の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

テングビワハゴロモの仲間

2022年05月28日 | 蝶々

蝶々を追いかけていると日本では見かけない珍しい昆虫にも出会います。
その中で一番気に入っているのがビワハゴロモという蝉の近い親戚です。

彼らがいる所は大きな木の下の方で、キャンプ場などの人の集まる近くの川沿いでよく見かけます。
いつも大勢かペアで数ヶ月は同じ木に住み着きます(生涯同じ木に住み着くのかもしれません)。人が近づいても飛び去ることはまれで、横歩きしながら木の裏へ回ろうとするのですが、逆から先回りすると慌てて来た方へ逃げます。

外観は結構派手で多様な模様がありますが、後翅も原色で青色、黄色と鮮やかです。後翅を撮りたくて、少し驚かせて飛んでもらうのですが、暗い熱帯雨林の中ですからまだ成功した写真がありません。











カレンテングビワハゴロモ (Red-nosed Lanternfly)
Pyrops karenius (25~35mm)
撮影:ケーンクラチャン国立公園

和名不明 (Yellow-spot Blue Lanternfly)
Saiva gemmata (15~20mm)
撮影:ケーンクラチャン国立公園、カオヤイ国立公園







和名不明 (Yellow and Red Horned Lannternfly)
Pyrops ducalis (25~35mm)
撮影:カオヤイ国立公園







同定不能(翅模様が同じ菊小紋をちりばめたPyrops oculata と言う種がいますが、鼻が朱色です。本種は同定でしませんでした。) (25~35mm)
撮影:パンシダー国立公園





和名不明 (ddark-horned Lanternfly)
Pyrops spinolae (25~35mm)
撮影:ケーンクラチャン国立公園







フチドリヒメハゴロモ (Stick-horned Lantenfly)
Kalidasa nigromaculata (20~30mm)
撮影:サムラーン国立公園





キシタハゴロモの一種 (Hornless Lantenfly)
Aphaena consimilis または Aphaena dissimilis (20~30mm)
撮影:パンシダー国立公園







和名不明 (Red-based Angus Lanternfly)
Penthicodes variegata (25~35mm)
撮影:パンシダー国立公園


▢おまけです。
次はヨコバイやセミの親戚でオウシツノゼミです。雄牛のような角をもった10mmくらいの小さな昆虫です。中南米にはもっと奇異な角を持ったツノゼミがいるようですが、タイで出会えたのはこの一種だけです。
一番下はツノゼミの幼虫ですが、彼らは頭同士を突合わせて木の棘か新芽になりきって身を守っています。彼らの周りを徘徊するアリはかれらの排泄物を貰っています。







オウシツノゼミ (Horned Treehopper)
Leptocentrus taurus (8~12mm)
撮影:サムットプラカーン

「インスタグラム @bangna32 でタイの蝶々をアップしています。是非お立ち寄りください。」

サンカロークの鉄絵花文盤

2022年05月25日 | 陶磁器(タイ)

チャオサームプラヤー国立博物館(アユタヤ)所蔵


スコータイ様式の仏像の特徴に頭頂の肉髻上に火炎状のラスミー(宝珠光)を戴きます。
ラスミーに「文字のし」を倒立させた渦巻模様があります。ウナローム プラ プッタループ スコータイまたはレーク ガーオ タイと呼ばれる仏陀の知恵と悟りへの道を示すシンボルだと言われています。
ヒンドゥー教由来の印でドヴァラヴァティー王国時代にインドから伝わったと考えられています。
ドヴァラヴァティー仏像の頭にも使われているそうです。
仏像の螺髪は全て右巻、スコータイ様式のウナロームは右巻、ウトーン様式は左巻と教えられたのですが、過去に撮した写真をチェックした結果では、そんな法則はなさそうです。


チャオサームプラヤー国立博物館(アユタヤ)所蔵


サンカローク窯初期に見込みに蘭の花を描き、立ち上がりに双魚文が描かれた盤が出現します。
その花と上に伸びる蛇行線がウナロームだと言われています。前に上梓した巻き貝文は製作時代的にドヴァラティー文明の関与は否定できますが、ウナロームはドヴァラヴァティー文明から引き継いだものでしょう。因みに高台内に書かれる文字はモン文字です。

ーーー閑話休題ーーー
(吉川利治「スコータイに対するクメールの影響:遺跡と刻文に関する分析」より)
 ラームカムヘーン大王がタイ文字を考案してタイ語、タイ文字のラームカムヘーン大王石碑が1292年に刻まれます。その後の人材が凡庸だったのかタイ文字の普及は進まず、次ぎに見つかっている古い碑文はマンゴー林寺院に由来する5基の碑文です。4基は1361年のリタイ王の出家の状況が刻まれた石碑でタイ語-タイ文字が2基そしてタイ語-クメール文字、クメール語-クメール文字で伝える内容はほぼ同じです。もう一基はパーリ語-クメール文字でリタイ王を讃える内容が刻まれています。
タイ語-クメール文字の石碑がなくなるのはラームカムヘーン大王石碑誕生から245年待たなければなりませんでした。
これはスコータイ王朝の中枢でクメール語やクメール文字を用いる人が活動し、タイ語とともにクメール語が公用語になっていたと吉川論文は述べています。
タイ語-クメール文字は1528年まで続くそうです。
ラームカムヘーン大王石碑から半世紀以上の空白期間があり、2番目に古いマンゴー林寺院石碑が14世紀の中頃に登場、以降はたくさんの石碑が刻まれいることから、スコータイ史の始まりを14世紀中頃と吉川先生は推定されています。スコータイの代表遺跡も14世紀後半から15世紀後半説を採っておられます。
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 1300年にラームカムヘーン大王の朝貢使節が多数の中国陶工を連れて帰国した、と言うのが通説になっています。数倍から数十倍返しと言われる下賜だったのか資料は何も残っていないようですが、サンカローク窯の隆盛と時代的な矛盾はないようです。

タイ国内のクメール支配下のクメール的なものはわざわざロッブリー様式と言い換えるぐらいだから、スコータイ朝の公用語がクメール語だった、と唱えればタイの学会からは抹殺されるでしょうが、窯業ではモンやクメールの影響を排除して、エビデンスも不十分な中国人起源とする不思議です。






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青磁釉から透明釉に変化しても花文の意匠はまだ変化していません。

















一番下は蛇行線(ウナローン)が申し訳程度の大きさになっています。

完品が2点ありますが、いずれも焼成温度が不足で鉄絵の発色が悪く、釉薬がカセています。
骨董商によっては二度窯(再焼成)で下絵を鮮明にし透明感をよみがえらせます。半真半贋の手間の掛からない製品が真作として市場に出回ります。
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発展の過程でしょうか、鉄絵青磁にもウナローンのないものもあります。



















下3点は輪郭線で花文を描き、周りに釉薬を置いて白抜き模様を作っています。後で発展する白釉褐彩刻花文の原点でしょうか。
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やがて花の主流は菊花文になり、立ち上がりの魚文がなくなります。ベトナムの影響でしょうか高台内にチョコレート色の鉄泥漿を施したものも現れます。
































最後は台付鉢の底部分です。内面にも丁寧に鉄泥漿が塗られています。
陶工の自信作だったのでしょう、盤面の絵付けが気になる陶片です。
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最後にシーサチャナライで出土した中国の陶磁器を添えておきます。
後期サンカローク窯の鉄絵花文が中国磁器を模倣したことが如実に分ります。
とすれば、初期の青磁鉄絵花文との関係はどうなか、葉は全く異なり、花序は同一であるが神聖なウナローム模様はサンカロークの創作と考えるのか…




プラサート サドック コック トム 4

2022年05月22日 | サケーオ

第8回目の訪問です。2009年9月20日の日曜日になります。日曜日は修復作業もお休みです。
カンボジア人の観光客がいました。彼らは初め写真撮影を警戒していましたが、慣れるに従い気軽に応じてくれました。
グーグルマップで確認すると近くにはタイとカンボジアを結ぶ道がたくさんあって往来は自由(?)なようです。




=回廊外壁の西偽扉=



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=回廊北門=


=北経蔵=






回廊門と経蔵の破風を修復中です。回廊内は石材がゴロゴロしています。

6ヶ月後の2010年3月14日です。外周壁、内濠の掘削と回廊門の仕上げ作業が行なわれています。










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回廊北門の破風の彫刻中です。2009年9月20日に組み上げた回廊北門と比較してください。
残念なのは主祠塔を始め大半のまぐさ石に新石材が使われ彫刻がないことです。

下は主祠塔西偽扉のまぐさ石で、残存する一部の複製をコンクリートで固定しています。
オリジナルはプラチンブリー国立博物館に展示されていますが、複製は彫が浅く繊細さがありません。





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2年間をおいて2012年1月25日そして10月23日の訪問です。
1月は濠越しの写真のみです。内濠は水をたたえ、乾期ですが地面は草が青々としています。



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参道の石柱を運び込み、余った石材の撤去中です。


そして12回目、2013年3月24日、春分の日から4日遅れの日の出撮影です。
日の出写真は1回目に投稿していますからそれ以外を掲載します。






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参道の石柱を制作中です。欠損する古い石を新しい石材で継いでいます。朝が早いので作業者はまだ集まっていません。
木の根元に放置された石材にはナーガの繊細な彫刻が施されています。

遺跡内には現代寺院が建っていますが、芸術局によって隣地に建直し中です。







彼らは芸術局の職員でここに寝泊まりして寺院建築の指揮をしています。
近隣の住民が掘り起こし、回収してきたた扶南時代の遺品を並べてくれました。

2014年3月16日の春分の日の訪問です。参道の石柱は完成していました。
白い石がいかにも新作と分る石柱です。



バライの掘削も終わり遺跡の修復はほぼ終わったようですが、やはり気になるのはデヴァダの足です。







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デヴァダの足の残欠がたくさんありましたが、結局どこにも組み込まれていません。本来どこにあったのかも分りません。
ここから東150kmにアンコール ワットがあります。アンコール ワットには2000体以上のデヴァダが彫られていると言われていますが、そのデヴァダを撮影したくて出かけた私にとっては、納得出来ない修復です。

下は古い石材に加工してあった、ズレ防止のチギリを挿すための溝だと思うのですが、修復にはこんな小細工はありません。昔の職人の知恵です。



その後8年間、足が途絶えました。以降はインフォメーションセンターや周辺の整備をしていたのか、たまたま訪れた今年5月8日の翌週に「サドック コック トム歴史公園」が正式にオープンしました。
20年に及ぶ修復工事でした。近々もう一度訪れインフォメーションセンターの展示品を観たいと思っています。今までは無料で入れましたが、入り口に立派なチケット売り場も建てられており、将来は入場料を徴収されそうです。

プラサート サドック コック トム 3

2022年05月20日 | サケーオ
元々は「プラサート ムアン プラオ」と呼ばれていましたが後に「プラサート サドック コック トム」と呼ばれるようになりました。クメール語で「葦(カヤツリグサ)の茂る大きな湿原」という意味で、かってはカオヤイ山系から流れくる豊富な水と肥沃な土地だったのでしょう。近くには7世紀のプレアンコール時代に建設されたプラサート カオ ノイなど87ヶ所の遺跡がある場所です。グーグルマップを見ると国境を隔てたカンボジア側にもたくさんのヒンドゥー寺院の表示があります。

前回は主祠塔の基壇造りでしたが、5ヶ月後の2005年12月11日訪問時の状態です。
基壇はほぼ完成し、併行して主祠塔の下部を組んでいました。




















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従事しているのはカンボジアの作業者のようです。

次の訪問は1年9ヶ月後の2007年9月1日です。
主祠塔はまだ半分ぐらいの高さまでしか積み上がっていません。回廊内の敷石整備や回廊壁の修復が分散して行なわれていました。














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この時期だと午後の気温は40℃近くまで上がっていますが、みんな元気に作業を進めています。
一番下の人物が回廊修復の責任者のようです。それぞれの部位に責任者がいるようで、いつも指示をしている人物が異なりますが、皆親切に修復の状態を説明してくれます。

回廊に外側にたくさんのデヴァダ(女神像)の足だけ残った石材が並べてあります。身体部は遺跡泥棒が持ち去ったようです。
回廊を飾った女神像でしょうか、結局この残欠は再組されることなく処理されています。

7回目の訪問、2008年11月15日です。
主祠塔はほぼ完成で、回廊の修復が行なわれていました。東塔門以外の楼門はまだ手つかずです。


















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最後が長らく参道脇に設置されていた「サドックコックトム遺跡の復活を記念して」の顕彰碑です。
当初は簡素なものが建っていましたが、いつの間にか写真のような大理石の立派なものになっていました。

-以下続きます。

プラサート サドック コック トム 2

2022年05月18日 | サケーオ
プラサート サドック コック トムを初めて訪れたのは2002年です。主祠塔は簡単な補強があるだけで半分崩れていました。回廊は倒れ、外壁は基礎部だけ、窪んだ地面で濠があったことすら分りませんでした。
東に塔門があり、参道の敷石が続いていましたが、敷石が途絶えたあたりからはロープが張られて黒地に白抜きのドクロマークで地雷有り、立ち入り禁止の立て札が処々に設置してありました。
とりあえず人の歩いた跡をたどってバライまでいったのですが、凹地に木が茂りただの荒れ地にしか見えませんでした。


これはシーサケットのカンボジア国境にあるクメール遺跡カオプラヴィーハン参道脇の地雷立ち入り禁止の立て札です。参考に添付します。

次ぎに訪れたのは2003年です。国境沿いの道路3085線から農道を約2km入れば遺跡ですが途中には軍の駐屯地があり検問所があります。検問所から少し進むと日章旗が揚げられ、地雷撤去に従事するNPO法人の仮設住宅がありました。この時は遺跡周辺のドクロマークはなくなっていました。

当時はフィルムカメラを使っていたので手許に写真がありません。デジタルカメラで撮影したのは2004年からです。
まず2004年2月29日(日曜日)の写真からです。




























上2枚は回廊の東南から撮影、右から回廊塔門、経蔵、主祠塔と並んでいます。
3枚目は外壁の北側から撮影です。

次は遺跡周辺で仮組みされている石材です。





















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2005年7月2日です。修復工事が始まっていました。主祠塔が撤去され基壇から造られています。
離れたところでは主祠塔の仮組みも行なわれていました。












以下、続きます。