種の改良なども業界への奨励と言う形で行なわれたのです。

「罵声」じゃなくって「馬政」として出されたおふれとしては

一、100万頭の5歳~17歳馬を内地に保有する
一、馬の質を上げ、軍用馬の鍛錬に耐えられるように、競技会を実地する
一、競馬法による公認競馬は、馬の改良に必要な種馬の能力を検定するために実地する

こんな感じです。



学芸会で馬の役をする人が被りそうな感じですが、これは、馬用の「防毒覆」。
毒薬が敵によって散布されたときを想定したマントです。

目の部分が大きいのは、馬によって目の位置が多少違うからでしょうか。



どうも目の部分だけ革のお椀状のものを付けている模様。



そして実験中。
わざわざこんな高い脚立を用意して、

「空から毒物が振って来たという想定」

で、訓練用の薬を撒いています。
馬上の人物も防毒衣を付けていますね。
それにしても思うのは、こんなもの被せられ、目隠しまでされて、
よくこの馬さんはじっとして立っているなってこと。
騎手との信頼関係ができていないと、まず無理なことに思われます。

騎乗していて、馬がちゃんと動いてくれたときに乗り手が
「よくやった」と首をぽんぽんしてやることを、乗馬用語で
「愛撫」というのですが(時々コーチから指示が出るくらい大切なケア)
きっとこのあと騎手はこの子を愛撫しまくってやったんじゃないでしょうか。



さて、バロン西です。
かれがこのようにクルマを跳躍している写真は二つあり、
一つはwikiに載っている、ロスアンジェルスオリンピックの「ウラヌス」、
こちらはわたしの記憶に間違いがなければ「福東号」という馬です。

乗馬をするようになってあらためてこういう写真を見ると、その凄さがわかります。
ウラヌスもこの福東号も非常に大きな馬で、おそらく普通に駈歩しただけで
乗っている方はかなりダイナミックな躍動感があるとおもうのですが、
その大きな馬で車を飛び越すと言うのは、もうほとんど空を飛ぶ感覚でしょう。

それにしても車の横に立っている人、怖いもの知らずなのか、
超高級車が心配な運転手なのか。



このアスコツトと書かれた馬ですが、この名で検索すると
ちゃんとページで紹介されているので驚いてしまいました。

アスコツト

オグリキャップかディープインパクトか、というくらい強かった競走馬で、
馬術競技に転向し、西が乗ることでさらに有名になった名馬、となっています。
最初に「ベルリンでは失敗」と書いたのですが、このとき実際は、
初日に西が落馬したものの、続く耐久と障害で順位を上げ、
最終的には50頭中12位の成績を納めています。

さらに「バロン西懲罰人事説」は可能性が無くなります。
西以外の騎兵隊から参加した4人の選手は、入賞にかすりもしなかったのですから。



これは写真を撮ったものの誰か分かりませんでした。
上の写真で北白川宮の右隣に居るのと同一人物であるように見えますが。

 

馬が三頭こっちを見ている、なんだかシュールな写真ですが、
謡曲か浪曲か・・・、
いずれにしても内容は、習志野騎兵隊で愛馬と別れるという内容です。
そんなこと言われんでも分かる、って?

戦争の形態が代わり、騎兵による戦いは過去のものとなり騎兵隊が廃止になったときに、
機甲となり馬の代わりに戦車に乗ることになった彼らは、それまで自分の愛馬だった馬と
別れなければいけなくなったはずです。

おそらく浪曲か謡曲かは知りませんが、この曲は、
そんな愛馬との別れの辛さを歌っているのだろうと思われます。

バロン西の愛馬であるウラヌスは、東京の馬事公苑の厩舎で
メダリストの功労者としての余生を送ることを許されましたが、
「普通の馬」は習志野から一体どこにやられてしまったのでしょうか。
世の中は競馬どころではなく、さりとて農耕馬にもなれず、時節柄、
愛玩動物として馬を養う場所もあろうはずがありません。

やはり、別れた後の馬たちは・・・・・。

写真の馬たちの運命を考えただけで、今のわたしは涙さえ浮かべてしまうのですが、
騎兵隊の将兵たちの哀しみはそれどころのものではなかったでしょう。


西竹一中佐は、機甲師団の隊長として転戦中、
乗っていた船が米国の潜水艦に撃沈され、戦車が沈んでしまったため、
補充のために一度東京に戻った際にウラヌスに会いにいったそうです。

厩舎につながれていたウラヌスは、バロン西の足音を聞きつけただけで狂喜し、
首を摺り寄せ、愛咬をしてきたということです。
これは、馬にとって最大限の愛情の表現です。

この出会いは彼らにとって今生での最後の邂逅となりました。
7ヶ月後、バロンは硫黄島で 戦死しましたが、
ウラヌスはその一週間後、彼の主人の後を追うように静かに息を引き取りました。
 

西竹一は、生前、

 「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」

と言っていたそうです。

これも、馬と言う動物を少し知っていれば、深く頷くことの出来る話です。
言葉が通じないのに、ではなく、言葉が通じないからこそ感じる「何か」が
互いを理解させてくれる瞬間を、わたしのような初心者ですら感じるときがあるのです。



人間が馬を乗りこなそうとすれば、そこに馬との「人間的なふれあい」が生まれます。

また、そうでないと馬と言うのは中々思うように動いてくれないのです。

騎兵隊という軍隊であっても、人と馬の間には我々が思うよりずっと緊密な交流があり、

そういう馬を兵器として戦地に投入することに何の痛痒も感じないなど、
まともな情の持ち主であればありえません。
 
だからこそ人はたかが畜生であるはずの軍馬の魂を悼んでやるのです。

靖国神社やここににある軍馬の慰霊碑は、
戦火に斃れた馬たちを愛すればこそ、その犠牲に心を痛め、
さらに彼らに感謝する心から建てられました。

今となっては、これらの慰霊碑に込められた馬を愛する人々の気持ちが、
わたしは痛いほどわかります。