の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

プー・プラ・バート歴史公園で古代人を見る (3)

2014年02月05日 | ウドン・ターニー

「プー・プラ・バート歴史公園」を代表する遺構「ウサー姫の塔」です。

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■民話「ウサ姫とバロット王子」
昔々、プー・プラ・バートの山の近くにムアン・パーンという都市国家があり、国主コン・パーンが統治していました。国主にはウサーという娘がいました。ウサーは山の蓮の花から生まれ、国主の師であった森の隠者が育てていたのを養女にしました。
ウサー姫は成長すると香りの良い、たぐいまれな美女となり、多くの国の王子が求婚に来ましたが、国主は全て断り、山の上に塔を建て娘の教育を森の隠者チャンタに託します。

森の隠者「チャンタ」から教育を受けるウサー姫が暮らした「ホー・ナン・ウサー」(ウサ姫の塔)です。
高さ10m、屋根の大きさは幅5m、長さ7mで、入口と二つの小窓が付いた部屋が上部にあります。
古代は霊媒者、巫女などが住む神聖な場所であったと推定されています。





■ある日、池に泳ぎに出かけたウサー姫は花を摘み、ハンサ鳥(聖鳥)を模った花輪を造ります。そして、花輪に愛を求める呪文をかけて川に流しました。
花輪はムアン・パコの国主の息子バロット王子が治めるムアン・パコウィアン・グアーに流れ着きました。花輪を拾い上げたバロット王子は、さっそく流し主を探す旅に出ます。
王子の一行がムアン・パーンの山に近づくと馬は進むことを止めてしまいます。王子は馬と従者に休息を与え、一人で森へ入っていきました。森をさまよった王子は水浴をするウサー姫を見つけ、花輪の主であることを悟りました。

「ボー・ナム・ナン・ウサー」(ウサー姫の池)
2mの正方形の池で、深さ5mあります。「ウサー姫の塔」から70mの所にあって、姫はここで水浴びをしていました。

■二人は恋におち、コン・パーンの許しを得ずに、欲望によって姦通を犯しました。(表現があまりよくないですが、解説をそのまま訳すればこんな感じです。)

【別の伝承では、バロット王子は遠出で狩りに出かけました。日が暮れバンヤンの木の下で休むことにしました。王子は眠る前にバンヤンの木の精霊に儀式を捧げて敬意を顕しました。
パンヤンの木の精霊はバロット王子をウサー姫のもとへ連れて行き、七夜の間性交をさせ、再びバンヤンの木の下に戻しました。
ウサー姫が起きてバロット王子が既に居ないことに気付き、ひどく嘆き悲しみました。ウサー姫はバロット王子の似顔絵を描き、侍女に恋文を届けさせます。
恋文を受け取ったバロット王子はウサー姫のことを知り、急いで塔に駆けつけ、密かに滞在を重ねます。】

後に、コン・パーン国主は娘とバロット王子の性的関係を知ることになります。激怒した国主はバロット王子を殺害しようとします。しかし、側近たちは、バロット王子の父親が統治するムアン・パコの勢力が強大であるからと諌めます。そこで、コン・パーンはバロット王子に夜明けから明けの明星(ダオ・パーカイ・プルック)が昇る一昼夜で寺院の建立競争を持ち掛けます。もし、競争に負けたら、敗者の首を刎ねることにしました。
国主はムアン・コン・パーンから頑強な労働者をたくさん雇い入れ寺院(ワット・ポータ)建設にかかります。一方のバロット王子は少人数の従者達とゆっくりとした速度で建設しています。心配したウサー姫は王子を助ける一案を思いつき、山の高い木の上に灯明を灯しました。
灯明を見た、国主の労働者達は、明けの明星が昇ったものと思い建設作業を止めてしまいました。
王子はその後も仕上まで建設を続けます。競争に負けたコン・パーンは冷静さを失ってしまいました。

「ワット・ポータ」(義父の寺)、「ポータ」は「妻の父親」という意味でバロット王子からみたコン・パーン国主になります。





岩の下に石仏が安置されています。壁面には仏画が描かれていました。
プー・プラ・バートには石器時代から鉄器時代、ドヴァラヴァディー仏教、クメールへと続く4000年にわたる遺構が残っています。

「ワット・ルーク・クイ」(娘婿の寺)「ルーク・クイ」は娘の夫で、コン・パーン国主からみたバロット王子です。




「ワット・ルーク・クイ」の内部です。ドヴァラヴァディー時代の地方色をおびた仏像、クメール時代の神像が安置されています。手前の台座になっているのはヒンドゥーのヨミです。



■競争に勝ったバロット王子はウサー姫を連れてムアン・パコへ帰ります。ムアン・パコには王子の妻や妾がたくさんいて問題が起きました。
たくさんの妻や妾達は宮廷占星術師と共謀して、バロット王子に禍の前兆があるからと呪文をかけて森へ追いやります。
バロット王子はウサー姫をムアン・パコに留めて森を彷徨います。王子がいなくなると嫉妬深い妻たちにウサー姫は嫌がらせを繰り返され、ムアン・パーンへ逃げ帰ります。
一年後、ムアン・パコに戻ったバロット王子はウサー姫が居なくなったことに気づき、急いでムアン・パーンに駆けつけます。
しかし、ムアン・パーンに戻ったウサー姫は悲しみのうちに既に亡くなっていました。ウサー姫の死を知ったバロット王子も心痛のあまり病で倒れ亡くなってしまいました。
従者達はウサー姫のお墓の隣にバロット王子を埋葬しました。

「ヒープ・ソッブ・ナーン・ウサー」(ウサー姫の棺)です。
民話では、恋愛の破綻で傷心のうちに死んだウサー姫が埋葬されている場所です。

5mX6mの厚めの天井岩の下岩を両端に支柱を残し平らに削り取り小部屋を造っています。
床面積は2.5㎡で宗教儀式に用いられた部屋だと推測されています。

「ヒープ・ソッブ・タオ・バロット」(バロット王子の棺)です。ウサー姫の棺の隣にあります。反対側には「義父の棺」があります。
ウサー姫の後を追うように亡くなったバロット王子が葬られた場所です。

5mX7mの岩が載っています。周りの岩盤には15cmほどの穴がたくさんあります。
野獣から身を守るため棒を立て柵を造っていた。とか、夜間に燈火を灯すための燭台の支柱跡ではないかと言われています。



「ヒープ・ソッブ・ポータ」(義父の棺)です。
寺院建築の競争に敗れて、首を刎ねられたコン・パーン国主の墓です。



全体を見ると、一番遠くに「ウサー姫の塔」があって、隣り合ってコン・パーン、バロット王子、ウサー姫が埋葬されているのが分かります。

岩の間から蘭の花が咲いています。



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「タム・パー」(仏像の岩穴)と名付けれられた、6世紀から11世紀のドヴァラヴァディー時代の磨崖仏です。仏像の彫られた向かいの岩はその後崩れたようです。
仏像の顔は削り取られて、写真のお顔は新しく付けられたものです。

クメールの神像が崩れた岩に押しつぶされています。













「ターム・チャーン」(象の岩穴)、3mX10mの屋根岩の下には象の壁画が描かれています。

線書きされた象の頭部です。

岩の下には池が掘られています。







プー・プラ・バート歴史公園の手前にある案内板です。

ウドン・ターニーはタクシン派団体・反独裁民主戦線(UDD)(俗にいう赤シャツグループ)の発祥の地で、一番の勢力をもっている場所です。
道路沿いにはタクシン元首相のポスターがたくさん並んでいます。

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帰路は「ウドン・ターニー」を経由して、イサーンの玄関口、タイ第二の都市「ナコーン・ラーチャシーマー」に泊まります。
「プー・プラ・バート歴史公園」から宿泊の「シーマー・ターニー・ホテル」まで390kmでした。
ちなみに「シーマー・ターニー・ホテル」は朝食付きで宿泊料1200バーツです。

プー・プラ・バート歴史公園で古代人を見る (2)

2014年02月03日 | ウドン・ターニー
■一帯には68個所の遺跡が発見され、45個所の壁画、23個所の奇岩の加工跡が認められています。

「チャーン・カオ・ナイパーン」(猟師の米の貯蔵庫)下の岩は大きくくり抜かれて部屋が作られています。
絶壁から数十メートル進んだ谷あいの日陰に位置し、岩は苔むしっています。





ピンクの立葵に似た花です。【Cirrhopetalum Lepidum Angiospermae】(ケーンオン)



木の向こうに背の高い岩が見えます。

水の流れる湿地に生えている蘭の仲間です。



「プーン・ヒン・ノーン・ノック・ター」結界石が立てられた聖域です。
名前を直訳すると「ノック・ターという、石柱のある石屋根付の小山」というイサーン語です。



貯水池があります。

歩道のように岩盤の道が続きます。

樹木の間から見えた、背の高い岩です。命名されていないようです。





この岩にも名前がついていません。

上部の岩に描かれた壁画です。

「ボー・ナム・ナン・ウサー」(ウサー姫の池)
7mX8mの岩を1mの高さまで削り、一片が2mの方形貯水槽に加工しています。

左手に池の深さを探る竹竿がありますが、5mの深さがあるそうです。

「マムシ草」のような植物です。実はまだ緑色をしていますが、やがて上部から黄色、朱色、赤色と色を変えていきます。山地を歩くとよく見かけます。【Tuberous Caladium】(ブック)






プー・プラ・バート歴史公園に古代人を見る (1)

2014年01月28日 | ウドン・ターニー
■ウドン・ターニーで一泊しました。
ベトナムを植民地にするフランスは領土拡大をめざし、タイ領のラオス地域を、ラオスの宗主国はベトナムである、という口実をつけて割譲を要求しました。要求を拒否するタイ政府に対してフランス軍はメコン川流域へ進軍、1893年7月13日、フランス海軍は軍艦2隻をチャオプラヤ川を遡上させ、タイ軍と戦闘になります。「パークナム事件」(シャムの危機)です。フランス軍の近代化された軍備にタイ軍は歯が立たず、バンコク港を封鎖したフランスは、メコン川のすべての中洲、及び東岸のラオス地域の割譲、メコン川西岸から25km地域の非武装化、アンコール・ワットがあるシェリムアップ、パッタンバンの割譲等を迫ります。タイは無条件で要求をのみ、賠償金300万フランとタイ東部のチャンタブリー、トラートの占領を認めます。
メコン川から25km後退したタイは、この地に国境警備を置きウドン・ターニーと名付けました。
その後、ベトナム戦争中にはアメリカ軍が基地を置き町は賑わいました。

町ができて僅か130年という都市で、現在は農村で金髪、碧眼の青年が農地を耕していたり、色黒縮れ毛の女性が店番をして流暢なタイ語を話すのに驚かされる以外、見るべきものが何もない都市です。

バンコクとは逆方向になりますが、北西約65kmに「プー・プラ・バート歴史公園」があるので行ってみます。

朝のウドン・ターニーの市街です。

宿泊した「チャルーン・ホテル」の前景です。

ホテルの前で待機していたウドン・ターニーのタクシーです。

■国道22号線を12km北上、国道2021号線を西北西へひたすら走ると、「バーン・プーィ」の町に行きつきます。町中の狭い道路を抜け、道路標識のない道を不安だらけで11km進むとやがて「プー・プラ・バート歴史公園」の看板があります。分かりづらい看板で見落とすと大変なことになりそうです。
国道2012号線の途中で出会った牛の競り市です。大切に育てた牛を売りに出します。

角がかわいい、まだ若い牛達です。

仔牛もいます。

水牛です。

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■「プー・プラ・バート歴史公園」に通じる道路を途中で左折すると「プー・パン」山麓に「プラ・プッタバート・ブア・ボック」という寺院があります。
仏塔は1920年から34年にかけて建立されました。村人がこの地で深さ60cm、長さ1.93m、幅90cmの仏足跡を発見し「ボー・ボック」(涸れない水溜り)と呼ばれ、仏堂(モンドップ)を建立しましたが、1922年に仏塔(プラ・タート・チェディ)に改築されて、新たに仏足石の複製が安置されました。
仏塔の外観です。





仏塔の中には仏足石が祀られています。

巨石の岩陰で僧が勉強をしています。



寺院の敷地内にある奇岩です。下の岩は削られて平らになっています。古代人の住居か儀礼用の祭壇だったのでしょう。





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■「プー・プラ・バート歴史公園」は「パック・ナーム」又は「パック・ノック」と呼ばれるメコン川に注ぐ四本の川の源流がある森林地帯にあって120mから160mの「プー・パン」山の森にあります。村人が森の中で仏足跡を発見したことで「プー・プラ・バート」と呼ばれるようになりました。
公園入口の案内所には小さな展示室があり、寄贈された陶器や発掘され仏像等が展示されています。
寄贈されたラーンサン王国時代の陶器です。

6世紀から11世紀に栄えたドヴァラヴァディー時代の結界石です。

11世紀から14世紀にこの地まで支配を伸ばしたクメールの遺品でしょうか。



砂岩で作られた仏頭です。この地域固有のお顔でしょうか、他に類を見ないお顔です。
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「プー・プラ・バート歴史公園」の「プー・パン」山へ入っていきます。2.5km程のなだらかな山道を歩きます。公園案内所を出て、左の緩やかな道を進みます。
道脇にたくさん咲いていた花です。【Jute Corchorus】(ポーパーン)

先ず遭遇する奇岩です。
100万年前のこの一帯は氷河で覆われていました。岩盤が氷河に浸食され、風化で奇岩が出来上がりました。3000年から2500年前には古代人が住みつき岩壁に壁画を残し、6世紀から11世紀には奇岩を加工して仏像を彫ったり、仏塔に見立て結界石を立て聖域としました。
その後この地域に住んだ村人は、それぞれの奇岩に、この地で伝承されている民話「ウサ姫とバロット王子」にちなんだ名前を付けました。
「コーク・マー・ノイ」(小さな厩舎)と呼ばれる岩です。



周りには結界石が立てられ、屋根になった岩の下は削られ平らになっています。



次の岩で「コーク・マー・タオ・バロット」(バロット王子の厩舎)と命名されています。





「タム・ポージェー」(ポージェーの岩穴)

「タム・ポージェー」の結界石です。表面には彫刻が施されていたようですが、風化が激しくて全くわかりません。



「タム・リシ」(リシの岩穴)

岩壁に壁画が描かれた「タム・ウア、タム・コン」(牡牛の岩穴、人の岩穴)と名付けられた岩です。

水牛の絵です。



古代人です。


古代人の上にも古代人です。

壁画のある岩を別の角度から見ました。下の岩は削り過ぎで、屋根岩を支えきれずに崩れ落ちたようです。

路肩に咲いていた花です。【Drymogtossum Piloseloides Pilicinae】(ウェルマユラー)

岩の間を進みます。

竹に寄生したキノコです。【Polyporus Basidiorus Basidiomycetes】(ヘット・トーマイ)







岩壁に出ました。
「パー・サ・ディ」と呼ばれる所です。

ユネスコ世界文化遺産 バーン・チアン遺跡へ行く

2014年01月16日 | ウドン・ターニー

■バンコクへ戻るコースは幾通りもありますが、今回は「ナコーン・パノム」から国道22号線を西へ「サコン・ナコーン」を経由して、まず「ウドン・ターニー」へ出ることにします。約260kmの距離です。「ウドン・ターニー」からは国道2号線を南下して「ナコーン・ラーチャシーマー」、「サラブリー」、「アウター・リング道路」でバンコクに入ります。ウドン・ターニーからバンコクまでは約590kmです。
帰路の沿線を紹介します。

「ロイ・ルア・ファイ」(灯明舟流し)の翌日のメコン川は昨日の喧騒もなく静まり返っています。

ベトナム時計台です。ベトナム戦争で戦禍を逃れてこの地へ来たベトナム人が、戦争終結後、帰国するにあたり、受け入れてくれたタイに感謝して1960年に寄贈したものです。この一帯にはベトナム戦争以前からもたくさんのベトナム人が移住しており、市街南部にはベトナム独立の父、ホー・チ・ミンがフランス軍の追及を逃れて、1928年から2年間隠れ住んだ家があり、記念館として公開されています。



道路標識が示す通り、ベトナムまでは145kmしかありません。バンコクまで最短で740kmです。中国までと大差がありません。

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国道22号線を35km程進むと「ワット・プラタート・マハーチャイ」という案内標識があり、寄ってみました。幹線道路から2km程はいった「パラ・パック」の村にあります。
お寺の縁起は書かれていないのでわかりませんが、水曜日生まれの人が参拝する仏塔で、商売に大変なご利益があるそうです。
ナコーン・パノムは生まれた曜日毎にお参りする仏塔が分かれているようです。「プラタート・パノム」はさる年生まれの仏塔ですが、曜日別では日曜日生まれの人、「プラタート・ター・ウテーン」は金曜日、タイの三大美人を出生している町「レーヌ・ナコーン」の「プラタート・レーヌ」は月曜日というように七曜日の仏塔が定められています。
そういえば、灯明舟流しの会場に七基の仏塔のミニチュアが安置されていましたが、あれはお祭りに来た人が各地に点在する仏塔まで足を運ばなくてもよいように、との配慮からだったのでしょう。




この建物は博物館になっています。





大太鼓です。模様が面白くアップしました。

大太鼓の側面です。

国道22号線を西へ進み、サコン・ナコーンへ入ると「クッスッマン」の町役場が国道沿いにあって、敷地内に「タイ・ソー文化センター」があります。この地域の出土品や民具を展示した小さな博物館です。

タイの博物館は入館すると、まず国王なり、その地のかっての国主、または仏像が祀られています。「タイ・ソー文化センター」にも国主「アラン・アサー」と明示した像があります。人物の詳細は没年1924年ぐらいしかわかりません。

上段はラーンサン時代の古銭、下段はソンクラーム川流域陶器です。



発掘した壺であることと、発掘者の名前が書かれています。





「ムアン・カオ」の寺院跡から出土した500年前の仏像という説明がありますが、様式から見てもっと後の時代の仏像でしょう。

民具です。他に薬味などを入れる木箱がありました。

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■「ウドン・ターニー」の手前50kmに1992年、ユネスコ世界文化遺産に登録された前史時代墓墳遺構のバーン・チアン遺跡があります。
発掘当時は7000年前の世界最古の青銅器文明と話題になったそうですが、その後の調査で紀元前3600年から紀元前1000年の新石器時代、紀元前1000年から紀元前300年の青銅器時代、紀元前300年から西暦200年までの鉄器時代へと連なる文明跡と確認されています。
1967年に発掘を行ったペンシルベニア大学が幾層にも重なる遺跡を大雑把に掘り返し、7000年前から5000年前の遺跡と誤った年代を発表したようです。

バーン・チアン村の入り口にあるモニュメントで、バーン・チアンで発掘された幾何学模様の彩文土器があがっています
バーン・チアンはソンクラーム川上流の「ナ・カーム川」と「バン川」の間にある東西1.5km、幅500m程の村です。2本の川は村の下流で合流します。

出土品を展示する「バーン・チアン国立博物館」です。





「バーン・チアン」で有名なのは墳墓から副葬品として大量に出土した彩文土器です。幾何学模様の描かれた彩文土器は紀元前300年から西暦200年頃に造られています。
バーン・チアンを中心にウドン・ターニー、サコン・ナコーンのメコン川支流の河川沿いの土地で彩文土器や先史時代の遺構が124カ所確認されています。
バーン・チアンから少し離れた土地の知人の話でも、昔は農地から出土した土器片を建築材の補助資材として煉瓦の隙間に埋めていたようです。
バーン・チアンも同様で地元の人は出土した土器を種入れなどに使っていたようですが、現在は発掘状態のままで保存展示されている「ワット・ポー・シ・ナイ」近くの医師が、1957年に自宅を建設中に発掘された3個の壊れていない彩文土器を地元の小学校の校長に贈ったのが契機で、校長はその後発掘される土器を小学校に収集して展示したのが始まりのようです。

1966年イサーン地域の人類学研究のため現地を訪れたハーバード大学の学生「ステファン・ヤング」が木の根に躓き、倒れた所に彩文土器片が露出しており、掘り返したのが大発見となったという逸話がついています。
彼は土器片をペンシルベニア大学に送り調査を依頼、1967年の発掘となったようです。
ペンシルベニア大学は1974年、75年に芸術局と共にに再調査をおこなっています。





黒色刻文土器は初期の紀元前3600年から紀元前2500年頃の新石器時代に造られていたようです。

奥は儀礼用の水牛でしょうか。その横には乳棒、手前にはるつぼと青色のガラス玉が展示されています。
加工して装身具に使った貝殻やガラス玉はこの地方にはなく、紀元前3000年頃にはメコン川を使った交易ネットワークでもたらされたようです。特に、インドから輸入されたガラス玉がイサーン北部まで分布しています。
(ガラスはインドからという先入観で書きましたが、タイでもガラスの生産が行われていた可能性があります。)

銅を溶かするつぼです。発掘された銅の純度は85~90%で10~15%の錫を入れ融点を下げているようです。
原料となる銅はバーン・チアン北西約100kmのメコン川沿いのノーン・カーイ県、サムコーンにあるプーロン遺跡で紀元前1000年頃に採掘が始まっています。「プーロン」では銅鉱石を石製ハンマーで採掘した坑道跡や鉱石の粉砕、製錬、そして斧の鋳型も発見されており、製品の鋳造まで行われていたようです。こうして生産された青銅のインゴットや製品はメコン川やメコン川支流を利用して運搬されたようです。
また、発掘された青銅装身具や鉄製装身具には麻、綿で織られて染色された布片が付着しています。

発掘された人骨も展示されています。
人骨からはどのような人種が居住していたのかは特定できないようです。



発掘時の様子が復元されています。



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博物館前には土器の複製品が売る土産物店が並んでいます。大きめの壺でも200バーツ前後と、非常に安価です。



博物館から出て左へ1km程行った寺院(ワット・ポー・シー・ナイ)の境内に発掘した状態のままが展示されています。入館すると係員が何かごそごそと探しているなと思ったら、しばらくして中国語の解説が流れ出しました。
中国人でないことを説明して、放送を中止してもらいました。



ずいぶん浅い地層に遺跡があります。
余談ながら2003年にこの一帯を襲った大洪水は、この遺跡にも大被害をもたらしています。発掘時の状態とはかなり異なったものになっているのではないでしょうか。サンカロークの古窯址も大量のグラスウールで新しく作り直していましたが、掘り下げた土の表面は自然のようには見えません。
国立博物館は洪水被害によって大改造され、展示品も増加し、明るく見やすくなっていました。





人骨の上や周りは、副葬品の土器で埋め尽くすのが特徴のようです。





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宿泊はウドン・ターニー市街の外れにある「チャルーン・ホテル」です。一泊朝食付きで900バーツです。ホテルの窓から見る夕景です。