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空挺館~陸軍騎兵学校と秋山好古(と閑院宮)

2014-02-02 | 陸軍


「騎兵学校の資料もあるから、乗馬をするエリス中尉には興味深いのではないか」

という理由で空挺館の見学をおすすめされたわけですが、
なぜここが騎兵学校に関するものを所蔵しているのかを全く知らず、
行ってみて初めて空挺館そのものが騎兵学校の訓練を鑑賞するための

「御馬見所」(ごばけんしょ)

であることを知りました。
考えればもともとここには先に陸軍騎兵学校が出来ていたんですね。

当時の名称は「陸軍乗馬学校」あるいは「習志野騎兵学校」であり、
ここ習志野は「騎兵の町」であった歴史があるのです。



陸軍騎兵学校が出来たのが1988年。
陸軍乗馬学校として目黒に設立されましたが、その後習志野に移転しました。
写真は目黒に創設されたころの騎兵学校門です。


その移転に関しては街道の宿場町だったこの辺りが鉄道の開設によって
立ち寄る客が減少したため、いわば「町おこし」として、

「習志野を騎兵の町にしよう!」

と周辺住民が誘致した、といういきさつがありました。

習志野駐屯地付近住民の方々、ご存知でした?
あなたがたの先住者が陸軍をわざわざここに誘致したのですよ。

騎兵の必要性が薄れたたため昭和16年には、機甲師団となって馬に乗っていた陸軍将兵は
そのままどういうわけか殆どが戦車に乗ることになってしまいました。
そしてその戦車学校は千葉県穴川に移転してしまったため、ここ習志野には
昭和16年から空挺作戦に投入するための落下傘部隊が駐屯し、
それが第一空挺団の前身となって現在に至るというわけです。

つまりここに現在第一空挺団があるのも、元はと言えばこの辺りの当時の市民による請願、
ということなのですけど、そういう歴史を知らずとも、自分が生まれる前から
とっくにあった基地や駐屯地に対して、今更のように文句をつけるのが左翼の常套ってやつです。

今回、「赤旗」のサイト?でこんな微笑ましい記事を見つけました。

(解説)

ある日、空挺団の訓練のとき落下傘が近隣の高校に流されて降下してしまいました。

そのことを受けて地元の共産党員が第一空挺団に

「 グラウンドに人がおらず人的被害はなかったが、重大事態になりかねなかったと指摘。

面積も狭く住宅密集地で幹線道路も通るため、
降下訓練に最もふさわしくない演習場としてこれまで訓練中止を求めてきたにもかかわらず、
事故が起こったことに対し、「絶対に許すことができない」と抗議しました。
今年3月にも場外への降着事故が起こり、2004、06、08年と事故が繰り返されたことを批判。
原因と責任を明らかにし、パラシュート降下訓練の中止を」と強く要求しました。

第1空挺団の広報は、事故の原因について隊員が風向きなど状況判断を誤ったこと、
上昇気流の回避行動が不十分だったこと、降着地域に降りることを優先しなかったことをあげ
「このようなことがないよう対策を講じていく」
としましたが、訓練は今後も行う考えを示しましたむ(←原文の間違いをわざと放置)

要請参加者は
「十数回も降下している隊員でも、演習場外へ降着してしまうことがある以上、訓練は中止すべきだ」
と改めて求めました」

というものです。


これまで述べたような歴史的経緯を鑑みても、いやたとえ鑑みずとも、
今更共産党が「やめろ」と言ったところで陸自が訓練をやめるとは到底思えんのだが。

だいたい「訓練」ですからね「訓練」。

皆が一発で思ったように降下できるくらい簡単なことなら、そもそも訓練いらないっつの。 

もう一つ突っ込んでおくと、空挺隊員が降りてくるって
・・・・この人たちが言うほど危険かなあ。 
わたしなど、日大グラウンドに降下してしまった隊員がパラシュートを抱え、
キャンパスをダッシュして脱出、などという時折あるらしいこの「事故」など、
ほのぼのニュースくらいに思っていたんですけどね。

降下始めのコメントに読者の方から頂いた

「そのころ駐屯地には柵がなく、子供たちは敷地内の原っぱで寝転びながら空を眺め、
落下傘が落ちてくるところに駈けてゆき、傘を畳むのを手伝った」

なんて昔の話を思うと、さらに嫌な世の中になったものだと嘆息せずにいられません。


いたい、共産党の人たちだって自分たちが「訓練やめろ」といったら
陸自が本当に訓練やめるなんてまさか思ってないよね?

・・・・・・ないよね?




さて、習志野駐屯地に入っていくと、見事な松林と、妙に古い建物が目につきます。
正門から向かって成田街道沿いにならんだスレート葺きの建物は、
昭和16年(1941年)、戦車格納庫として急造されたものだそうです。

じつは駐屯地内にはこのような古い建物が他にもいくつかあるのだそうですが、
建物が新しく相次いで建てられ、保存が危ぶまれているのだそうです。
前回懸念した「趣のないプレハブ調の建物」に、これらが取って変わられるかもしれないと。

ただでさえそんな資金など逆さに振っても出てこない防衛省ゆえ、
歴史的な建築物を仕方なく壊してしまう、ということは避けられないことなのでしょうか。



空挺館の近くにこのような碑があります。
50周年記念。
何の50周年記念かと言うと、

「軍人勅諭下賜50周年記念」。

この形は紛れもなく砲弾を模しているものと思われます。
軍人勅諭が下賜されたのは明治15年のこと。
この碑は、それから50年後の昭和7年に騎兵学校によって建立されました。

このときは全国の軍隊で記念行事が行われ、各地に碑が建てられたそうです。

そして、この砲弾型碑の奥にあるのが、これ。



軍馬慰霊の碑。
この字は、日本騎兵の父であった秋山好古の揮毫によるものです。
言わずと知れた「坂の上の雲」の主人公で、秋山真之の兄。
秋山は第二代騎兵学校校長でもあります。

この碑は元からここに在ったのではなく、騎兵学校西側柵の、
小庭園に設置されていたものを移設したのだそうです。

道理で「砲弾の碑」が前を塞ぐ感じで、変な配置だと思った(笑)



その秋山好古、晩年時代。
最後の日々、秋山は故郷松山の中学の校長をしていた、ということは
映画「坂の上の雲」でもラストシーンとして描かれていました。


かつての陸軍大将が、除隊後校長先生をする・・。
当時の教職は「聖職」と言われ、名門中学の校長ともなると

生徒からの畏敬もかなりのものだったと思われますが、
今の教育界を考えるとまるで別の国のことのように思えます。

もっとも、これは当時としても異例のもので、
予備陸軍大将でかつて教育総監まで(陸軍三長官の一)務めた人物が
中学の校長になるということは、「格下人事」でもありました。

大将として予備役に編入されるにあたり、元帥位への昇進の話もありましたが、
なんと本人はこれを断っています。

このことだけを見ても、秋山好古が無欲で功名心のない、
高潔な人物であったかが窺えようと言うものです。



自己を必要以上に大きく見せることをしないその大物ぶりは、
たとえばかれが若き日、色白で目鼻立ちのはっきりした長身の好男子で、
故郷松山や留学先のフランスでは女性に騒がれるほどであったにもかかわらず、
本人は「男は容姿の美醜などに拘泥するものではない」という考えで、
そのことを意識する様子もなかった、というエピソードにも現れています。

ここに見える写真の「大尉時代」が、フランス留学の頃だということです。



フランス留学で騎馬戦術を学び、それを日本に持ち帰って騎兵学校の礎を築き
「日本騎兵の父」となった秋山ですが、その生涯で最も大きな功績は、
日露戦争で騎兵第1旅団長として出征し、
沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦ったことです。

このときの秋山の功績については、騎兵学校に来校したフランス軍人による

「秋山好古の生涯の意味は、
満州の野で世界最強の騎兵
集団を破るというただ一点に尽きている」

という賞賛にこれも尽きるでしょう。



冒頭に挙げたこの写真は、彼らの軍服から察するに明治時代の、
近衛騎兵連隊の写真。

皆凛々しいですが、特に「旗手の今村」が実にしゅっとした好青年ですね。

昨年秋の音楽まつりの際、会場となった武道館のある敷地に、
近衛第一歩兵連隊の碑があったのをご紹介しましたが、
この師団の特別なことは、東宮即ち将来の大元帥(天皇)となるべき皇太子は
必ずこの近衛第一歩兵連隊附になることが決まっていたということです。



右、皇太子時代の昭和天皇、左は・・・・
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)かな?(未確認)


ある読者の方とのご縁により海兵67期の越山清尭大尉のエントリをアップしたとき、
越山大尉の祖父がもともと西郷隆盛の近衛兵で、第一歩兵連隊となったこと、
そしてその歩兵連隊は全国でも特に選りすぐり俊秀であったことを書きました。

「禁闕守護」(きんけつしゅご・禁闕とは皇居の門のこと)の使命を帯び、
任務が東京であったこの近衛騎兵ですが、司令本部はここ習志野にありました。




陸軍騎兵学校の出身者には、この後お話しするオリンピックのメダリスト、
西竹一大佐・バロン西、そして玉砕した硫黄島の守備隊指揮官であった栗林忠道大将、
そして蒋介石などがいます。

写真は騎兵連隊附であった閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう)。
飛行服に身を固め、なかなかのイケメン若様です。

ここで超余談です。

この宮様は、戦後皇籍離脱後事業を起こし、元皇族の中でもかなり経済的に成功し、
余生も穏やかなものであったということなのですが、
戦後になって離婚した元夫人が、彼が軍隊時代男色家であった、とリークして、
マスコミの好餌となりスキャンダルになった、ということがありました。

夫人によると、陸軍の官舎は狭く、ベッドは二つであったのですが、
王は高級将校に必ず付いていた従兵と一つのベッドに寝ていました。
井上大将にも艦隊勤務時、そんな話がありましたが、これはその話と違い、
両者合意の上での同衾であったようです。

戦後になってもその従兵と夫妻は同居生活を続け、言い争いになると
元従兵が彼女を殴ったりする異常さに耐えかね、離婚に至ったとか・・・。




高級将校の従兵、特に宮様の従兵ともなると、人物は勿論、
容姿もかなり厳選考慮されたものだと思われますが、それゆえ
元々そういう性癖のお方としてはその色香に抗えず(?)そうなってしまわれたのでしょうか。

だとすれば秋山閣下とは対極に、宮様は

「男の美醜は(勿論)こだわる!(好みもあるけど)」

というポリシーをお持ちであったかもしれません。