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掃海艦「はちじょう」除籍〜自衛艦旗返納

2017-06-10 | 軍艦

掃海艦「はちじょう」除籍に伴う自衛艦旗返納式についてお話ししています。

 

掃海「艦」の建造に至る過程について、面白い話を見つけました。

専守防衛の我が日本国自衛隊が新しく装備を導入する時、そこにはあくまでも
「カバーストーリー」といいますか、つまり「建前の必要性」が必要になります。

掃海艦が企画されようとしていたころ、日本は西側諸国の一員として
冷戦を「戦って」おり、そのために、P3Cを増やし、イージス艦を整備し、
そう、掃海艦を建造するという必要があったのです。

防衛力整備達成のために必要なのは建前、いや理論武装です。

そこで掃海艦の整備に必要となったのは、ソ連の高い機雷敷設能力、
特にロケット上昇式の深々度機雷に対する「脅威論」でした。

「我が国の重要港湾のほとんどが本州の太平洋岸に集中しており、
通行船舶の輻輳、集中するチョークポイントも、その多くが
外洋につながる深々度海域を多く含んでいるため、もしここに
ソ連の有する深々度機雷が使われたら大変なことになる!
だからこそ深々ど機雷排除機能を持つ掃海艦が必要なのである!」

というのが、この場合の「カバーストーリー」となり、それは
内局にも大変歓迎されたといわれます。

ソ連の軍事的能力の高さは、当時の日本にいて否定できるものではなく、
それさえ言っておけば公式には反論・議論の余地もなくなるというわけです。

そもそもソ連がそんなことをする意図やその可能性があるかについては、
中の人に疑問を持つ向きがないでもなかったらしいのですが、(そらそーだ)
それを論証することもまた不可能、とうわけで、内局の部員の中には

「騙すなら、最後まで気持ちよく騙してね」

と冗談半分、実は本気で囁く者もいたという話でした。

 

閑話休題、

時は流れ、冷戦構造は終了し、時代の流れから掃海艦は次第に減勢に転じました。
現在建造中の「あわじ」型掃海艦は、「やえやま」型とほぼ同じ大きさでありながら、
艦体を木造からFRP構造に変えたため、基準排水量が3割低減し船体が長寿命化しています。

「あわじ」型のカバーストーリー、いや建造目的は、科学の発展に伴い日々開発される
新型機雷に対応するため、となっています。

さて、国歌「君が代」の演奏とともに、「はちじょう」の自衛艦旗が降下されました。
左手に三角に畳まれた旗を掲げ、副長がラッタルを渡ります。

副長を先頭に、「はちじょう」の乗組員が後に続いて退艦を行います。
この時の音楽はもちろん行進曲「軍艦」。

ところでこれを「総員退艦」と称してよろしいのでしょうか。
そういうと、何か今からよくないことになりそうな気がするのですが・・・。

掃海艦の乗員は全部で60名。
これが掃海艇となると48名となり、多めの一学級(しかも昔の)規模となります。

たったこれだけが一つの艦で、訓練と一日のほとんどをともに過ごすのですから、
掃海部隊が「家族」というような緊密な一体感で結ばれていたとしても当然です。

乗組員は、テントの前に整列し、自衛艦旗を掲げた副長は
前列一番左側でその姿勢のまま待機。

掃海艦からの60名の退艦はあっという間に終了し、行進曲「軍艦」は
中間部に入る前に終わってしまいました。

最後に退艦した艦長が、副長の前に歩みます。

自衛艦が就役するとき、防衛大臣、あるいはその代理から自衛艦旗が艦長に授与され、
艦長はそれを副長に渡し、最初に乗艦させます。

除籍はその逆で、乗員に先駆けて副長が自衛艦旗を艦から降ろし、
それを艦長が受け取って、執行官に返納することになっています。

「はちじょう」最後の艦長の手に副長から自衛艦旗が渡されました。

艦長は受け取った自衛艦旗を左手で掲げ、互いに右手で敬礼を交わします。

しかるのち、二人で正面にむきなおり・・・・、

艦長が受け取った自衛艦旗を持って中央に進み出ます。

まずは中央台の前で敬礼。

除籍の時にまで防衛大臣及びその代理が出席することは普通ないようです。
ということは、防衛省から受け取った旗を、自衛隊に返還するということになるのでしょうか。

横須賀地方総監に、自衛艦旗を返納する艦長。

地方総監はそれを横に控えていた副官に手渡します。
副官はそれを台の横に用意されていた白木の箱に納め・・・・、

持ち去ります。
この箱は、この後、車のハッチバックに置いてあるのを目撃しました。

そののち、地方総監からの訓示が行われました。

「『はちじょう』は、平成6年3月24日、『やえやま』型掃海艦の3番艦として就役した。
以後、23年間の永きにわたり、機雷戦部隊の主力艦として各種任務に従事し、
海上自衛隊の任務遂行に大きく貢献した。

23年間における総行程28万8千190マイル、総航海時間3万9千783時間。
二ヶ月に及ぶ、東日本大震災への派遣を含む災害派遣2回、
生存者捜索救助2回、航空機救難5回、海外派遣3回、
実機雷処分3回などの業績は、歴代艦長以下、乗組員が不屈の精神と誇りを持って、
一丸となって任務邁進した賜物であり、
海上自衛隊における掃海業務の発展に大きな足跡を残したことに
深い感謝と敬意を表する。

さらに、諸君が『はちじょう』最後の乗組員として、
有終の美を飾ったことに対し、その労をねぎらいたい。

まもなく、それぞれが新たな配置に向かうことになるが、
『はちじょう』乗組員であったことを誇りにし、
海上防衛の一旦を担うべくさらに精進努力することを期待する。
最後に、『はちじょう』の輝かしい業績と諸君の健闘に対し、
重ねて感謝と敬意を表するとともに、諸君の一層の活躍を祈念し、訓示とする」


東日本大震災発生時、「はちじょう」はシンガポールでの合同訓練に向けて航行中でした。
震災発生の一報を受け、すぐさま急遽引き返し被災地へ向かったと聞いています。

その時の「はちじょう」と「やえやま」の災害救助活動については、
このブログに詳しく書かれています。

EOD JAPAN is SUPER INDUSTRIAL


横須賀地方総監に敬礼をした艦長は、振り向いて乗組員に正対し、

「ただいまをもって〇〇を解く。
『はちじょう』乗組員、解散!」

と声をかけ、その後乗組員の

「(敬)礼!」

という号令に対し、敬礼をしたまま左右に体を巡らせて総員を見回しました。
『〇〇』のところは聞き取れずわからなかったのですが、「任務」だったのでしょうか。

「まわれ〜みぎっ!」

もう一度号令が下され、全員が「はちじょう」の方をみて最後に敬礼を送ります。
これは「はちじょう」との別れに際し、その労をねぎらう敬意と感謝の意を表す敬礼です。
艦体に対して敬礼が送られるのは、もしかしたら23年の歴史で最初で最後のことかもしれません。

この時のマストからは、すでに長旗は降ろされていました。

そして、自衛艦旗が降ろされ、乗組員のいなくなった「はちじょう」。
気のせいか、もうすでにそこからは魂が抜けかけているように見えます。

解散した乗組員たちは、艦首側でこれから記念撮影をするようです。

テントの中の方々は三々五々語らったり、写真を取り合ったりしていましたが、
わたしは記念写真を撮る彼らの写真を撮るためにそーっと近づいてみました。

昔護衛艦の引き渡し式でお会いした陸自の方から、

「戦車などを導入するときでも、別にこんな式典はしないので少し驚いた」

という発言を聞いたことがあります。
海自は船舶と基本同じ慣例を導入しているので、導入にも除籍にも海の儀礼にしたがって
荘重ともいえる儀式を行うことは海軍以来の伝統となっています。

しかし、そういえば、海自であってもヘリや固定翼機の導入にあたって、
広く人を招いて式典を行うなどという話は聞いたことがありません。

 LCACもかつてのカルガモ艦隊のMSBももちろん SAMも行わないのですから、
こういう一連の式典で遇される艦艇の基準はなんなのだろうとふと思います。

とにかく、これが海軍以来の伝統であり、その度ごとにこうやって
集団写真を撮るわけです。

海軍関係の資料を読んでいたとき、

「海軍というところは何かというと集団写真を撮る団体で」

と元海軍軍人が書いていたのをこの光景を見ながら思い出しました。

掃海艦「はちじょう」、最後の乗組員の、最後の記念写真です。

何枚か真面目な写真を撮り、最後に

「笑ってください」

と注文をつけられて。
皆さん、とってもいい笑顔ですね。(特に3列目右から2番目)

 

続く。


掃海艦「はちじょう」除籍 最後の自衛艦旗降下

2017-06-09 | 軍艦

高松で行われた一連の掃海隊員追悼式から帰ってすぐ、
掃海艦「はちじょう」の除籍が横須賀地方総監部で行われました。

この式典に参加させていただきましたので、ご報告します。

「はちじょう」は掃海「艦」。
掃海艇より大型の掃海任務を行う艦です。
英語でも名称は

掃海艦 Mine Sweeper Ocean (MSO)

掃海艇 Mine Sweeper Coastal (MSC)

となっており、掃海艇の「中型」に対し「大型」に分類されます。
大型艦が「大洋」、中型艦が「沿岸」となっていますが、つまりは
大型はより深々度の機雷に対応すると考えれば良いでしょう。

かつては「中型」より小さい「小型」(MSB、BはBoats)掃海艇もあり、
対応困難な浅海域・内水域の掃海や、MSCの安全確保のための
前駆掃海を担当する役目を負っていました。

掃海ヘリコプターや遠隔操縦式掃海具がそれに代わるようになったため、
90年には小型の掃海艇はなくなりましたが、この小型艇について
高松のうどんの夜(笑)、ご一緒した「偉い人」から、

「小型艇には台所がないので、母艇が調理した料理をバッカンという
缶に入れて、みんなに順番に手渡しで配っていた

という話を聞いて、わたしはもう胸キュンで萌えたものですよ。
また、「みほ」という母艇の後ろをコガモのようについていく様子から
彼らは「カルガモ艦隊」とも呼ばれていたそうで・・・(;´д`)

 

前置きが長くなりました。

掃海艦の建造目的は、一言でいうと深々度機雷への対処でした。
掃海艦構想に関わった当時の研究開発幕僚の追想録によると、
当時その対処能力を有していない状況から、

「現実的に起するかもしれない脅威に対抗するための演習」

を行う必要を想定して、米海軍の機雷戦過程に留学した幕僚が
米軍の司令官と鋭意構想を進め、米側からも

「東京湾外域における空母の運用を考えてもぜひ正式に要望する」

という掃海艦建造へのゴーサインを取り付けた、ということらしいです。

この時代においても(もしかしたら今も?)アメリカ海軍の「お墨付き」
というか「要望」が、新造艦建造の後押しとなったってことですね。


ともあれ、東西冷戦構造の終焉の時期に計画された「やえやま」という名の
掃海艦が初めて海自に導入されたのは、平成5年のことでした。

そして「はちじょう」は2番艦「つしま」に続く「やえやま」型の3番艦です。
姉二人は、「やえやま」=2016年6月28日、「つしま」=同7月1日と
すでに除籍となっており、最後の木造製掃海艦となった末っ子の
「はちじょう」も、ついに今日をもって引退することになったのでした。

 

「はちじょう」の除籍に伴う自衛艦旗変換の儀式は横須賀地方総監部の
船越岸壁と呼ばれる、地方分遣隊所在基地で行われます。

昨年、実は「やえやま」除籍が同じ船越岸壁で行われることになり、
わたしにも出席のチャンスがあったのですが、その時アメリカにいたため
涙を飲んでお話をお断りしたという経緯がありました。

今回の「はちじょう」除籍に立ち会うことになったため、
わたしは初めて船越岸壁にくることができたのでした。

 

写真の台地が今工事中ですが、ここには護衛艦隊指令部ができるそうです。
グーグルマップで空から見ると、今工事中のこの部分は広大な空き地で
くず鉄が大量に放置されているのがわかります。

 

自衛隊基地入り口のセキュリティは民間の警備会社が請け負っているのですが、
これがだねえ・・・。

わたしはある方のおかげで来賓として呼ばれたという形であり、
後から考えると、別に門の前で待っていなくてもよかったのですが、
来賓以外の入場者と報道陣と一緒に開門まで門のところに立っていました。
その後、わたしの名前を名簿と照合した自衛官が

「中に入って受付で名前を言ってください」

というのでそのまま入っていこうとしたら、警備の人が入れてくれないんだよ。

「いや、来賓なので中で受付するらしいんですけど」

といっても、それでは入れることはできない!の一点張り。
押し問答のすえ、「臨時」と書かれたタグをもらって中に入っていき、
さらに中で赤いリボンをもらってそれも付けるという妙なことに。

とはいえなんとか無事に中に入れたので、ホッとしました。

除籍になる「やえやま」の前には式典に出席する幹部と音楽隊の姿が見えます。

掃海艇、掃海艦の後甲板は岸壁より低いのが普通。
そのため、自衛艦旗降下のために甲板にいる乗組員たちがよく見えます。

まだ人が集まっていないので、後甲板にいる乗員たちを見にいきました。

この後自衛艦旗を降下し、それを持った副長に続いて下艦したら
それが彼らにとって最後になるのです。

最後の自衛艦旗降下を待ちながら、皆どのような思いを持つのでしょうか。

赤いリボンと黄色い入門証をダブルでつけた怪しい来賓(笑)


お誘いくださったのは高松でもご一緒だったミカさん(仮名)ですが、
中に別の知り合いがいて、撮ってあげると言われたので撮ってもらいました。

基本自分の写真を撮ることに全く興味がないので、実は珍しい一枚です。


自衛艦旗降下を撮るために、艦尾近くの岸壁はカメラを持った人でいっぱいでした。
わたしも実はここにいたかったのですが、なまじ来賓なのでそれはできず(涙)

その代わり、ミカさん(仮名)がyoutubeにあげた動画を共有させていただきました。
どうぞご覧ください。

この写真を撮った時にはまだ来賓が席についていない頃だったので、
乗員も整列はしていますが、皆リラックスした様子で岸壁の様子を見たりしています。

ところで白いシェルフみたいな物体はなんなのかしら。

時間通りに返納式は始まりました。
わたしの席は「はちじょう」と書かれたラッタル越しに乗員が見える位置です。

このラッタルのバナーですが、基本的に船が除籍になるともう役目が済むので、
式典に参加している人が手を挙げてもらうことができるようです。

この日二枚あるうちの一枚のバナーを持ち帰った方は、
「やえやま」の初代艦長で、もう退官されたという男性でした。
岸壁で伺ったところによると、もちろん「やえやま」のバナーも
去年の除籍の後ちゃんと持って帰られたということです。

初代艦長ということは、艤装艦長から始まって掃海艦が自衛隊に
生まれる瞬間の目撃者であったということになるのですが、それから四半世紀が過ぎ、
その方が今日ここに最後の「やえやま」型掃海艦の終焉を見届けることになったのです。

自分が艦長を務めた木造製掃海艦の最後の一隻が海上自衛隊の籍を解かれる日。
元艦長にとってもその感慨はひとしおであることとお察ししました。

舷門には海曹と海士が一人ずつ。
腕章をしていますが、もちろん最後の当直となります。

ということは、この二人が自衛艦旗を降下するのでしょうか。

群司令、隊司令などはテントの中に座り、その他は外で式典を見守るようです。
音楽隊員は遠く見えませんが、練習艦隊の時と同じ服装をしているように見えます。

長旗がはためいているのに気づきました。
こんな風に揚がっている長旗を見るのは初めてです。

そういえば長旗とは旧海軍時代から

「海軍将校が指揮する 艦船に掲げられる」

と決められています。
艦船の長が幹部である掃海艦なので、これが掲揚されているというわけです。

ちなみに自衛隊の旗章規則によると、

第26条

個々の自衛艦等を指揮する者が、幹部海上自衛官である場合には、
当該自衛艦等に長旗を掲揚するものとする。

とあります。

長旗は艦長が下艦すると同時に降下されたと思うのですが、
いつ降ろされたのか結局その瞬間を見逃しました。

執行は横須賀地方総監ということになるようです。
来賓はじめ全員が席に着いてから現れる横須賀地方総監、道満誠一海将。

道満海将は(『も』という感じ?)潜水艦出身です。

式の開始となって次の瞬間、自衛艦旗の降下が始まりました。
もっと色々とセレモニーがあるのだろうと思っていたので、実のところ結構驚きました。

わたしのところからは、こんな光景が見えていました。

アナウンスをしていた女性隊員が珍しい白のスカート姿です。
こんなバージョンもあったんですね。

さて、冒頭のyoutubeをご覧いただいた方はお気づきだと思いますが、
通常、自衛艦旗降下のときに吹鳴される喇叭譜「君が代」ではなく、
音楽隊による国歌「君が代」の演奏が行われています。

この理由は明白で、護衛艦旗が艦に授与され、副長に掲げられて乗艦し、
初めて掲揚されるときに演奏されるのは国歌「君が代」ですから、
返納の時にも喇叭譜でない「君が代」でないといけないのです。


ふと、日常の護衛艦旗掲揚降下で演奏される「喇叭譜君が代」は、
つまり国歌「君が代」演奏の代用、或いは簡易版という位置付けなのか、
ということについて考えたのですが、正解はわかりませんでした。

 

さて、この後、降下された自衛艦旗を先頭に、総員がいよいよ
永遠に「はちじょう」から去る時がやってきます。

 

続く。

 


 

 

 


掃海艇 体験航海〜入港と接舷

2017-06-08 | 自衛隊

さて、長々と語ってきた高松での掃海隊シリーズも最終回になりました。
先日は神戸に掃海艇の見学に行ったし、昨日は昨日で
掃海艦の除籍式典に立ち会う機会があり、最近すっかり掃海関係づいています。


さて、体験航海。

瀬戸内海の静かな湾内を遊覧船のようなコースでちょこっと回ってくるなんて、
日向灘の荒波に揉まれる掃海艇でライトに船酔いの洗礼を受けたわたしとしては、
こんなの掃海艇に乗ったうちに入らないんだぜ!と思わないでもありませんでしたが、
今回は自衛隊の過酷な部分をアピールすることが目的ではないのです。

あくまで「掃海艇のおしごと」について世間の皆様、特に自衛隊に入ってくれそうな
青少年に宣伝するのが大きな目的なので、

「あれ?たったこれだけなの?」

というくらいの方が、ある意味効果があるといえましょう。

艇内を一通り見終わり、展示を見たら、艇はもう岸壁に帰ってきており、
あっという間に入港作業にかかりました。

測距儀を覗きながら岸壁までの距離を読み上げているのは先任伍長?
その前にはわたしが目をつけた(前回参照)青年の姿あり。

ぜひ海自に入ってね〜!


さて、着岸作業の邪魔にならないように艦橋前デッキの最前に座ると、隣に
5歳くらいの女の子とその弟、というきょうだいが座っていました。
わたしは子供たちに

「あのお兄ちゃん見ててごらん。
今から岸に向かって手に持ってるもの投げるよ」

舫を繋ぐためのサンドレットを構えている隊員を指差して教えました。

第一投、投げました!
この腕のしなりをご覧ください。

やっぱり何回も陸上で練習してから甲板デビューするのかしら。

ボール型のサンドレットが岸壁に届くや否や、岸で待っていた地本の
陸・海・その他の三人が引っ張る作業に入ります。

紐を持ってはだーっと走り、先で離してまた岸壁に戻り、
紐を持ってだーっと・・を三人で繰り返すのがパターン。

「ぶんご」艦上では掃海隊群司令がまたしても説明の真っ最中。
今回いつ見ても海将補は(敬礼しているときでなければ)説明中でした。

そこに、先ほど「つのしま」の後に出航した「あいしま」が帰ってきました。
朝の位置とは入れ替わり、「あいしま」が外側に繋留するようです。

「あいしま」でサンドレットを構えている艇員発見。
これはもしかしたら「つのしま」甲板に向かって投げるつもりでしょうか。

「てええええええいっ!」

海上迷彩と青メガホン「おおおお〜」

ちゃんと「つのしま」甲板に落下したようですね。

もう一度投手を変えて行うようです。

「せいやああああっ!」

「きま・・・ったっ!」

「おー」「なかなかやるやん」

「あいしま」乗員が投げたサンドレットは、赤いヘルメットを装着した
「つのしま」甲板の隊員に回収され、あっという間に繋留されました。

気のせいか、「あいしま」の一般搭乗者は「つのしま」より少なく見えます。

「あいしま」は掃海艇には普通についているバウスラスタを駆使して、
じわじわと横にスライドし、艇体を寄せてきました。

 探照灯の近くで見張りする乗組員。

「つのしま」艦橋デッキには、隊司令と艦長が出てきています。
接舷作業、しかも一般人を乗せた艇同士の接舷ですから慎重な上にも慎重に。

サンドレットで投げ渡された細い舫を、繋留するための舫に繋げ、
腰を入れて引きまくります。
軍手などの手袋が必須だと思うのですが、この人は素手でやってますね。

隊司令の腕組みがなんか怖い。

この掃海隊司令は、伊勢湾でのマイネックス機雷除去訓練の時、
報道陣にレクチャーをしていた方だと記憶します。
あの時は2佐でしたが、今は呉の第3掃海隊の司令であり1佐です。

何回聞いても、何回調べても、掃海隊群の編成は理解が難しく、
掃海隊「群」の下にあるのが1、2、3といきなり飛んで101掃海隊、
というのがまずよくわかりません。

掃海隊群は横須賀がヘッドですが、各掃海隊は横須賀、佐世保、呉にあり、
例えばこの「あいしま」は第3掃海隊の所属になります。

ところが、「つのしま」は42掃海隊所属で、同じ掃海艇なのに所属が全く別。
戦後自衛隊に掃海隊ができてから、どんどん編成が組み替えられて、
その辺の資料を見ただけでは一体どの番号の隊が「生きて」いるのかわからず、
これも素人には全体像が把握できない理由です。

どなたか地方隊の掃海隊群の組織図が見られるページ、ご存知ないでしょうか。

 

というわけで全くわからないなりに、腕組みしている一佐が「掃海隊群の隊司令」で、
同じ隊司令という階級でも命令系統的に上の方にいるらしい、と理解しました。

「つのしま」と「あいしま」の間の舫はピンと緊張したまま、
ゆっくりと艇体が近づいていきます。

「つのしま」の甲板にいる人だけが赤いヘルメットを装着しています。

はい接舷〜。

接舷後、第3掃海隊司令が「つのしま」幹部に操艦についてのアドバイス中。

一般人が興味本位で立ち聞きすることではないと考え、わたしは
音声が一切聞こえない操舵室の中からその様子だけを撮らせていただきました。

この後司令にご挨拶してから、退艦しました。
実はこの頃にはすでに「つのしま」にいた体験乗艦参加者は退艦しており、
わたしたちは「あいしま」の乗艦者が全員降りてから最後にラッタルを降りることに。

今気づいたのですが、この時には岸壁側にいる「つのしま」のラッタルに
「あいしま」のバナーがかかっています。

午後にもう一度体験航海が行われるので、その時に元のポジションに戻るようです。

 

さて、ここで改めて、平成14年度以降に今の形になった、ここ高松での
掃海殉職者追悼行事への掃海隊群の取り組みについて書いておきます。

当時の記録によると、追悼式については

「可能な限り多くの隊員を参列させる。若年隊員、ついで参列未経験者を優先する」

「艦艇部隊だけでなく、航空掃海部隊からの参列を促す」

「隊員に最も近いところの一般国民である家族や知人の追悼式への参列を奨励する」

「儀仗隊員はそれにふさわしいものを選び、十分な準備と心構えをさせて臨む

とあります。
若年隊員が優先されているかとか、航空掃海部隊の参列が行われているかについては
どうも理想的にはそうであるが、実際は諸事情により無理、となった感があります。


最後の儀仗隊員についての一行について少し今回の関係で書いておくと、
何年か前儀仗隊指揮官を務めた幹部が、たまたま当ブログの今シリーズに写っていたため、
以前さるところで知り合ったその幹部の母上からメールをいただきました。

彼女のメールによると、慣例的に儀仗隊指揮官は

「ぶんごの新任3尉が勤める」

ということになっているのですが、その時には内部事情により
急遽彼女のご子息にに役目が回ってきたのだそうです。

急に儀仗隊指揮官の任務を命じられたその幹部は、鏡の前で綿密に姿勢をチェックし、
わざわざメトロノームを買って
歩調を合わせる練習を繰り返すという研鑽の結果、

「彼は伝説の儀仗隊指揮官だった」(ミカさん仮名談)

というくらい、その指揮官ぶりは美しく決まっていたということです。

「ふさわしい者を選び、十分な準備と心構えをさせて」・・・・・・

その通りになったというわけですね。


さて、このレポートには、艦上レセプションにも触れてあるのでこれもご紹介しましょう。

「追悼式と関連付けた海自主導の広報活動として、呉監と共催で実地する」

「招待者は従来の選択に加え、近在の海自OB、隊員家族など関係者を含める」

「一般公開時の展示を活かすとともに、MH-53Eを後甲板に搭載した状態で行う」

 

15年くらい前の記録ですので、違ってきている点があるのは当然ですが、
その頃はヘリを搭載して艦上レセプションの時に見せていたってことでしょうか。 
これも先ほどの「航空部隊も」というのと同じくらい現在では顧みられていない気がします。
 
そしてもっと驚くのが、自主広報と内部では呼ぶところの一般公開についての留意点です。
 
「聴覚、視覚に訴える展示と説得力のある説明」
 
として、

『機雷の実物及び模型の展示と実務経験者による説明』

これは現在も行われています。
しかし、

「ヘリの搭載・展示と第111航空隊員による説明」

さらには

「EOD展示訓練」

として、

「『ぶんご』前甲板からのラペリング訓練」
 
ふえええ〜、こんなこと本当にやっとったんですかね。
今やってくれたらもっと人が集まりそうな気がしますが、それこそ
人が集まりすぎて収集がつかなくなるからやめになったのかしら。
 
それから、個人的にふむふむ、と納得してしまったのが
 
「隊員の制服上陸*各隊員は少なくとも一回は制服で上陸」
 
とあることです。
金刀比羅宮でも感じたように、彼らの制服姿は何よりも自衛隊の宣伝になるわけですが、
これが現在も通達され実施されているかどうかはわかりません。
 
最後に自主広報である今日ご紹介した体験航海について。
 
「募集広報を主眼として実地」
 
「極力募集対象者に的を絞り実地、それ以外は一般公開に勧誘」
 
「午前一回、午後一回を標準、午後に一回追加とするよう計画」
 
とあります。
やはり体験航海の第一目的は募集対象者への広報だったのね・・・。
 
つまり、わたしのように”息子を自衛隊に入れるのに失敗した母”なんてのは
参加者として「対象外の外」という説もありますが、そこはそれ、

こうやってせっせと「広報」しているので、大目に見ていただければと思います。

退艦後、ミカさん(仮名)が地元の顔見知り(本当に知っているのは顔だけらしい)と
あれこれと話しているのを横で聞いていましたが、ちょうど昼になったので、
二人で埠頭にある「ミケイラ」というシーサイドレストランに行きました。

ボウルにたっぷり入ったサラダを二人で分け、メインにパスタをいただきました。
美味しくて安くて、海の真ん前の明るくてお洒落なお店なのに、日曜の昼間に
満席になる様子もないというのは、首都圏住まいのわたしにはちょっと信じられません。

とにかく「ミケイラ」、素晴らしく素敵なカフェレストランでした。

デザートは控えめに超ミニサイズのアイスミルクを。

窓越しに「ぶんご」がよく見えるのですが、昼過ぎに掃海隊群司令が私服で姿を現しました。
午前中の体験航海には「ぶんご」艦上からお見送りと敬礼をしておられましたが、
その任務を最後に、午後は横須賀に帰られるようでした。

お昼ご飯を食べ終わり、最後に埠頭に出てみると、午後の体験航海がもう始まっています。
朝乗った「つのしま」の外側の「あいしま」はすでに出航した後のようです。

午後もたくさんの人を乗せて、掃海艇の体験航海は大盛況のようでした。

群司令の見送りがないせいか、実にあっさりとした感じで岸壁を離れていくように見えます。

空港に向かう時間となったので、そろそろ掃海隊群に別れを告げることにします。

「ぶんご」の向こうに、朝と同じように後進しながら岸壁を離れていく
掃海艇「つのしま」の姿を見ながら、わたしは高松港を後にしました。

 

というわけで、何日かお話ししてきた追悼行事に関連する体験記を終わります。
最後になりましたが、参加に当たってご配慮をいただきました関係者の皆様、
現地でお世話になりました全ての皆様にこの場をお借りしてお礼を申し上げます。


 

終わり。



掃海艇 体験航海〜出航

2017-06-06 | 自衛隊

体験航海は高松港での自衛隊広報活動の一環として最終日に行われます。

わたしは午前中の航海に乗せていただくことになり、ホテルをチェックアウトして
車で埠頭に向かいましたが、埠頭の駐車場は朝にもかかわらず満車だったので、
少しだけ離れた市民駐車場の地下に車を駐めました。

駐車場を出ると、このような謎のオブジェがある広場を横切っていきます。
どうも中に入ることができるようですね。

横から見ると、ヤシの実を象っているのがわかります。

台湾のアーティスト、リン・シュンロン氏の作品で、タイトルは

「国境を越えて・海」

といい、内部備えてある銅鑼は鳴らすことができるそうです。
銅鑼の音もアートなんですね。

これは瀬戸内国際芸術祭の2016年度出品作品だそうです。

またやってきたよ、「ぶんご」。

「ぶんご」一般公開に備えて、もう地本の方々がスタンバイしています。
一応手荷物検査も行うようですね。

本日乗せていただくのは、「つのしま」です。
「つのしま」には「あいしま」の上を通り抜けていきます。

「つのしま」に乗艦すると先日神戸でもお会いした隊司令がお迎えくださいました。
司令は艦内にどうぞ、といってくださったのですが、出航の様子が見たかったので
甲板に上がらせていただきました。

艦橋前のデッキの最前列、「ぶんご」の隊司令の挨拶も見える上席です。

体験航海に参加する青少年の少なくない人数が、自衛隊入隊が決まり、
地本の手配で優先的に搭乗させてもらっているのではないかと思います。

例えば、自衛官と並んでVサインをしている彼らも。

確かこの青年たちが隣にいた時、

「海上自衛隊志望ですか?」

と聞いてみたところ、彼は隣の子を指差して、

「(彼は)海自志望です」

と教えてくれました。

参加者には早速海軍毛布(?)が配られ、それをシートにして座り込む人も。
わたしの連れは、インコ越しに「ぶんご」を撮っています。

出航準備はこうしている間にも着々と進んでいきました。
乗員が持っている黄色と黒のサンドバッグみたいなのは、
出入港時に舷側に吊るす防舷物です。

「あいしま」に乗り込んでいるカメラマンが待機中。

まず互いを繋留している舫を外し、それを甲板に置いていきます。

艦橋の前にいる人たちは、いざ出港になると視界を遮らないように全員
床に座ることを要求されました。

「ぶんご」の上の少年たちは全員がデバイス持参。
今時のお子さまは恵まれておるのう。

「ぶんご」の自衛艦旗近くにはここからお見送りをする群司令のお姿が。
緑のストラップは副官です。

周りの見学客に群司令自らあれこれと説明をしておられる模様。
こんな全ての人にフレンドリーに話しかける司令官もあまりいないような気がします。
お人柄を感じますね。

少年たちも「はえ〜」って感じで聞き入る群司令の話とは・・・?

お互いを繋いでいる舫が外され、防舷物を手で持って舷側の一番出っ張ったところに吊るします。

舫が解かれてあっという間に「つのしま」艇体は「あいしま」から離れ出しました。
その瞬間、「ぶんご」の群司令の横で控えていた喇叭手が信号ラッパを吹きました。

群司令、敬礼。
副官は群司令に一瞬だけ遅れて挙手を行います。

望遠レンズ持ってくればよかった、と思った一瞬。

次の瞬間、船首旗である日章旗が降下されました。
選手旗は停泊中に揚げるものであり、出航と同時に降ろされます。

あっという間に「ぶんご」と「あいしま」の姿が遠くなり、「つのしま」は
爽やかな埠頭の風を受けながら、後進で港を離れていきました。

出航したので、艇内探索に出かけます。
まずは司令官席に座る隊司令の様子を。

こちら艇長でございます。
先日うどんを一緒に食べた元偉い人から

「今女性隊員がいる」

と聞いた、艇長養成のためのプログラムを終え、最初の勤務が
この掃海艇であるということでした。

ミカさん(仮名)に写真を撮られていたので、ついでにと思い、

「そのまま目線こちらにください〜

と声をかけると、

初めての艇長職、頑張ってください。

そして操舵席の海曹の皆さん。

昨日「ぶんご」でVサインをしていた女性隊員が

「明日体験航海でウグイス嬢やるんですよ」

と言っていましたが、彼女がそうかな?
掃海艇にはもうすぐ艇長が誕生しますが、女性隊員がいないので、
こういう時には「ぶんご」から出張してきます。

体験航海ですから、乗組員は航海中、艇内の設備について最大限理解してもらうべく
張り切って装備の説明や実演を見せてくれます。

20ミリ機銃には、テッパチにカポックというフル装備の隊員さんが所定の位置につき、
これは機雷を処分するための銃であるという説明がされた後、
実際に音だけ出して撃っているフリをしてくれます。

「どうだ!当たったか〜っ!」

「当たりませんでした!」

「ばかもの〜!当たったと言わんか〜!」

コントやってんじゃねーし。

ところで、わたしは最初から一人でやってきている彼に目をつけていました。

というと人聞きが悪いですが、実に体格がよく、真面目そうで、
地本の人が見たら喉から手が出るほど欲しい自衛官向きの人材に見えたのです。

バルカン銃の展示の時に近くにいたので、独自にインタビューして見たところ、
彼は自衛隊、しかも海自に大変興味を持っていることがわかりました。

彼が自衛隊向きの人材であるという印象には全く同意見のミカさん(仮名)は、
展示の終わった、しかも地本経験のある海曹さんにスカウトをさせました。

これがきっかけで彼が自衛隊に入ってくれれば、なんか嬉しいな。

さて、次はラッパの展示です。

「これはラッパで〜す」

とはさすがに言っておりませんが、まあそういう感じです。

ここでもインコ越しに喇叭手を撮っている人が・・・。

「起床」「君が代」「出航」などを合間に説明も全部こなしながら吹きます。
一人で喋って一人で吹くので、喋った後唇を整えるのに時間がかかり、
(信号ラッパは音程を息の吹き込み方だけで取るので、唇のコンディションが大事)
さらには、喋りながらなので

「あれ・・・?どんなだっけ」

と隣の隊員に聞いたりしておられました。
何もかも一人でやらなくても、説明は別の人にやらせればよかったのに、
という気もしましたが、一人でなんでもやるのが掃海隊ですからね。

続いてのコーナーでは、ダメコン関係の装備の展示をやっていました。
火災の時に現場に入るための酸素マスクを被らせてもらえます。

首から吊っている黒いバックパックみたいなものの中には、
酸素発生器が入っているそうです。

聞いたら見せてもらえました。
1時間酸素を発生させて、密閉した機器で使用する空気缶。

この商品に書かれている「エムエスエイジャパン」という会社は解散したそうです。

後甲板の掃海具があるところも見学できます。

この後、少し後に出航した「あいしま」とすれ違う時、
互いに発光信号を送り合うという展示も行われました。

オロペサ型掃海具と一緒のところを撮らせてもらったEODさん。
一般公開の展示のために、航海中ずっとスーツを着ておられました。

任務上日差しが強烈なところが多いので、帽子はハット型です。

さて、体験航海はあくまでも「体験」ですから、40分ほどその辺りを廻ってくる、
という程度の航海です。
だからこそ掃海艇に一般人を乗せることができるということができましょう。

観艦式で掃海艇が一列になって進んでくるところを見た人はわかるでしょうが、
駿河湾での掃海艇はそれこそ木の葉のようにふわふわと浮く感じで、
ヘリ搭載艦や輸送艦などの大型艦に対して逆行して観閲を受ける時、
甲板に登舷礼のために立っている乗組員がよくぞふらつかないものだというくらい揺れます。

日向灘の「えのしま」で初めて自衛艦上での船酔いを経験したわたしは、
掃海艇に一般人を乗せて長時間の航海をすることはまず不可能だと思っています。

それだけに、この短い時間の、瀬戸内海の内海だけを走る体験航海は
一般人に掃海艇に乗ってもらうための大変貴重な試みと言えましょう。

再び甲板の人々に座るようにというアナウンスがありました。
入港に当たって、隊司令が「ぶんご」の群司令に対し敬礼するということになっています。

赤いストラップの隊司令と、緑の隊付きが並んで双眼鏡をのぞいています。

「ぶんご」甲板には出航時と同じく、群司令、副官、喇叭手が待機していますが、
群司令はこの時も見学者に色々と説明してあげている様子・・・・・。

先ほどラッパ展示をしていた海曹が「入港ラッパ」を吹鳴すると、
隊司令、隊付きが敬礼を行います。

周りの、まるでタイタニックの生存者を乗せたカルパチア号の甲板みたいな様子が
なんとも敬礼とギャップがありすぎてシュールですね。

 

さて、ここからは入港作業が始まります。

 

続く。

 

 

 

 


高松港 海上・陸上自衛隊一般公開イベント

2017-06-05 | 自衛隊

慰霊式とそれに続くご遺族を囲む昼食会が終わりました。
現地でお会いした所属防衛団体のおじさまたちとロビーでお茶を飲んでから、
わたしたちはまだ陽の高いうちに高松に戻りました。

埠頭にいってみると、一般公開している「ぶんご」の横では、なんと香川地本が
装備を大々的に投入し、渾身の広報活動を行なっている最中でした。

軽装甲機動車の天井に子供を乗せてあげるという大サービスです。
まあ、中に乗せるわけにはいかんので、色々考えた結果天井だったんでしょう。

しかしそれでも、特に男の子にとってはその辺の遊園地より楽しいかもしれませんね。

危なくないように、上と下でじえいたいのおにいさんが手を貸してくれます。
あとは二人で敬礼のポーズをして、両親のカメラに収まるというもの。

どうせなら戦車や装甲車だともっと男の子の心をくすぐったと思うのですが、
銃を持たせたくらいで大騒ぎする連中がどこにでもわいてくるから仕方ありません。

写真撮影の前に迷彩服も貸してもらえます。
偽装網をかけた車両の前でポーズをとる未来の自衛官。
気合入ってるねえ、特に左の弟・・・あれ、これもしかして女の子?

オートと呼ばれるバイクの座席に座ることもできます。

「ぶんご」は昼休みを除く朝から夕方まで、この週末一般公開されました。
地本の方に伺ったところ、一日に7〜8千人の見学者が訪れたとのことです。

なんども自衛艦に乗っていますが、オトーメララの中を開けていたのを見たのは初めてです。

「ここに人が入って操作するんですか?」

という見学者の質問に対し、

「操作はここではなく、この下の階でするんですよ」

隊員さんが説明していましたが、抱っこしてもらって中を見ていた男の子、
それを聴くと真剣な様子で

「そこ(下の階)見せて」

じえいたいのひと「うーん、それはね・・・ちょっと見せられないんだー」

こども「・・・・・・・」

じえいたいのひと「でもね、ぼくがおおきくなってじえいたいにはいれば見られるよ!」

こども「いやだ」(言下に)

リクルート活動、失敗。

EOD、水中処分員の潜水用スーツも展示してあります。
先日神戸基地隊で、EOD出身の司令官が教えてくれたところによると、
スーツの厚さは色々あって、薄いものはわずか2mmというものもあるそうです。
やはり分厚ければ分厚いほど、浮力がついてしまうようですね。

「ぶんご」の女性乗員たち。
カメラが向けられると反射的にVサインをするところは実に普通の女の子です。

昨日艦上レセプションでVIP用のテーブルがあった格納庫は、帽子を被らせてもらい
旗の前で写真を撮らせてもらう撮影コーナーになっておりました。

若い女性が二人三人と連れ立って見学に来ているのを目撃しましたが、
出会いの少ない自衛官にとって、この一般公開は貴重な出会いの機会。
一般人からだけでなく自衛官からのナンパもありだと思うんですよね。

いや、別にけしかけるわけではありませんけど。

自衛隊もその辺りを決して制限するものではない(はずな)ので、こういった
「ふれあいコーナー」には、独身の若い隊員を配置しているような気がします。


ここ、火災発生の時につける防具の装着を体験できるコーナー。
先ほど主砲の下を見せてといって断られ、拗ねていた少年、
嬉々としてヘルメットをつけてもらっています。

それをやはり嬉々として眺め、写真を撮る両親。
なかなか好奇心旺盛な少年で、将来有望です。

こちらは制服を着て記念写真を撮るコーナー。
この子は「けいれい」のなんたるかを全く知らない様子。

「はい、カメラに向かってけいれいして〜」

「?????」

甲板には説明用の機雷が展示されていますが、暑いせいかあまり人がいません。

掃海隊群司令、湯浅海将補。

掃海隊群司令というのは掃海隊全体のトップです。
そんな偉い人が、甲板に気さくな様子でお一人で立っておられました。

この時、湯浅司令が練習艦隊司令であった頃の話題になったのですが、
練習艦隊で行われる海外でのレセプションについて、面白い話をお聞きしました。

「パーティが終わると、我々はお客様に退出してもらうために『蛍の光』を流します。
ところがあれを『そういう曲』だと思ってるのは実は日本だけなんですよ。
『蛍の光』を流しても『いい曲が流れているねー』と思うだけで出ていかない」

「あれを聴いて『帰らなきゃ』という感覚が日本人はDNAに組み込まれてますからねー。
じゃ海外では、パーティのあとどうやって客を『追い出し』てるんでしょうか」

「電気を消して暗くしてしまうんですよ」

「はあ〜」



海将補は司令と名のつく配置になって、初めて取材を受けたとき、
カメラがええ〜っというくらい至近に迫ってきたので焦りまくったそうです。

「あ、俺今鼻毛とか出てなかったかなっとか・・。(わたしたち爆笑)
正面から撮られるの、苦手なんですよね」

というわけで、写真は斜めから撮らせていただきました。

当ブログにかつて海将補のお写真をあげたのもご存知で、

「また(わたしの写真をブログに)載せられますか」

とおっしゃるので

「もしお嫌いでしたら顔にモザイクかけましょうか」

とお聞きすると笑いながら

「それは大丈夫です。
今日の(一般公開の)ことも発信してやってください」


群司令のご許可、いただきました。

そろそろ公開時間が終わりかけていたので、舷門に向かうと、
まだこの時点でブリッジの見学をするために列を作って待つ人がこんなに。
中ではなく外付けの階段を登って艦橋を上がることになっていました。

わたしは日向灘で夜の10時ごろの誰もいないブリッジを見学しているので、
今回は遠慮させていただきました。

高松港の埠頭にはご覧のような素晴らしいローズガーデンがあり、花真っ盛りでした。
「ぶんご」から出たわたしたちは、いってみることにしました。

バラのアーチは実に立派なもので、子供たちも大喜びで中に入っていきます。

わたしたちが撮りたかったのは、そう、これ。

「薔薇とぶんご」

去年も同じ時期に艦上レセプションのためにわたしはこの埠頭にきているのですが、
このバラ園については全く気づきませんでした。

自衛隊は「ぶんご」と掃海艇の到着、一般公開を広く広報していたので、わざわざ
これをみるために足を運んできた地元の人々がたくさんいるように見受けられました。

そのあと、「ぶんご」の前でミカさん(仮名)が地元高松のおなじみさんたち
(自衛隊や艦艇ファンで、例年駆けつけてくる固定メンバーがいる)と話していると、
「ぶんご」艦上で物品搬入が始まりました。

アナウンスが「物品搬入、はじめ!」というと、たくさんの隊員が出てきて
皆で作業に取り掛かります。

搬入というからには、陸上から艦上に荷物を乗せるのが目的です。

前に見学させていただいた経験から、今吊り上げているのははジュースなどではないかという気がしました。

クレーンの運ぶ荷物周りにいて、荷物に牽引索をかけたりする隊員は
必ずヘルメット着用で行うことに決まっているようです。

 

ところで、この搬入作業を至近距離で食い入るように見ていた一般女性がいたのですが、
あまり近いと自衛隊の人に邪魔だと思われるのではないかという気がしました。

 

彼女もそうだと思いますが、自衛隊にはかなり熱心な「追っかけ」がいるようです。
掃海隊追っかけ、特定の艦追っかけ、とにかく自衛官なら誰でもという追っかけetc、
陸海空どの分野にも固定ファンがいて、どんな僻地にも追いかけてくるらしい。

今回わたしはある隊司令と話していて知ったのですが、自衛官たちも毎回のことなので
「固定追っかけ」の存在は皆目の端っこでちゃんと認識しているのだそうです。
しかし、これもその時の話で感じたのですが、だからといって、

追っかけが好意的な目で見られているかどうかは全く話が別です。

男のミリオタ、(粘着系)と女の追っかけ(粘着系)に対しても、国民の自衛隊である
自衛官の皆さんは決して邪険にしたり乱暴に追い払ったりすることはありませんが、
特に恋愛市場で追っかけが相手にされることは、一般的な男性の心理から鑑みても
まず金輪際ありえない、と、わたしは長い人生経験と老婆心から言わせていただきます。

一般的に、男は追いかけられるより追いかけることを本能的に求める動物なのよ。

週末の高松港ではヨット教室らしきヨットが一列に並んだり円を描いたりしていました。
こんな日にヨットに乗るのはさぞ爽快でしょう。

なんかストーリーを感じさせるショットですが、これは全くの偶然です。
「赤灯台」を撮ったらこんな構図が写っていました。

「赤灯台までいってみましょうか」

「いいですね」

わたしたちは突堤までの一キロほどの道を歩き始めました。

遊歩道のベンチを支えているいるかさんが可愛すぎる。

灯台までの舗道はマラソンにもってこい。
わたしたちが歩いて行くと、掃海隊の乗員が走っているのとすれ違いました。

自衛官というのは基本走っていないと死んでしまう動物みたいなものなので、
結構な歳の偉い人でも嬉々として毎朝走ったりしているそうですが、今回、
この高松の港からママチャリで金刀比羅宮まで走ってきて、さらには当然のように
本宮まで上がっていく途中という自衛官(EODらしい)にお会いしました。

世間的にはご高齢の退官した「偉い人」も、追悼式の会場で顔をあわせるなり、
息一つ切らさず涼しい顔で

「今上までお参りにいってきたばかりです」(ニヤリ)

 

自衛官という人種、やっぱり普通じゃないわ。

近くに行くと、かなり年数が経っていることがわかります。
赤いのはガラスのタイルをはめ込んでいるかららしい。

「赤灯台」はあくまでも通称で、正式には

「高松港玉藻防波堤灯台」

というそうです。
初灯が昭和39円12月というからもう50年以上ここに立っているんですね。

1日目は二面の窓から海の見える絶景の部屋に泊まることができたのですが、
二泊目はどうしても部屋が取れず、仕方なく近隣の安ホテルを取っていました。

日程ギリギリになって、予約サイトでたまたま安く「ファミリールーム」とやらが
出ていたのを見つけ、元のをキャンセルしてこちらに泊まることにしたのですが、
このファミリールーム、部屋に入ってみると・・・、

地方の温泉旅館そのままの間取りをした古色蒼然たる和室でした。

「どんな部屋か見たいー」

といってチェックイン後ついて来たミカさん(仮名)に

「隣の部屋にお布団敷いてもらって泊まりませんか?マジで」

といきなり誘いをかけるわたし。

「一人でこんな温泉みたいな部屋に泊まるのなんだか怖いんですよ〜」

しかしていよく断られ(そらそうだ)、お布団一つを広い部屋の真ん中に敷いて
寝たわたしですが、怖いも何も、その日は疲れ切っていたため、

横になって目をつぶった次の瞬間、朝になっていました。

その日の晩はホテルのフレンチダイニングでちょっと贅沢にディナーを取りました。

こうして追悼式の一日が終わりました。
しかしわたしにはまだ次の日に大事な海自的用事が残されています。

それは、掃海艇の体験航海でした。

 

続く。

 


MS14号艇の触雷〜掃海隊殉職者追悼式

2017-06-04 | 自衛隊

もう少しご報告が先になるかと思いますが、今週末、またしても呉におりました。
メインの用事の合間に、前にもここでご紹介した「艦船クルーズ」に、
しかも念願の夕暮れクルーズに乗ることができたのですが、呉軍港にはつい先日
その甲板上でのレセプションが行われた「ぶんご」が停泊していました。

掃海母艦「ぶんご」は呉が定係港なので当たり前なのですが、
高松での記憶がまだ新しいので、海の上から見る「ぶんご」の甲板に一週間前
自分がいたことが何か不思議な気持ちになったものです。

さて、その高松でのことをお話ししていきます。

レセプションから一夜が明けました。
「ぶんご」と掃海艇たちを見ながらお風呂に入れる部屋で目覚めます。

まだフェリーポートには人気がなく、静かな港の海面が朝日を照り返しています。

ここから見る「ぶんご」たちがもっとも美しく見える時間。
艦首には日の出とともに掲揚される艦首旗がもうはためいています。

 

ふもとから自衛隊の出してくれたバスに乗り金刀比羅宮に到着。

バスの到着地から会場までは、階段を少し降りていきます。
会場前には白い詰襟の自衛官が立っていて、ご挨拶をいただきました。

ちょうどこの向かいにあるお土産屋では、ちょっと休憩もさせてもらえるので、
それを知っている「常連」さんたちが、何人か開式までの時間を過ごしていました。

制服の自衛官がいて、さらにたくさん人が入って行くので、
参拝客は何事だろうと
首を巡らせて眺めていきます。

右側の割烹着のような白衣を着た方は、金刀比羅神宮専属のカメラマンで、
昨日の神式の慰霊祭の写真も撮っておられました。

そこに儀仗隊が到着。
会場入りするのもちゃんと一列に並んで行進してきます。

慰霊碑の広場に続く道には「はやせ」の主錨が展示してあります。
掃海母艦「はやせ」については、この前の晩、うどんをご馳走になった偉い方から
最初の国産掃海母艦として「そうや」と同年度に建造された、と伺いました。

「そうやというと南極に行った船ですか、と聞かれるんですが、
実は自衛隊の『そうや』は機雷敷設艦だったんですよ」

やはり国産初の機雷敷設艦「そうや」は、掃海母艦の機能も持っていたそうです。

さて会場入りしようと思ったらなぜか長蛇の列が。

今まで追悼式の後には、金刀比羅宮内の建物で会食を行なっていたのですが、
そこが老朽化したため、今年は昼食会場をふもとの料理旅館に移すことになって、
昼食代を会場入りの際に徴収していたからでした。

わたしの真横は、儀仗隊の待機場所になっていました。

追悼式という儀礼でもっとも要となる儀仗隊は、何度も正面に出て、
捧げ銃やあるいは弔銃発射を行うたびにここに帰ってくるのですが、
隊長は全員を鋭い目でチェックし、少しでも服装に不備があると、
近づいて注意したり、乱れを直してやったりしていました。

一人の儀仗兵(って言ってもいいよね)はゲートルのベルトを
土踏まずのところに引っ掛けていなかったため、ベルトが穴から外れてしまい、
注意されてそれを直していたのですが、彼がそれをしている間、
代わりに銃を持ってやるのも隊長の役目でした。

わたしは前日の立て付けの時に追悼式の流れを写真に撮っておき、
本番はカメラを手にしないと決めていたのですが、それ以前に、今回は
写真など撮りたくとも全く物理的に無理であることがすぐにわかりました。

この写真を見ていただければお分かりだと思いますが、今年の配置は
全天候型で、会場全体にテントで屋根を作り、さらに今までの対面式から
全員が前を向いて座ることになったため、前の人の頭とテントの隙間から、
わずかに向こうが見えるだけで、霊名簿の奉安や降納はもちろん、慰霊碑も、
儀仗隊も、国旗掲揚も、献花をする人の姿も全く見えなかったのです。

 

あとでミカさん(仮名)と、ご遺族の方々と献花台との距離を近くするための
仕様変更だったのだろうか、などと話し合ったとき、彼女は

「変な野次馬がはいって来にくいのでこれもよかったんじゃないですか

と肯定的でしたが、わたしが最もこのレイアウトで問題であると思ったのは、

● 掃海隊幹部の席が参列者の後方で、人々の目に触れなかったこと

● ご遺族の方々の後ろ姿しか見えなかったこと

の二点でした。
掃海隊員たちにとって後ろの方に追いやられているような位置は不満でしょうし、
参列者とっても彼らの姿が目に入るかどうかでは儀式の印象が全く違います。

そしてご遺族が膝に抱えていた遺影や、ご遺族のご様子すら、人びとの
目に止まらないまま式が終わってしまうというのもあまりに残念な気がしました。

 

そして、苦々しく思ったのは、列席者のほとんどが白いテントと人の背中と
テントにひっきりなしに飛び込むハチを眺めながらアナウンスを聞くだけなのに対し、
興味本位で入り口まで入ってきた非招待者が、そこから遠慮会釈なく、なんとiPadで
式の様子を撮りまくっている姿だけは、なぜかほとんどの席から見えていたことです。

つまみ出してやればいいのに!などという雑念が浮かんで慰霊に集中できないのも
視界が極端に遮られていたせいかもしれない、などとわたしは考えました。

というわけで、追悼式は終了。

今回の行事について特筆するべきことがもう一つあるとすれば、今回あの

民進党の玉木雄一郎議員が

艦上レセプションにも、追悼式にも招待されていたことです。
少し前までれんほーに「男が泣くな」と言われたくらいしか
話題に上がらなかった玉木議員ですが、今や例の加計学園問題で(悪い意味で)
有名になってしまいました。

特区については、民主党政権で格上げをしたのに取り組みを進めず、
現政権になってスピーディに推進を図ったので、物事が進み出した、
というのが実際のところだとわたしは思うのですが、野党にすれば、


「それは加計学院理事長が安倍総理の”お友達”だったからだ


この野党連中がわざわざ使う「お友達」という言葉が
虫酸が走るほど気持ちが悪く、吐き気がしてくる今日この頃です。


玉木議員は、既得権益側の親族から献金をもらって、獣医学部の創設を妨害し、
さらにそれを政争に使っている、とも世間ではいわれているようですが、
そんな中、艦上レセプションなどにのこのこ出てきて、ただでさえ保守系で
アンチ民進の多い自衛隊支持の人々に取り囲まれる勇気を果たして持っているか?

もし現れたらさぞ面白いことになるだろうとワクワクしていたのですが、
さすがに白真勲議員ほど面の皮は厚くないようで(笑)レセプションは欠席。
追悼式には出席していましたが、平凡で通り一遍、心のない弔意の言葉を、
メモなしで述べてさっさと引き上げました。

悪意でいうのではないですが、どうせ、この追悼式出席も、
国会で政府追及の枕に使うネタとしか考えてないに違いありません。

 

儀仗隊の皆さんは、最初から最後までこの姿勢で待機していました。
顔が痒くても虫が寄ってきても掻いたりできないのはもちろん、
(ここは今の季節虫が多く、顔の周りを飛び回る)
首を動かすこともできず、本当に大変だと思います。

海士の帽子は鍔がないので眩しいでしょうし・・・本当にお疲れ様でした。

会場入り口には本日寄せられた電報が掲示してありました。
自民党の国防部部長である寺田稔先生はじめ、国会議員のものです。

昼食会場までのバスに乗るまでのわずかの時間に門前の屋台に寄りました。
ここにきたら一度はこの冷たい生姜入りの甘酒を飲みたいので・・。

昼食会場になったホテルは、地元の温泉旅館といった感じです。

この昼食会に先んじて、会場ではご遺族の方の紹介が行われました。
すなわち殉職隊員との関係と、隊員がいつ殉職されたかという説明です。

慰霊式に出席されたのは殉職隊員の甥、弟夫妻、長女夫妻、兄など、
7家族、12名という数のご遺族で、出席者は年々減少しているそうです。


この出席者のうちお一人が、朝鮮戦争時の昭和25年10月17日、
元山沖で触雷したMS14号内で殉職された中谷坂太郎海上保安官の兄上でした。

朝鮮戦争における掃海活動については、日本側に依頼してきたバーク少将自らの

「日本掃海隊は優秀でわたしは深く信頼している。
北朝鮮軍が敷設しているソ連製機雷の危険について、
国連軍が困難に遭遇した今日、日本掃海隊の力を借りるしかない」

という言葉を聞いた海兵74既卒のMS14号石井寅夫艇長の回想が残されています。


この掃海艇の触雷について少しお話ししておきましょう。

元山沖で緊張と疲労の一週間の掃海活動を続けていた時、鋭い音がして、
MS14号艇は喫水の深い後部に触雷し、木っ端微塵になりました。

艇長が真っ先に思ったのは、

「前方を進んでいた艇が無事なのに、なぜ後方にいた俺の艇だけがやられたんだ」

ということだったそうです。

海に投げ出された乗員を救助したのは米軍の小型艇でした。

点呼を取ると一名を除き全員が揃っていました。
艇長が掃海面にきた時、
全員を上甲板の待避所に待機させていたのです。

しかし、たった一人、夕食の支度のために艇内にいた中谷隊員だけが
不幸にして触雷に巻き込まれてしまったのでした。

右側が船首側、後部の倉庫に一人いるのが中谷隊員です。
ちなみに機械室の主機近くにいた小西隊員は軽症で済み、見張りの伊藤隊員、
操機次長の竹田隊員が挫創、骨折の重傷を負いました。


一人死亡した中谷隊員は艇の司厨員で、

「今夜はご馳走しますよ」

と言いながら下に降りていき、そのまま危禍に遭い、その後の捜索でも
遺体を発見することができませんでした。

その時に掃海活動を共にしていたMS06号のある乗員は、
掃海索で接続されたお互いの艇越しに双方の艇乗員同士が雑談をかわした際、
MS06号のブリッジから見下ろせるMS14号の烹炊所で、中谷隊員が

「(湾内で)揺れないで食う夕食は久しぶりだから、頑張って美味しいのを作らなければ」

と快活な声でいうのを聞きました。
その様子から彼は中谷隊員の人柄の良さを感じるとともに、

張り切って皆に美味しい料理を作ろうとする気持ちが、その時の彼を
後甲板ハッチ下の
貯蔵品庫に向かわせたのだろう、と追想しています

「総員が避難した前甲板から一人だけ抜け出て後方に向かった彼の頭には
『美味しい夕食を皆に』だけが溢れていたのでしょう。
献立が決まった時、彼は無意識に歩き出して下に降りてしまったのだと思います」



朝鮮海域に日本掃海艇が派遣されたことは当時政府によって秘匿されていました。
その活動は日本国民に伝えられず、隊員及びその関係者には、
厳格な箝口令がしかれていたといいます。

MS14号が触雷沈没した時、政府は殉職者並びに重症者に対して、
秘匿している立場から補償の措置を取ることはできず、

そのため、バーク少将の指示を経てGHQからの弔問と保証金が手配されました。

10月25日に行われた海上保安庁葬に中谷隊員の遺族は招待されず、さらには

「『米軍の命令による掃海だったことと死んだ場所は絶対に口外しないように』
と言われ、『瀬戸内海の掃海中に死んだことにしよう』と皆で申し合わせた」


そののち、掃海隊の慰霊碑にあたって中谷隊員の名前は石碑に刻まれはしましたが、
殉職場所と時期についてはついに記されることはありませんでした。

殉職後29年経った1979年の秋、戦没者叙勲で、中谷隊員には
勲八等白色桐葉章が贈られましたが、その時においてなお、
勲章の伝達は内輪にしてほしいとの内閣の意向で新聞発表は取りやめ、
所管の海上保安部長が遺族の自宅を訪れて伝達したにとどまりました。

それでも藤市さんは、

「叙勲によってやっと坂太郎の殉職が公認された。
これで晴れて弟の死を語ることができる」

と話したとされます。


確かこの中谷氏だったと思うのですが、昼食会場までのマイクロバスの中で、
遺族の家に今回NHKが長時間取材をするために滞在していった、
ということを話しておられるのをわたしは耳にしました。

NHKというテレビ局に対して、わたしはこのような取材をした結果を
自局の主張のために切り貼りして都合よく使うつもりではないかなどと、
猜疑心に満ちた目で見てしまわずにはいられないくらい、信用していません。

隊員の殉職という一事を「素材」として勝手に物語を作り上げ、その結果、
遺族の気持ちをかき乱すようなことをしなければいいが、と
わたしは淡々と取材を受けたことを語るご遺族の声を後ろに聞きながら、
ひとり要らぬ心配をしていました。

 

続く。

 


甲標的甲型 と酒巻和男氏の再会〜グロトン・サブマリンミュージアム

2017-06-03 | 軍艦

コネチカット州ニューロンドンのテムズ川沿い潜水艦基地。
そこに併設されたサブマリンミュージアムの前庭に、
その姿を見つけた時、わたしとTOは思わず息を飲みました。

「これは・・・」「もしかして・・・」

日本では江田島の海上自衛隊術科学校校庭に、
甲標的「甲」型があるのは何度も訪れて知っていますが、
まさかアメリカでこの特殊潜航艇を見ることになろうとは。

 

現在、江田島の海上自衛隊第一術科学校の敷地内にある甲標的は、
真珠湾攻撃に参加した5隻のうちの一つです。

みなさまもご存知のように、真珠湾で鹵獲された潜航艇の1隻目は
「捕虜第1号」となった酒巻少尉艇です。

2隻目はその直後見つかりましたが、そのとき捕虜であった酒巻少尉は
収容所で読んだ新聞のニュースでそれを知り、潜航艇の写真も見たということです。

酒巻氏によると、それは司令塔に二発の砲弾の貫通孔のある艇でした。

そして3隻目が江田島にある潜航艇で、戦史叢書によると、
昭和35年7月15日、真珠湾口外1.6マイル、水深約40mの海底から米軍が発見し
引き揚げられ、翌36年7月、我が国に返還されました。

この潜航艇には自爆の跡はなかったということです。

これが見つかった当時の江田島の潜航艇の姿。
この様子では、おそらく中に乗員のご遺体も残されていたことでしょう。 

 

甲標的甲型は魚雷の発射管を2門、このように前部に備えていました。
搭載していた魚雷は九七式酸素魚雷で、空気を注入することによって発射しました。

 

ところで、ここにある潜航艇はどういう由来のものなのでしょうか。

 

現地にあった簡単な説明はこのようなものです。

第二次世界大戦中、日本軍の「タイプ A」(甲のこと)、
二人乗りの小型潜水艇は、母潜水艦に背負われ(piggy back)、
作戦海域まで運ばれて運用された。

タイプ A小型潜水艇は、真珠湾攻撃に始まり戦争中を通じて
投入されたが、概ねその攻撃は失敗に終わった。


これでは、その由来も鹵獲の場所も状況もわかりません。

 

しかしサブマリンミュージアムのHPには詳細が記されていました。

 

日本軍は1930年始めに小型潜水艇の開発を始めた。

タイプ "A"はおそらく、第二次世界大戦中に海軍が開発した
もっとも最先端の小型潜水艦であった。

これらは特別仕様の船舶または潜水艦によって
行動海域に運ばれるように設計されていた。

5隻の同タイプの"A"潜水艦が真珠湾攻撃に参加したが、
すべて失われている。

1943年5月7日、潜水艦救難艦USS オルトラン(ASR-5)は、
ガダルカナルの北海岸沖で日本の特殊潜航艇を発見した。
潜航艇はククム湾に引き揚げられ、その後ガダルカナルまで曳航された。

1943年6月、潜航艇はニュー・カレドニアのヌーメアに到着。
便宜的にHA-8と識別された。

この潜水艇はHA-8 だけでなくHA-10、HA-30と3つの識別番号がつけられている。

その後、この小型戦史艇はグロトンの潜水艦基地に運ばれ、
1943-1944年の間、国債を売るためのプロモーションに使われていたが、
それ以来ずっとここグロトンに残されたままになっていた。

現在、タイプAの潜航艇は4隻が現存し、世界で展示されているが、
ここにあるものはそのうちの一つである。

鹵獲した特殊潜航艇に彼らはHAという名前をつけて識別していたようですが、
酒巻少尉が載っていた筒(日本側は潜航艇をこう呼ぶこともあった)は

HA-19

とされていました。
どうして最初に鹵獲した甲標的が19なのかいまいちわかりませんが、
ここにある甲標的に三つも識別番号がついていることを考えると、
これも単に便宜上以外の何ものでもなかったのでしょう。 

リンク先の英語のwikiによると、鹵獲後酒巻艇は”国債を買いましょうツァー”で
全国を見世物になって巡業し、その後はフロリダで展示されていました。

アメリカ政府はこれを国家歴史登録材に登録していましたが、
キーウェストの博物館がこれを売却に出し、1991年にテキサス州の
太平洋戦争国立博物館に引き取られることになりました。

同じ年、酒巻和男氏はテキサスで行われた歴史会議に参加し、
その際自分がかつて乗った特殊潜航艇と再会しました。

酒巻氏がそのときどんなことを考えたのかはもちろん、それを見て
どのようなことを言ったのか、その時の様子はどうだったのかについて、
詳しくはありませんが、こんな新聞記事が現在残されています。

WWII’s first Japanese prisoner
shunned the spotlight

(終生表舞台に出ることがなかった二次大戦の捕虜第一号)


 

ところでついでだから書いておきたいのですが、日本版のwikiの
酒巻和男のページ、捕虜になってすぐ撮られた酒巻少尉の写真に

「 両頬にはアメリカ軍兵士により煙草の火を押し付けられ拷問された痕が見られる」

と書いているのは実にまずいというか正しい情報ではないと思います。
前掲の新聞記事にも同じ写真が掲載されていますが、そのキャプションには

「酒巻は写真を撮るポーズをする前に、自分でタバコを押し付けて頰を焼いた」

と書いてあります。
どちらが正しいかは、酒巻氏本人が

「日本に何らかの形で写真が伝わり、新聞などに載った場合、
それが自分であることを少しでもわからなくするため」

自分でタバコを押し付けて焼いた、と言っているので明らかなのですが。

日本側のこの捏造記事は一体何を目的にしているのでしょう?

まあ、あのインチキ嘘八百番組の「真珠湾からの帰還」でも、
酒巻氏が戦後自分のことをほとんど語らなかったのをいいことに、
拷問されて戦犯裁判で糾弾されて、と全てを捏造しまくりだったわけで(怒)

日本人捕虜がアメリカで虐待されていたということにしないと
都合が悪い団体がマスコミ界隈にはどうやらあるようですな。
例えばテレビだとNHKとかNHKとかNHKとか。 

 

さて、ついつい腹立ち紛れに脱線してしまいましたが、この新聞記事です。
ここにわたしは初めて、晩年の酒巻氏の写真を見ることができました。

堂々たる体格はブラジルトヨタの社長だった頃のままに、
豊かな白髪に老いてなお知的な光を宿すまなざしは、
酒巻氏が戦後おそらくひと時も忘れることができなかったであろう
あの特殊潜航艇と再会したこの瞬間、悲痛に曇っているのが見てとれます。

なぜか日本の媒体ではまったく言及がない酒巻氏と甲標的の再会ですが、
この時の酒巻氏の心中は、その言動を何も伝えるものがなくとも、
この記事の最後の一文で全てが言い表されていると思われました。

「He wept.」 (彼はすすり泣いた)

 

 

コントラ・ロータリングと英語で説明されていた甲標的のスクリュー。
撮っている時には気づきませんでしたが、シャフトにスズメが停まっています。 

これは二重反転スクリューのことで、2組のスクリューを同軸に配置し、
各組を相互に逆方向に回転させる仕組みです。

2組のプロペラで飛行機にももちろん使われますが、これは、
機体や船体にかかるカウンタートルクを相殺するという働きがあります。

コントラペラは特に魚雷によく使われます。
魚雷は、魚雷発射管から撃ち出すという制約上、
本体直径より大きすぎる安定板を採用できません。
小さな面積の安定板でスクリューの反動に持ちこたえることは難しく、
スクリューの反動で本体が回転してしまい推進効率が落ちてしまうのです。

このため二重の反転するスクリューを採用して反動を消すのです。

甲標的は魚雷ほどプロペラの大きさに制限はないとはいえ、
まるで葉巻のように艦体が細く、プロペラを大きくすると
反動も大きくなるので、この機構が採用されたのでしょう。

プロペラを回転させる動力は、前部に配置された600馬力の電動機から
ギアを介して送られました。

なお、プロペラを囲むようにしてつけられた丸いガードは、
港湾に張り巡らされた防潜網からスクリューを守るものです。 

 



アメリカには「歴史的海軍艦船協会」という団体があって、国内に残る
歴史艦の情報管理を行なっていますが、そのHPには、この甲標的
(ここでは HA-30と呼ばれている)の戦歴はこのように残されていました。

日本側の資料これらのものが見られないのは何とも情けないことです。
 

 

1942年11月7日

0600

   日本の潜水艦I-16(伊16)はガダルカナルの甲標的発射地点に到着

1942年11月11日

0200

   ヤマキテイジ中尉とハシモトリョウイチ兵曹が甲標的に搭乗

0349

   伊16 は、海面にPT-ボートを発見、潜航する

0421

   甲標的、ケープエスペランスから10.8マイルの海域で射出
   射出時に舵がダメージを受け、3分後に操縦不能となる
   ヤマキ中尉は浮上し、任務を打ち切ることを決定

   カミンボ湾への途中で2隻の敵船を発見し、魚雷を二本とも発射した

1900

   マロボボ海岸に到着、両名ともに生還


(出典:サブマリンミュージアムHP)

1944年5月1日

   ガダルカナルの北部海岸のAruligo Pointの近くに陸揚げされた
   海底20フィートの海底から8人の海軍工兵隊シービーズによって引き上げられた 

 

この写真の後ろに見えているのは輸送船山月丸。
山月丸についてはガダルカナルの戦績について研究されている方のブログに詳しいです。

山月丸

 

それにしても・・・・。

わたしがこの実物を見て絶句したのは、経年劣化したものをさらに再現したとはいえ、
それだけではない、その艦体の作りのあまりに粗悪なことでした。

 

司令塔の壁面がいびつなのは遺棄された後海岸に打ち上げられ、
それを引き上げたり曳航したりという経過を経たもので仕方がないとはいえ、
鋲も、溶接部分も手作り感満載の拙速建造に見えます。

甲標的はソナーなど搭載されておらず、索敵は潜望鏡を覗くために
浮上せねばなりませんでしたが、構造上縦横に動いて常に安定せず、 
その状態で潜望鏡から索敵を行うのは至難の技。

たとえうまく発見しても敵艦の進行方向、速度などの諸元の割り出し、
魚雷発射の方位、タイミングの算定は艇長が暗算で行うのです。

いかに兵学校出で理数系に強くても、酸素不十分な艦内では
とても正答率が良くなるとは思えない絶望的な状況ではないですか。

成功率の低さを精神論のバイアスで補っていた非科学的な戦法と言いましょうか。

それは自死を伴う特攻を軍が命令として下す、
という外道の戦法を選んだ史上唯一の民族である日本人の、
ある意味非合理に振り切れたダークサイドの象徴であるようにも見え、
わたしはコネチカットの空の下、無性に情けないような、あるいは腹立たしいような
悲しみの気持ちに苛まれながら、その前に立ち尽くしていました。

 

 


掃海隊殉職者追悼式〜「ぶんご」艦上レセプション

2017-06-01 | 軍艦

金刀比羅宮での「慰霊祭」と立て付けが終わりました。
そこからまた再び車の置いてある「神椿」まで階段を登ります。

高橋由一記念館の手前に青銅の灯篭があるのですが、この中腹に
龍が巻きついています。

掃海隊群のマークは、このように龍が機雷を掴んでいるデザイン。
慰霊碑のすぐ近くに龍がいるのも何かのご縁でしょうか。

帰りに厩舎前の広場で神馬を馬子が散歩させているのを発見しました。
長い尻尾は神の馬らしく、流して先をカットしてあります。

「月琴号」というそうですが、実物は写真ほど真っ白ではありません。
・・・・フォトショかな?

運動のために綱をつけてぐるぐる歩くだけで、何かを地面に見つけ立ち止まると、
たちどころに馬子に結構手荒に叱責されていました。
神馬とはいえ、別に畏れ敬ってもらえるわけではないようです。

その横にあった奉納のプロペラ。
船のプロペラ、しかも大型船のサイズでとにかく巨大です。

寄贈したのは今治プロペラという会社だそうです。

ところであとでiPhoneをチェックしてみたところ、この日一日の歩行数は
1万2千681歩、距離にして7.8km、登った階段数は36階となっていました。

そのまま車で高松まで戻り、わたしはホテルにチェックイン。
部屋からは「ぶんご」が見えます。
予約の時に「できれば海の見える部屋を」とリクエストしたおかげでしょうか。

「ぶんご」後甲板には紅白の幕が確認できます。

部屋は角部屋で二方向が窓です。
ここに連泊できればよかったのですが、残念ながらこの夜だけでした。

部屋に帰って1時間あったので、シャワーを浴びて着替えてから現地には車で行きました。
埠頭にはレセプション招待で入っていく人の他に、船を見るために来た人たちが結構います。

入り口のデスクで受付をすると、皆胸につける名札をもらいます。
会場にはもうすでにたくさんの人たちがいて、すっかり盛り上がっていました。

「ぶんご」の甲板はとにかく広いので、天幕以外のところは露天のビアガーデン状態。
「かしま」とは違い広々としており、テーブルや椅子も設けられています。

さらには甲板に公開用の機雷が置いてあったりします。

先ほどまで「命を捨てて」をやっていたのとおそらく同じ音楽隊員が、
ここでは渋めのジャズ、 "There Will Never Be Another You"とか
”黒いオルフェ” "C ジャム ブルース”などといった曲を演奏していました。

みなさん、この方ご存知ですよね?
わたしはテレビを持っていないので話に聞いて初めて知ったのですが、
コメンテーターとして今やテレビで見ない日はない、といわれる
伊藤俊幸元呉地方総監・海将。

わたしが呉地方総監部に表敬訪問した時には、かつて広報であった頃のことを
楽しくお話くださった伊藤元海将ですが、退官後の人生も同じ広報畑。

わたしの知っている人は伊藤氏の出ている時だけテレビをつけるというくらい、
本音のコメントが受けているという話です。

名刺をいただいたら、そのうち一枚は裏が「特典付き」になっていて、
例えば大和ミュージアムはそれを見せるとタダ、というもの。
そのため、何枚も所望する人もいました(笑)

なんでも呉の観光と深く関わっておられるが故の”ご利益”だということです。

「呉でお会いした時の印象と今のご活躍に全く違和感がなくて・・・。
今みたいなご活躍をされるのも当然だと思ってました」

と申し上げると、

「またまたー、お上手なんだから」(〃'∇'〃)ゝ

と照れておられました。

海自で供されるお酒の升は普通木肌のものですが、「ぶんご」は塗り風です。

去年も驚きましたが、今年はまた一層パワーアップしたVIPテーブルの飾り彫りコーナー。
庭園を模した超大作です。

なぜか赤い鶴、リアリズムを追求した水面を泳ぐ錦鯉、そして欄干の橋。
そして今年の新機軸は、水戻ししたはるさめをブルーで色付けした滝の水流れ!

「ぶんご」給養の方々、ブラボーでございます。

宴たけなわには呉地方総監池海将の挨拶が行われました。

呉地方総監の数ある任務の中でも、掃海隊殉職者慰霊祭と追悼式は、
特に重要で大切なものではないかと想像します。

昨年度の追悼式も掃海隊群司令であった湯浅海将補。
これが最後の艦上レセプションになります。

司会アナウンスの女性の横に立っているのは、追悼式で司会を務めた二佐。
「ふゆづき」の引き渡し式の時、「ふゆづき」副長だった方です。

折しもその頃、「ぶんご」甲板から眺める瀬戸内の島々の間に、
夕日が沈んで行きました。

甲板の上から落日に見入る人。(誰か知りません)

海上自衛隊では、夕日が沈むのをのんびり眺める人はおりません。
なぜなら、この時に自衛艦旗の降下が行われるからです。

降下は海曹と海士の二人で行うことになっていて、この日は女性海士が当直でした。

えーと・・・これは何をなさっているんでしょうか。
とにかく楽しそうで何よりです。

陸自の人は知りませんが、海自の三人は艇長と隊司令という重職の方々です。

ラッパ隊の前に立つ士官の号令一下、喇叭譜「君が代」が始まりました。
海曹と海士、二人で旗を降ろします。

例によって、「ぶんご」の後ろに繋留している「あいしま」「いずしま」の後甲板からも
少しずれたタイミングで「君が代」のラッパが聞こえてきます。

左の「あいしま」では素早いタイミングで艦首旗を降ろします。
ネイバル・ジャックと呼ばれる艦首旗は、日中の停泊時に掲揚されます。

旗のおろし方は、手を大きく回すようにして、紐を引きます。
夕焼けとなり、あたりが暗くなって艦飾の電燈が色づいてきました。

この日は日差しは初夏のものでしたが、風がひんやりとして日陰は涼しく、
立て付けや予行の間も、比較的快適に過ごすことができました。
しかしこの頃になると、日が落ちて猛烈に気温が下がってきます。
船の甲板の上なので、海から吹き上げる風も強くて寒くなってきました。

それなのに((T_T)蒸し暑かった去年の記憶から、わたしはよりによって
肩の出た半袖のドレスを選択したため、会う人会う人に開口一番

「寒くないですか・・・?」

と聞かれる羽目になりました。
百人くらいに聞かれた気がします。

パーティでお腹がいっぱいになるようでは仕事人として失格である。

誰が言ったかは知りませんが、仕事人でないわたしはとりあえずカレーだけいつも食べることにしています。
「ぶんごカレー」はひき肉の中辛でした。

レセプションには東京から元将官の偉い人たちもやってきます。
水交会のおじさまたちもほとんどがOBですし、現役自衛官は気が抜けません。

「あーちみちみ、しっかりやっとるかね」

「は、ははー閣下!」

・・・みたいな?(あくまで想像です)

というわけで、いつのまにか「蛍の光」が鳴りだしました。
これを聞くと我々は何やら落ち着かない気分になって、会場を出ることになります。

舷側には舷門まで乗組員が立って、一人一人に挨拶をしてくれます。
写真は「ザ・先任伍長」みたいな貫禄の先任伍長の手を握りに行く元偉い人。

もうすぐ海将が退艦する予定なので、お迎えの車がやってきています。


さて、わたしはカレーとお刺身くらいはいただきましたが、
カメラマンのミカさん(仮名)は写真を撮っていて一口も食べず。

この日、久しぶりにお会いした元偉い人(←階級は忖度により秘す)が
わたしも一口も食べておりません、と端正な様子でおっしゃるので、
なぜか偉い人、わたし、ミカさん(仮名)、という超シュールなメンバーで、

うどんを食べに行くことになりました。

なぜうどんになったかというと、ここがうどん県だったからで、
「何か食べる」ということになったとき、他の選択肢を思いつかなかったのです。


そこでラッタルを降りたところにいた地元地本の方に教えてもらい、
わたしの車で「鶴丸」というお店に行きました。

偉い人は

「味がわからない時には基本である釜揚げを食べればよろしい」

とごもっともな正論通り釜揚げうどんを、そしてわたしは、さっき少しとはいえ
カレーを食べたのにもかかわらず、又してもカレーうどんを取りました。

さすが「蛇口をひねるとうどんが出てくる県」だけのことはあって、
このカレーうどん、カレーうどんのくせにコシがあってツルツルです。

うどんの後、ミカさん(仮名)がおでんをせっせと取ってきてくれて、
わたしも少しいただきましたが、三人でこれだけ食べたのに3600円、
というのには思わず安っ!とつぶやいてしまいました。

 

この時に中の人だった偉い人に伺った話は、それはそれは面白く、
全部ここに書けないのが残念なくらいですが、駐在武官だった任地での話や
ローカルジョークに、わたしたちは時間が経つのも忘れて盛り上がりました。

わたしとしては一番興味深かったのが、

「掃海隊に近々女性艇長が登場する」

という情報でした。

掃海隊には艇長を訓練する専門課程があります。
例えば今回高松に寄港していた掃海艇のうち
一隻は、その過程を終えて
艇長として最初の勤務、という人が乗っています。

現在、この教育課程に女性隊員がいるのだそうです。

隊員にすら一人もいなかった女性が、なぜいきなり艇長になれるのか?

今回初めて知って驚いたその理由とは「居住区域の問題」です。

潜水艦もそうですが、居住区が狭い掃海艇は、男女の居住区を分ける余裕がなく、
主にプライバシーの問題が女性の進出を阻んできました。

かといって掃海畑に女性がいないわけではなく、「ぶんご」など広い掃海母艦には
今回の写真を見てもおわかりのように多くの女性隊員が勤務しています。

ここで発想の転換といいますか、

「艇長であれば個室が与えられる」

つまり、女性が掃海艇に乗るには艇長になればいいのです。
というか、女性が掃海艇に乗るには艇長になるしかないのです。

艇長の育成過程に進んだ女性隊員は、掃海母艦出身で掃海についてはすでに
経験を積んでいるということですが、ただでさえ荒っぽく、厳しい現場であり、
海自で一番過酷と言われるEOD(水中処分員)を含む掃海艇を女性が指揮することを
肝心の掃海隊員がどう捉えているのか、気になるところです。

 

さて、明日はいよいよ追悼式です。

 

続く。