の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

サンカロークの窯道具 1

2022年04月28日 | 陶磁器(タイ)
シーサチャナライ歴史公園横を流れるヨム川上流にサンカローク古窯を発掘保存する42、123号窯保存学習センターと61号窯保存学習センターがあります。
42号窯跡の遺構は5層で昇焔式窯から煉瓦で幾度も築き直された横焔式単室窯があります。窯壁が薄く地下または半地下式でしょう。
61号窯跡は粘度で築かれた横焔式地下窯です。保存学習センターの周りには最終段階の煉瓦製横焔式地上窯がたくさんあります。シーサチャナライには千基以上の窯跡があると言われています。
窯業期間はスコータイ王朝成立後の1350年頃から1584年までとされています。
しかし、スコータイ王朝が始まる前の約300年間はモン・クメール人が定住し寺院遺跡を残しています。スコータイ都城はモン人がクメール様式を基本に建設したと言われています。
陶器生産を始めたのもモン族だと考えられており、開窯は10世紀頃まで遡っても良いかと思うのですが…
昨年末に訪れたスパンブリーでは10世紀頃にアンコール地域がら持ち込まれ灰釉陶器がたくさん出土していました。
スコータイ王朝の台頭とともにクメールの窯業技術がサンカロークに移転したと唱える研究者もいます。

クメール帝国はなぜかシーサチャナライより北へは進出していません。








写真上から昇焔窯、粘度製の横焔式穴窯 (61号窯)、焚口近くに壷が並んでおり、燃焼室と焼成室の段差がないけれど、単に燃焼室が土砂で埋まっているだけなのだろうか。
最終段階の煉瓦製の横焔地上式穴窯から燃焼効率を上げた二重壁の穴窯です。











61号窯と呼ばれる窯で焼成された焼締め壷です。
一番上は口径:21cm、胴径28.5cm、底径13cm、高さ35cmとなっています。下の左右に小さな口を持つ壷は祭器です。口径12.5cm、小さな口との間 (最大幅):24cm、胴径18.5cm、底径:9.5cm、高さ25cmのやや小ぶりの壷です。なお、小さな二つの口は本体へ貫通しています。
装飾として蕨文が貼り付けていますが、ライ・ウと呼ばれています。突起が上にあるのがウ・ユーン、下にあるのがウ・ホーイ、横向きがウ・ノーンでいずれも吉祥文です。

焼締めを一般に「61号窯」と呼んでいますが、実際に同類の焼締め陶片はコ ノーイ窯、パ ヤーン窯址でも見つけることが出来ます。



















初期段階のコ ノーイ窯で生産されたモン陶と呼ばれる、灰黒色系陶土で作られた陶器です。口縁同士で融着した皿は直径:35cm、底径:11.5cmあります。
灰色味をおびた深い緑色の青磁台鉢陶片は直径:22cmあります。かなり薄手に作られた上手の作品です。
スコータイの村落遺跡から出土です。
なお、14世紀のタイ湾の沈没船にもモン陶が積まれていました。

青磁双耳瓶は口径5.5cm、胴径18.5cm、底径:12cm、高さ:26cmあります。
次の青磁四耳壺はヨム川の川上がり品で釉の発色はよくありません。口径:15cm、胴径:28.5cm、底径13cm、高さ:33cmです。
一番下の青磁四耳大壷は口径:12.5cm、胴径:34cm、底径15cm、高さ36cmです。肩に掛かった自然釉の流れが印象的です。








次の段階はトチンと爪付のハマを用いた重ね焼きの白泥を掛けた鉄絵青磁が始まります。
サンカローク窯で使われたハマは矩形が多かったようです。
見込みに残る目跡が嫌われたのでしょうか、使用されたのはごく短期間だったようです。

















発展して青磁釉が透明釉に変わります。陶土も白色系が使われ出しました。

スコータイ窯では魚文を筆頭に花文や日輪文など意匠は多くなく、時代が下がるにつれ簡略化目立つのに対して、サンカロークでは新しい絵柄や技法に積極的に取り組んでいます。
やはりモン人の創造力でしょうか…











やがて緻密な彫り込の印花青磁釉が登場します。鉄分の少ない上質の半磁器のような胎土になっています。

サンカローク窯には6段階の技術発展が見られると言われていますが、パヤーン窯址を歩くと、区域毎に鉄絵、青磁、白釉等と窯跡周辺に散乱する陶片が異なっています。同時期にも様々な技法で生産が続いていました。
発展段階と紹介した写真の時代順が一致しているかどうかは分りません。また、サンカローク窯では壷、甕、瓶、皿、鉢、水差、合子、動物や人物の象形、寺院装飾など多くの器種が様々な技法で生産されており、これらを分類するとサンカロークがもっと理解できると思います。
























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パーヤン窯では碗や合子など袋物が生産されると褐釉、白釉褐彩刻花、寺院装飾等に白釉も登場します。









練り込みはハリプンチャイ窯の低温焼成が有名ですが、サンカローク窯でも高温焼成で生産されていました。

窯道具を上梓するつもりが多様なサンカローク窯の製品で終わってしまいました。窯道具は次回で…

スコータイの窯道具

2022年04月21日 | 陶磁器(タイ)






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スコータイ古窯は旧都城の北で濠に囲まれクメール神殿が建つ寺院遺跡、ワット プラ パーイ ルアンの北側にあります。濠は窯業活動終了後に掘られたのか、窯址が分断され濠の内外にあります。また濠の北側窯址に寺院遺跡が有り窯業活動終了後の建立としています。寺院の基壇に突き当たるように窯址が残っています。

窯業のスタートはシーサチャナライ窯から遅れること約30年、1400年から1430年頃とされています。
その頃シーサチャナライでは製品の主流が釉下彩から青磁に変っていきますが、スコータイでは夾雑物が混じった粗い陶土に化粧土を塗った鉄絵製品を生産し続けていました。





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チャトチャック市場で売られていた陶片です。完品では見られない珍しい魚文や日輪文がたくさんあります。
かっては、王立サイアム協会内にあるカムティエン・ハウス博物館やスアン・パッカート宮殿博物館の売店で東南アジアの貴重な古裂やタイの発掘された古陶磁器が販売されていました。
日本の室町時代に作られた陶磁器が日本の新作陶磁器より安く買え、感動してよく出かけました。その後リバーサイドにも進出しましたが贋作が多く、本物に触れなくては、との思いから窯址歩きを始めました。その頃知り合った骨董商が年に数回は同行してくれていました。
私がタイの古陶磁器に興味を持った出発点です。

















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スコータイ窯の特徴は、筒型トチンの上に爪付ハマを挟んで積み重ねるシーサチャナライ窯初期の技法で、見込みに目跡が残ります。積上げた下の製品は相当の重量を受け、爪の食い込みが大きくなります。中には燃焼温度が上がりすぎ形状を保持できず、7、8枚が融着したものもあります。
いずれにしても不良率は高かったようです。

積み重ねられた一番下のあった鉢片を集めてみました。見込みに目跡、高台内にトチン跡が残っています。




















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日輪文、または花文鉢の陶片で、内外面ともに丁寧に絵付けされています。直径9cmの高台内にも鉄絵で花模様、オシドリ、クジャク、太陽と色々想像させられる窯印が残っています。
気に入っている陶片のひとつです。

ボー スアックの窯道具

2022年04月19日 | 陶磁器(タイ)
ナーン市街の南西8kmのボー スアック地区に13世紀から15世紀、16世紀から17世紀の二期に渡り活動した古窯址があります。
タイでは各地の窯業の終焉を1580年代としていますから、ボースアック古窯は他より百年近く生きながらえています。










第二期の匣鉢に入れて焼成された鉢です。
内外と高台内にも白泥を施し、透明釉を掛けています。(書籍「ARCHAEOLOGY OF CERAMICS」ではLight green glazed または Creamy green glazed としています)






第二期の鉢です。内面は白泥に透明釉を施し、外面は青磁釉が掛けられていますが、かいらぎ状です。
前書では降灰による自然釉としています。




第二期の窯詰めです。口縁と口縁、高台と高台を合わせて重ねる方法と匣鉢に収める方法を併用していました。

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匣鉢の破片です。匣鉢に収められた鉢は高台径の小さいことが分ります。

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ボースアックでは発掘調査された窯址が5ヶ所で保存されていますが、周辺の農地を歩いてみるとまだたくさんの陶片が落ちています。




























第一期は焼締め壷や暗い青磁の品が主流でしたが、第二期には匣鉢が使用されるようになりました。磁器肌を求めたのでしょうか、胎土に白泥を施し透明釉を掛けた鉢が生産されるようになりました。

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ワット プーミンにある郷土博物館内の売店で販売されていた小壷です。数点あった中で一番状態の良いのを購入しました。
ボースアックの古陶器を市場で見ることはまずありません。

パーンの窯道具

2022年04月16日 | 陶磁器(タイ)





パーン窯の青磁鉢です。やや赤みを帯びた肌理の細かい胎土で、しっとりとした青磁釉が掛かっています。高台内はトチンに置かれた周りが緋色を呈しています。
開窯時期は北タイで一番遅く活動期間も15世紀だけと考えられています。

パヤオ市街から国道1号線を34km北上するとチェンラーイの県境となります。県境から12km進むとパーン市街に至ります。国道をさらに14km北上した所にポーンデーン古窯があります。
古窯址は田圃に浸食された一角のラムヤイ畑の中に取り残されています。
田圃が年々窯址を削っているようで、田圃の縁はいつも陶片や煉瓦がたくさんのぞいています。
果樹園の中にはたくさんの窯址と思われる小山が点在しており、二十ヶ所ぐらいの窯址があると言われています。

ある時訪れると果樹園の真ん中に田圃へ水を引くため用水路が掘られていました。当然窯を潰し、物原も掘り起こしたようです。
掘削後ある程度の日にちが経過したようで、水路の縁や掘り上げた土が雨で流され夥しい陶片が転がっていました。







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砂粒を含んだ筒型トチンです。繰り返して使われたようで降灰が自然釉となっています。
下は小物を置いたハマです。

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いずれもきれいに発色した青磁の鉢や盤です。
線彫りの魚文を探したのですが花文や蓮弁文しか見つかりませんでした。





















口径10cm以下の碗や皿、灯火器は全て平底です。
一番下の小皿は施釉前に欠けたようですが、「まっええか」と窯詰めして焼成後に廃棄している、微笑ましい光景が浮かんできます。

























動物の小さな置物や器の蓋を集めました。他にも水差など、現在ならば日用雑器と呼ばれる品がほとんどです。

最後の品はランプです。耳が二つあって紐で吊す携帯用でしょうか… タイ人は水を入れて持ち歩く水筒のような物だと言いますが、高さ10cm程で水を入れるには小さすぎます。シーサチャナライにも同じ形状の器があり、ボー スアック古窯の出土品にも書籍に掲載されています。
参考までにシーサチャナライの鉄絵ランプを添付しておきます。


ワン ヌア、ワン ポンの窯道具

2022年04月11日 | 陶磁器(タイ)
ランパーン北端の町ワン ヌアの中心街が国道120号線と国道1035線の三叉路を中心に広がっています。
三叉路の東にワン川に沿って北上する道路があります。約6km進むとワン モン村があり、裏山にはタオ コン ワン ヌア (タイ語で窯をタオと言います) と呼ばれる古窯址があります。(ここに至るまでも数カ所の古窯址は報告されています)
この一帯から出土する古陶器も一括してカロン陶と呼ばれます。
さて、三叉路の南にも古窯址が二ヶ所知られており、ワン ヌア古窯、ワン ポン古窯と呼ばれています。開窯はカロン古窯から少し遅れ、主に青磁を生産していました。






玉縁を輪花にし、見込みの立ち上がりに鎬文を施したワン ヌア窯の典型的な青磁盤です。






ワン ポン窯の直径32.5cmの青磁鎬文大盤です。
ワン ヌア古窯址とワンポン古窯址は数キロしか離れておらず、ワン川の支流メー プアン川を挟んだ小山の両斜面に存在します。両古窯とも青磁の生産をしていますが、タイの骨董商は明確に分類しています。
本品は32.5cmの大きな盤ですが薄作りで手取は非常に軽いです。薄い付け高台で2cmの高さがあり、高台内にも施釉されています。

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ワン ポン窯のトチンで、二つのトチンを重ねて使っています。上辺の径は14cm、底径は16cmで高さ35.5cmです。

以下、いずれもワン ポン古窯のトチンです。ワン ヌア古窯のトチンもおそらく同じ形態でしょう。












ハマは表裏にリング状のひっつき痕が残っており、壷の積上げに使われたようです。

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ワン ヌアの窯址です。発掘調査では11基の窯址が報告されていますが、実際にはもっとたくさんの窯があったのでしょう。
メー プアン川からすぐに登り道となっており、その両側のバナナ畑に窯址があります。道路も窯跡を潰して作られたのでしょう、雨で流れた土の中からたくさんの陶片がのぞいています。

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ワン ポン古窯址です。ワン ヌア古窯の東、対面の小山の中腹あたりにあります。
窯址は見当たりませんが、窯壁だったであろう焼成された粘度や陶片が散乱していることからそれと分ります。
製品は西にあるメー プアン川より丘陵の東にあるワン川へ運ぶのが便利な位置になるのかもしれません。

つぎに両窯址で拾った陶片です。ワン ヌア古窯は青磁のみですが、ワン ポン古窯址には褐釉の壷がありました。また、褐釉の左上の陶片は胎土、釉薬の状態から見てパヤオ古窯の陶片です。
ワン ヌア窯址写真に青磁刻花日輪文陶片を掲示していますが、パヤオにも多様な線彫りの日輪文の皿が残っています。この地にもパヤオ青磁刻花日輪文や印花文が伝わっていた証拠です。また、真ん中に押されている花は古代から神聖な花とされていたドーク・ピクン(和名:ミサキノハナ)で、スコータイ、シーサチャナライをはじめ殆どの北方窯で使われた模様です。








参考にウィアン ブア文化センターに展示されている刻花日輪文を添付しておきます。