の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

ペックのコレクション展を見に行く(1)

2015年05月31日 | バンコク

バンコクの北にあるチャト・チャックへやって来ました。土、日曜日だけ営業しているウィークエンド・マーケットがあり、高架鉄道(BTS)では終点のモーチット駅から歩いて行けます。
モーチット駅には車両整備の引き込み線があり、駅と整備場の間が無料の駐車場として開放されています。数千台は駐車できる巨大な駐車場ですが午前10時を過ぎると満車になります。



BTSへの連絡架橋を通りパホンヨーティン通りを横切ります。
モーチット駅の向かいはチャトチャック公園です。

チャトチャック公園の道路沿いはタイの桜が満開です。

桜の木の下では女性たちが記念撮影中です。





遠目には淡いピンクの花が桜のように見え、タイに暮らす日本人は桜に喩えて母国を偲んでいますが、近寄って見る花姿は、全く別物です。

タイでは「ションプー・パンティップ」と呼ばれる「ノウゼンカズラ科」の落葉樹です。「モモイロノウゼン」、「ローズ・トランペット・ツリー」とも呼ばれベネズエラが原産地で樹高は8mから15mになります。

公園の中には、同じ「ノウゼンカズラ科」で黄色い色が鮮やかな「ルアン・インディア」も満開です。「コガネノウゼン」、「ゴールデン・トランペット・ツリー」とも呼ばれブラジル原産でベネズエラの国花に指定されているそうです。


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ウィークエンド・マーケットの外周道路ではこんな薬も売られています。ひと箱150バーツです。



ウィークエンド・マーケットの敷地に入ってきました。公称15000店舗が縦横にはしる路地に店を開いています。

ウィークエンド・マーケット内には飲食店から民芸品、工芸品、陶磁器、家具、服飾店から犬、猫、鳥、魚などのペットショップ、ありとあらゆる品目の店があります。
店の移り変わりも早く、最近は衣類を扱う店が増えているようです。



まず朝食です。

カノム・チーンを頂きます。

靴もあります。価格は正規品の2割ぐらいです。





こんなステッカーが椅子の背もたれに貼ってありました。誰に向けたメッセージでしょうか。
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海上がりのベトナム安南の青花小壺が並んでいます。15世紀の生産されたもので、鉄分の少ない白い胎土に白化粧掛けをし青花で絵付けされています。

素焼きの土器はロッブリーで出土した、紀元前1000年の物です。
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長い付き合いの骨董店にやって来ました。土、日で予定がないときはこの店へ遊びに来ます。すると親父さんは商品を持って得意先へ出て行き、数時間店番をすることになります。価格を聞くお客はそこそこいるのですが、めったに売れることはありません。価格表示があるわけではなく、売価は当方に一任されており、高すぎる値段を答えているつもりもないのですが・・・。

今日は共通の友人が、「リバー・シティ」でコレクションの展示会をしているので、一緒に見に行くために寄りました。

親父さん出かける準備の間に写真撮影です。
白褐釉の騎馬兵士の像です。右の筒状になっているのは象の脚です。戦闘で象は重要な戦力で、将が乗っていますが、強力な力を持つ象の弱点は脚です。そのため四肢を守るため兵が配置されます。
残存する騎馬兵の大きさから、かなり大きな象だったことが推察できますが、残念ながら象は破損しています。

青磁、褐釉掛け分けのライオン像です。



ミャンマーの青磁です。何に使われたものかよくわかりません。



宋胡録の柿合子です。タイで果物の女王と呼ばれるマンゴスチンのヘタが持ち手にデザインされています。
15世紀のパーヤン窯で作られ、海外へ大量に輸出されました。東南アジア島嶼部はもとより、南蛮貿易によって日本へも大量にもたらされ、茶人の間でマンゴスチンのヘタを柿のヘタに見立てて、柿香合として愛用されたようです。





パーヤン窯で焼かれた白釉褐彩蓋付小壺です。15世紀から16世紀に作られたものです。本体に対して蓋が少し大きすぎます。近い模様、焼き上がりの近いものを組み合わせています。





ミャンマーの白釉皿です。高台内には窯印がはいっています。


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シー・プラヤーのチャオプラヤー川畔に建つ「リバー・シティ」へは地下鉄でフアラムポーン駅まで出て、トゥクトゥクで向かうことにします。



フアラムポーン駅に到着です。



出口へ向かう通路には、タイの公共交通機関の歴史がパネル展示されています。

フアラムポーン駅から「リバー・シティ」までは1km程ですが、どのトゥクトゥクも運賃を吹っかけてきます。そのなかで一番安かったトゥクトゥクの運ちゃんです。
でもタクシーの1.5倍はしています。
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「リバー・シティ」到着です。5階建のショッピングセンターですが、2階から4階は骨董店が入っています。オーナーは華人が多く、扱う骨董品も中国骨董が多いようです。
タイの陶磁では真作もありますが、贋作もたくさん置いているようです。



周りには一流ホテルが並びます。リバー・シティの隣はシェラトンホテル、川向うはヒルトンホテルです。左端はペニンシュラ・バンコクです。



シー・プラヤー船着場です。渡し船が出ています。チャオプラヤ川を行きかう定期船や、ディナー・クルーズの船着場もあります。

1階グラウンド・ホールでペックのコレクション「サンカローク・スコータイ」展が開催されています。


堺市博物館 「タイの古陶磁 Ⅲ」(2)

2015年05月22日 | 博物館

企画展の解説書です。

円筒形をした博物館の最後の展示室で企画展「タイの古陶磁 Ⅲ」が催されています。

まず個人コレクションの展示からです。パネルにはタイの歴史と日本の関係が解説されています。


解説ではシー・サチャナライ窯の「無釉・波状文四耳大壺」となっています。
非常に珍しい広口壺です。
焼締の壺は骨壺として土中に埋められていた壺もありますが、それらは底面に孔が穿ってあります。用途はわかりませんが、展示品は側面に孔があります。


シー・サチャナライ窯の「無釉・花文押型四耳壺」となっていますが、口縁部の処理、首部の長さ、底周縁の張り出し形状、そして決定的な印花文。全てスパンブリーのバン・バーンプン窯の特徴を示しています。
バン・バーンプン窯はター・チン川の畔で1100年代に製陶が始まったとされており、同時代のブリラムの窯構造との類似が指摘されています。西漸するクメールとチャンセーンのモンの器体造りの技術が融合して発展したものかも知れません。また、廃窯は1500年代と考えられています。

やはりシー・サチャナライ窯の「黒釉大乳瓶(ケンディ) 15世紀」となっています。
巨大なケンディで厚めの黒釉が施されています。外観からはシー・サチャナライよりシンブリーに近いようにも見受けます。

シンブリーのメナム・ノイ窯の「褐釉四耳壺 15~16世紀」です。
1370年頃にスコータイの陶工や中国人陶工がシンブリーに移住、メナム・ノイで生産を始めます。明の海禁令でタイの陶器は1380年頃から第1回目の輸出の最盛期に入ります。

メナム・ノイ窯の「褐釉広口壺 15~16世紀」です。
展示されているタイの陶器は以上の5点です。
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次のコーナーに20点のミャンマーの優品が展示されています。


1287年にモン族によって建国されたペグー王朝の寺院壁面を飾った陶板です。
王都ペグーは1599年に侵略したビルマ族によって徹底的に破壊されます。
いつごろペグーの寺院から持ち出されたのか分かりませんが、ミャンマー国境のタノン・トンチャイ山系の墓墳からも大量に出土したようです。


やはりモン族によってヤンゴンの南西、トワンテで焼成された青磁です。


1900年代の末に初めて知られるようになった、白釉緑彩皿です。錫鉛釉に銅で緑彩が描かれています。材質の化学分析でミャンマーで焼成されたことが分かっていますが、窯の所在地はまだ特定されていません。おそらくペグーの周辺でしょう。








白釉緑彩花文壺

青磁縞文皿(メーソット出土)




白釉皿(メーソット出土)

白釉花文輪花皿















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展示品を解説したパンフレットです。日本で初めてチャンパの陶片が出土したという内容ですが、交易都市として栄えたホイアンにはアユタヤと同規模の日本人町もあり、日本との関係も深かったと思われるのに初発見とは意外でした。

堺環濠都市遺跡から出土の17世紀初期のミャンマーの焼締壺です。




展示品の解説は「メナムノイ窯 四耳壺 16世紀後半」、「堺環濠遺跡出土品で、この壺が出土した16世紀後半頃には、福岡市博多遺跡群や大分市大友府内跡からメナムノイ窯の四耳壺が多数出土しています。
大友宗麟の南蛮貿易によりポルトガル船など通じて多くの物資が両地に輸入されていました。
この四耳壺も両地を経由して堺へ運び込まれた可能性もあります。」と書かれています。

展示品の解説は「メナムノイ窯 焼締壺 17世紀」、この四耳壺は、「慶長20年(1615年)の焼失後に町を復興するためにほどこされて整地土の中から他の陶磁器と共に出土しています。
慶長20年で出土するメナムノイ窯の四耳壺よりは、耳の形など新しい様相をもっています。」となっています。





























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仏画の由来が書かれています。
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タイから伝来の青銅仏です。

学芸講座と展示品の解説が午後2時から3時半までありました。

帰りに見かけたいたすけ古墳出土の冑形埴輪で、堺市の文化財保護のシンボルマーク「衝角付冑形埴輪」のモニュメントです。

堺市博物館 「タイの古陶磁 Ⅲ」(1)

2015年05月21日 | 博物館

ネット検索で偶然「堺市博物館」で企画展「タイの古陶磁 Ⅲ ―アユタヤ王朝とミャンマーの優品―」が開催されているのを知り、やって来ました。

「タイの古陶磁 Ⅲ」が示すように、2012年、13年に続く3回目の個人コレクションの展示会のようです。
学芸講座もあるということで4月12日(日曜日)の訪問、入館料は200円と良心的な価格です。



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展示室の入口に仁徳天皇陵古墳を始め、44基の古墳が現存する百舌鳥古墳群と、その東方10kmで120基を超える古市古墳群の航空写真が大きなパネルで掲示されています。
写真は、長辺840m、最大幅654mで外周2718mの仁徳天皇陵古墳と、その西南にある履中天皇陵古墳を中心に切り取ってみました。堺市博物館は両古墳の間に位置します。

第一室の中央には明治5年に崩れた仁徳天皇陵古墳の前方部、前面の斜面で発見された凝灰石の石棺と銅に金メッキを施された甲冑のレプリカが展示されています。
石棺は長さ2.7m、幅1・5m、高さ1.6mで重量は推定で30トンになります。
石棺は開封調査をされず、埋め戻されたようです。

4世紀後半の乳岡古墳から出土の石製腕輪です。

履中天皇陵古墳の南400mに位置する大塚山古墳から出土の甲冑です。
大塚山古墳は5世紀前半に築造された、全長約168mの百舌鳥古墳群では5番目の大きさを誇る巨大な前方後円墳でしたが、昭和24年から採土工事が始まり、昭和60年には墳丘が消え、住宅地に変貌してしまいました。
先に44基の百舌鳥古墳群と書きましたが、この一帯には100基を超える古墳があったようですが、半数以上が開発によって潰されたようです。

大塚山古墳出土の鉄製刀剣です。

大塚山古墳出土の銅鏡「斜縁二神二獣鏡」(左)、「斜縁三神四獣鏡」(右)「筒型石製品(玉杖)」です。(キャプションによる)

大塚山古墳出土の冑です。

大塚山古墳出土の勾玉、管玉、ガラス玉などの装身具です。

湯の山古墳から出土の「変形四獣鏡」と鉄剣です。5世紀中から後期のものです。
ノーンカイの銅鉱山で記載しましたが、タイで出土している青銅器や鉄器は装身具や農耕用具が大半でしたが、日本では刀剣などの武具が多いようです。

仁徳天皇陵古墳より出土した巫女形埴輪の複製品です。

仁徳天皇陵古墳より出土の鹿形埴輪と馬形埴輪の複製品です。

5世紀前半に築造された全長146mの前方後円墳、いたすけ古墳出土の「衝角付冑形埴輪(しょうかくつきかぶとがたはにわ)」です。
いたすけ古墳は昭和30年に住宅開発で壊されそうになりましたが、考古学者や市民を中心とした運動で古墳は買収、保存されることになり、翌年には国の史跡に指定されました。
これは、全国各地で起きた遺跡保存運動の先駆けとして、その後の埋蔵文化財保護にも大きな影響を与えました。後円部から出土した衝角付冑形埴輪は堺市の文化保護のシンボルとなりました。(展示解説文より)

泉北丘陵一帯は古代では茅淳県陶邑(ちぬのあがたすえむら)と呼ばれ、約500年続いた大窯業生産地でした。最初の築窯は4世紀後半から5世紀前半頃で、渡来人が伝えたロクロで成形し、穴窯で焼いた須恵器が生産されていました。
窯跡や古墳から出土した須恵器が展示されています。







窯跡出土の5世紀前半の須恵器です。











四ッ池遺跡から出土の5世紀前半に作られた須恵器です。

5世紀前半に造られていたコーヒーカップです。古代日本にこんな器形があったのは驚きです。

5世紀中期の大仙中町遺跡出土の須恵器、土師器です。写真には写っていないですが、手前の碗も把手付です。

墳丘や外堤に並べられた円筒形埴輪です。
古墳を造るのに10トンダンプカーで27万台相当の土が運ばれ、土止めにダンプ1300台分、およそ14000トンの葺石が墳丘に敷き詰められ、15000本の埴輪が巡らされたようです。
当時の日本の総人口は600万人で、仁徳天皇陵古墳築造には延べ人数680万人が従事、1日2000人が働いたと仮定して、完成までに15年8ヶ月の歳月を要すると推定されています。

6世紀中期の日置荘西町窯跡群から出土の埴輪です。






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次の展示室は「自由都市 堺」、南蛮貿易で活躍した堺商人の中世になります。
「南蛮唐草文入り総象嵌火縄銃―銘・芝辻小兵衛清正(花押)」、堺の鉄砲鍛冶で1679年(延宝7年)に尾張藩御用鉄砲鍛冶として召抱かえられた、芝辻小兵衛造の火縄銃です。

1543年に種子島に漂着したポルトガル人によって、初めて鉄砲が伝えられると、その翌年には堺商人橘屋又三郎がその製造方法を堺に持ち帰ったと伝えられています。(展示解説文より)









16世紀末から17世紀初期の景徳鎮窯で焼かれた「青花花鳥文盤」です。





後期アユタヤ時代のシンブリー、メナム・ノイ窯の壺です。南蛮貿易によって日本へもたらされました。
展示品の解説文です。

常設の最後の部屋は「祈り、祭り」で堺に伝わる仏像、祭りに使われた鉾が復元されています。
仏像は撮影禁止で、写真はありません。