の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

ミャンマーの陶板

2022年03月28日 | 陶磁器(ミャンマー)



タイ=ミャンマーの国境山岳地帯の墳墓遺跡からの発掘品です。釈迦の瞑想を妨げる魔王軍の兵士ですが発掘時に破損してしまいました。緑釉や鉄釉の密着は良好ですが錫鉛釉は食付きが悪く剥がれやすくなっています。
裏面には漆喰が塗りつけてあります。ペグーの仏塔腰壁に埋め込んだときの接着剤でしょう。
では、いつペグーの仏塔から外されて、誰によって国境の高い山の上まで運び上げられたのでしょう。

ビルマ族によるパガン王朝が1050年に建国され、1287年に元の侵攻を受け衰退します。その隙を突いて下ビルマにモン族がペグー王朝を樹立するも国内は安定しません。1472年ダンマセーティーが王位を禅譲され、ペグーで寺院を増築、最盛期をむかえます。しかし、1539年にビルマ族のタウングー王朝に占領されます。1598年にモン族の反乱が起き、ペグーは大規模な破壊にさらされます。
その後に再興ペグー王朝が樹立しますが1754年にビルマ族のコンパウン王朝によって再建不能なまで破壊され尽くします。現在はたくさんの陶板が地中に埋まっているそうです。

国境山岳地帯からは謎に包まれた白釉緑彩盤を初め青磁、黒釉、白釉、緑釉そして辰砂を施した器まで多種多様な優れた陶器が発掘されています。当然国内が長期にわたる安定期に生産されたもので、寺院も修改築され、そのとき持ち出されたのでしょうか。

ペグー・タイプの大型陶板をチェンマイの骨董店の軒先に大量に立てかけてある写真を友人が送ってくれました。10年ほど前です。藁を緩衝材に50枚以上並んでいましたが、勿論新作でチェンマイで作られたと聞きました。その後どこへ行ったかは定かでありません。

次ぎにパガンの仏塔に嵌め込まれていた陶板をアップします。
損傷が激しく、一見古そうに見えますが何時造られたかは分かりません。ミャンマーの寺院は、時の為政者や敬虔な信者によって常に増改築が繰り返されています。














パガンを建国したアノータヤ国王により1059年に建設開始、第3代国王チャンスィッター治世の1090年に完成したシュエズィーゴン・パヤーです。
ビルマ族が覇権を握った16世紀、18世紀に大規模修復がなされています。














チャンスイッター国王によって1091年に建立されたアーナンダー寺院で、バガンで一番美しく均整のとれた寺院と言われ高さ51m、一辺60mの正十字形をした寺院です。
やはり、後世に大改修されています。












代7代国王ナラパティスィードゥーによって1196年に建立されたダマヤーズィカ・パヤーです。
この王以降ビルマ語が碑文に使われ、モン語等は影をひそめています。
陶板にも文字が刻まれていますが、さて何語でしょう。

どの陶板も扱い傷のように凸部の釉薬が剥げています。おそらく貴重な陶板は修改築の時は取り外され再利用されたのではないでしょうか、その一部が商人にわたり山岳地帯まで運ばれたのかな………

バガン5千坊と呼ばれ、最盛期には五千を超える寺院や仏塔があったようです。写真の仏塔に嵌められた陶板の数は一基あたり千枚近くあります。陶板で飾られた仏塔がどれくらいあったのかは分りませんが、千基としても百万枚、すごい枚数です。
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15世紀にミャンマーで作られた白釉緑彩草文盤です。(過去ブログ「ミャンマーのお皿」の再掲です)
近年になって存在が知られた陶器です。詳細はたくさん書籍やブログで説明されているので省略します。

白釉緑彩盤もネット・オークションによく出品されるので少し触れておきます。

1990年代に新発見されたのですが、発見直後には模倣作が出回ります。製法技術や特徴が十分に研究され尽くした真贋不明な品が多かったようです。以降贋作は作り続けられますが、最近では当初のような精巧なものはなくなっように思います
これも10年ほど前の話ですが、スコータイの骨董商がチェンマイで白釉緑彩盤を30枚買った日本人がいると言ってきました。買った人は本物と信じたようですが、骨董商曰く、真作が30枚もまとまって出てくるはずがないでした。買われた30枚はその後日本へ渡ったのでしょうか………




補修してあった瓶ですが、補修を全て剥がして参考品として入手しました。




陶片は渋る骨董商から強引に貰って帰りました。












皿と鉢はチェンマイ産の贋作です。静止糸切り、付け高台、窯印、窯道具による窯変、緑彩の筒書きとポイントはしっかり押さえています。
入手後すぐに友人の骨董商に見せたのですが、見るなり即贋作判定、もう少しよく観察してよと言うも、贋作は贋作とつれない返事でした。上の陶片はその後暫くしてから、これは本物だから勉強しろ、と見せてくれたのを強引に持ち帰りました。

カロンの壷

2022年03月26日 | 陶磁器(タイ)



バンコク大学にある東南アジア陶磁器博物館所蔵のカロン窯、鉄絵花唐草文壷と鉄絵花文蓋付鉢です。壷は口径13.8cm、全高31cmありますが由来の記載はありません。タイ、ミャンマーの国境山岳地帯の墳墓遺跡からの発掘品でしょう。






パヤオ湖畔にあるパヤオ文化博物館所蔵品です。上の壷は口辺が破損していますが15~16世紀の作です。




この二点はスコータイに有る私設博物館の1階に展示してある壷と瓶です。

およそ30年前にチェンラーイでカロンの模倣品が大量に作られ、スコータイの骨董商によって市場に出回りました。博物館のオーナー、ダムロン氏は騙され購入し二階に展示しています。地元では有名な話で「見るのは良いが、しゃべるのは駄目」と言われ、新作であることを指摘すると、氏は猛烈に怒るので皆さん口を塞いでいます。東南アジア陶磁器博物館時代のパリワット教授は贋作を指摘していますが、展示はそのまま続けておられます。タイ人の話では自宅にもたくさんの在庫があるそうで、欲しければ売ってくれるそうです。










二階の展示場の一部です。

タイで見られるカロンの大型袋物の真作で状態が良い物はごく限られています。
タイの陶土で一番良質なのがカロンだと言われ、盤にしろ壷や瓶にしろ素地が薄く発掘品で損傷がないは非常に少ないです。盤や鉢は白化粧の上に独特な意匠の模様を大胆に描き透明釉を掛けて仕上げていますが、地中に長くあったため貫入に土銹が付き、釉薬はカセ、場合によっては剥離しているのが一般的です。

一般にカロン窯と呼ばれる区域は広く、ウィアン カロンの東に横たわる山脈の西斜面から東斜面のワンヌア地区まで含んでいます。その山脈の南端をウィアン カロンからワンヌアさらにパヤオへ通じる国道120号線が走っています。国道に接した果樹園をスコータイの骨董商が発掘した場所があり見に行ったことがあります。案内人の話では1mの深さから皿等を二百枚余り掘り出したそうです。彼の話では国道の南側で、現在は農地となっているその下にたくさんの窯跡があるそうですが、2m以上の深さで目立つ場所のため誰も掘らないそうです。

区域毎に製品や生産技法に差異があり、壷に限れば窯跡から出た陶片も見たことがありません。相当生産量が少なかったのか、未発掘の窯でしょう。

ネット・オークションに出品されている東南アジア陶磁器に真贋の疑わしい物が多い、と警鐘を発しておられるブログがあり、私も早速ネット・オークションを覗いてみました。カロンやカロン風の盤や壷が結構出回っているのを見て、この稿を記しています。
模倣品は30年前の有名な贋作事件以降も続いており、市場にはたくさん出回っています。勿論新作として安価なものが殆どだと思いますが、中には悪意を持った売人もいるのでしょう。


画面はかって東南アジア陶磁器博物館の再館記念講演でカロンの贋作を警告されていたものです。


写真はかって訪れたナーン北部のお寺にあったプア郷土博物館の展示棚の上に放置されていた壷です。ガラス張りの棚の中はナーンやパーンの割れた壷ばかりでしたが外には完品が数点埃を被っていました。カロンの模倣品がこんな所まで出回っているのかと驚きでした。

スコータイの私設博物館の一階展示品ですが、状況を教えてくれたタイ人は「たぶん本物だろう。」と言ってましたが、個人的には腑に落ちないところがたくさんあります。

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最近参考品として貰ってきたカロンの陶片です。破片の長辺が18cmあり、推定の高台径24cm、直径は38cmにもなる超大型鉢です。見込みは黒地に白抜きの花文、又は日輪文を描き、周囲はいかにもカロンという馬を描いています。温度が上がりすぎて釉が流れていますが、溜まった釉薬は強還元で綺麗な水色に発色しています。






タイ=ミャンマー国境の山岳地帯から発掘されたカロンの鉄絵菊花文鉢です。かなり状態が良いと思います。






これは、過日スコータイへ行ったときに、友人が再補修を依頼していたカロンの鉄絵魚藻文盤です。所有者の許可を得て撮影しています。
大きく割れた片を白パテで雑に繋いでいます。上から見た写真はPC上で直してみました。
一見、スコータイやサンカロークの魚藻文と見間違えるような絵付けです。







カロンの特徴的な鉄絵の馬と花です。




馬ついでにカロンの緑釉燭台をアップしておきます。ワット・カロン遺跡の出土品です。日陰で撮影したため全体に青みを帯びています。
タイで緑釉が用いられたのはカロンだけです。










そして、タイでも完品は殆どお目に掛からない青磁鉢です。薄い器胎に綺麗に発色した青磁の鉢ですが焼成中に崩れてしまいました。


カロンの瓶です。












ドイ ヒン フォン山系の東側斜面、ワン モン村の古窯址で採取したカロン陶片です。
白化粧土を施した上に模様を描き透明釉を掛けていますが、密着性は非常に良いです。このタイプで釉薬が剥離したのは見ません。
後日、村人が収集していた陶片や西側斜面の陶片も紹介します。

スパンブリーの寺院 (ワット サンパ シウ・3)

2022年03月20日 | スパンブリー
ドラえもん寺は簡単に終わらせて、ター チン川の下流にあるワット マナーオ博物館を紹介したかったのですが、ドラえもん寺がまだ終わりません。
ワット マナーオ博物館は二階建ての大きな博物館で、管理人の話では近隣の住民が持ち寄ったという前史時代の土器や装身具、アンコール近辺で作られたクメールの灰釉陶器、バンバンプーン壷、サンカローク陶器、そしてタイの窯業が終焉した後期アユタヤ時代以降の中国陶磁器が一階に、二階はドヴァラヴァティー、クメール、スコータイ、アユタヤ、ラッタナコシーンの仏像がたくさん展示されています。特にドヴァラヴァティー仏やクメール神像は秀逸で、紹介はまたの機会にしたいと思います。

ワットサンパシウの布薩堂外観です。






布薩堂へ入る門の彫刻です。ここにもドラえもんは隠れています。








ウルトラマンもいます。


この二人は西洋人のようですが、誰でしょう。

この聖域内にはアユタヤ時代の仏塔も数基残っています。
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堂内の壁画に戻ります。右壁面です。






銃を持つ西洋人の軍勢が攻め寄せてくる画面です。岩を投げようとする男の服がドラえもん柄です。






ここには釜ゆでのドラえもんです。






どんな画面か知りませんが、画面上部の建物の中で拳をあげて怒るドラえもんです。




右壁面の上部の仏伝図です。池の中にドラえもんです。








一番下は当時の政治問題であった、黄シャツ、赤シャツ騒動へのプミポン国王のメッセージ「コンタイ ラック カン」です。


トイレの案内はのび太君としずかちゃんでした。

スパンブリーの寺院 (ワット サンパ シウ・2)

2022年03月19日 | スパンブリー
仏陀像の正面は修行中の釈迦と魔王マーラとその軍勢、下には釈迦を守るため髪の毛を振り絞り洪水を起こそうとする地母神(プラ・ダラニー)が描かれた降魔成道図です。








絵は上下2段に描かれ、天井側の上部は仏伝図、下が本生譚となっています。入り口や窓の扉には神々が描かれています。
咥えタバコで神を捧げる不埒者も居ます。
2枚目の壁画下に額装した写真が立てかけてありまが、写真には描かれたドラえもんが写っています。
これがドラえもんを探すヒントです。わずかに写り込む背景から場所を特定していきます。


左入り口扉の枠組みです。普段は扉が開いているので気付きません。


右側入り口です。絵師の手形が押してあり、その下に「この右手でワット サンパ シウの壁画を描いた(右手でご飯も食べる、蚊も叩く)」と書いてます。その横でドラえもんが右手を振っています。




枠模様の花の中にドラえもん、のび太君、ムーミンがいます。




右下でナーガを操る香具師(と言うのでしょうか)の服の柄がドラえもん、皆が触るので絵の具が剥がれていますが、、、




そして左壁面のジャータカを順に見ていきます。
これもなにか漫画の主人公かな、その陰にドラえもんです。









バラモンの後ろの扉に落書きされたタケコプターのドラえもん。






キリスト教、イスラム教、仏教折衷の寺院の棟飾り(チョー・ファー)に仮面ライダー、そして破風下の外壁に手垢で汚れた金色のドラえもんです。




パンダも隠れています。2003年にチェンマイ動物園に中国からパンダがやって来ました。忽ちタイ国内で大パンダブームが起こります。そんな世相を壁画に描き込んだのでしょう。他にも当時の政治問題であった黄シャツ、赤シャツ闘争が描かれています。






イサーンで大人気のヴェサンタラ・ジャータカです。チューチョックの若くて美しい妻、アミッダーが水汲み場でいじめられる場面です。




こちらも壁画制作当時に大ヒットしていたアングリーバードのキャラクターです。

スパンブリーの寺院 (ワット サンパ シウ・1)

2022年03月17日 | スパンブリー
「ワット サンパ シウ」、この古刹が一躍有名になったのは十数年前です。
当時、仕事場があったチャチョェンサオの寺院、ワット テーオ ターンの寺院壁画に「ドラえもん」が描かれていると知り、仕事を抜けだし見に行きました。この時、ワット テーオ ターンの壁画を描いた仏画師ラックキアット師がスパンブリーで手がけた寺院壁画にも「ドラえもん」が描き込まれていることを知りました。

下の写真は道路脇に立てかけられていたワット テーオ ターンへの道案内で、看板の中にはドラえもん壁画を報じる新聞の切り抜きがあります。








伝統的な中部タイの壁画様式で礼拝堂入り口から正面に仏陀像を安置し、その背後の壁画は須弥山、入り口は降魔成道図と釈迦を守る地母神です。釈迦の修行を妨害する魔王の軍勢の中にドラえもんが隠れています。
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さて、話をスパンブリーに戻します。
ワット サンパ シウ では再建された布薩堂に2002年から仏画師ラックキアット師が壁画を8年がかりで制作します。上座部仏教の宇宙観や釈迦の生涯を描いた仏伝図、前世を描いた本生譚(ジャータカ)と近世中部タイの伝統的な仏画です。仏画師は大好きなドラえもんを隠し絵のようにあちこちに潜めました。














正面となる仏陀像の背面壁画からです。
須弥山を中心とする宇宙が描かれています。左右には月と太陽、左下にはヒマラヤの森とそこに住む半人半鳥のキンナラ、キンナリーさらにアノタッタ湖の人魚と怪魚が、右下には現世の業が描かれています。
さらにその下で仏陀像の後に地獄の情景が展開します。左には天界と地獄を自由に往来できるプラ・マライ長老、右は地獄の裁きを待つ亡者たちです。いました、その中にドラえもんとのび太君です。


釜ゆでのドラえもんもいます。
大きな壁面に小さなドラえもんです。みんな一生懸命探し、見つけ出すと指で押さえるのでしょう、ドラえもんが黒ずんでいたり、周りの絵の具が無残に剥がれています。写真は剥がれた部分を修正しています。


仏陀像の正面、右入り口側の壁画です。
この中には4ヶ所にドラえもんが隠れています。のび太君もいます。
種明かしは次回に………