の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

サンクラブリーの旅(ピロック)

2022年09月02日 | カンチャナブリー
サンカブリーからの帰路です。カオレーム湖の南で国道3272号線の三叉路を過ぎてから、最近人気の秘境、国境の村、ピロックを思い出し急遽Uターンをして国道3272号線をピロックへ向かうことにします。

暫く進むと道路はカオレーム湖に沿い、48kmでバーンライとピロックのT字路です。左折して山越えの曲がりくねった道路となります。路面は穴だらけです。一部で半車線の舗装工事をしていましたが、対向車が来れば大変です、カーブで前方は見えず、逃げ場もありません。幸運にも対向車には出会わなかったが、工事トラックに追いつき20km/hで暫く追走することになりました。

途中にピロック鉱山展望台があり、トイレ休憩です。ここからはカオレーム湖が遠くに望めます。











グーグル マップではピロック村と表示されていますが、正式には「Baan E-Tong」でビルマ語の「霊の山」を意味します。「Pilok」はこの地にあった錫鉱山の名称「Pilok Mine」から来ています。
当初はイギリス統治下のビルマ人、インド人が錫とタングステンの採掘に関わりイギリス軍に売っていました。太平洋戦争が始まると鉱夫たちは新しい鉱山を開くためタイーミャンマー国境に沿って移動していきます。(と解説されていますが、日本軍の侵攻でビルマのイギリス軍が逃走、販売ルートを失ったのでしょう。)
1940年にタイ天然資源省が国営ピロック鉱山を開設します。タイ警察はビルマ人とイギリス軍の商取引を禁じますが、従わないビルマ人労働者と警察の衝突で多数の死者がでます。そして呼ばれたのが「Muang Peelok」、「幽霊鉱山」だと言われています。後に「Pilok」に変更し、鉱山と副行政区域の名前となりました。
その後、大小5、60の民間鉱山が開設し、タイ、ビルマ、インドからたくさんの労働者が集まりイ・トーン村は栄えました。
当初は採掘された鉱石を象でクウェー ノイ川まで運び舟に積み替えて2日がかりでカンチャナブリー中心部へ運んでいました。泰緬鉄道が保存されていればもっと容易だったと思うのですが...
1950年頃には鉱山からクウェー ノイ川まで道路が建設され、1980年代にはカンチャナブリーから鉱山まで一年中通行できるようになり、イ・トーン村は何千人もの労働者が集まり、二つの映画館、飛行場のある町となりました。

しかし、1985年に世界の錫市場の暴落でピロックの鉱山会社は閉鎖を余儀なくされました。鉱山労働者はピロックを去り村はゴーストタウンになります。

現在の村人は、村の小川に沿って錫鉱石を掘ったり、錫鉱石に含有される金の採取で生計をを立てています。















午後2時にピロック村に到着です。村の入り口に小さな池があって、その横が村の駐車場になっています。池の向いに小さなゲストハウスが並んでいます。
まず今夜の宿泊場所を探します。3階建てのゲストハウスの2階の池側の部屋を確保しました。
クーラー、冷蔵庫、テレビ無しの900バーツです。他の宿泊客はまだ居ないようです。
経営者の老婆の話では、駐車場から向いの山頂、ノエン チャン スエク(海抜1053m)で夕日を観賞するソンテウ(小型乗り合いトラック)が一人50バーツで出るそうです。
空を見ていると厚い雲が立ち込めており、とても夕日の観賞が出来る雰囲気ではありません。
取りあえず、駐車場まで行きたむろしているソンテウの運転手と交渉です。これから山頂へ行きたいがいくらで言ってくれるということで、200バーツで交渉成立です。

ノエン チャン スクエ山頂は国境警備隊の駐屯基地になっていますが、訪問者に開放されています。
晴れた日にはミャンマー側の50km離れたアンダマン海が見えるそうです。








イ・トーン村全体です。ざっと数えても百軒少々しか有りません
一般車両はこの先通行止めです








約1時間山頂にいましたが真っ暗な雲が広がってきます。慌てて下山ですが、途中でスコールに襲われソンテウに吹き込む雨でびしょ濡れです。
結局夕方は雲が厚く夕日なんて見れる状態ではなかったですが、ソンテウは人を運んで山頂へ行ったようです。

日の出観賞もあります、朝も雲が厚くて朝日は見られそうになっかたけれど、池の向こうからは賑やかな声が響いていました。





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翌朝です。クーラー無しで暑さを心配しましたが、涼しくてぐっすり眠ることが出来ました。
朝食付きですが、食事は食券をもって裏通りの食堂へ行きます。
この村には食堂と土産物屋数軒有るだけです。土産や食材はほとんどミャンマーから入ってくるようです。
食後はピロック鉱山跡へいってみました。採鉱に使われた車両や道具類が展示されています。
宿の老婆からは奥に池があって錦鯉が泳いでいる、と言われたのですが、日本人にとって錦鯉は珍しくもなく、かといって他に観光する所もないので行ってみました。
驚いたのは、池の水の透明度です。タイへ来て初めて出会った澄んだ水です。

解説ではトンパプーム国立公園内のタングステン鉱山域にあるジョッグカディン滝の水はミネラルを豊富に含み、滝壺で泳ぐと身体がスベスベになるそうです。

池の奥にも小さな滝があり、水はミネラルを一杯含んでいそうです。
「E-Tong」というミネラルウォーターが売られていましたが、裏山の水をそのまま瓶詰めすれば良いだけです。























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秘境です。初めてであった蝶々もいましたので紹介します。
自然豊かで食草も豊富なのでしょう。村の回りにはたくさんの蝶々がいました。


村に来て、最初に出迎えてくれた「アオスソビキアゲハ」です。
タイではどこの山でも出会いますが、出会う機会は非常に少ないアゲハチョウの仲間です。
村入り口の道路を横切る流水で吸水中でした。
尻尾のような長く伸びた尾状突起をヒラヒラさせながらトンボのような敏捷な動きをする蝶です。




錦鯉の池縁の羊歯の上で朝露をいっぱい付けた「チビキマダセセリ」だと思います。
キマダラセセリの近似種は非常に多く同定が難しいです。


サンカブリーの出発を見送ってくれた「インドウラナミジャノメ」です。
裏翅の外縁部に並ぶ目玉模様は、鳥が目玉を攻撃する習性を利用し、もし鳥のつっつきにあっても胴体を守れるようにしています。
翅を開くと大きな眼状紋あり、捕食者に襲われそうなとき翅を開き、敵をひるませてその隙に逃げるそうです。特に地上を徘徊する捕食者に有効だそうです。


ピロック鉱山跡でヒラヒラと飛んでいた「ムラサキマネシアゲハ」です。
初めて出会った蝶です。さて、このマネシ(真似し)ですが、何を真似(擬態)しているのかというと下の蝶「ツマムラキマダラ」です。
ツマムラサキマダラの幼虫は有毒な植物を食べて蝶になります。成虫になっても体内に毒を保存しています。捕食者が毒蝶を食べると中毒を起こし、二度とおそわないように学習します。少数の犠牲によって他の仲間は襲われなくなります。
どこの世界にも知恵者がいるわけで、無毒のムラサキマネシアゲハは毒蝶のツマムラサキマダラの真似をすれば敵は襲わないだろうと擬態を成し遂げました。
ただ、無毒のムラサキマネシアゲハの固体が多いと敵も学習出来ないため、全数が擬態できるわけではなく、選ばれた少数が真似し出来るようです。


毒蝶の「ツマムラサキマダラ」です。
実は、私もムラサキマネシアゲハには騙されてしまい、インスタにツマムラサキマダラとして投稿しました。フォロワーの方から指摘され気付いた次第です。ツマムラサキマダラは学習した捕獲者からは襲われないため、どこの山でも集団でヒラヒラ舞っていますが、その中にムラサキマネシアゲハも混じっているようです。よく真似ているので、今までは気付かなかっただけかも知れません。

毒蝶はたくさんいますが、このように真似るのを擬態と言います。捕食される側は擬態で身を守りますが、捕食者する側も擬態します。例えばカマキリです。緑のカマキリは木の枝になりきり獲物が来るのを待っていますし、木の幹と同化したカマキリもいます。

サンクラブリーの旅(カオ レーム湖)

2022年08月29日 | カンチャナブリー
チェディー ブッタカヤー参拝の後は宿泊施設に車を置き、ワチラワンコーン ダム建設によって出来たカオレーム湖の遊覧に出かけます。

まず向かったのはサンカブリー シティー ゲートと地図に表記がある場所です。船頭の説明ではアユタヤ時代のタイとビルマの国境だそうです。
ゲート端の小山にはアユタヤ時代の仏頭が祀られています。
かっては基壇の上に仏塔が置かれただけでしたが、現在はタイル張りの床と屋根が設けられ、たくさんの献花がありました。また、隣には新しい仏像が安置され、守をする人も居るようです。




水位低下で出現した仏塔です











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2004年2月の同じ場所です




次に訪れたのは水位の低下で出現、今回初めて目にするするワット シースワンです。
一番古い寺院でカレン族の寺院ですが、過去の訪問では完全に水没していました。











次は小山の上に建つタイ寺院、ワット ソムデットです。
参拝する人はたくさんいるようですが、老朽化が激しく、屋根は落ちてしまっています。









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最後に訪れたのはモン族の寺院、ワット サムプラソップです。
宿泊しているのはサンプラソップ リソートと言う名前ですが、この一帯は三つの川が合流する場所という意味のサムプラソップが地名ですが、最近では「ソップ」がタイ語の「死体」に通じることからあまり呼ばれなくなった、とモン橋近くのお店で聞きました。

訪れてたのは雨季も後半に入り各地の河川が増水している9月5日ですが、寺院は湖岸から数百メートルの所で、水面からも数メートル高い場所にあります。
かって訪れたのは2004年2月と2009年2月の乾期の真っ只中ですが、寺院は窓の上だけが水面に出ている状態でした。その後のテレビニュースで水位が下がり、歩いて寺院跡へ行く人々が映し出されていました。2013年の長雨で流失したモン橋の修復と関係があったのかも知れませんが、寺院周辺の草木の茂り具合を見ると、その後の水位は5、6メートル以上低下したままのようです。












水没寺院ですが修復中です







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帰路です。装飾された舟が立ち枯れした木に繋がれています。







午後2時20分モン橋へ帰着です。午前11時40分に乗船して、2時間40分の観光でした。他に観光客がいなかったので料金をずいぶん値切ったので泰緬鉄道跡を端折られたようです。

サンクラブリーの旅(チェディ ブッタカヤー)

2022年08月25日 | カンチャナブリー


サンカブリー滞在2日目です。朝食後サンガリア川対岸のモン族集落にあるワット ワン ウィウェーカラームの仏塔、チェディー ブッタカヤーへ参拝に行きます。

途中、集落のの中で僧侶の托鉢に出会いました。車を停めて撮影します。




この道の先にワット ワン ウィウェーカラームがあります。たくさんの僧侶が修行されておられるようで、托鉢の列は何時までも続きました。

チェディー ブッタカヤーへ到着したのは午前8時30分でした。参拝の人はおらず、駐車場はたくさんの野良犬がたむろしています。








入り口の階段で迎えてくれるのはミャンマーの神様、ナッ神でしょうか?




回廊には四面釈迦座像と曜日の仏像が配置されています。


日曜日生まれの人が参拝する仏像です。







カオレーヌ湖から見た仏塔です。



こちらは2009年3月撮影です。入り口の獅子象や仏塔はまだ未完で、最後の装飾中です。2004年2月にも参拝していますが、あまり進んでいないようです。










サンクラブリーの旅(モン ブリッジ)

2022年08月22日 | カンチャナブリー


サンカブリーの町へ行きます。三仏峠から市街までは24kmです。
カオレーム湖に沈んだ人たちが暮らす水上家屋を見ながら湖に沿って進みます。






午後4時20分ウッタマヌソーン橋(モン橋)に一番近いサームプラソップ リゾートにチェックインです。荷物を部屋に置きモン橋の散策に出かけます。













通称「モン橋」と呼ばれる木造橋は1948年にモン族の住むサンガリア川対岸とサンカブリー市街を結ぶため、ワット ワン ウィウェーカラーム寺院の僧正ウッタマ師とモン族の人々によって建設されました。全て手作業で完成した橋は「信仰の橋」と呼ばれていました。
全長850mのモン橋はタイで一番長い木造橋で、対岸で暮らすモン族、カレン族の重要な生活橋ですが、週末はたくさんの観光客が訪れます。
世界では2番目に長い木造橋です。
ちなみに、世界で一番長い木造橋は明治12年、大井川に架けられた蓬莱橋の987.4mです。蓬莱橋は度々起こる大井川の氾濫で崩落、流失し、現在の脚橋はコンクリート柱になっています。

夕食後に再度訪れました。








翌日の朝も出かけます。






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2004年2月の写真です。






サンカブリー市街から仕事を終えて帰宅するモン族の若い夫婦です。


モン族集落風景です。





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次ぎは2009年2月の朝のモン橋です。
2004年と比べると市街へ弁当箱を提げ働きに出る若い人がずいぶん増えていました。そんな通勤の人々に写真を撮らせていただきました。みんな恥ずかしながら快く応じてくれました。

まだ橋の上で物を売る人はいませんし、橋のたもと近くで土産物を商う店も数軒しか有りませんでした。




僧侶とすれ違うときは、腰を下ろして僧侶が通り過ぎるのを待ちます。


















夕方の写真です。帰宅する女性です。


モン族集落側の橋入り口から集落を見ます。


現在は坂道の両側は土産物店で埋まっています。










老朽化で橋の上は補助材で埋められ、脚橋はたくさんの竹で補強されています。この年の9月の大雨で橋の一部が流失しています。
その後大改修が行なわれ綺麗な木造橋が戻ってきました。

サンクラブリーの旅(スリー パゴダ パス)

2022年08月20日 | カンチャナブリー


タイ西部に映画「戦場にかける橋」で名を馳せたカンチャナブリーがあります。と言ってもこの映画は1957年の上映、私はその後のテレビ放映とタイで売られていた海賊版DVDで見た記憶があるものの、知っている人の方が希でしょう。
バンコクから「戦場にかける橋」クウェー川鉄橋までアウターリング道路、タリンチャン交差点から国道338号線、国道323号線を西へ走り175kmです。国道323号線を西へ27km行くと最西端のクメール遺跡ムアン シンへ通じる国道3455号線があります。交差点からムアン シンまでは約7kmです。
この辺りから国道323号線は北西に向きを変え、110kmで1984年に完成したワチラワンコーン ダム湖(カオレーム湖)の東西に分かれる国道3272号線との三叉路です。国道3272号線はしばらくカオレーム湖に沿って南下した後、山中を西へ走りミャンマー国境の村ピーロックに至ります。カオレーム湖の東を北上する国道323号線をさらに90km行くとスリー パゴダ パス(三仏峠)、ミャンマーとの国境です。

少し古くなりますが2020年9月9日(水曜日)から、コロナ行動規制も緩和されており、3泊4日でカンチャナブリーの国境の町、サンカブリーへ出かけてきました。

カンチャナブリー市街手前で午前10時半前ですが、朝食と昼食を兼ねた食事です。ここを通れば必ず立ち寄るタイ素麺(カノムチーン)屋さんです。











この湯がいた麺を丸めている老婆は実に無愛想なんですが、四日後の帰路に立ち寄ったときに「どこへ行ってきた?」と話しかけてきました。オーッ、覚えていたのだと感心するやら、感動するやら見直した次第です。


午後3時に三仏峠に到着しました。
雨期後半で到着するやスコールの襲撃です。
小さな仏塔が三基並んでいます。メークローン川沿いやチャオプラヤ川水系沿いに5世紀から11世紀に栄えたモン族の環濠都市とミャンマーを結ぶ交易路であったと考えられています。
第二次大戦中は日本軍が軍事物資輸送のために全長415kmの泰緬鉄道を建設、三仏峠を越えていきます。日本の敗戦後はイギリスが再び植民地としたシンガポール港の利権を確保するため、再び植民地としたミャンマー側の鉄道全線とタイ側の2/3を撤去しています。







国境はコロナ感染拡大防止で閉鎖しており、仏塔を囲むようにミャンマー人の経営する土産物店も殆どが門を閉ざしています。豪雨の合間に撮した写真も少なく、過去訪問時の写真を掲載しておきます。


2004年の撮影ですが、仏塔越しに見えるミャンマーの国旗は、現在の国旗が制定される以前のものです。






こちらはかってのイミグレーションと輸入貨物の検査場です。ミャンマーから運び込まれるのは木製品と宝飾品が主品目のようです。
検査と言っても積み荷の回りを見るだけの形式的なものです。






2002年4月に広瀬隆氏と日本人有志の方々によって、この地で亡くなった日本兵や鉄道建設で犠牲となった人々の慰霊のために建立された国境平和祈念堂「星露院」です。周辺の洞窟2ヶ所では約130人の日本兵が自決し、カオレーム湖には日本兵4,500人の墓が水没しています。

永瀬隆氏は昭和18年から終戦までカンチャナブリー憲兵分隊の通訳として泰緬鉄道の建設に関わっておられました。
工期1年3ヶ月の突貫工事は12,000人の日本兵と連合軍の捕虜6万余人、「ロームシャ」と呼ばれた東南アジア各地から公募された10万人以上の労働者が投入されましたが、過酷な労働による事故や雨季に発生したコレラ、マラリヤ等の伝染病で正確な資料は残っていないが、50,000人以上が犠牲となっています。
終戦後はビルマから退却してきた瀕死の日本兵を国境の村人が助け、亡くなれば手厚く埋葬をしてくれました。またタイにいた12万人の投降兵が帰国するときには、帰国後の日本の食糧難を心配したタイ政府から全員に飯盒一杯の米と砂糖が贈られています。
永瀬氏は帰国後の1963年からは泰緬鉄道建設の犠牲者の慰霊活動やタイ人の温情に報いるため135回のタイ巡礼をし、カンチャナブリーとメーホーンソーンに慰霊堂の建立、貧困家庭や少数民族の子供達のための奨学金設立や学校、診療所、老人ホームの建設などを行って来られました。




国境ではミャンマー製の木製品や宝飾品がお土産として売られています。喫茶店や食堂も並びます。
店先はタイ側に開いていますが、店の裏扉を開けるとミャンマーになっています。




この2枚の写真は2009年撮影ですが、ミャンマー内紛の政情不安で国境は閉鎖されています。メーソットではミャンマーから砲弾が市場に飛来し、タイ軍も反撃していました。
国境柵の向こうには泰緬鉄道の一部を設置しています。実際の鉄道は下の1959年版の米軍地図に示されているレールロード(赤色)は仏塔より少し西を走っています。

この地図には三仏峠までの国道323号線やカオレーム湖はまだ出来ておらず、レールを撤去した道床が道路として使われています。