の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

ヤンゴン市内見物、そしてバンコクへ

2014年11月22日 | ミャンマー



昼食です。シュエダゴン・パヤーから西方のさほど遠くない、洋館を改装したパドンマー・レストランへ行きます。
感じのよい洋館でしたが何故か建物の写真がありません。

レストランの前庭です。

画題はシャン族の出家です。




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食後はヤンゴン川へ向かいます。







船着場です。対岸は焼き物の町トワンティです。



船荷の積み下ろしをしています。大きな袋を三段重ねで運んでいます。荷の中身ははっきりとは分かりませんが、黒く汚れた袋や人夫の様子から察すると炭のようです。



積み下ろしが終わった後は川へ飛び込み、汗を流していました。



ヤンゴン川に沿ったストランド道りにはイギリス統治時代の建物が残り、現在も活用されています。

1939年建造の旧ベンガル銀行です。スーレー・パヤー通りとの三叉路に建っています。



北の方向にスーレー・パヤーが見えます。

赤煉瓦の建物はアパートのようです。

ヤンゴン管区の裁判所です。





赤煉瓦は通関局、朱い三角屋根は港湾局の建物です。

ヤンゴンの迎賓館と言われる、1901年開業のストランド・ホテルです。

中央郵便局です。

スーレー・パヤーに来ました。

ヤンゴン市庁舎です。





バブテスト教会です。

「天秀」のチラシが張られた消防車です。





ミャンマーの串揚げ屋台です。

周りに腰かけ、ぶら下がっているソースを付けて食べます。その横にぶら下がっている空容器は串入れ・・・?

スーレー・パヤーを中心に道路はローターリーになっています。



モスクです。

スーレー・パヤーの入り口です。

鳩の餌を売る少女です。







1900年初頭に建設された高等裁判所です。



第二次英緬戦争以降の1860年頃にはイギリスによって土地整備が始まり、1892年には下水道が引かれて、東洋の真珠と言われたラングーンの都市が出来上がったようです。
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■寝釈迦像に参拝しに行きます。




チャウタッヂー・パヤーです。1907年建立で、1960年に現在の寝釈迦像に改修されています。
全長70m、高さ17mの巨大なお釈迦様です。
ちなみに、ミャンマー初日に訪れたバゴーの寝釈迦像は全長55m、高さ16mでした。タイ、バンコクのワット・ポーの寝釈迦像は全長46m、高さ15mです。



全身像が写せないので、お顔のアップです。





後ろからも撮影しました。



長い睫です。ブルーのアイ・シャドー、真紅のルージュ、ピンクのマニキュア、写真では写っていませんが、足の爪には同じピンクのペディキュアと中性的で艶めかしいお姿のお釈迦様です。

喜捨した人の名前が掲げられていますが、日本人の名前がたくさん揚っています。
近くには日本人墓地があって、第二次大戦で亡くなった方々の法要に訪れた人たちでしょうか・・・。



門前のお土産物屋さんです。



午後4時50分、参拝を終え空港へ向かいます。

午後5時10分です。飛行機にはまだ時間があるので、開いているお店を探します。
水掛け祭りで大半の店が閉店しています。

オウギヤシで葺いた屋根にテーブルを置いただけの、しゃれたお店で休憩です。


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午後6時30分、ヤンゴン国際空港到着です。
タイ航空「TG-306」、午後7時45分発バンコク行きに乗ります。バンコク到着は午後9時40分予定です。
ヤンゴンとバンコクの時差は30分あるため、1時間25分の飛行時間です。

国際線の乗客はまばらです。

取敢えず喫煙室で休憩です。きれいな喫煙室です。

乗客も少なく空港清掃員の休憩場になっています。





ヤンゴンの夕陽です。

シュエダゴン・パヤー

2014年11月20日 | ミャンマー

シュエダゴン・パヤーはミャンマー随一の仏教聖地です。
伝説ではインドを訪れたモン族の商人兄弟が、紀元前588年に釈尊から8本の聖髪を賜りました。故郷へ戻った兄弟は、オッカラパ王の助力で聖髪をテインゴウッタヤの丘に祀るため仏塔を建立したのが始まりと伝えられています。
考古学的調査では下ビルマを支配していたモン族によって、6世紀から10世紀に建立されたようです。その後の国内の戦闘で荒廃しますが、14世紀にモン族のペグー王朝、第7代国王ビンニャ・ウー(在位:1353年~1385年)によって高さ18mの仏塔が再建されます。
碑文によれば、およそ1世紀後の第14代国王シンソーブ女王(在位:1453年~1472年)により高さ40mの仏塔に改築されました。
16世紀にはビルマで最も重要な巡礼地となっています。
1769年に起きた地震で塔上部が崩壊しますが、コンバウン王朝の第3代国王シンビューシン(在位:1763年~1776年)によって現在の高さ99mに改修されます。

この女性は参拝者のチェックをしていました。

ヤンゴン市街を見下ろすテインゴッタヤ丘の上に建つシュエダゴン・パヤーへは南参道横にあるエレベーターで昇って参拝に行きます。東西南北に石段の参道が設置されていて、眼下の連続する屋根は南参道です。

エレベーターを昇った境内では、木陰で祈る人、食事する人、昼寝をする人とさまざまです。





多層屋根のシャン様式の仏塔はシャン族商人によって喜捨されています。

全高112.2m、基底部の周長433mのシュエダゴン・パヤーです。主塔の回りには64基の小仏塔が林立しています。
主塔は煉瓦積みで金箔ではなく黄金の板が鋲止めされています。
歴代の国王はパヤーを維持するため黄金を喜捨しています。ペグー朝のシンソープ女王は自身の体重と同等の黄金を奉納したことが記録されています。

華頂に装飾された宝石を見ています。双眼鏡は日本人による寄贈です。

カメラ撮影ではここまでしか写せません。

掲示されていた華頂の写真です。

喜捨された5448個のダイヤモンド、2317個のルビーが嵌められています。一番大きなダイヤモンドは76カラットあるそうです。

仏塔の周りには50棟を超える祠堂が建っていて、お参りの人が切れません。



主塔の周りに林立する小仏塔は、いずれも善男善女が喜捨したものです。





こちらには曜日毎の仏様が祀られています。



東南アジアでは生まれた曜日が大切で、曜日毎の仏陀が安置されています。
ミャンマーは八曜日あるそうです。水曜日が二日に分かれていて、午後6時までが水曜日で、午後6時以降は「ラーフーの日」です。ヒンドゥーの月と太陽を追いかけては食べるラーフーとは異なるようです。
自分の生まれた曜日の仏陀に花を供え、灌水して参拝します。

ちなみに、タイでは七曜日の仏陀像が安置されていて、それぞれポーズが異なります。

休日の参拝の後は、世間話をしたりしながら一日過ごす人も多いようです。







翡翠の仏陀像です。額は大きな宝石で飾られています。
この大きな仏陀はガラスケースの中に入れられて触れることはできません。







祠堂の壁に彫られたキンナリーです。





立派な釣鐘です。1779年コンバウン朝の第4代国王シングー(在位:1776年~1782年)によって喜捨された23トンの青銅製釣鐘「シングー・ミン鐘」です。
1824年英緬戦争でシュエダゴン・パヤーを占拠し要塞にしたイギリス軍は釣鐘を接収しカルカッタへ搬送する途中でバゴー川で落します。しかし、後に釣鐘を引き上げたイギリス軍はビルマに返還します。

右の人は釣鐘に刻まれた碑文を呼んでいます。









菩提樹の日陰でも昼寝の人たちです。



大きな釣鐘の前では尼僧が寛いでいます。釣鐘は1841年にコンバウン王朝、第8代国王ターヤーワディー(在位:1837年~1846年)によって喜捨された42トンの「マハ・ティサダ・ガンダー鐘」です。

ペグー王朝の第15第国王ダンマゼーディー(在位:1472年~1492年)が1485年に喜捨した30トンの釣鐘は、1608年にシュエダゴン・パヤーを略奪したポルトガル人フィリップ・デ・ブリトーによって盗み去られましたが、バゴー川で川中に落としてしまいました。その後探索されましたが、現在に至るまで発見されていません。



こちらは柵内に安置されている仏陀です。ダンマゼーディー王がモデルだと言われています。



仏陀の前で昼寝をする人たちです。極楽なのでしょう。





下山は階段を下りて行きます。

■「シュエダゴン・パヤー」の「シュエ」は黄金、「ダゴン」はヤンゴンのモン族統治時代のモン語地名です。「パヤー」はパゴダ、仏塔を意味します。
コンパウン王朝の創始者、アラウンパヤー王(在位:1752年~1760年)はビルマ全土を掌握のため1754年に上ビルマからモン軍を一掃、1755年にダゴンを陥落させ、ビルマ語のヤンゴン「宿敵全滅」と改名します。その後、抗戦するモン軍を退け、1757年モン王国の首都ペグーを攻略します。
モン王国を征服したアラウンパヤーは、寺院や建造物を破壊、経典等の書物は焼き払い、学識ある僧侶を3000人以上を虐殺、モン語やモン族の習慣を厳禁にします。拠点を失ったモン人はアラウンパヤーの差し向けた軍によって次から次へと殺害されたそうです。
何十万というモン人がタイへ逃れます。
現在のミャンマーの人口5142万人ですが、民族比で見るとビルマ族68%、モン族2%と、かっては覇権を争った両民族の差が極端にひらいています。

ヤンゴンへ

2014年11月19日 | ミャンマー

出発前にホテルで買ったバガンの写真集です。10ドルで買ったのですが、ニャウンウー空港の売店では8ドルで売っていました。

ニャウンウー空港の玄関です。



チェックイン・カウンターです。帰路はエアー・バガンの航空機に搭乗します。







午前7時45分発のマンダレー経由ヤンゴン行のエアー・バガン W9-009便です。
ニャウンウーからマンダレーまで30分、20分間の駐機でヤンゴンに午前9時35分着の予定です。





エアー・バガンの機内誌です。

まずマンダレーを目指してエーヤワディー川沿いに北東へ飛行です。



金色に輝くのはシュエーズィーゴン・パヤーです。









飛行高度が下がってきました。マンダレーに到着です。



マンダレー国際空港です。




乗客の乗り降りで20分間駐機します。ヤンゴンへ向かう乗客はそのまま席で待ちます。

マンダレーを飛び立つと軽食が出ます。

マンダレーからヤンゴンは真南に位置しています。

ヤンゴン到着です。





水掛け祭りでごった返す道路をシュエダゴン・パヤーへ向かいます。








再びバガンの夕陽を観賞に

2014年11月18日 | ミャンマー
■バガン第2日目も午後5時30分から夕陽観賞に出発です。


途中下車で名もない遺跡の撮影です。



左にタッビンニュ寺院、中央に低く金色の仏塔、アーナンダ寺院、右の特徴ある太い仏塔はミンガラー・ゼーディーでしょうか・・・。





畑の向うに建つのはダマヤンジー寺院です。

この仏塔は草で覆われています。

第7代国王ナラパティスィードゥーによる1183年建立のスーラーマニ寺院です。回廊には仏陀の生涯を表す壁画、回廊南には後世コンバウン朝時代の風俗画が描かれています。

二層構造で、下部の基壇は三層、上部の基壇は四層の大型寺院です。

陽は雲に隠れそうです。下車してスーラーマニ寺院を背景に撮影します。




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タチャヒー・パヤーの屋上テラスから夕陽観賞です。
寺院にはたくさんの観光バスが押し寄せてきます。

グーグル・マップで位置関係を見てみました。
右下がタチャヒ・パヤーになり、バガンの主だった仏塔、寺院が西にあり、左上はエーヤーワディー川です。

雲間に赤く夕陽の存在を感じますが、日輪は見えません。





南の方角に、昼間訪れたダマヤズィカ・パヤーがライトアップされました。

テラスで夕陽を待つ人たちです。

残念ながら雲の陰で日輪は姿を見せませんでした。





狭い階段には足元を照らすため、両側にロウソクが灯されています。一列でしか降りることができません。
お疲れさんでした。

西ポワーゾー村からミョデイッ村まで歩く

2014年11月17日 | ミャンマー

ポウパー山からホテルへ戻ります。夕陽観賞までホテルで昼寝タイムです。
バンコクで予約したツアーですが、この旅行会社は旅程表に記載されていない「お昼寝時間」が多すぎ、かつ長すぎます。
わざわざミャンマーまで来て貴重な時間を昼寝するのは惜しく、ホテルの手前3kmあたりで車を降りてバガン東方の遺跡を探索することにします。
まず最初の遺跡です。どの遺跡も前に石碑があって、仏塔や寺院の名前や遺跡番号が書かれているようですが、全てミャンマー語で読めません。
取敢えず、遺跡から遺跡へとジグザグに歩いた順番で写真をアップします。

小高い丘に建つ遺跡です。周りには崩壊した煉瓦が散乱します。

手前には建造物の基礎部分だけが残っています。

外壁の崩れた個所から敷地に入ります。

かなり大きな寺院遺跡です。寺院の入り口は塞がれていて入ることはできません。







身長を超える高さのサボテンです。

ナスビの花によく似ていますが、葉には棘がたくさん生えています。



















畑です。乾季で作物は植えられていません。横断して行きます。よく見ると陶片が散乱しています。

漆喰が塗られた白い仏塔があります。寄って行きます。

祠堂の前にトタン屋根があり、参拝者がある仏塔です。

壁だけ残して崩れ去っています。

大きな仏塔が見えます。仏塔を目指して歩くことにします。

牛車道に出ました。







寄道を繰り返さため、仏塔にはなかなか近づきません。



牛車が来ました。







牛車は仏塔の方向へ去って行きます。

水汲み場があったようです。牛車に載っていたのは水を入れる樽でした。

大きな仏塔に到着です。午後3時25分、歩き出してから1時間が経過しています。

ダマヤーズィカ・パヤーです。第7代国王ナラパティスィードゥー(在位:1174年~1211年)によって1196年に建立されています。五角形の三層基壇に釣鐘状の仏塔が建っています。
この王以降、碑文にビルマ語が用いられ、モン語等は影をひそめました。

グーグル・マップで上空から見ると五角形の基壇の各方向に祠堂を持つ星形寺院になっていて南南東を向いています。
東南の方向には貯水池があります。

さっそく靴を脱ぎ、境内へ入って行きます。

参拝者のための冷水です。

参拝者は皆さん水を飲みに行くようです。
飲料水を持たずに炎天下の歩行で渇ききっていたのですが、やはり生水は避けておきます。

まず仏塔の周りを回ります。



午後3時半、陽射しが照り付けた石畳の上で立ち止まることはできません。足裏を火傷しそうです。





基壇の上に上がってきました。









基壇にはジャータカを描いた陶板です。







どれを見ても持ち帰りたくなるような陶板でした。

ガイドさんに骨董屋を訪ねますかと問われて、観光目的でドルの持ち合わせも少なく断ったのですが、見るだけでも良いので行っておけばよかったと後悔する次第です。

外付けの階段を上り、基壇の上から見るバガン五千坊です。

























参道で土産を売っていた少女です。





参道脇の民家です。

民家から少女がこちらを覗いています。
こんなところをトボトボ歩く日本人は珍しいのでしょう。









ヤギが道路を横断していきます。









円筒形の仏塔が並びます。

ミョデイッ村の入り口まで戻ってきました。午後4時50分です。
2時間20分の散策で非常に疲れました。水掛けの水を浴びていきます。



この後、迎えの車に拾われてホテルまで戻ります。

ピンク・カッシアの花が満開です。タイではガラッパー・プルックと呼びます。