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KNOW YOUR BOAT!(己の艦を知れ)〜海上自衛隊呉資料館

2017-05-12 | 自衛隊


KNOW YOUR BOAT(己の艦を知れ)


前回、戦後初の海上自衛隊の潜水艦「くろしお」に乗り組んだら森永一佐ら
戦後最初のサブマリナーたちが、アメリカのコネチカット、グロトンにある

潜水艦学校で学んだことをお話ししましたが、このモットーももしかしたら
自衛隊初のサブマリナーたちが留学時に得た精神であったかもしれません。

 

というわけで、己の艦を知るための詳細模型もあります。
操舵席。 

「己の艦を知れ」と改めて自分に言い聞かせるのは、潜水艦というものが
艦のあらゆる構造、機能を完璧に理解していないといけないからです。

もちろん水上艦もそれに越したことはありませんが、海中で三次元の動きをするなど、
水上艦にはできない動きをする潜水艦は、各機能や構造が密接に関係しあって
初めてそれらが可能になることの連続なのです。

それだけに艦全体の構造と機能を理解した乗員が人艦一体となって
初めて高い能力を発揮することができる兵器ということができます。

発令所の下の発射管室。
その下には電池室があります。 

これが実際の発射管室。
発射管からは魚雷だけでなく、機雷、ミサイルを発射することができます。
魚雷を発射するためには水圧や空気圧で押し出すのが一般的ですが、
中には自力で出て行く健気な魚雷もあります。 

魚雷搭載口から魚雷を搭載しているところ。
搭載する時には甲板に組み立てられた搭載用の架台と
艦内の油圧駆動の搭載装置を斜めにつなぎ、その上を
滑らせながら艦内に入れます。 

乗員の潜水艦内でのベッドはこのようなものですよというコーナー。
前回来た時にはまともに写真が取れなかったのですが、
今回のわたしには広角レンズという強い味方があるのだった。

ロッカーまで実際と同じように再現されています。 

実際に寝てみる人のために注意事項が書かれていますが、
なんども頭や体をぶつけている隊員さんが(´;ω;`)

潜り込んでから体を回転させるのがポイント。

それはそうと、「ベット」って何ですかベットって。
そういえば教育隊のポスターにも「ベット」ってあったけど、
もしかして自衛隊の特別な用語だったりする? 

 

自衛隊潜水艦乗りの故郷「潜訓」、潜水学校の紹介です。

「海面を二次航行するだけの水上艦と比べ、
三次元の海中を航行する
潜水艦の操作が難しいのは当然である」

といきなり水上艦の人が聞いたらムッとしそうな口調で説明が始まります。
それはともかく、潜訓というのは、資格を取ったらもう御用済み、
という自動車教習所のようなものではなく、何度もなんどもその門をくぐり、
その都度
日進月歩の新しい技術や運用思想を学ぶサブマリナーの原点なのです。

潜訓は現在ここ呉にあります。
呉は自衛隊サブマリナーのふるさとというわけです。
そういえば「呉氏〜GONNA 呉氏〜」という呉市のテーマソングにもありましたよね。

♪潜水艦は今日も潜るよ〜♪

パネルの前で記念写真を撮っているのかと思ったら違いました。
水上水上航行訓練用のナビゲータートレーナーによる訓練中。 

わーなんか楽しそう。
しかし、これは楽しいなんて言っていられない真剣な訓練です。
潜水艦に水が入って来た時の防水訓練。

冬は辛いと思われ。 

潜訓の施設がグロトンの潜水艦学校をモデルにして作られたのは
何の根拠もありませんがほぼ間違いないことだと思われます。

例えば海底に鎮座した潜水艦から脱出することになったら?

そんな時のために、彼らはプールで脱出訓練を行っています。 

潜水艦から脱出するための用具各種。

写真左のオレンジのフードは水深が浅いところで
使用するための「スタンキーフード」という脱出服。 

しかし実際、海底の脱出において最も恐ろしいのは水圧が引き起こす
潜水病(減圧症)です。

急に浮上すると血管中気泡ができてそれが血管を閉塞させ、
最悪命の危険もあります。

昔の潜水夫は、深海から少しずつ、ポイントごとに30分はじっとして過ごし、
時間をかけて海面に浮上してきたものでした。


おそらくこちらのスーツは比較的水深の深いところ用で、
耐圧スーツにもなっているのだと思われます。 

潜望鏡も実際のものが展示してありました。
潜望鏡は本物ですが、見えるのはカメラ映像のようです。

グロトンの博物館では本当に外を見ることができましたが、
ガラスが劣化してほとんど画像が判明しませんでした。 

これはグロトンでも見た、世界の海軍潜水艦隊のバッジシリーズ。
傾向としては実際に潜水艦をあしらったタイプと、潜水艦を意味する
ドルフィンをあしらったものに分かれます。

自衛隊の「魚が向かい合って桜が中央に」というような
凝ったデザインはどちらかというと少数派となります。

こういうシンプルなデザインの軍もありますが、一般的に
海軍の歴史が浅いところにこういうものが多い気がします。

グロトンで見たリビア海軍の潜水艦隊のマークもこれと全く同じものでした。

さて、ここからは潜水艦模型コーナー。
「おやしお」SS-511
「くろしお」に次ぐ二番目の自衛隊が保有した潜水艦であり、 
同時にこれが戦後初の国産潜水艦となります。

終戦後、GHQに軍艦を作ることを封じられていた時代がようやく終わり、
かつての潜水艦製造関係者はまさしくヒャッハー状態で(たぶん)
呂号潜水艦31、並びに伊号201をたたき台にして
国産第一号となる潜水艦「おやしお」を造ったと言われます。

「おやしお」は川崎重工神戸工場で1957年12月25日に起工し、
1959年5月25日進水、1960年6月30日に竣工した後、呉地方隊に編入されました。

模型ではわかりませんが、上甲板はチークで色は灰色というかつての伝統が残されました。

こちら、「あさしお」。
こうして見ると全くマッコウクジラみたいですね。
「あさしお」型潜水艦の第一号艦で、1968年就役しました。

国産第一号「おやしお」に続き、自衛隊には「はやしお」「なつしお」
という小型の艦が建造され配備されましたが、小型ゆえ
荒天でのシュノーケル航送等に問題があって日本近海では使いにくく、
大型の潜水艦が求められました。

そこで建造されたのが1600トンの「おおしお」で、
これとほぼ同型艦として建造されたのが「あさしお」型でした。 

「あさしお」「はるしお」「みちしお」「あらしお」

の4隻の同型艦は、いずれも「日本のグロトン」(潜水艦建造部門)
(わたしが勝手にそういってるだけだけど)神戸川崎、神戸三菱で生まれています。 


こちらはPTC(Personnel Transfer Capsule)、人員輸送カプセル
潜水艦救難艇を見学した方は見たことがあるでしょう。

PTCの使い方例。
潜水艦の近くに沈めて黄色いカプセル部分に収納し、
カプセルごと引き揚げるのだと思われます。

潜水艦の事故の時に人員を救出するための深海救難艇、 DSRV。

Deep Submergence Rescue Vehicle

の略語で、ハッチを開けて脱出できるような浅いところでなく、
水圧の高い深海でことが起こった時に出動する救難艇です。 

DSRVは船体下部の開口部(センター・ウェル)から直接海中に投入されます。
海中で遭難艦を捜索し、発見すると艇体下部のスカートと遭難艦の専用ハッチを接合し、
スカート内部を減圧・排水した後に深海救難艇と遭難艦のハッチを開いて通路を形成し、
遭難艦の人員を深海救難艇に移乗させます。

一度に全員を収容できない場合は、深海救難艇が支援艦と遭難艦の間を往復します。


「ギアリング」級の「ジョセフ・P・ケネディ」など、FRAM改装された
駆逐艦に搭載されていた無人対潜ヘリDASH

ここでも随分話題が盛り上がったものです。

潜水艦作戦の変遷として

第1期 水上部隊のソーナーをかいくぐり魚雷発射点につけることを競った

第2期 キューバ危機の影響で潜水艦対潜水艦の思想が生まれ、静謐性を向上させた

第3期 目標が多様化したので、とりあえず一生懸命あちこちを哨戒している

というようなことが(ちょっといいかげん?)書かれています。


 

さて、それでは「あきしお」の内部の見学に移りたいと思います。

続く。

 

 


自衛隊潜水艦の魚雷発射が「ファイアー!」である理由〜海上自衛隊呉資料館見学

2017-05-10 | 自衛隊

前回海上自衛隊呉資料館、愛称「てつのくじら」見学をしたのは
2011年ですから、もう7年前のことになります。

ブログを始めてまだ1年くらいの頃で、右も左もわからなかったのですが、
その後いろんな体験を積み重ねて少しは知識もついた今回、
改めて訪れてみたところ、前と随分見えてくるものが違いました。

カメラ一つ取っても当時のものとはレベルがかなり違っているので、
潜水艦「せきりゅう」の引き渡し&就役を見届けた今、
改めてこの潜水艦展示の部分にこだわってご紹介したいと思います。

最初に江田島見学のため呉にやって来たのは火曜日のことでした。
というわけで、当資料館も呉海事博物館こと大和ミュージアムも休館していて
涙を飲んだことを思い出します。

 

海上自衛隊呉資料館は、大きく三つの展示に分けることができます。

「掃海隊」「潜水艦」そして実際の潜水艦「あきしお」

つまりテーマとしては掃海と潜水艦の二つということになるのですが、
前回は最初の掃海の部分で時間を使ってしまい、潜水艦の展示はそこそこに
「あきしお」の見学に突入してしまったのでした。

中央に大きな「くろしお」の模型があります。
アメリカから譲渡されたガトー級潜水艦とはいえ、海自のサブマリナーの
出発点だったのですから、特別な意味を持つのでしょう。 

 

中央には大きな潜水艦「くろしお」の模型があります。

自衛隊の潜水艦運用の歴史が、海軍時代からは一旦途切れ、この「くろしお」から
始まったらしいことがわかったのも今回の見学の大きな収穫だったと思います。 


その理由は後述します。



「くろしお」は戦後の海上自衛隊がアメリカから初めて貸与された潜水艦で、
元々は「ミンゴ」SS-261 というガトー級の米潜でした。 

呉に停泊する「くろしお」の横にいる艦番号401番は初代「ちはや」です。


潜水艦第一号を手に入れると同時に、海自は潜水艦救難艦の建造を始めました。
「ちはや」が就役した時にはまだ国産艦第一号の「おやしお」は建造中で、海自は

潜水艦1、潜水艦救難艦1

のマンツーマン?体制だった頃があったのです。
これは「ちはや」就役後の1961年頃に撮られたものでしょう。

1955年、「ミンゴ」改め「くろしお」がアメリカから引き渡されました。


「ミンゴ」は1942年に就役し、戦時中はセレベスや南シナ海で日本の艦船を
少なくとも数隻魚雷で沈没させている潜水艦でした。

しかし1954年に海上自衛隊は警備隊として発足してから以降、
シーレーンの哨戒の必要性に備えるために、何度も米潜水艦を借りていたので、
実のところこれが「初めての”かつての敵艦”」というわけではありません。

借りてばかりでは訓練がうまくいかないので、一つ譲ってはくれまいか、
と頼んだのは自衛隊側で、その際スノーケル装備艦を希望したのだそうですが、
アメリカは、古い潜水艦を押し付けたかったので(多分)

「訓練用なら別にスノーケルなんていらなくね?」

と言い放ち、結局「ミンゴ」が貸与されることになったということです。

 

写真に写っているのは、初代乗組員たち。
「くろしお」に乗組む前に、森永正彦一佐以下幹部10名、海曹士72名は、
アメリカのコネチカット州ニューロンドンのグロトンにある潜水艦学校に
(わたしが昨年夏見学して来たところです)留学し、操艦や非常時の脱出法などを
学んで潜水艦勤務適格資格を取りました。

その後一行はカリフォルニアのサンディエゴで「くろしお」を受け取り、
さらにそこで1ヶ月半の操艦訓練を受けてから横須賀に回航して来たそうです。

この写真はサンディエゴでの貸与式典で自衛艦旗が「くろしお」に揚がった瞬間。

ちなみに「くろしお」初代艦長森永正彦氏は、海軍兵学校59期卒。
同期に相生高秀新郷英城吉田俊雄中村虎彦友永丈市大佐がいます。

森永一佐はその後海将まで昇任し、大湊、呉地方総監、幹部学校校長を歴任しました。

ところで「くろしお」のもう一つの余談ですが、ここでもご紹介した映画

『潜水艦イ-57降伏せず』

覚えていらっしゃいます?
池部良が最高に渋い潜水艦長を演じたあの映画ですが、あれ、実は
「くろしお」の中で撮られたらしいんですよ。
それから
 『太平洋の翼』

にも使われた(多分佐藤充演じる矢野大尉が脱出するシーン)そうです。

つまりどちらも海軍を描きながらガトー級を使って撮影されたということになります。

さて、日本側が欲しいというもアメリカからはもらえなかったスノーケルとは。

「ミンゴ」は対戦中に建造された潜水艦なので、バッテリーの充電には
浮上しないといけませんでした。
潜水艦にとって浮上は最も身を危険にさらすことになります。

というわけで、それをできるだけ少なくするための仕組みが考えられました。
スノーケル装置を最初に考えたのは案の定ドイツ海軍です。
空気を必要とするのはすなわち最低限充電のためだけなので、
海中に沈んだままスノーケルだけを海面にちょこっと出して、
こっそり吸気と排気を行い、充電が済んだらスノーケルを引っ込めて
また沈んでしまえばいいという大変画期的なものでした。

しかし、スノーケルそのものがレーダーで発見されること、
海面に出たスノーケルが航跡を描くことから、航空機に発見されることもあり、
これを採用したからといってドイツの戦艦に被害がなくなるわけではなかったようです。

アメリカが日本にこれを貸与した1955年というと、原子力潜水艦「ノーチラス」が
就役してもう1年経った頃で、アメリカとしてはそちらに舵を切っていたため、
スノーケル式の潜水艦など開発もしていなかったのでしょう。

つまり以上のことを考えると日本側の要請とは、

「(今後原潜に替えていくのだろうから)いらなくなったスノーケル式のものを貸してくれ」

という意味だったのかもしれませんが、米海軍もそこまで気前良くはなかったのです。
日本軍とガチで戦った軍人がまだ米海軍内にもゴロゴロしてたでしょうしね。


ところで皆さん、魚雷を撃つ時、水上艦が「テーっ!」なのに対し、
潜水艦は「ファイアー!」なのはご存知でしょうか。

わたしはこのことを実は当ブログコメント欄で初めて知ったのですが、
それを教えてくれた方によると、海軍時代からの伝統、
「撃てい」(射ていかな)から、今でも「テー」を使っている水上艦の人たちは
「その掛け声ででないと力が入らない」という感覚になっているため、
潜水艦だけが「ファイアー!」で発射するのを

「あれは違うだろ」

と内心思っているらしいのです。


「ミンゴ」改め「くろしお」の乗組が決まった82名のサブマリナーは
グロトンの潜水艦学校に半年留学し、さらにはサンディエゴで
「くろしお」を引き渡されてからも、アメリカ海軍で操艦訓練を受けています。


この話をこの博物館の展示によって知ったとき、海自の潜水艦の掛け声が

「ファイアー!」

であるわけが氷解しました。
 

つまり、海自が戦後に持った初めての潜水艦、「くろしお」の森永一佐以下乗員たちは
グロトンでサブマリナー教育を受けた際、用語を全て英語で叩き込まれたわけです。

もちろんその後、日本語に変えるべきところは変わっていったのでしょうが、
「ファイアー!」だけは連綿と伝承され、こんにちに至っているというわけです。


潜水艦博物館を見学するためにグロトンに車で向かっていたとき、
わたしは高速道路の脇に

「グロトンー潜水艦のふるさと(ホームタウン)」

と大きな看板が出ているのを目撃しました。

ここにある潜水艦専門建造会社のゼネラル・ダイナミクス・エレクトリックボート社からは
この「ミンゴ」始め数々の潜水艦が世に送り出されていますし、
アメリカ海軍のサブマリナーは必ずここで初級教育を始め、
自衛隊の「潜訓」のように、何度も訓練のために帰っていく場所、つまり
サブマリナーの故郷でもあるわけです。

それでいうと、海上自衛隊の潜水艦隊のルーツは、実は
「アメリカのグロトンにある」という言い方もできるのかもしれません。


異論は認めます(笑)



 


孤独のグルメ(帝国海軍艦長の場合)〜呉鎮守府庁舎の食卓

2017-05-09 | 海軍

入船山博物館、呉鎮守府長官庁舎を見学して出て来たわけですが、
今一度、官舎の洋風建築にあった食卓テーブルに注目してみます。

テーブルや椅子などの家具類は、なんども言いますが進駐していたオーストラリア陸軍が、
引き揚げるときに一切持っていってしまったので、これらの調度類は
小泉和子生活研究所が残された資料などをもとに復元を行いました。

そしてこの日の献立は、海軍料理研究家の高森直史氏が監修し再現されました。

時は昭和5(1930)年9月1日。
軍艦「出雲」の艦上における午餐会のメニューです。

装甲巡洋艦「出雲」はご存知「いずも」がその名を受け継いでいますが、
日露戦争ではウラジオ艦隊を濃霧の中みすみす逃したとして、

『濃霧濃霧とは無能なり』

などと世間から嘲られたあの上村将軍が座乗して蔚山沖海戦に勝利し、
そのときに沈没した敵艦「リューリック」を救助したことでも有名になりました。

この午餐会は日露戦争に勝利した余韻も冷めやらぬころ、
「出雲」艦上で行われたもので、この時の「出雲」艦長は、
蔚山沖で敵を一隻逃したと聞いて伝言板を叩き割る上村将軍を
顔色を変えて見ていた(多分)伊地知季珍(いじち・すえたか)でした。

艦長の伊地知大佐はもちろん、もしかしたらこの午餐会には
上村彦之丞提督ももしかしたら参加していたかもしれません。

うちにある元海軍主計中佐、瀬間喬氏の編纂した

「日本海軍食生活史話」

には、全く同じ日の献立について記載されていました。
高森氏はおそらくこの書を参考にされたのでしょう。

前菜:ソモン(サーモン)とコンソメスープのテリーヌ

スープ::アスペラガース・スープ

魚:蒸したマス

肉:シチュード・チッキン(チキン) 付け合わせ 香草

肉:ローストビーフ クレソン、ホースラディッシュ添え

冷菓子:レモンアイスクリーム

雑果菓:タピオカプリン 黒豆添え

 

こちらフランス語のメニュー。
並べてありますが内容は全く別です。

コンソメスープ

マヨネーズで和えたロブスター

牛肉のエピグラム

アップルパイ デザート コーヒー

エピグラムって・・・風刺詩とかのことなんですがどんな料理?

海軍兵学校に合格した青年たち、特に地方出身の者は周りに

「白いテーブルクロースでお給仕されてフランス料理を食べるんか」

と羨ましがられたのだそうですが、その昔、海軍士官というものは

「軍服を着た外交官」

と言われ、世界各国との交際が必要とされていたため、日頃から
こういう正餐などの席に慣れてマナーを会得している必要がありました。

ほとんどの者が洋食などに無縁だった当時の日本で、海軍士官は
それだけで特権階級でありエリートでもあったのです。

練習艦隊各艦に配乗になると、最初の外国港湾に到着するまでに
候補生達は五、六名ずつ順番に艦長室に呼ばれ、フルコースの料理を
艦長と共にして、テーブルマナーの教育を受けることになっていました。

まだ最初の頃にその順番に当たった候補生は、船酔いで苦しみ、
せっかくの料理をほとんど食べられずに終わることもあったとか。

というか、艦長はこのテーブルマナートレーニングのために、航海中
しょっちゅう(200名のクラスなら40回は)候補生と一緒に
オードブルから始まるフルコースを食べなければならなかったことになります。

 

さて、当時の食事マナーについて書かれた教科書によると、

「客は着席したらまづナプキンをとつて膝の上におき
徐かにデザートナイフを執つてパン皿の縁に取り分け、パンを割るか
或いは小さく恰度軽く口に喰られる位の一片にむしり、
それにバターを塗って食べ、静かに料理の給仕されるのを待つてゐる」

「静かに待ってゐる」

というのがなんかじわじわきます。

なお、下士官もそれらの知識には士官以上に通じていなければなりません。
なぜなら彼らは練習艦隊で艦隊司令部等において外国高官、軍人を
艦内で饗応する場合、従兵を指導してサービスしなければならなかったからで、
そのために彼らもまた食卓の作法を教わり、実習を行なっていました。

これらの教則本から、「やってはいけないこと」を書き出してみます。

● 婦人は自分の席が決まったら遠慮なく着席せねばならぬ
 でないと男子方が迷惑する

レディスファーストも当時の日本にはない概念でした。
女性を先に行かせる、先に座らせる、上着を着せる、こういうマナーは
現代の日本を見る限り、全く伝わらなかったといっていいでしょう。

連れの女性に気を遣うことはあっても、エレベーターで乗り合わせた女性を
先に行かせるような男性は滅多にいません。

ちなみに若き日の山本五十六を見た幼き日の犬養道子氏は

「レディスファーストの身についたスマートな軍人」

と彼を評しています。
特に駐在武官で海外生活をした軍人は皆そうでした。

● 酒を注ごうとした時に客が欲しないと表示した場合は必ず強いてはならぬ。 
 酒に限らずすべて物を強いてはならぬ

昔に限ったことではありませんね。
でも、宴会などでお酒を持ってこられると、飲めないにも関わらず
それを断ることがわたしにはどうしてもできません。

● 塩入れ胡椒入れは少なくとも必ず客二人に対し1組の割合で、 
 食卓につけられているはずであるから、無暗に給仕人を呼び立てたり、
 隣席の客に依頼して取らないようにしなければならぬ
 何を執るにも他人の皿の上を越して手を伸ばしてはならぬ

また、給仕をする側については

● 給仕人は身体及び着衣を清潔にし、動作は懇切機敏を旨とし
会食者をして不快の念を抱かしめるようなことがあってはならぬ。
しかして給仕人は通例冬季においても夏衣をを着用するのである。

給仕人が冬服を着ない理由がこれだったとは・・。

 

さて、映画「日本海大海戦 海行かば」でも描かれていたように、
連合艦隊司令部の艦上における正餐などは司令官附として乗り込んでいる軍楽隊が
食堂(長官公室、司令官公室)の上部あたりの後甲板で演奏を行います。

その際、長官(司令官)が最初のオードブル用のフォーク、ナイフとか
スプーンとかに手をつけた瞬間、将官室従兵が室内からちょっと出て、
後甲板の将官ハッチの入り口から下を見ている軍楽隊員に合図をすると、
間髪を入れず指揮者がタクトを振り音楽が始まる仕掛けになっていました。

映画では下を見ている軍楽隊員が宅麻伸、軍楽隊長が伊東四朗でしたね。

 

また、明治の頃の鎮守府司令官、艦隊司令官の食事中には、中が赤、
外縁が白の「食事旗」という三角旗が前檣の頂上に揚げられていたとか。
なんのために食事中を旗で知らせる必要があったのかという気もしますが、
皆もそう思ったらしく、この慣習はいつのまにか廃止されました。

艦隊の司令長官や司令官(将官)幕僚達と一緒に、公室で食事をします。
鎮守府長官も基本はそうでしょう。

副長以下大尉は士官室。
中尉少尉は士官次室(ガンルーム)。
そして准士官は准士官室で食事をします。

ところが、軍艦、そして特務艦の艦長は、なぜか艦長公室でたった一人、
従兵に一挙一動を見守られながら食事をすることになっていました。

これは辛い。

これはイギリス海軍が発祥で、アメリカ海軍もそうだったということですが、

「軍艦指揮官たるもの孤独に慣れろ」

という戒め?のために定められた慣習であったと言われています。

つまらないからといって従兵と気安く話をするなんてとんでもない。
井之頭五郎じゃあるまいし、ただ黙って孤独にご飯を食べるなんて、
いくらグルメなものをいただいても・・・・いや、たとえ五郎さんだって
箸の上げ下ろしまでガン見されながらじゃ食事を楽しむどころじゃないと思うの。

その点練習艦隊の艦長なら毎日毎日候補生と食事ということになりますが、
毎回のフルコースは、それはそれで壮年の男性には
なかなか辛いものがあるのではないかとお察しします。


アメリカ海軍は現在簡略化でガンルームとワードルームの区別がなくなり、
艦長室、士官室、准士官室という分け方をしています。
イギリス海軍もガンルームがなくなっただけでなく、准士官という階級
そのものが廃止されたので、こちらは艦長室と士官室だけになりました。

しかし、米英海軍ともに、艦長が一人艦長室で食事をするしきたりは
未だに残っています。(昭和60年現在の時点。今はわかりません)

いかに艦長職が他からその権限を侵されることのない孤高の任務である、
と見なされているかということの証明でもあるのですが、
戦後リベラルで、あまりに民主的になりすぎた我らが自衛隊についていうと、
たとえ将来、憲法の改正によって自衛隊が「海軍」となる日が来たとしても、
艦長が一人で食事をすることには決してならないとわたしは思います。

さて、見学が終わり、ちょうどお昼ご飯の時間です。
せっかくなので「呉地方総監の”愚直たれ”」メニューをぜひまた体験するべく、
わたしたちはここからテクテクと歩いて
「利根」に向かいました。

鉄火お嬢さんが誰か呉の人にランチも営業している、と聞いてきたということで、
なんの疑いもなく行ってみたら、閉まっていました orz←鉄火orz←わたし

「利根がダメとなると・・・・」

「ここからなら森沢ホテルが近いですよ」

レストランに行ってみると、メニューに「愚直タレ」など影も形もありません。
お店の人に聞いてみると、「そのメニューはまだ始まっていない」との返事。

観桜会で発表された情報によると、タコの天ぷらに愚直タレをかける、
というものだったのですが、やっぱり昼からタコ天は出さないか。

「夜のメニューだったらあるのかしら」

「そもそもお店の人が知らないみたいですね」


「クレイトンベイホテルの愚直タレうどんなら確実に食べられますよ」

「うーん・・・ここから遠いですし」

「他にどこが提供店だったかって呉監のHPに載ってるのかしら」

「ご自分のブログをみたら早いんじゃないですか」

「そうなんですけどここWi-Fi入んなくて」


なんとか「愚直タレ丼」をやっているロック風街という店に電話してみたら

「愚直タレトンテキ丼は3時からです」

とのこと。

丼物を3時から出すってどういうお店よ。

もうすっかりやる気がなくなったわたしたち、
最後の望みをかけて呉阪急ホテルに移動したのですが、
そもそも呉阪急は愚直タレ指定店じゃなかったのよね。

結局わたしは二度目となる「うみぎりカレー」を食べましたとさ。
やっぱり愚直タレはちゃんと「認定証」を呉地方総監自ら授与し、
それをお店に飾っているところでないと食べられない、ということがわかりました。

 

というところで、長々と語って来た「いせ」佐世保移籍に伴う出航行事と
その前夜の懇親会、呉軍港の艦船ツァーと入船山見学という盛りだくさん企画、
最後の「愚直タレ」以外は全てうまくいき、充実した呉でのひと時を過ごしました。

さて、次に呉に来るときには、どんな体験が待っているのでしょうか。(予告煽り)

 

呉「いせ」移籍に伴う壮行行事シリーズ:終わり

 

 


呉地方長官庁舎〜金唐紙と障子紙

2017-05-08 | 軍艦

 

呉の入船山記念館についてお話ししています。

検索していたら、昭和45年に放映された呉の映像が見つかりました。

【カラー映像】昭和45年の呉 KURE 1970

刑事ものですね。
ちなみに登場していた「音戸ロッジ」は取り壊され、7年前になりますが、
「汐音(しおん)」という温浴レストランがオープンしたそうです。
千福の煙突は今でもあります。

映像には呉地方総監部からなぜか敬礼しながら団体で出てくる自衛官、
地方総監部内では観閲行進、「海行かば」の演奏とともに映し出される
「日向」「信濃」の慰霊碑、当時はまだ綺麗だった「大和」の碑など、
(どうもこのおじさんは大和に乗っていたという設定らしい)
現在のテレビドラマではありえないシーンが満載。

おじさんが「戦後呉は変わった」と呟くのですが、今の日本は
このころから見ても大きく変わっていることに気がつかされる映像です。

さて、地方長官庁舎の内部見学の続きです。
昔洋風部分が公務に使われていたころ、こちらは土足可だったと思われますが、
問題は生活の場だった
和室から応接部分に行く時、どこで靴を履いたのかということです。

もしかしたら一旦外に出て入り口から入ったのでしょうか。

ちなみに、ここが占領軍(オーストラリア陸軍)に接収された時、
彼らは和室部分も土足で歩き回っておりました。

廊下の壁は金唐紙(きんからかみ)が貼られています。
金唐紙は版木である大きな棒に彫刻を施し、それを紙にエンボスするもので、
素材は和紙に金箔などを貼り付けたものです。

博覧会に出品され、世界から賞賛されたという美しい工芸品でしたが、
あまりにも手間がかかるせいか、昭和の中期には技術が途絶えていました。 

しかし、この技術を復活させ後世に残そうという人たちの力で、
ここ入船山の長官庁舎内をはじめ、国内に金唐紙の制作が復活し、製作者は
文部科学省から選定保存技術(文化財の修理復元等のために必要な伝統的技術)
の保持者に認定されました。

ちなみに「金唐紙」は復刻した技術者の命名による造語です。

「蝶に導かれて」見つかった版木で作った金唐紙。左上に蝶のモチーフが見えます。

前回の見学の時にも怒りまくった覚えがあるのですが(笑)
進駐軍は引き上げに際して、占領の記念も兼ねてか、ここにあった
ロンドン製の高価な家具を一切合切略奪して帰ってしまいました。

これはなぜか一つだけ残った籐椅子。

良心が咎めたのか、それとも単に積み込めなかっただけなのか。

真鍮のような素材で作られた「大和」の立派な模型がありました。
大変な労作です。

玄関ロビーを入ってすぐ右にあるのがこの応接所。
とりあえず来客に最初にお待ちいだだく部屋です。

この隣には公開されていませんが、書生部屋がありました。

「ウィリアム・モリスの様式に大変似ている」と説明には書いています。

モリスはビクトリア王朝でそのデザインされた製品が大量生産されるようになり、
それまで職人だった労働者が「プロレタリアート」となってしまったことを憂い、
初老に差し掛かってマルクス主義者になってしまった「ザ・自家撞着」の人です。


進駐軍接収時、この部屋の金唐紙は真っ白に塗りつぶされました。
占領したのが物の価値もわからないオーストラリアの田舎陸軍ではなく、
イギリス海軍であったなら、まだモリス風を尊重してもらえたのでしょうか。

鏡に映る画像がかなり歪んでいるので年代物だと思いますが、
復刻版の鏡が歪んでいる可能性もあります。

GODINというのはフランスのジャン・バティスト・ゴダンが作った会社の製品です。
このゴダンという人、日本ではあまり有名ではないようですが、実は
鋳鉄を使ったストーブの発明者だったりするんですね。こりゃすごい。

この人も実業家でありながら社会主義者として、ファミリステールという名の
労働者のためのコミニュティタウンの建設に情熱を傾けた人です。

今の基準でいうと「自家撞着」ですが、このころは実業家が社会主義者、
というのは自然発生的に共存しうる概念だったのかもしれません。

実業家であるからこそ、労働者のための理想郷を追求したところ、
それは新しく生まれた社会主義社会に違いないという結論に達したのでしょう。

ここではある夕食の席に供されたメニューが再現されています。
海軍の正餐については、項をあらためてお話ししたいと思います。

部屋の隅に見えていた組み木の床(再現部分)。

ここまでで洋館部分の見学は終わりになります。

長官の居住区になっていた和室部分を見ながら歩いて行くことになります。
この居住部分の畳部屋は、畳廊下を除くと9間あり、その中には
母屋から飛び出した形で接している使用人家と離座敷を含みます。

ここは主である鎮守府長官の居室であったと思われます。

ところどころにこんな監視カメラがありました。

「建物に設置できないからこうやって三脚で立ててあるんでしょうね」

「それにしても全体的に大きすぎないですか」

「小さかったら盗難されるかもしれないからじゃないですか」

監視カメラに写ってはまずいことをして、持って帰る輩がいることを
想定してのこの無粋なカメラ設置だと思われます。

でも、これその気になればカメラを反対側に向けることはできるわね(´・ω・`)

改装したときにこの居間の鴨居の裏側から見つかった大工のサイン。
京都の業者が明治38年に竣工したことを表す証拠ですが、
現存保持のポリシーに乗っ取り、サインはまた元どおりに埋められました。

昔はどこにもあった日本家屋そのもの。
夜間には遮光と防犯のため、一番外側にかつてあったであろう雨戸を
戸袋から引き出して全部閉めました。

廊下は隙間から下が見えていました。
洋館部分はゴダンのストーブで暖をとったのでしょうが、和室は基本
火鉢しかないので、廊下やトイレは冬寒かっただろうなあ。

ボランティアのおばちゃんたちがみんなで障子の張り替え作業をしていました。

「ご苦労様です」

声をかけると、

「(写真の)邪魔になってごめんなさいねー」

いえいえ、そのお仕事中の写真を撮りたいんです。

「やっぱり時々は張り替えないとだめですか」

「子供さんが来たりするとね。破いてしまうんですよ」

国の重要文化財の中で子供を放し飼いにするんじゃない、親。
しかしおばちゃんがいうには

「今はお宅に障子がある方が珍しくなってしまったので、
子供さんもそれでわざわざ触ってしまうみたいです」

金唐紙は破損したら再現するのは至難の技ですが、障子であれば、
おばちゃんたちにお手数をかけるとはいえ、復活させることができます。

この廊下に寝間着の浴衣などを着て佇む歴代呉鎮守府長官の姿を思い浮かべましょう。
鈴木貫太郎、山梨勝之進、野村吉三郎、嶋田繁太郎、南雲忠一・・。

離座敷、と言っても別に離れている訳ではなく、母屋から飛び出すように、
つまりここだけ付け足したような作りです。

使用人室の離れとは真反対側にあり、こちらには床の間もあるところを見ると、
来客が止まる時に使われた部屋ではないかと思われます。

離れの障子にも破れ跡がありますが、はて、ここには誰も入れないはず。
浄化槽の蓋の周りにある飾りは瓦を埋め込んで作っているようですが、
なかなかおしゃれですね。

復元された便所は使用禁止。
入り口でロープが張られ中に入ることもできませんでした。

数年前に来た時には、改装されていない昔のままの風呂場も
公開されていたと記憶しますが、今回は見ることはできませんでした。

さて、というところで入船山の長官庁舎の見学は終わりです。
入って来たところから外に出て、呉の街を歩くことにしました。

美術館通りの方位盤は操舵のデザインです。

この通りには海自の呉音楽隊の練習室が面しています。
さすがに窓から覗き込むことができないように鎖がありますが、
音楽隊が練習していると、その音が通りにいると聴こえてくるので、
観光客が脚を止めて聴き入っていることもあるそうです。

新しい音楽練習室が完成していたので移転したのかと思ったのですが、
この時点ではまだここで練習が行われていたようです。

この赤い建物は下士官集会所だったところで、呉市への返還が決まったことから
音楽隊の移転も決まり、新しい庁舎を建ててそこに移るのも間近だと思いますが、
美術館通りから音がなくなってしまうのは寂しい限りです。

全裸に帽子だけ被ってサックスを吹く男。
音楽練習室のそばにあるシュールな彫像です。

後ろから見るとさらにシュール。(脇の贅肉が)

呉ではマンホールの蓋ですらこの通り。
竣工時の大和の雄大な姿を正面から。
さりげに背景のショベルが左右対称だったりします。

「くれし」「おすい」

ひらがな表記にすると護衛艦の名前みたいにソフトな印象になりますね。
ソフトにしたからなんなのか、と言われると困りますが。

ちなみに日本のマンホールの蓋は世界でも有名で、

manhole lid Japan

で検索すると、ご覧の画像が出て来ます。
マンホールの蓋ですらアートにしてしまう国、ジャパン。

そんな国に生まれて本当によかったとわたしはあらためて思うのでした。

 

さて、そろそろお昼ご飯の時間です。

「ここはやっぱり一つ・・・・」

「愚直たれメニューでしょう!」

わたしたちはこのあと愚直に愚直たれを求めて、呉の街を歩き出しました。

 

続く。

 


葉山の休日

2017-05-07 | お出かけ

大型連休も終わりですが、皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。
わたしは知人にお誘いいただき、葉山でヨットに乗ってきました。

有名人、著名人の別荘を海岸線に多数もち、御用邸があり、
日本で初めてヨットレースが行われたということもあって、
別荘とマリンスポーツの街、という、なにやらセレブなイメージのある葉山。

今回お誘いいただいたヨットオーナーは葉山マリーナのクラブ会員です。

駐車場にはとりあえず全ての信号旗がディスプレイされ、
看板にはクルージング(石原裕次郎灯台クルージングとか)や
クルージングの時間チャーターのお知らせがあります。

逗子駅から一本のバス通り沿いに、帆檣が林立する光景が見えたら、
そこが葉山マリーナ。

レストランやショップには観光客も入れますが、ヨット置き場には
クラブの会員と一緒でないと立ち入ることはできません。

サンフランシスコのヨットハーバーは、海上にオーナーがヨットを繋留してあり、
東部ボストンのハーバーの周りは、自宅からヨットに乗れるうちが多数あります。
関西では西宮に昔からヨットハーバーがありますが、ここも海上に繋留式。

しかし葉山、逗子は施設に対して隻数が多いらしく、ヨットは全てこのように
陸上で管理しています。

「どうやって海に入れるんだろうね」

「あのデリックから出航するんだと思うけど」

見ていると、ヨットの乗った台ごと専用の重機?で移動させています。

海に下ろすためのベルトを船体にかけてそのまま下ろす。
結構大変な作業のようですが、あっという間にヨットは海に。

船上には岸壁から渡された20センチくらいの幅のラッタルで渡ります。

「♪ドミソド〜ドミソド〜ドミソドッミソッソソ〜〜(移動ド)」

出航にあたっては先日水雷士を任命された不肖わたくしが、
口で出航ラッパを吹鳴させていただきました。

マリーナを出ると、連休であることもあって結構な数のヨットがいました。
こちら、慶應大学のヨット。

防衛大学校ヨット部のヨットもこの辺でクルーズするそうです。

ミズスマシみたいなヨット。これどうなってんの。
一旦乗ったらずっとこの姿勢のまま帰ってこないといけないわけだ。

ところどころ水鳥の群が漂っていましたが、この鳥が
飛び立つ時には、このように水かきで海面を助走していることが判明。

本日のコースは江ノ島の裏まで行って帰ってくるというもの。
江ノ島を海上から眺めるのも初めての体験です。

この日のクルージングにはオーナーを入れて六人が参加。
一人ずつ舵をとって江ノ島を目指します。

「目標はあの海保の船ヨーソロで」

警備のため錨泊している海保の大型船を目指します。
いつもならこのクラスの船を見ることはないそうですが、
この日は御用邸に宮様がおられたということで、海上警備を厳となしていたのです。

海保の船は海上警察ですので、例えばヨットの上で飲酒していると、
哨戒艇などで指導してきます。

「お酒か水かなんてどうやって見分けるんだろう」

「ものすごい倍率の望遠鏡で見てるんじゃない?」

今まで見えなかった江ノ島の先端が見えてきてびっくり。
連休ということで、びっしりと人がいます。

回廊があるので稚児ケ淵という島の西端だと思われます。

海保の船が近づいてきました。
海保の船ヨーソロで目標にしたものの、

「怒らせない程度に」(笑)

距離を取りつつ後ろを帆走していきます。

このPL31巡視船「いず」は3500トン、就役は1997年。

「でも、ダメ。白い船では全くときめかない。グレイじゃないと」

同乗の

「その瞬間(海上自衛隊に)恋をしてしまったんですよねー」

と初対面の挨拶でもためらいもなく言ってしまう”ネイ恋な女性”が呟きます。
ネイ恋本家である?わたしですが、元々のとっかかりが旧海軍だったこともあり、
実は海保の白い船にも結構ときめきます。

海保の制服も冬服に限りこれも結構ときめきますが、こういう場では黙っています。

しかし、白い船は汚れが目立ちやすいのに、メンテがあまりされてないような。
海保は海自ほどせっせと塗装の塗り直とかしないんでしょうか。

アップにすると塗装がが結構ボロボロなのが目立ちます。

「作業艇の吊るし方が海自とは全く違いますよねー」

「救難のために秒速でおろせるような体制にしてるんじゃないですか」

海自出身のオーナーのヨットなので、乗客も海自視点です。
海自と海保の船の決定的な違いは色々ありますが、一番大きな違いは搭載武器。

これは国防が目的と、救難警戒が目的である違いでもありますが、
海保の船は魚雷や水雷ではなく、ガトリング砲(M61バルカン)くらいしか積んでいません。

それから、独力での出入港のために船にバウスラスターも付いているのも違います。

甲板に海猿くんらしき人影発見。

「なぜ上半身裸・・・・」

「昼休みなんじゃないですか」

いずれにしても海自の艦船ではまず見られない姿です。

海保の船のお尻を見てからヨットをUターンさせ、ハーバーに戻りました。
このころから動揺が激しくなり、左舷に傾いて真ん中に座っていたわたしは
完全に左に滑り落ちる形に。

前方のヨットの傾き具合でお分りいただけるかと思います。
オーナーは右舷舷側に腰掛けて「生けるバラスト」となりました。

「もう少し傾くともう一人座ってもらわないといけないのですが、
お客さんに潮を被らせるわけにはいかないので・・・。
(錘になるのが)一人で間に合ってよかったです」

ちなみにこの後我々のヨットはこの前方のヨットに追いつき、追い越しました。
後から

「私としてはあのヨットを抜かせたのが嬉しかったです」

とメールが来ていました。
昔、この方からヨットを持つことになった、という最初のお知らせをいただいた時、
葉山マリーナにヨットを持つなんてゴージャスでリッチ、と思ったのですが、
この日実際に乗って、わたしが思い込んでいた、船上でパーティをするようなのではなく、
この方のヨットは完全に体育会系だったことがこれで判明しました。

誰も乗らない真冬にも週末は必ず海に出る、
というのを聞いてさらにその確信を深めた次第です。

マリンスポーツのメッカ三浦半島には、いろんなレジャーが存在します。
水上バイクが集団でかっ飛ばしています。

もちろん釣りを楽しむ船も。
突堤にもこの日は釣り客がぎっしりと並んで釣竿を下ろしていました。

この日のランチはこの時後から駆けつけたオーナーの知人女性を加え、
クラブハウスのイタリアンレストラン(ブルーのピアノ付き)でいただきました。
この女性もまた海上自衛隊のファンで、まだ「ネイ恋歴1年」にも関わらず
精力的に艦艇見学などに足を向けておられる方です。

当ブログにも目を通してくださっていると聞いて、つい動揺しました(笑)


さて、というわけで体育会系ヨット体験の1日が終わり、
半分寝ながら葉山から渋滞の道を運転して帰ってきたわたしは、
荷物を降ろして潮だらけの顔を洗うなり、夜8時まで寝てしまいました。

起きてさて写真でも整理するか、とバッグを開けると

カメラがありません。

なんとイタリアンレストランに置いて来てしまったと分り、
お店に確かめて、次の日ドライブがてらTOと取りに行きました。

せっかくまたわざわざ葉山に行くのだから、と大好きなホテル、
音羽の森のダイニングを予約しました。

葉山御用邸をすぐ近くに控え、やんごとなき方々にお料理を供することもある
ここのダイニングは味にも定評があります。

プリフィックスランチでメインにアワビのステーキを選びました。

沖合にはここにも海保の巡視船「たかとり」が錨泊しています。
写真を撮っているとホテルのマネージャーが近づいて来て、

 

「御用邸の警備のためにあそこにいます」

 

と教えてくれました。
葉山御用邸は海上からの接近にも目を光らせていて、
ヨットでも近づくとすぐさま監視が警告してくるそうです。

 


海保の監視船は消防設備として放水銃、粉末放射銃、自衛用として噴霧ノズルを装備しています。
尖閣海域に侵入した台湾の漁船に放水する映像が有名ですね。

こういうのを見ると、船がグレイだろうが白だろうが、
日本を守ってくれる海の防人たちに感謝せずにはいられません。


警備艇の向こうに通過している船は、宮崎県のカツオ漁船宮崎県のカツオ船、
第八十一由丸(よしまる)です。

第八十一由丸はカツオの生き餌となるイワシを捕獲するために
神奈川県の佐島(自衛隊武山駐屯地の近く)に出没するそうですが、
ぐぐっていたら、4年前には気仙沼で横転事故を起こしていました。

上架中にかつお船が横転

造船作業中に傾いて行き横転したようですが、今は元気にお仕事しているようで
よかったよかった。

帰りはせっかくなので、三浦半島の先までドライブしました。
折しもこどもの日、海岸沿いの駐車場にたくさんの鯉のぼりが。

 

こうしてたまに海で遊ぶと、確かに非日常的な体験は十分楽しいのですが、
反面、海に関わる仕事の肉体的な苦労を実感せずにはいられません。

実際に波に揺られ、潮の飛沫をあび、直射日光に炙られ・・・・。
自分の意思ではどうしようもない状況に肉体を翻弄されるのはそれだけで
十分に重労働であることを思い知ります。

岸壁から見たり停泊している船を見学したり、たまに体験航海で乗艦するだけでは
所詮上っ面しかわからないものなんだなと思うとともに、
改めて海自、海保の現場の皆さんへの感謝の気持ちが増した、わたしの連休でした。

 

 
 

 


呉海軍工廠の街と鎮守府長官庁舎

2017-05-06 | 海軍

 

艦船めぐりで呉の自衛艦を堪能したわたしたちは、そのあと
当初の予定通り入船山にタクシーで向かいました。

鎮守府庁舎のある坂の上で降ろしてもらうと、ボランティアの男性が二人、
そこで観光客をキャッチしているらしく?近づいてきて

「45秒だけお時間いただけますか」

うーん、声のかけ方もいわゆるキャッチセールス、いや何でもない。

その解説によると、国立病院前から鎮守府庁舎のある入船山記念館の横の坂道は、
戦艦大和と同じ長さ(269m)あり、この道は「美術館通り」として
「日本の道百選」の一つに選ばれているという話でした。

このモニュメントの左上の「道」というのが「日本の道百選」の印。

ボランティアは、今観光するなら音戸の瀬戸のツツジが見頃、とか、
音戸の渡し船が120mという「日本一短い航路」であることを教えてくれました。

時刻表はなく、そこに行って乗り込むだけ。
対岸から乗るにはただ「呼んで来てもらう」そうです。

ここが入船山記念館入り口。
昔ここに来た時にも写真をあげましたが、何しろ前回から今日までに
カメラもレンズも変わりましたからね。

鎮守府庁舎時代にはここを黒塗りの車が出入りしたと思われる門。
車が通るには狭いですが、昔の車なら通れたのでしょう。

大正三年秋の彼岸、という彫り込みがある門柱には、
できたひびを補強するために金属プレートが貼ってあります。

清心院、玉泉院の菩提の為に、という寄贈。
この意味が前回もわからなかったのですが、どちらもが徳川家の正室であることから、
昔この地にあった亀山神社と関係あるのかと予想します。

神社があったところを帝国海軍が接収し(江田島の海軍兵学校もそうでしたね)、
そこに水交社など建てたのを手始めに、明治25年には鎮守府庁舎が建つことになり、
清心院と玉泉院の菩提を大正年間に弔わなければならない事情が後から生じた、
ということになるわけですが、インターネットではそれ以上のことはわかりません。

入ってすぐ左に、呉市宮原通りから移設した「東郷家の離れ」があります。

東郷平八郎が参謀長だった頃住んでいた家の「離れ」。
宮原の母屋が火事で焼けてしまい、この離れも移築されたものの
放置されて荒廃していたのを地元ロータリークラブの尽力で保存が決まりました。

たった1年7ヶ月、鎮守府の参謀だった頃の東郷平八郎が住んだだけですが、
海軍の街呉にとって東郷さんは「神様」だったわけですからね。

ともかく昔の建物がいろんな意味で残りにくいこの日本においては、
よくやってくれたとロータリークラブの英断には感謝したい気持ちです。

現地にあった看板によると、この離れには東郷元帥の呉勤務時代、
昔は「下女」といったところのメイドである水野たみさんが住んでいました。

現代の日本では下女も女中も禁止用語になってしまっているので、
水野さんのことは「お仕えした」としか説明されていません。

明治頃には接客や雇用者の世話を直接する「上女中」に対し、炊事、掃除、
水回りの仕事をする「下女中」という使い分けはなくなっていましたが、
「坊ちゃん」の「清」のように、女中のことを「下女」という言い方は残っており、

住み込みで家事をする女性=下女

という認識であったことからいうと、たみさんは下女ということになります。

門から続く石畳は、これも移設してきたもので、昭和42年まで
呉市内を通っていた路面電車の敷石です。

右側の大時計は、かつて海軍工廠造機部の屋上に設置されていたもの。
国産初の“電動親子式衝動時計”で、(内部に”親時計”がある)歯車に
ネーバル黄銅(naval、海軍黄銅とも)という耐海水性に優れた材質を用いています。

写真を撮った時がちょうど11時だったので自分の時計を見て初めて
時計が動いていることに気がついたのですが、さすが海軍工廠が作っただけあって、

艦艇兵器用の機械構造を採用した画期的な時計は、
堅牢で現在も定時には地元の小学生が作曲したメロディが流れる仕掛けです。

当時としては画期的な時計であり、呉工廠のシンボルでもありました。

この奥の爆薬庫はギャラリーになっていますが、そこにあった呉海軍工廠通勤時の様子。
いかにも活気にあふれた朝の一コマです。

終戦時には42万人を数えていた全国7位の都市、呉の人口は、
母体となる海軍の消滅により10万人強となり、 その後の進駐軍占領もあって
戦後、色々な意味で呉は苦難の道を歩むことになりました。

長官庁舎の警衛が立っていた番兵塔。

昼夜を問わず立ち続けていた石畳にはくっきりと足の跡が。
前日の雨が窪みに水たまりを作っています。

後ろの塔の床には全く劣化がないので、おそらく警衛が
塔の中に入るということは全くなかったのではないかと思われます。

 

ギャラリーとなっている爆薬庫の絵から、右上、呉軍港の満艦飾。
連合艦隊が入港した時など、このような光景が見られたそうです。

前に来た時も驚いた陶器製の手榴弾。
鉄不足を補うための苦肉の策でした。

外側、内側にも釉薬がかけられ、凝った作りだったようです。
口からはマッチ組成の点火プラグ?が突き出ていてゴムキャップがかけられており、
使用時にはそれを外して添加して投げると数秒後に爆発するという仕組み。

問題はその点火方法なんですが、それもマッチで火をつけるのかなあ。

何れにしても切羽詰まって作られた悠長な武器という気がします。

昭和56(1981)年、呉工廠の砲火工場の跡地の土中から発見された

四十五口型10年式十二糎高角砲

の砲身。
艦砲として妙高型の重巡洋艦「妙高」「那智」「羽黒」「足柄」などに
搭載されていたのと同じ型です。


余談ですが、自衛隊の所有するイージス艦は妙高型から「みょうこう」「あしがら」、
金剛型戦艦から「こんごう」「きりしま」、高雄型重巡から
「ちょうかい」「あたご」を綺麗に?二隻ずつ受け継いでいます。

少なくともこの10年以内に自衛隊はイージス艦を二隻導入する、という話が
少し前に軍事評論家から出ていましたが、そうなった時には艦名は
今まで採用されなかった他の型になることでしょう。

つまり、控えめにいうと、「長門」型の「ながと」と「扶桑」型の「ふそう」。
あるいはもしかしたらもしかして、「大和」型の二隻・・・?

「やまと」型イージス艦「やまと」と「むさし」

→海自の志望者殺到?

・・・・・。

前回入船山に見学に来た時には、数年後の自分が高角砲一つで、ここまで
妄想を展開させる立派なヲタに成長しているとは想像もしていませんでした。

高角砲が展示してある横で入館料250円を支払い、進んでいくと、
石畳の向こうに車寄せのロータリーを儲けた道の奥、
旧鎮守府長官庁舎が姿を現します。

呉のシンボルともなっている現呉地方総監部庁舎、旧呉鎮守府庁舎を設計した
櫻井小太郎の設計によるもので、正面に洋風の公館、奥に和風の居住区を持つ構造です。

国の重要文化財となっており、呉市ではこれを焼失などから守るため、
頻繁に火災を想定した訓練を行なっているということです。

呉鎮守府庁舎の住人となったのは第7代長官となった有馬新一中将から
第33代の金沢正夫中将までの31人です。

金沢中将は5月に呉鎮守府長官に着任し、わずか2ヶ月後にあの呉大空襲で
軍港呉市が壊滅的被害を受けるのを目の当たりにし、さらには
日本の敗戦を受け入れた最後の呉鎮守府長官になりました。

錨と桜のモチーフを取り入れた優美なすりガラス。

内側から見るとステンドグラスは淡いパステルカラーの光を通します。
明治38年に芸予地震で倒壊した長官庁舎を建て直して以来、エントランスのガラスは
一度も破損することなく、今日までこうして変わらぬままです。

見学は洋館をこのように見ながら歩いていき、後ろに接続している和風建築の、
かつてお勝手口であった使用人の出入り口から入ることになります。

途中に屋根付きのこのようなものがありますが、
当時防空壕であったところを埋めたのか、それとも防火用水だったのか・・。

見学者はここで靴を脱ぎ、順路に従って見学していきます。
建物の保存のためには靴を脱がせたいが、正面の洋風建築の方から入ると、
靴脱ぎも下駄箱の設置場所もないし、出入りがあればガラス等に破損の恐れがでる。

ということで、こちらを入り口にすることになったのでしょう。

お勝手だったので、流しとかまどの跡がそのまま残っています。
かまどの跡の上には靴脱ぎと下駄箱を乗せてしまいました。

入ってすぐのところに、1mもない奥行きのスペースとその引き戸がありました。

「こんなところに何を入れたんだろう」

ナチュラルに奥に顔を突っ込んだところ、

「『あきづき』の海曹室で、自衛艦旗の箱をいきなり開けたのを思い出しました」

と鉄火お嬢さん。
そこに何かがあれば、興味から首を突っ込まずにいられない。

この性癖が災いをもたらしたという経験は今のところ幸いにしてありませんが、

好奇心は猫をも殺す。"Curiosity killed the cat" 。

ということわざもあることですし、そろそろ自戒するに越したことはないかもしれません。

 

続く。

 

 



「さざなみ」の「米艦防護」任務〜呉艦船めぐりツァー

2017-05-04 | 自衛隊

 

「いせ」が佐世保に出航した日、呉は晴天で暑くも寒くもなく、
まさに「護衛艦日和」、「クルーズ日和」というべきで、こんな日に
もともと計画していたわけでもないのに充実した艦船めぐりに参加することができ、
本当にラッキーだったと思っています。

ツァーに参加すると艦船めぐりのパンフレットがもらえるのですが、
これがちょっと気に入ったのでご紹介。

シンボルマークはキリッとした水兵さん。

ここにも書いてありますが、案内は海自OBです。
たった30分のツァーですが、それだけに解説は重要。

言ってはなんですが、横須賀軍港クルーズの茶髪青年のそれとは
はっきり言って当事者だけに桁違いに質の高い解説でした。

クルーズは自衛艦の繋留してある桟橋をみて30分で帰ってくるので、
船は実質二河川の河口を1ミリも出ることはありません。
当然音戸の瀬戸など、ちらっとも見えないのですが、一応呉アピールしてます。

で、この魚くんが、

て〜っ 呉に泊まろうょ」

と言ってるのですが、この「て〜っ」って、ご存知のように護衛艦の魚雷発射の掛け声。
呉の魚は「て〜っ」と鳴く。てか?

意外とちゃんとした解説でわろた。
ここでも一番下のお魚が、

「対空ミサイル シースパロー て〜っ」


すわ、江田島の向こうから北朝鮮のミサイルがっ!?
この対潜ミサイルアスロック、どう見ても自衛隊基地に着弾するな。

かたや夕暮れにまるで花火のように上がっているのは、

「チャフロケット アルミ箔片だ〜」

魚たちが説明している哨戒機を搭載した護衛艦は「さみだれ」か「さざなみ」か・・。

「て〜っ(いちいち可愛いぞ〜)

いせ おおすみ ひびきだ〜っ」

おっと、今日を境にこのパンフレットは訂正してもらおうか。
「いせ」ではなく、そう、「かが」にね。 

遊覧船は、アレイからすこじままで行って帰ってきます。
潜水艦桟橋を見るためですが、解説の方がここで

「潜水艦が海中でエンジンを動かすにはスノーケルで空気を取り入れますが、
この新型潜水艦にはAIPが搭載され・・・・

と説明をしているのを聞いて、わたしたちは、

「いやいやいやいやw」

「それは(一般の人には)わからないw」

と失礼ながらこっそりツッコミをいれてしまいました。


昔、それこそ「いせ」の体験航海で古い写真を見せられ、

「山本五十六はどれかわかる?」

と聞かれてコンマの速さで指をさしてえらく驚かれたことがあり、
わたし自身は逆に、驚かれたことに驚いたという経験から、いわゆる
ヲタクの常識と一般人の常識の間にはとてつもない開きがあることを知っています。

しかしだからと言って、一般人に合わせた話ばかりをされてもね。
どのレベルに焦点を合わせて話をするかは案内の方にとっても難しいところでしょう。

右側がX舵で左が十字舵の潜水艦です。

ここでもう一度パンフを見ていただきたいのですが、まずパンフ全体に
白い煙がもくもくとあしらわれているのにご注意ください。

左のお魚くんがこの白い煙のことを、

「バッテリー充電中だ〜っ」

と説明してくれていますね。
また、左から順番に

「水中排水量4,200トン、動力潜水艦で世界最大よ〜っ」(女の子?)

「X舵だ〜っ」

「ハープーン級対艦ミサイル、搭載しているよ」

「定員65名、そうりゅう型潜水艦」

左には唯一タコがいて、潜水艦から曳航されているデコイに向かって

「デコイだ〜っ にげろ〜っ」

デコイとは、敵を欺瞞して本物の目標と誤認させる目装備の総称。
つまりデコイから逃げる必要はないんですが・・。

あ、タコだからか(笑)

 

「夕呉クルーズ」

では、日没時の自衛艦旗降納の際のラッパについて

10秒まえ〜パンパパ〜ン じか〜ん〜っ

ラッパ譜 君が代 吹奏

日の入り時刻に合わせ、吹き手の唇や行きの強弱の調整だけで
ドソドミソの5音の組み合わせて吹かれます」

とこれもお魚さんが説明してくれています。

潜水艦救難艦「ちはや」。

先日進水式に立ち会った「ちよだ」は、やはり潜水艦基地のある横須賀に、
今の「ちよだ」と入れ替わりに就役する予定となっています。

案内の方は、「ちはや」が深海救難艇(DSRV)を搭載していることなど、
潜水艦が沈没した時の救難についても詳しく説明していましたが、
もしかしたら現役時代は潜水艦に乗っていたのかもしれません。


左舷側岸壁にはたくさんのキャプスタンが置いてありました。
「ちはや」の搭載品でしょうか。

 幹部候補生学校の卒業式の日に見送った「ふゆづき」に再会しました。
「ふゆづき」には飛行学生出身士官が練習航海で乗り組んでいます。
この後も、国内の公開には最後まで同行しますが、5月14日までとなっており、
練習艦隊が遠洋練習航海に出立するのと別れて舞鶴に帰港する予定です。

今「ふゆづき」はお食事中(油船がいる)ですね。

練習艦隊旗艦「かしま」。
練習艦隊は明日5月5日呉を出航し、鳥羽に向かいます。
伊勢神宮への参拝を行なった後、5月8日に晴海に到着。
5月22日に遠洋練習航海に向けて横須賀から出航する予定となっています。

輸送艦「おおすみ」のハッチが開くのか、それとも閉めているのか。

今wikiをみたところ、あの不幸だった事故のことは、

「広島県大竹市の阿多田島沖の瀬戸内海で、
無謀な航路横切りを試みた遊漁船に異常接近され、
おおすみは再三警告、減速したが衝突された」

とはっきり書かれています。

IHIの造船のためのブロックを乗せた台船の近くも通ります。
こういうのをブロック工法というのだという説明がありました。

ドックでほぼ建造中の大型船は「NYK スワン」
NYKはニューヨークのこと?(多分違う)

調べたところ、「スワン」はコンテナ船のようです。

 

「スワン」はこの「ファルコン」の7番艦だそうです。

「戦艦大和と同じ”バルバス・バウ”を採用しています」

と案内の方。
バルバス・バウ( Bulbous Bow)とは「球根状船首」という意味で、
バルバスには「醜く膨れた」という意味もあります。
効果は造波抵抗を打ち消すためのもの。

今「ファルコン」には荷が空っぽなので船体が完全に浮き上がり、
球根が海上に出てしまっていますが、万が一このような状態で航行すると、
抵抗を抑えるという本来の目的は全く果たさなくなるのだそうです。

遊覧船はアレイからすこじままで行き、「さざなみ」の横まで行って、
そこから元来た航路を戻って行きます。

デッキのシートでは、乗り込んでいたテレビ局のクルーが何人かに、
ツァー中ずっとインタビューをしていました。
たった30分のクルーズで、
しかもずっとその間解説の人がしゃべっているのに。

ケンケンさんによると、ツァー最初にすれ違った「くにさき」の作業艇は、
ここ!呉地方総監の桟橋に連絡のためにいるとのことでしたが、
用事は済んだらしく、作業艇の姿はもうありません。

その代わり「YF」、つまり交通船が一隻桟橋につけていました。
今から誰かを他の船に運ぶのか、それとも運んで来たのか・・。

交通船は日本の旗をつけています。

艦番号113の「さざなみ」を左舷に見ながら回り込んで行きました。
「たかなみ」型の護衛艦のシェイプは感動的なまでに美しい。ということが
わたしと鉄火お嬢さんの間での二議一決を見ました。

「さざなみ」インド洋をはじめソマリアにもなんども派遣されています。

わたしたちにはこの時想像すべくもありませんでしたが、「さざなみ」は
2017年5月2日、つまりこの写真を撮った5日あと、呉を出港し、
安全保障関連法に基づき、自衛隊の艦船が平時に米軍艦船を守る
「米艦防護」を初めて実施することになっていたのでした。

「さざなみ」は呉を出航した後、護衛艦「いずも」と共に房総半島沖周辺で
米海軍太平洋艦隊所属の補給艦と合流し、周辺の警戒、監視にあたりながら、
現在四国沖まで共同で航行をしているはずです。

その後、四国沖で補給艦と別行動をとり、5月15日に「いずも」とともに

「シンガポール共和国及び同国周辺海空域で実施される
シンガポール海軍主催国際観艦式及び多国間洋上訓練」

に参加することが決まっています。

わたしたちが「さざなみ」の横を航過したとき、ゴムボートの上で
10人くらいの隊員が
なにやら整備関係らしいお仕事をしていました。

船の上から乗客たちは手を振り、わたしたちは自衛艦旗を降ったところ、
手の空いている何人かの隊員は手を振って答えてくれました。

何人かの表情には微笑みも浮かび、こうしてみる彼らの様子は
重大な任務を前にしているとは
全くうかがいしれません。

コメント欄でも描いたことですが、今までなんどもソマリア海域に派出され、
時には実際に海賊と対峙したことのある(2009年3月)「さざなみ」乗員は、
たとえ自衛隊の歴史上初めての任務であろうと、
彼らにとっての日常の延長線上にある当然の任務として、
いつも通り、この派遣にも涼しい顔で臨んでいくのでしょう。


「いずも」と「さざなみ」の勇姿はこのトップの動画で見ることができます。

JDSDF ホームページ

「さざなみ」が無事任務を全うして何事もなく呉に帰ってくることを、
あらためて心からお祈りします。

 

呉シリーズ、続く。

 

 


WHITE BASE 「かが」〜呉艦船めぐりツァー

2017-05-03 | 自衛隊

 

海上自衛隊呉地方総監部の昭和岸壁で行われた「いせ」の壮行行事と、
出航見送りも無事に終わりました。

広島空港への空港バス発車までまだたっぷり時間があるので、
とりあえず入船山公園にでも行こうか、となんとなく考えていたのですが、
次に行くところまで送ってくださるというS一佐の車に乗り込む前に
鉄火お嬢さんが呉港クルーズはどうか、と言い出し、時間も調べたところ、
ちょうどいいタイミングで船が出ることが判明。

「入船山じゃなくて、ターミナルまでお願いします」

と行き先変更を告げると、S一佐、ターミナル入り口で車を留め、
ご丁寧にも中の受付デスクまで先導して連れて行ってくださいました。

受付はターミナルに入れば誰でもわかるところにあるので、
わざわざご案内までしていただかなくても問題なかったのですが、
なんと言ってもバリッとした男前の一等海佐に先導されてロビーを歩くと、
心なしか周りの見る目もちょっと違っている気がしてくるではないですか。

わたし「せっかくだからもう少しギャラリーがいてほしかったなあ」

鉄火お嬢「そこで見栄をはりますか・・・」(呆れ)

 

艦船めぐりの運行は日中に平日は3回、土日祝は4回、
最終便は時間が決まっておらず、日の入り時刻15分前に出航します。

「夕呉クルーズ」と銘打ったこのクルーズだけが、呉軍港の自衛艦が
喇叭譜君が代の吹鳴とともに自衛艦旗を降ろすところを間近で見られます。
一度参加してみたいものですが、この日はなぜか欠航となっていました。

所要時間は30分。
潜水艦桟橋の少し先まで行って帰ってくるだけなので、
時間もかからず、料金も1300円というものです。

チケットを買うとき、デスクの係の方が

「今日はテレビの取材陣が乗っていますのでご了承ください」

と断りを入れて来ました。
先ほどまでの「いせ」の出航には、朝日新聞の記者もおり、

「防衛問題と絡めて、なんかまたつまらんことを書くつもりだな?」

とわたしはそちらに向かって密かにガンを飛ばしていたのですが(笑)、
クルーズを取材するくらいならきっとローカル局でしょう。
取材はお断りしますけど、どうぞ宣伝してあげてください。

と思って乗ったら、結局取材クルーは、最初から最後まで二人だけ
甲板?に立ちっぱなしで写真を撮りまくるわたしたちを
触れてはいけない人だと判断したらしく、取材どころか近寄っても来ませんでした。

船は船室と船上に席があり、全員がデッキに乗りました。
カップルが多く、見るからに外国人のお二人もいて国際的。

デッキ後方はまるでヘリパッドのような甲板になっており、
わたしたちは相談もなく当然のようにここに立つことに。

船尾にはちゃんと国旗が掲揚してあります。

甲板の隅に、布製の自衛艦旗がたくさん刺してあるのでわたしたち大喜び。
自衛艦に向かって振ることができるように、という心遣いです。

いいねいいねー。

自衛艦を見せていわば「お金をとってる」のだから、遊覧船の会社も
こういう具合に、自衛隊に配慮するのが礼儀というものですよね。

時間通りに遊覧船は10時きっかり出航しました。
岸壁では係の人が両手を振ってお見送りしてくれています。

海上から見るてつのくじら館の「あきしお」は格別。
スクリューの下には、イエローサブマリン、「しんかい」が見えます。

この画面の左からほぼ右端までが「大和」実際の大きさ。
わたしは最初に来たとき、「大和ミュージアム」が休館日だったので、
MKとこの公園を散策したのでよく知っていますが、地面には
大和の甲板を縦半分に切った形が示されていて、その大きさだけでも
せめて体感できるような工夫がされているのです。

ツァーの解説の方はあとで聞いたらやはり自衛隊OBでした。
最初に見えてくる「大和のふるさと」を示しながら、その昔
「大和」が極秘に造られていた頃にそれを隠すために作った

「大和の大屋根」

の紹介から始まりました。

と思ったらいきなり曳船が登場!
ここぞと自衛艦旗を振ると、船上の自衛官が手を振り返してくれました。
一人はなんと帽振れしてくれています。

この曳船はさっき「いせ」を押していた子かなと思ったのですが、
「いせ」を回頭させている写真を確かめると「97」と「08」でした。
おそらくこの曳船は「かが」の入港を支援してきたのでしょう。

あっ、こちらの子は「いせ」を押していた08だ。
彼女は「かが」の着岸作業を終えたばかりでしょうか。

「いせ」に続いて「かが」を支援する、曳船にとってこれは
なかなかやりがいのある仕事だと思いますがどうでしょう。

続いて「くにさき」の作業艇が通ります。
湾内の哨戒でも行なっているのでしょうか。

こういう時の自衛官は完全に「仕事モード」なので手も振りません。

昭和桟橋の艦艇たちが見えてきました。

掃海母艦「ぶんご」、手前が護衛艦「いなづま」。
奥にいるのは訓練支援艦の「くろべ」のようです。


いくつもの艦檣がそそり立つくろがねの塊の中に、鮮やかな旭日旗。
誰がなんと言おうと、我が海上自衛隊旗は世界で最も美しい軍旗であると思います。

それらが過ぎると忽然とその巨大な姿を表した「かが」。
やっぱり「いせ」が出て行くと同時に同じ場所に着岸していたのね、

「かが」の前には青い制服の自衛官の姿が何人も見えます。
3月22日の就役以来、その姿を横須賀基地に見せていた「かが」ですが、
「いせ」の佐世保移転のために横須賀から太平洋をやってきました。

乗組員が上陸するのも久しぶりのことに違いありません。

ところで、「かが」就役の時に、こんなものを送ってきてくれた方がいました。

「かが」のキャッチフレーズ?は「ホワイトベース」・・・・。

”White Base”というのは、ご存知の方はご存知だと思いますが、
「ガンダム」に出てくる架空の兵器で、「地球連邦軍」の母艦です。

なぜ「かが」がホワイトベースなのかといいますと、実は空母だから
・・・・ぢゃなくて、加賀の名山である「白山」とかけているのだとか。

送っていただいた方によると、

マンガ由来としては「ゆうぎり」の”Dragon Ball”と
「すずつき」の”Sailor Moon”がありますが、

”White Base”は世界のガンダムヲタクに通じることでしょう。
Cool Japan!

 

その通りだけど、ドラゴンボールもセーラームーンも、
世界中のアニメヲタクに十分過ぎるくらい通じると思うぞ。

ちなみに「いせ」は"  Ocean Queen"、「みょうこう」は"Samurai Sprits"
「あしがら」は”Golden Boy "(金太郎)・・・・。

最後のは嘘です。ごめんなさい。

さっきまで同じ形の「いせ」がいたところに、生まれたてのピカピカ、
芳紀1ヶ月の「かが」ちゃんがおります。
さすがに若い娘は艦肌のツヤが違いますわ。ってわたしはおっさんか。

しかし、岸壁からではなく海上から船に揺られて見る護衛艦はまた格別ですなあ。

「さざなみ」のスマートな姿と「かが」の取り合わせ。
さっきまで立っていた突堤がとても小さなものに見えます。

遊覧船はこのまま「さざなみ」を左舷に見るように入り込んでいきました。
護衛艦群にこんなに近づいていけるツァーは呉だけかもしれません。

「さざなみ」の後甲板越しに「いせ」のハッチが見えてきました。
舷門にはリラックスした様子で隊員が佇んでいます。

暖簾のように「加賀」と漢字で書かれたトレードマークがかかっていますが、
これは肉眼で見る限り素材がわからなかったので、

「まさか加賀友禅でできてたりして・・・?」

と騒然となったのですが、(二人で)さすがに高価な友禅を
護衛艦の暖簾に寄贈するほど気前のいい企業はなかったようで、
普通のシート素材であることがアップしてわかりました。

ここに見える「かが」のロゴマークは、一般公募されたもので、
採用されたのは群馬県在住の大学生の作品であるとか。

金箔や加賀友禅など加賀藩の名産品や、加賀藩主である加賀前田家の
家紋でもある梅などを取り入れたデザインである。
日本を代表する四季の花々を春夏秋冬の順番で配置し、そのバックに広がる蔦には、
日本海の波しぶきと、加賀を吹き抜ける風を表し、
中央の海鳥はヘリコプターが力強く飛び立つイメージを表している。(wiki)

著作権の関係でインターネットにロゴそのものをあげることはできないので、
ぜひ皆さんちゃんとしたマークは自衛隊のHPで見ていただきたいと思います。

ロゴにあしらわれた季節の花と、花言葉、そして自衛官の心構えは以下の通り。

「fidelity 忠実 「使命の自覚」
「a good education 優れた教育 「個人の充実」
牡丹 「compassion 思いやり 「責任の遂行」
桔梗 「honesty 誠実 「規律の厳守」
コスモス 「harmony 調和 「団結の強化」

桜の花言葉が「優れた教育」だったなんて、初めて知りました。
この花言葉と心構えの比較は概ね賛成ですが、梅の「忠実」は、
昔でいうと「忠勇」とかもっというと天皇陛下への至誠となっていたはずで、
その辺りがタブーとなってしまった戦後の日本では、忠実とはあくまでも

「職務に対する忠誠」

と解釈するしかありません。
それが「使命の自覚」となっているのは、単純に

「〇〇の〇〇」

という字数制限に合わせるためなのだと勝手に推測します。
真面目に考えると「優れた教育」が「個人の充実」というのにも
かなり無理がありますが、これも解釈が回り回ってこうなったのでしょう。


帰りにもう一度「かが」左舷側を通りました。
91の番号をつけた支援船が艦腹に近づいていきます。

91の番号で現役なのは、調べても「曳船91号」しかないのですが、
どうも防舷物を設置しに行っているように見えます。

「かが」の向こう側には、今回初めて見る掃海艇「あいしま」がいます。

 

 

続く。


「いせ」と「かが」〜護衛艦「いせ」転籍壮行行事

2017-05-02 | 自衛隊

 

さて、カラオケの話が前回意外にに盛り上がりましたが(笑)、
カラオケの効用といいますか、乗組員の皆さんのオフの顔を見たことで、
なんといいますか、お見送りするのにぐっと思い入れが深まった気がします。

壮行行事が終わり、乗員が乗り込んでいった後、佐世保に向かう「いせ」は
出航に向けて作業が行われています。

ラッタルは機械操作でハッチに収納されていきます。

もやい杭にかかったもやいの輪を3人がかりで外します。

一度岸壁から海を覗き込んでいますが・・・・

3人で輪の部分を運んでいきます。

ただ外すだけでなく、色々とポイントがあるようです。
わたしがこの作業を写真に撮っている間に舷側に登舷礼の列ができていて、
声がかかりました。

「帽振れ!」

甲板上で帽振れを行う乗員はほぼ全員が海曹たちでした。
少なくとも海士は一人も見えません。

こちら艦橋から後ろの甲板。
彼らの前にある盾のような形状のものは、後ろにある物体の「蓋」だと思うのですが、
これは展開式の救命ボートですか?

ベテランの海曹長の横にまだパリパリの三等海曹がいるという・・。
こういう時の並び方は特に階級に厳密ではないのかも・・。

むむっ、この左の女性士官は確か昨日の懇親会でお見かけしたような。

懇親会には、これも士官の任務ということなのか、先任伍長以外は全員が士官で、
艦長の一佐を筆頭に三尉まで、全階級を網羅していました。

そのうち女性は水雷士の二尉と通信士の三尉。
彼女は水雷の方ですが、先ほど壮行行事で隊員に号令をかけていたと記憶します。

彼女と少し話したのですが、今水雷には結構女性が多いということでした。
もう一人の女性士官は「通信士B」と役職が書かれており、
同じ三尉の男性が「通信士A」だったので、彼女と話をした時、
なぜBなのかを尋ねたところ、「Aが上司」だということでした。

彼女は結婚しておられましたが、夫はやはり同じ水上艦勤務で、
少し前に「いせ」に乗っていたとのこと。

「ということは入れ違いですね」

同じ艦艇に夫婦が割り当てられることはまず自衛隊もしないでしょうが、
だからと言って夫と妻が転勤ですれ違いっぱなしというのも・・・。

「佐世保では部屋を借りるとかされるんですか」

と聞くと、なんと答えは「船に住みます」でした。
別の士官の奥様は、転勤先には必ず付いてきてくれるということです。

「でもまあ、子供が学校に行きだすといちいち引越しするわけにいかないので、
単身赴任になってしまいます。
そんななので、うまくいかなくて離婚する人は多いです」

「そうなんですか・・・・」

これを聞いて、迂闊に自衛官に結婚しているかと聞くことはやめておこうと思いました。




ところで例のカラオケの時、同席した士官がわたしと鉄火お嬢さんに、

「水雷士(わたし)と通信士(鉄火お嬢)」

とふざけて任命してくれたんですが(笑)
それだけどちらも女性が多いってことなんでしょうかね。

この間にも「いせ」の艦体は岸壁を離れ始めます。

「帽振れ」が終わった時にはすでに岸壁から10m以上離れていました。
昨日懇親会で、「出航準備で大変だった」と幹部がいうのを聞いたのですが、
こうやって岸壁から離れるまでに、いくつもの用意と手順と確認を踏むのです。

ただ舵をとって動かせばいいというものではないのですが、
もちろん外の我々にはそういったことは一切見えません。

完璧に岸壁を離れ、わたしのいる位置から普通レンズで艦全体が捉えられるようになりました。
これが個人的にDDHがもっともかっこよく見える角度だと思います。

途端に支援船、YTをつけたタグボートがやってきます。
タグボートが「ご安航を祈る」の信号旗を揚げているのに気づき、笑みがこぼれます。

しずしずとバックしていく「いせ」を見守るように、
回頭するポイントまでタグボート二隻が両側を併走していくと、

「『いせ』はこの後転回していよいよ出航となります。
皆様、どうぞ前方の岸壁に移動してお見送りください」

とアナウンスがありました。
早速全体が突堤の端まで大移動を始めます。

袖にベタ金の幹部たちも移動中。
「いせ」の同じ岸壁には「さざなみ」が停泊しているのですが、この時
ブルーの作業服の乗組員たちも全員艦首側に移動しているのに気づきました。

「いせ」の乗員と地上の自衛官しか目に入りませんでしたが、
「さざなみ」からもお別れの帽振れが行われていたんですね。

二隻のタグは、一隻が艦首側、一隻が艦尾側を押して、
「いせ」を左回転させるつもりのようです。 

「いせ」がいなくなったので、向かいの岸壁が見えるようになりました。
なんと、練習航海真っ最中の「かしま」がいるではないですか。

江田島で出航をお見送りした練習艦隊旗艦「かしま」、あの後
九州まで行き、それから瀬戸内海を神戸まで行って、呉に帰ってきていました。
この後舞鶴、大湊、北海道にも行って、そのあとは遠洋航海に出発する
横須賀に5月には入港する予定です。

昭和埠頭の入り口からこの岸壁まで歩いて来る途中、車が追い越して行き、
中からどなたかがご挨拶してくださっていたのですが、後から聞くと
それが練習艦隊司令の眞鍋海将補であったようです。

この写真を拡大すると、どうやら一番左が眞鍋司令である模様。
「いせ」見送りのために乗艦されたのかもしれません。

タグボートが健気にお仕事中。
「いせ」が転回してちょうど真正面を向いた時に撮りました。

いつのまにか登舷礼が左舷に移動しています。

登舷礼をみると、よくもこうきっちりと等間隔に
間違いなく並ぶものだといつも思います。

登舷礼は英語で”Manning The Rail”といいますが、英語の「Rail」は
「舷側」と考えて、直訳すると「舷側の仕事」みたいな感じですかね。

これはもともと、帆船時代にそういう場合にはヤード(セイリング)
に立つ儀礼を "Manning The Yard "と言ったことから転じています。

Manning the yard

こんなところに立って出航しなきゃならないなんて、
帆船時代の船員も大変だ。

こんな巨体を小さな二隻で回してしまうのですから、曳船のパワーってどんだけ。
例えば「ロナルド・レーガン」などの空母を動かすのも、
たった二隻のタグボートだといいますから驚きますね。

やはりそういう役目のため、曳船はトルクバリバリの
1万馬力くらいのエンジンを積んでいるのだそうです。

「いせ」が完全に左舷側を見せました。
艦橋が間にないので、全く途切れない綺麗な登舷礼ができています。

それにしても人と人の間の距離、どうやってこんな短期間に等間隔に取れるの。

もう一度、「帽振れ」の声がかかりました。
回頭して今度こそ本当の出航です。

岸壁の全員が手や帽子を降って「いせ」を見送ります。
「さざなみ」乗組員も帽振れしてますね。

向きを変えてもしばらくの間、曳船は近くを離れません。
まるで、

「もう大丈夫かな」

と見守っているように見えます。

 

「いせ後援会」の他にも水交会や隊友会など、支援団体がお見送りしていました。
これは防衛大学校同窓会の旗。

そうそう、岸壁で出航準備を待っている時、

「昨日はどうもありがとうございました」

と声をかけてきた女性がいました。
誰かと思ったら、二次会でカラオケをしたバーのママさんでした。
そういえば隊員の皆さんに

「明日見送りに行くからね」

と言っておられたのを聞いた覚えがあります。

わたしはこういうのをすぐに海軍と結びつけてしまうのですが、かつて
軍港に店を構える置屋で、海軍御用達の料亭に務める芸者のことを

「ネイビー・エス」(エスはシンガーのS)

と言い、彼女らもまた艦隊の見学に行ったり、また出航の時には
見送りに行ったものだそうです。

彼女はこういう時には必ず隊員の門出を見送るのが常で、
そのために水交会にも入っているということでした。

曳船が離れていき、「いせ」が遠ざかっていきますが、
登舷礼の列はずっとたち続けています。

「いつまで立ってるんでしょうね」

「多分完全に港を出るまででしょう」

「いせ」のこちら側を、ピンクの塗装をした船が通り過ぎました。

「おんど2000」という瀬戸内で活動している海面清掃船で、
浮遊するゴミや油の回収・清掃業務を行うだけでなく、
水質・底質の健全度を調査し、データを取って公開しています。

今日はこれからどこに行くのでしょうか。
くっついているといいことがあるのか、鳥が一緒に飛んでいました。

突堤に来て初めて気づいたのですが、沖合になんと!

「かが」がいます。
レディかが、お姉様が出て行った後、同じ岸壁に入れ替わるつもりか?

この写真を拡大してみたら、岸壁からは肉眼では見えませんでしたが、
「かが」にもちゃんと登舷礼ができていました。

「いせ」は後をよろしく頼みます、と、挨拶をして往ったんですね(´;ω;`)ウッ

さて、いつまでも見ていたいところでしたが、S一佐から車で
次の場所まで送ってくださるというお申し出をいただき、
ありがたくお言葉に甘えることにして、入り口まで歩いて戻りました。

潜水艦が今日はいっぱいいいます。
この中のどれかが、この間引き渡しを見送った「せきりゅう」のはず・・。

奥の「かしま」と練習艦隊僚艦である「やまゆき」(3519)
向こうに同じく「しまゆき」(3513)がいます。

練習艦隊ともまた横須賀で会えるといいなあ。(願望)


さて、というわけで「いせ」のお見送りは終わったわけですが、
わたしたちの「呉」は、まだ始まったばかりなのだった(笑)


続く。

 

 


乗組員乗艦〜護衛艦「いせ」転籍壮行行事(+社会人としてのカラオケ道)

2017-05-01 | 自衛隊

護衛艦「いせ」が呉から佐世保に転出する日、自衛艦旗掲揚をエレベーターから見届け、
そのまま降りてきたところまでお話ししました。

「いせ」の前には、幹部、海曹、海士の代表が儀式のために並びました。

「いせ」後援会の皆さんは、その間ずっとこのようにのぼりと横断幕を
持ってきて、「いせ」に向けておられました。
のぼりを持っている女性が帰りに乗り込んでいた車は奈良ナンバーでしたし、
後援会会長、理事は「いせ」のためにいつも大阪から来ておられたそうです。

これは乗艦用に駆り出されたごく一部の代表メンバーです。
他の「いせ」乗組員は、皆この後の出航作業にかかっています。

艦長が代表メンバーの前にたちました。
列のなかには、昨夜ヘリ着艦の話を聞かせてくださった副長兼務飛行長、
佐世保に是非遊びに来てください、と言ってくださった先任伍長もいます。

巨大な「いせ」の艦橋は岸壁からは随分遠く見えます。
いろんな人が出港前の作業で入れ替わり立ち替わりここに立ちます。

先任伍長は昨年の7月から「いせ」勤務だそうです。
艦艇の勤務に限らず自衛官の任務は1年から長くても2年が普通で、
しょっちゅう転勤があるので、わたしが前回乗った時とは
艦長、副官以下幹部はほぼそっくり入れ替わってしまっています。

しかし、個々の自衛官にとって自分の乗った船というのは特別の感慨を持つようです。

 

今回お話しさせていただいたある幹部は、最初の勤務が「みょうこう」でした。
中学生の頃、「イージス艦が日本に導入される」というニュースを聞き、
胸躍らせて自衛官になることを決心したこの幹部は、念願叶って最初の配置が
ど真ん中のイージス艦であったことに狂喜したそうです。

「でも『バトルシップ』で『みょうこう』沈められてしまいましてね」

「あー、実際に使われたのは『あしがら』だったみたいですけどね・・・。
しかし、よくあれ、自衛隊が現役艦を沈められる設定を許しましたよね」

「何処かの国じゃなくてエイリアンだからいいか、ってことじゃないですかね。
それに、そもそも『みょうこう』はその前に『亡国のイージス』でも
『うらかぜ』役でやられてますから」

エイリアンじゃなくて同じ護衛艦にですけどね。
あれは石破茂の鶴(には見えないけど)の一声があったからでしょう。

「もうあれでふっきれたってとこじゃないですか」

とにかく、自分の自衛官人生で最初に乗った艦がよりによって創作物で
二度も沈められた、というのは彼にとって決して楽しいことではないとか。

 

このとき撮影が行われた「みょうこう」の乗組員は、撮影終了後
真田広之と記念写真を撮ったりしたそうですが、

「あんなかっこいい先任伍長は自衛隊には絶対におらん!」

というのが皆の一致した感想だったということです。

さて、壮行式典が始まりました。
まず、呉地方総監池海将が、「いせ」が災害派遣でフィリピンに赴いたこと、
そして呉で行われたカレーグランプリで優秀な成績をあげたことに触れながら、
これまでの呉での勤務をねぎらい、佐世保での活躍を希望すると挨拶されました。

「いせ」艦長高田一佐が決意表明のような挨拶をし、敬礼。

高田一佐は通算9年間に渡り合計4隻の艦長を歴任してこられ、
この「いせ」艦長で自衛官生活を終わる予定です。

もっと多数の船で艦長をやった人はいますが、通算9年間は最長記録だそうで、
これは同期や後輩からやっかまれても不思議はないくらいなのだとか。
今や「暗い夜道は気を付けよう」とさえ言われているということです(笑)

この後呉の市議会議員の方などの挨拶がすみ、乗艦が始まりました。

この小隊で掛け声をかけていたのは女性士官でした。

埠頭にスタンバイしていた呉音楽隊の行進曲「軍艦」の演奏とともに行進開始。

ラッタルを上がって艦内に消えていきます。

副長(兼飛行長)が隊列の一番最後を歩きます。

最後に艦長が見送りの皆さんにご挨拶をして行かれます。


最後のギリギリに声をかけられ、駄目押しの敬礼を。

高田一佐の敬礼は少し指を開くのが癖みたいですね。

そしてサイドパイプが吹鳴される中、艦長乗艦。

次の瞬間、早回し映画でもみているような機敏な動作で、
舷門に控えていた乗組員がラッタルの片付けを始めます。
まず手すりにかかっていた艦名入りのカバーを外し・・・・、

上から出てきたブーム式のクレーンでうぃーんと引き上げ。
ラッタルの引き出しの時には、岸壁に待機している自衛官がみんなで
とにかく引きまくれ!みたいな感じでロープを引っ張って
出すものだと思っていたのですが、さすがにDDHは完璧に自動化されているようです。

ラッタルは空中で向きを変え、艦内に収納されます。

繋留してあるもやいを外す作業のために岸壁を疾走するセーラー服。

もやい杭にかかるもやいが外されていきます。

外したもやいがするすると引き上げられ登って行く様子。
向こうの岸壁に見えている建物には「工作部」とあります。

あっという間に艦長が赤いストラップをつけ艦橋デッキに姿を現しました。
青ストラップの二人は手前が砲雷長、トランシーバーを持っているのが船務長。
「いせ」幹部のトップが並んだ瞬間です。


ここからは個人的な感想の類になりますが、わたしはこの光景を見て、
ある感慨もひとしおでした。

この瞬間から遡ること半日、懇親会が終わった後、
今から二次会に行かれる幹部の一人にお誘いを受け、
わたしは呉市内のとある雑居ビルにある小さな飲み屋さんにいました。

お店の隅には「いせ」が日向灘の細島に寄港した時の記念酒が。
細島岸壁というと、わたしがミカさんと掃海隊訓練で掃海艇を見に行ったところです。
このお酒は、この地域で自衛艦を支援する後援会のような団体から送られたようです。


会社勤めをしたことがなく、合コンなどの類も全くご縁がなかったわたしは、
こういう飲み会に参加すること自体この長い人生において何度目か、というレベル。
ましてや自衛官の方々のプライベートを垣間見ることもなかったため、
この呉での一夜には驚かされました。

参加メンバーはおそらく懇親会参加組の女性二人と初級士官を除くほぼ全員で、
つまり艦長からトップ何人かということになるでしょう。

今の飲み会というのはイコールカラオケ大会ということになっているようで、
一人が時差で入店するごとに盛大に乾杯が行われ(笑)
あとは途切れることなくカラオケ、カラオケ、カラオケ。

難しいことを考えず、喧騒に身を任せてオンオフを切り替えるのが、
自衛官に限らず社会人のリフレッシュ法なんだなと知った次第です。

ところで恥ずかしながらそういう社会経験のないわたしは、
まさか人生何度目かのカラオケに呉で参加することになろうとは夢にも思わず、

「こういう時に歌うべき歌」

の見当すらつきません。
右側の船務長にも左側の艦長にもデュエットの曲をお誘いいただいたのですが、
ことごとく知らない曲ばかり。
かろうじて聞き覚えのある「居酒屋」を艦長と歌って終わりました。


あとでその道の達人であるTOに散々だった体験を話し、

「ああいう時って、一体どんな曲を歌えばよかったの?」

と聞くと、

構成する年代にもよるけど、無難なのはサザン」

あー、サザン歌ってた人いたなあ。

「あとは懐メロ。誰でも知ってるやつ」

あー、「高校三年生」も出たなあ。

「♪あ〜あ〜あ〜あ〜あ〜 海上自衛隊〜♪」

って替え歌歌ってたっけ。

「憧れのハワイ航路なんかは?」

「古すぎる。だめ」

「わたしに歌えるのなんて英語の歌くらいだったんだけど」

「英語の歌は上手くても下手でもシラケるだけ」

そして、はえーと思ったのは以下の言葉でした。

「自衛隊のようなはっきりとした階級社会は、例えばそういう時に
絶対に艦長の持ち歌は歌わない、みたいに皆気をつかうべきところは遣ってたはず」

はえ〜。

 

艦長は知人の方もおっしゃっていたようにお上手で、福山などを歌い、
(TO曰く『福山を歌う人は内心自分をいい男だと思っている傾向にある』)
KinKi Kidsの「青の時代」のあと、

「いい曲でしょ。
退職の日にはこれを流すつもりなんです」

とおっしゃっていました。

 

ともかく、社会人たるもの、こういう時にどういう曲を歌うかということまで、
実は仕事の一環としてちゃんとインプットしているものらしい。

「じゃわたしが『居酒屋』一曲でお茶を濁したのは・・・」

「それ正解」

「宇宙戦艦ヤマト」や「月月火水木金金」、ましてや英語の「錨を上げて」
なんて歌わなくてよかったってことみたいです。


しかしそれより何より、懇親会の後、カラオケで歌い狂い、
マラカスを振りまくって時々エグザイルみたいに踊りまくるという

(参考例)

イレギュラーな初対面の翌日、その同じメンバーが別人のように
(`・ω・´)シャキーン!としている様子に、いかに社会人とは
オンオフ切り替えてバランスをとって日々の仕事をこなすものであると
常識として知っていたとはいえ、そのギャップの
あまりの大きさには、
わたくし、たいへんなカルチャーショックを受けました。


この日懇親会が行われた「五月荘」はかつて海軍料亭でした。
その頃の呉軍港の海軍軍人たちも、彼らのようにオフには陽気に歌い踊り、
(ただし上下関係には気を遣いつつ)それでも時間が来れば嘘のように
平常モードになって、艦に戻っていったのでしょう。

こんなところにもある種の「海軍伝統」を垣間見た気がしたわたしです。


続く。