の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

シー・コーラプーム フェスティバル

2014年11月27日 | スリン

11月14、15日にシー・コーラプームで「シー・コーラプーム神殿、千年の伝説祭・2014」が開催されました。スリンの県庁所在地では14日から16日までイーサンの三大祭りの一つ、スリン象祭りが開催されますが、訪問者が多く道路は大渋滞、大混乱しています。
混乱を避けてスリンからさらに40km東にあるシー・コーラプームまで行ってきました。前日はバンコクの東方80kmにあるチャチョェンサオで宿泊し、午前6時に出発です。国道304号線で二山越えパク・トーン・チャイに出て国道24号線をひたすら東へ、国道214号線でスリンへ、そして国道226号線でシー・コーラプームまで420kmの走行予定です。

国道304号線をカビンブリーを過ぎたあたりです。雨季は、とおに終わっていますが、青空がのぞきません。
この一週間前にローイ・クラトーンがあり、タークまで行ってきたのですが、やはり大雨でした。

プラチンブリー側の山道の登り口付近の2車線道路が4車線道路になったあたりに新しく出来たガソリン・スタンドがあって休憩です。

午前8時、朝食です。

バーミー・ナームを食べます。

ガソリン・スタンドの裏に人工池を囲んだ宿泊施設を建設中です。




■池の周りに生えた雑草の花を写しました。
「アメリカ・ハナグルマ」





「クウシンサイ(空心菜)」「アサガオナ」、タイでは「パック・ブーン」の花です。
い湿地近くの地表や池、流れのない川などいたる所を覆うように自生しており、葉や茎は食材となります。

「クウシンサイ」の花ですが、白花です。

「ベンガルヤハズカズラ」(ソーイ・インタニン=サファイアの首飾り)です。
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フアイ・ナーム・キアオの休憩所でトイレ中継です。

「ムラサキ・モククワンジュ」「ウスベニ・ハカマノキ」、葉の形から「羊蹄木」と呼ばれています。タイでは「チョン・コー」と呼ばれています。

タイでは「ダー・ラー」と呼ばれる「トーチ・ジンジャー」です。
ショウガの仲間です。この花はピンク色をしていますが、良く見かけるのは真紅色をしています。肉厚の花びらは食用になります。



マメの仲間のようです。「チョウマメモドキ」(トゥア・ライ)です。

「スズメナスビ」です。一応小さな実もなっています。

「ヒメノカスリ」「スパイダー・リリー」、タイでは「パラップ・プルーン・ティン・ペット」と呼ばれています。

パパイヤの木です。売られているパパイヤの果実よりかなり短い実です。

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シー・コラプームに到着です。





「プラサート・シー・コラプーム」です。
12世紀の第18代クメール王、スールヤヴァルマン2世(在位:1113年~1150年)時代の建物です。25mX26m、高さ1.5mのラテライト製基壇の上に、煉瓦造りの中央祠堂と四隅に祠堂を配置しています。
中央祠堂は塔上部が崩壊していますが、まぐさ石と入口柱に素晴らしい彫刻が残っています。

16世紀のアユタヤ時代に仏教寺院に改造されました。



まぐさ石の10本腕のシヴァ神像です。

シヴァ神の下に彫られた神々の像です。

ピラスター(付柱)下部に彫られたアプサラ像です。

破風横のナーガとマカラの像です。



とりあえず宿泊場所を確保しようと、地区の役員の方に尋ねると、単車に乗ってきている観光案内の人にホテルまで先導するように指示をしてくれました。

案内された遺跡の裏にあるホテルです。荷物を置いてすぐに出かけます。まずガソリンスタンドで飲料水を購入します。






「ルリマツリ」です。



「ジョウゴバナ」「ヘリトリオシベ」です。

「ピンク・ノウゼンカズラ」

「ブンガー・サー・リー」木は15mぐらいまで成長します。

「インド・コルク・ツリー」タイ語は「ビープ」25mにもなる高木です。花は甘い香りがします。 

その後、お礼を兼ねて遺跡へ戻ります。シー・コーラプームは絣織の産地で実演中です。





樹脂紐を使っていますが、糸を取り上げてから結び終えるまで実に素早い作業です。

染め上がった糸です。

絹糸です。タイのカイコは黄色い繭が多いようです。

天然染料で染めた生地が一つだけあったので購入しました。価格は合成染料の倍です。

彼女たちが分業で織に従事しているそうです。
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遺跡の基壇に設けられた舞台で練習をしています。





















午後5時、警備の警官たちがやって来ました。警備分担の打ち合わせ中です。

こちらは午後8時からのショーに出演するチビッ子たちです。

前から4列目の通路に面した良い席が取れました。場所の確認をしていると警備のお巡りさんやって来て、通路からの撮影は良いが、舞台の上に登って撮影しないように注意を受けました。舞台に昇るという非常識なことは思いもつかなかったのですが・・・。





開演は午後8時、まだまだまだ時間があります。とりあえず腹ごしらえです。



メリーゴーランドと回転車も営業しています。いつも不思議なのがどのようにして運搬するのでしょう。
見ていてわかったのは、遊技代が1回、30バーツで少し高額ですが、時間は無制限のようです。乗っている人が、飽きて降りると言うまで回り続けるようです。


東南アジア陶磁器博物館の再開館記念式典

2014年11月24日 | 博物館


写真はタイの清涼飲料水です。タイでは栄養ドリンクになります。中央の黄色いボトルは「M-150」(エム-ローイハーシップ)150ml瓶、30円で販売されています。左はタイ語で書かれていますが、ご存じ「リポビタン-D」100ml、36円、右は「M-150」と共に日本へも進出したスポーツ・ドリンク「シャーク」250ml、90円で販売されています。
いずれもタイの消費財メーカー「オソトサパー社」の製品で、先代会長スラット・オーサターヌクロ氏(1930年~2008年)が商品化しています。タイは世界一の栄養ドリンク大国と言われており、コンビニの冷蔵庫には種々多様な栄養ドリンクが並んでいます。そんな中にあって「M-150」はシェア65%を誇る売れっ子商品です。
疲労回復のため、労働者や運転手が好んで飲むそうです。カフェインが多少含まれているため眠気覚ましにもいいようです。
これは、宣伝文句をすぐに信じ、自己暗示に掛かりやすいタイ人の特質によるものだと思います。
午後3時以降は缶コーヒーを飲まないと言う人がたくさんいます。なぜなら、夜、寝られなくなるからだそうです。まず日本人には考えられない発想です。

写真はバンコク大学ランシット学舎です。
スラット氏は1962年にタイに初めての私立大学、バンコク大学を創立しました。現在の在学生は28,000人を有するマンモス大学に成長しました。

大学構内の風景です。国立大学とは違って、結構自由な学風があるようです。また、女子大生のスカート丈が、各大学と比較して一番短いので有名です。










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スラット氏は父親が明、清の染付磁器のコレクターであった影響を受け、タイの古陶器に興味を持ち蒐集を始めます。1962年に王宮前広場で初めてサワンカロークの青磁壺を入手しました。1983、84年にオムコイからメソート、ウムパンにかけてのタノン・トンチャイ山系で山岳民族がスコータイ、アユタヤ時代の墳墓遺跡から古陶磁器を発掘します。発掘品は考古学的調査もされないまま骨董市場へ流れます。氏は発掘品を精力的に収集しますが、発掘された美品の50%は日本へ流出した、と口惜しがります。
1987年にオーソトサパー社の2階に古陶磁器のミニ博物館を開設します。
2002年は2000点のコレクションをバンコク大学へ寄贈、横焔式地下窯をイメージした半地下の「東南アジア陶磁器博物館」が開設されます。
2011年にタイを襲った大洪水はバンコク大学も水没させ、半地下に設立された東南アジア博物館は3カ月間水中に没してしまいます。

2014年11月21日、3年ぶりの再開館となり、セレモニーが開催されました。

写真は再開に伴う記念講演会の案内板です。

地下に「東南アジア陶磁器博物館」があります。横焔式地下窯を意識されたようです。

博物館の前には窯が復元されています。スラット氏が積極的に発掘調査されたカロンやワンヌア地区の古窯出土品が配置されています。



ワンヌア地区出土の陶器が並べてあります。




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いきなり昼食の写真です。




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受付をしていたお嬢さんたちです。
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午後3時15分、講演会は終わり、立食パーティーとなります。










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学生によるスコータイの伝統舞踊が演じられます。










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スラット氏の写真を横に学長の挨拶です。

ドクター・パリワット氏のスラット氏と東南アジア陶磁器博物館の歴史が説明されます。

山岳民族による発掘現場です。

オムコイの発掘現場へ向う道路です。一般人の立ち入りを拒絶するような道で、調査ができないまま墳墓は掘り尽されてしまいました。

オーソトサパー社の2階に開設された博物館です。

博物館内での在りし日のスラット氏とパリワット氏です。

サンカンペーン窯の多様な贋作です。チェンマイの骨董商によって作られたあと絵です。(2015年2月16日・誤記訂正しました。)

そして、2011年の大洪水です。

改装された展示室の扉が開きます。



スコータイの鉄絵双魚文皿です。

スコータイの皿です。

スコータイ窯の碗です。

サンカローク、漢字では「宋胡録」と書かれます。
パ・ヤーン窯の鉄絵蓋付小壺です。

写真の容器で灯明を灯します。

水差しです。

白褐彩唐草文水差し。

気になった壺を2点撮影しました。



パーン窯の青磁花文皿です。

同じくパーン窯の青磁皿です。

カロン窯の製品です。





カロンの青磁花文皿です。非常に薄く作られているため完品を見ることはなかなかできません。

カロンの黄釉皿です。

ワンヌア窯の青磁皿です。

サンカーンペーン窯の魚文皿です。

初期コ・ノーイ窯のモン陶の青磁台鉢です。



コ・ノーイ窯の鉄絵皿です。見込みはナマズと鳥、回りには双魚と鳥が描かれています。







東南アジア陶磁器博物館の重要展示物の一つ、青磁騎象兵士です。弱点である象の足を兵士が守ります。青磁の発色が非常にきれいな水色です。

クメールの象形壺です。青磁の発色が傑作です。

パー・ヤン窯の天人像です。

ミャンマーの白釉緑彩鉢です。非常に大型の鉢です。

カロン窯の壺です。

中国、元の青磁皿です。

やはり元の染付です。

タイの北方窯に影響を与えた模様が如実に分る皿です。



サンカローク窯の小型青磁瓶です。

スコータイの花文皿、日輪との意見もあります。

パー・ヤン窯の鉄絵蓋付小壺です。

パー・ヤンの小壺です。褐釉の発色が良くないです。

ミャンマーの白釉緑彩鳥文皿です。
タノン・トンチャイ山脈で出土して初めて世に知られるようになりました。まだ、どこで焼かれたのかは分かっていません。
モン族が製作に携わったのだと思いますが、サンカロークでも製陶に携わったのは、高い文化を持っていたモン族だといわれています。



川フグの瓶です。

ミャンマーの青磁麒麟文皿です。他では見たことがありません。今後ミャンマーが開放され、ビルマ族以外の遺跡や窯址が調査されればどこで焼かれたのか明らかになるでしょう。







記念品の青磁皿を頂き帰路に着きます。

スラット氏は政治にも参加し、政党党首や商務大臣、運輸大臣を務めますが、70歳で政治や事業から引退し、若いころの夢であった写真撮影に時間を費やします。どこか哀愁を帯びたバンコクの下町風景を撮影した写真は有名です。

金曜日の夜のバンコクは大渋滞です。
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洪水前の2011年9月24日に訪れた写真です。再開後の展示は洪水前と全く同じでした。



難破船の積み荷を再現していますが、以前の方が散乱する陶磁器が多かったようです。







展示ケースに穴があって、展示品に触れることができます。



クメールの象形壺ですが、この時の写真が良く写っているのでアップしておきます。



売店で買った絵葉書です。





愛想の良いガードマンでした。




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その後、アユタヤの洪水状況を見に行きました。幹線道路から外れた集落はどこも冠水で孤立しています。

被害者救助のため陸軍が出動しています。

軍用車で孤立した集落へ飲料水、食料を届けます。
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洪水後の2012年7月14日に訪れた時の写真です。
柱の下部が茶色く汚れていますが、水の溜まっていた高さです。





かっての展示室です。展示品は水が押し寄せる前に避難したようです。



窯にも草が茂っています。
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2011年11月20日の写真です。
洪水で不通となったバンコクから北へ向かう道路のうち、ドン・ムアン有料道路が通行できるようになったと言うので出かけてきました。
ドン・ムアン空港です。「ドン」とは、「雨期でも冠水しない小高い土地」と言う意味で、かっての国際空港であったドン・ムアン空港は小高い土地に造られたようですが、写真の有様です。
ちなみにバンコク大学は空港の北13kmの所にあります。

手前には水没した乗用車の屋根がのぞいています。

こちらの駐機場は機体まで水が来ています。

バンコク大学の約2km南です。運河ではありません。
路地奥から表道りまで舟で人を運ぶ商売が繁盛しています。









後方の柱が水垢で汚れていますが、1m近く水が引いたようでが、まだ大人の腰辺りまでは冠水しています。



水に浸かっているバンコク大学です。門は閉ざされています。

ヤンゴン市内見物、そしてバンコクへ

2014年11月22日 | ミャンマー



昼食です。シュエダゴン・パヤーから西方のさほど遠くない、洋館を改装したパドンマー・レストランへ行きます。
感じのよい洋館でしたが何故か建物の写真がありません。

レストランの前庭です。

画題はシャン族の出家です。




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食後はヤンゴン川へ向かいます。







船着場です。対岸は焼き物の町トワンティです。



船荷の積み下ろしをしています。大きな袋を三段重ねで運んでいます。荷の中身ははっきりとは分かりませんが、黒く汚れた袋や人夫の様子から察すると炭のようです。



積み下ろしが終わった後は川へ飛び込み、汗を流していました。



ヤンゴン川に沿ったストランド道りにはイギリス統治時代の建物が残り、現在も活用されています。

1939年建造の旧ベンガル銀行です。スーレー・パヤー通りとの三叉路に建っています。



北の方向にスーレー・パヤーが見えます。

赤煉瓦の建物はアパートのようです。

ヤンゴン管区の裁判所です。





赤煉瓦は通関局、朱い三角屋根は港湾局の建物です。

ヤンゴンの迎賓館と言われる、1901年開業のストランド・ホテルです。

中央郵便局です。

スーレー・パヤーに来ました。

ヤンゴン市庁舎です。





バブテスト教会です。

「天秀」のチラシが張られた消防車です。





ミャンマーの串揚げ屋台です。

周りに腰かけ、ぶら下がっているソースを付けて食べます。その横にぶら下がっている空容器は串入れ・・・?

スーレー・パヤーを中心に道路はローターリーになっています。



モスクです。

スーレー・パヤーの入り口です。

鳩の餌を売る少女です。







1900年初頭に建設された高等裁判所です。



第二次英緬戦争以降の1860年頃にはイギリスによって土地整備が始まり、1892年には下水道が引かれて、東洋の真珠と言われたラングーンの都市が出来上がったようです。
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■寝釈迦像に参拝しに行きます。




チャウタッヂー・パヤーです。1907年建立で、1960年に現在の寝釈迦像に改修されています。
全長70m、高さ17mの巨大なお釈迦様です。
ちなみに、ミャンマー初日に訪れたバゴーの寝釈迦像は全長55m、高さ16mでした。タイ、バンコクのワット・ポーの寝釈迦像は全長46m、高さ15mです。



全身像が写せないので、お顔のアップです。





後ろからも撮影しました。



長い睫です。ブルーのアイ・シャドー、真紅のルージュ、ピンクのマニキュア、写真では写っていませんが、足の爪には同じピンクのペディキュアと中性的で艶めかしいお姿のお釈迦様です。

喜捨した人の名前が掲げられていますが、日本人の名前がたくさん揚っています。
近くには日本人墓地があって、第二次大戦で亡くなった方々の法要に訪れた人たちでしょうか・・・。



門前のお土産物屋さんです。



午後4時50分、参拝を終え空港へ向かいます。

午後5時10分です。飛行機にはまだ時間があるので、開いているお店を探します。
水掛け祭りで大半の店が閉店しています。

オウギヤシで葺いた屋根にテーブルを置いただけの、しゃれたお店で休憩です。


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午後6時30分、ヤンゴン国際空港到着です。
タイ航空「TG-306」、午後7時45分発バンコク行きに乗ります。バンコク到着は午後9時40分予定です。
ヤンゴンとバンコクの時差は30分あるため、1時間25分の飛行時間です。

国際線の乗客はまばらです。

取敢えず喫煙室で休憩です。きれいな喫煙室です。

乗客も少なく空港清掃員の休憩場になっています。





ヤンゴンの夕陽です。

シュエダゴン・パヤー

2014年11月20日 | ミャンマー

シュエダゴン・パヤーはミャンマー随一の仏教聖地です。
伝説ではインドを訪れたモン族の商人兄弟が、紀元前588年に釈尊から8本の聖髪を賜りました。故郷へ戻った兄弟は、オッカラパ王の助力で聖髪をテインゴウッタヤの丘に祀るため仏塔を建立したのが始まりと伝えられています。
考古学的調査では下ビルマを支配していたモン族によって、6世紀から10世紀に建立されたようです。その後の国内の戦闘で荒廃しますが、14世紀にモン族のペグー王朝、第7代国王ビンニャ・ウー(在位:1353年~1385年)によって高さ18mの仏塔が再建されます。
碑文によれば、およそ1世紀後の第14代国王シンソーブ女王(在位:1453年~1472年)により高さ40mの仏塔に改築されました。
16世紀にはビルマで最も重要な巡礼地となっています。
1769年に起きた地震で塔上部が崩壊しますが、コンバウン王朝の第3代国王シンビューシン(在位:1763年~1776年)によって現在の高さ99mに改修されます。

この女性は参拝者のチェックをしていました。

ヤンゴン市街を見下ろすテインゴッタヤ丘の上に建つシュエダゴン・パヤーへは南参道横にあるエレベーターで昇って参拝に行きます。東西南北に石段の参道が設置されていて、眼下の連続する屋根は南参道です。

エレベーターを昇った境内では、木陰で祈る人、食事する人、昼寝をする人とさまざまです。





多層屋根のシャン様式の仏塔はシャン族商人によって喜捨されています。

全高112.2m、基底部の周長433mのシュエダゴン・パヤーです。主塔の回りには64基の小仏塔が林立しています。
主塔は煉瓦積みで金箔ではなく黄金の板が鋲止めされています。
歴代の国王はパヤーを維持するため黄金を喜捨しています。ペグー朝のシンソープ女王は自身の体重と同等の黄金を奉納したことが記録されています。

華頂に装飾された宝石を見ています。双眼鏡は日本人による寄贈です。

カメラ撮影ではここまでしか写せません。

掲示されていた華頂の写真です。

喜捨された5448個のダイヤモンド、2317個のルビーが嵌められています。一番大きなダイヤモンドは76カラットあるそうです。

仏塔の周りには50棟を超える祠堂が建っていて、お参りの人が切れません。



主塔の周りに林立する小仏塔は、いずれも善男善女が喜捨したものです。





こちらには曜日毎の仏様が祀られています。



東南アジアでは生まれた曜日が大切で、曜日毎の仏陀が安置されています。
ミャンマーは八曜日あるそうです。水曜日が二日に分かれていて、午後6時までが水曜日で、午後6時以降は「ラーフーの日」です。ヒンドゥーの月と太陽を追いかけては食べるラーフーとは異なるようです。
自分の生まれた曜日の仏陀に花を供え、灌水して参拝します。

ちなみに、タイでは七曜日の仏陀像が安置されていて、それぞれポーズが異なります。

休日の参拝の後は、世間話をしたりしながら一日過ごす人も多いようです。







翡翠の仏陀像です。額は大きな宝石で飾られています。
この大きな仏陀はガラスケースの中に入れられて触れることはできません。







祠堂の壁に彫られたキンナリーです。





立派な釣鐘です。1779年コンバウン朝の第4代国王シングー(在位:1776年~1782年)によって喜捨された23トンの青銅製釣鐘「シングー・ミン鐘」です。
1824年英緬戦争でシュエダゴン・パヤーを占拠し要塞にしたイギリス軍は釣鐘を接収しカルカッタへ搬送する途中でバゴー川で落します。しかし、後に釣鐘を引き上げたイギリス軍はビルマに返還します。

右の人は釣鐘に刻まれた碑文を呼んでいます。









菩提樹の日陰でも昼寝の人たちです。



大きな釣鐘の前では尼僧が寛いでいます。釣鐘は1841年にコンバウン王朝、第8代国王ターヤーワディー(在位:1837年~1846年)によって喜捨された42トンの「マハ・ティサダ・ガンダー鐘」です。

ペグー王朝の第15第国王ダンマゼーディー(在位:1472年~1492年)が1485年に喜捨した30トンの釣鐘は、1608年にシュエダゴン・パヤーを略奪したポルトガル人フィリップ・デ・ブリトーによって盗み去られましたが、バゴー川で川中に落としてしまいました。その後探索されましたが、現在に至るまで発見されていません。



こちらは柵内に安置されている仏陀です。ダンマゼーディー王がモデルだと言われています。



仏陀の前で昼寝をする人たちです。極楽なのでしょう。





下山は階段を下りて行きます。

■「シュエダゴン・パヤー」の「シュエ」は黄金、「ダゴン」はヤンゴンのモン族統治時代のモン語地名です。「パヤー」はパゴダ、仏塔を意味します。
コンパウン王朝の創始者、アラウンパヤー王(在位:1752年~1760年)はビルマ全土を掌握のため1754年に上ビルマからモン軍を一掃、1755年にダゴンを陥落させ、ビルマ語のヤンゴン「宿敵全滅」と改名します。その後、抗戦するモン軍を退け、1757年モン王国の首都ペグーを攻略します。
モン王国を征服したアラウンパヤーは、寺院や建造物を破壊、経典等の書物は焼き払い、学識ある僧侶を3000人以上を虐殺、モン語やモン族の習慣を厳禁にします。拠点を失ったモン人はアラウンパヤーの差し向けた軍によって次から次へと殺害されたそうです。
何十万というモン人がタイへ逃れます。
現在のミャンマーの人口5142万人ですが、民族比で見るとビルマ族68%、モン族2%と、かっては覇権を争った両民族の差が極端にひらいています。

ヤンゴンへ

2014年11月19日 | ミャンマー

出発前にホテルで買ったバガンの写真集です。10ドルで買ったのですが、ニャウンウー空港の売店では8ドルで売っていました。

ニャウンウー空港の玄関です。



チェックイン・カウンターです。帰路はエアー・バガンの航空機に搭乗します。







午前7時45分発のマンダレー経由ヤンゴン行のエアー・バガン W9-009便です。
ニャウンウーからマンダレーまで30分、20分間の駐機でヤンゴンに午前9時35分着の予定です。





エアー・バガンの機内誌です。

まずマンダレーを目指してエーヤワディー川沿いに北東へ飛行です。



金色に輝くのはシュエーズィーゴン・パヤーです。









飛行高度が下がってきました。マンダレーに到着です。



マンダレー国際空港です。




乗客の乗り降りで20分間駐機します。ヤンゴンへ向かう乗客はそのまま席で待ちます。

マンダレーを飛び立つと軽食が出ます。

マンダレーからヤンゴンは真南に位置しています。

ヤンゴン到着です。





水掛け祭りでごった返す道路をシュエダゴン・パヤーへ向かいます。