の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

プー・プラ・バート歴史公園に古代人を見る (1)

2014年01月28日 | ウドン・ターニー
■ウドン・ターニーで一泊しました。
ベトナムを植民地にするフランスは領土拡大をめざし、タイ領のラオス地域を、ラオスの宗主国はベトナムである、という口実をつけて割譲を要求しました。要求を拒否するタイ政府に対してフランス軍はメコン川流域へ進軍、1893年7月13日、フランス海軍は軍艦2隻をチャオプラヤ川を遡上させ、タイ軍と戦闘になります。「パークナム事件」(シャムの危機)です。フランス軍の近代化された軍備にタイ軍は歯が立たず、バンコク港を封鎖したフランスは、メコン川のすべての中洲、及び東岸のラオス地域の割譲、メコン川西岸から25km地域の非武装化、アンコール・ワットがあるシェリムアップ、パッタンバンの割譲等を迫ります。タイは無条件で要求をのみ、賠償金300万フランとタイ東部のチャンタブリー、トラートの占領を認めます。
メコン川から25km後退したタイは、この地に国境警備を置きウドン・ターニーと名付けました。
その後、ベトナム戦争中にはアメリカ軍が基地を置き町は賑わいました。

町ができて僅か130年という都市で、現在は農村で金髪、碧眼の青年が農地を耕していたり、色黒縮れ毛の女性が店番をして流暢なタイ語を話すのに驚かされる以外、見るべきものが何もない都市です。

バンコクとは逆方向になりますが、北西約65kmに「プー・プラ・バート歴史公園」があるので行ってみます。

朝のウドン・ターニーの市街です。

宿泊した「チャルーン・ホテル」の前景です。

ホテルの前で待機していたウドン・ターニーのタクシーです。

■国道22号線を12km北上、国道2021号線を西北西へひたすら走ると、「バーン・プーィ」の町に行きつきます。町中の狭い道路を抜け、道路標識のない道を不安だらけで11km進むとやがて「プー・プラ・バート歴史公園」の看板があります。分かりづらい看板で見落とすと大変なことになりそうです。
国道2012号線の途中で出会った牛の競り市です。大切に育てた牛を売りに出します。

角がかわいい、まだ若い牛達です。

仔牛もいます。

水牛です。

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■「プー・プラ・バート歴史公園」に通じる道路を途中で左折すると「プー・パン」山麓に「プラ・プッタバート・ブア・ボック」という寺院があります。
仏塔は1920年から34年にかけて建立されました。村人がこの地で深さ60cm、長さ1.93m、幅90cmの仏足跡を発見し「ボー・ボック」(涸れない水溜り)と呼ばれ、仏堂(モンドップ)を建立しましたが、1922年に仏塔(プラ・タート・チェディ)に改築されて、新たに仏足石の複製が安置されました。
仏塔の外観です。





仏塔の中には仏足石が祀られています。

巨石の岩陰で僧が勉強をしています。



寺院の敷地内にある奇岩です。下の岩は削られて平らになっています。古代人の住居か儀礼用の祭壇だったのでしょう。





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■「プー・プラ・バート歴史公園」は「パック・ナーム」又は「パック・ノック」と呼ばれるメコン川に注ぐ四本の川の源流がある森林地帯にあって120mから160mの「プー・パン」山の森にあります。村人が森の中で仏足跡を発見したことで「プー・プラ・バート」と呼ばれるようになりました。
公園入口の案内所には小さな展示室があり、寄贈された陶器や発掘され仏像等が展示されています。
寄贈されたラーンサン王国時代の陶器です。

6世紀から11世紀に栄えたドヴァラヴァディー時代の結界石です。

11世紀から14世紀にこの地まで支配を伸ばしたクメールの遺品でしょうか。



砂岩で作られた仏頭です。この地域固有のお顔でしょうか、他に類を見ないお顔です。
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「プー・プラ・バート歴史公園」の「プー・パン」山へ入っていきます。2.5km程のなだらかな山道を歩きます。公園案内所を出て、左の緩やかな道を進みます。
道脇にたくさん咲いていた花です。【Jute Corchorus】(ポーパーン)

先ず遭遇する奇岩です。
100万年前のこの一帯は氷河で覆われていました。岩盤が氷河に浸食され、風化で奇岩が出来上がりました。3000年から2500年前には古代人が住みつき岩壁に壁画を残し、6世紀から11世紀には奇岩を加工して仏像を彫ったり、仏塔に見立て結界石を立て聖域としました。
その後この地域に住んだ村人は、それぞれの奇岩に、この地で伝承されている民話「ウサ姫とバロット王子」にちなんだ名前を付けました。
「コーク・マー・ノイ」(小さな厩舎)と呼ばれる岩です。



周りには結界石が立てられ、屋根になった岩の下は削られ平らになっています。



次の岩で「コーク・マー・タオ・バロット」(バロット王子の厩舎)と命名されています。





「タム・ポージェー」(ポージェーの岩穴)

「タム・ポージェー」の結界石です。表面には彫刻が施されていたようですが、風化が激しくて全くわかりません。



「タム・リシ」(リシの岩穴)

岩壁に壁画が描かれた「タム・ウア、タム・コン」(牡牛の岩穴、人の岩穴)と名付けられた岩です。

水牛の絵です。



古代人です。


古代人の上にも古代人です。

壁画のある岩を別の角度から見ました。下の岩は削り過ぎで、屋根岩を支えきれずに崩れ落ちたようです。

路肩に咲いていた花です。【Drymogtossum Piloseloides Pilicinae】(ウェルマユラー)

岩の間を進みます。

竹に寄生したキノコです。【Polyporus Basidiorus Basidiomycetes】(ヘット・トーマイ)







岩壁に出ました。
「パー・サ・ディ」と呼ばれる所です。

ユネスコ世界文化遺産 バーン・チアン遺跡へ行く

2014年01月16日 | ウドン・ターニー

■バンコクへ戻るコースは幾通りもありますが、今回は「ナコーン・パノム」から国道22号線を西へ「サコン・ナコーン」を経由して、まず「ウドン・ターニー」へ出ることにします。約260kmの距離です。「ウドン・ターニー」からは国道2号線を南下して「ナコーン・ラーチャシーマー」、「サラブリー」、「アウター・リング道路」でバンコクに入ります。ウドン・ターニーからバンコクまでは約590kmです。
帰路の沿線を紹介します。

「ロイ・ルア・ファイ」(灯明舟流し)の翌日のメコン川は昨日の喧騒もなく静まり返っています。

ベトナム時計台です。ベトナム戦争で戦禍を逃れてこの地へ来たベトナム人が、戦争終結後、帰国するにあたり、受け入れてくれたタイに感謝して1960年に寄贈したものです。この一帯にはベトナム戦争以前からもたくさんのベトナム人が移住しており、市街南部にはベトナム独立の父、ホー・チ・ミンがフランス軍の追及を逃れて、1928年から2年間隠れ住んだ家があり、記念館として公開されています。



道路標識が示す通り、ベトナムまでは145kmしかありません。バンコクまで最短で740kmです。中国までと大差がありません。

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国道22号線を35km程進むと「ワット・プラタート・マハーチャイ」という案内標識があり、寄ってみました。幹線道路から2km程はいった「パラ・パック」の村にあります。
お寺の縁起は書かれていないのでわかりませんが、水曜日生まれの人が参拝する仏塔で、商売に大変なご利益があるそうです。
ナコーン・パノムは生まれた曜日毎にお参りする仏塔が分かれているようです。「プラタート・パノム」はさる年生まれの仏塔ですが、曜日別では日曜日生まれの人、「プラタート・ター・ウテーン」は金曜日、タイの三大美人を出生している町「レーヌ・ナコーン」の「プラタート・レーヌ」は月曜日というように七曜日の仏塔が定められています。
そういえば、灯明舟流しの会場に七基の仏塔のミニチュアが安置されていましたが、あれはお祭りに来た人が各地に点在する仏塔まで足を運ばなくてもよいように、との配慮からだったのでしょう。




この建物は博物館になっています。





大太鼓です。模様が面白くアップしました。

大太鼓の側面です。

国道22号線を西へ進み、サコン・ナコーンへ入ると「クッスッマン」の町役場が国道沿いにあって、敷地内に「タイ・ソー文化センター」があります。この地域の出土品や民具を展示した小さな博物館です。

タイの博物館は入館すると、まず国王なり、その地のかっての国主、または仏像が祀られています。「タイ・ソー文化センター」にも国主「アラン・アサー」と明示した像があります。人物の詳細は没年1924年ぐらいしかわかりません。

上段はラーンサン時代の古銭、下段はソンクラーム川流域陶器です。



発掘した壺であることと、発掘者の名前が書かれています。





「ムアン・カオ」の寺院跡から出土した500年前の仏像という説明がありますが、様式から見てもっと後の時代の仏像でしょう。

民具です。他に薬味などを入れる木箱がありました。

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■「ウドン・ターニー」の手前50kmに1992年、ユネスコ世界文化遺産に登録された前史時代墓墳遺構のバーン・チアン遺跡があります。
発掘当時は7000年前の世界最古の青銅器文明と話題になったそうですが、その後の調査で紀元前3600年から紀元前1000年の新石器時代、紀元前1000年から紀元前300年の青銅器時代、紀元前300年から西暦200年までの鉄器時代へと連なる文明跡と確認されています。
1967年に発掘を行ったペンシルベニア大学が幾層にも重なる遺跡を大雑把に掘り返し、7000年前から5000年前の遺跡と誤った年代を発表したようです。

バーン・チアン村の入り口にあるモニュメントで、バーン・チアンで発掘された幾何学模様の彩文土器があがっています
バーン・チアンはソンクラーム川上流の「ナ・カーム川」と「バン川」の間にある東西1.5km、幅500m程の村です。2本の川は村の下流で合流します。

出土品を展示する「バーン・チアン国立博物館」です。





「バーン・チアン」で有名なのは墳墓から副葬品として大量に出土した彩文土器です。幾何学模様の描かれた彩文土器は紀元前300年から西暦200年頃に造られています。
バーン・チアンを中心にウドン・ターニー、サコン・ナコーンのメコン川支流の河川沿いの土地で彩文土器や先史時代の遺構が124カ所確認されています。
バーン・チアンから少し離れた土地の知人の話でも、昔は農地から出土した土器片を建築材の補助資材として煉瓦の隙間に埋めていたようです。
バーン・チアンも同様で地元の人は出土した土器を種入れなどに使っていたようですが、現在は発掘状態のままで保存展示されている「ワット・ポー・シ・ナイ」近くの医師が、1957年に自宅を建設中に発掘された3個の壊れていない彩文土器を地元の小学校の校長に贈ったのが契機で、校長はその後発掘される土器を小学校に収集して展示したのが始まりのようです。

1966年イサーン地域の人類学研究のため現地を訪れたハーバード大学の学生「ステファン・ヤング」が木の根に躓き、倒れた所に彩文土器片が露出しており、掘り返したのが大発見となったという逸話がついています。
彼は土器片をペンシルベニア大学に送り調査を依頼、1967年の発掘となったようです。
ペンシルベニア大学は1974年、75年に芸術局と共にに再調査をおこなっています。





黒色刻文土器は初期の紀元前3600年から紀元前2500年頃の新石器時代に造られていたようです。

奥は儀礼用の水牛でしょうか。その横には乳棒、手前にはるつぼと青色のガラス玉が展示されています。
加工して装身具に使った貝殻やガラス玉はこの地方にはなく、紀元前3000年頃にはメコン川を使った交易ネットワークでもたらされたようです。特に、インドから輸入されたガラス玉がイサーン北部まで分布しています。
(ガラスはインドからという先入観で書きましたが、タイでもガラスの生産が行われていた可能性があります。)

銅を溶かするつぼです。発掘された銅の純度は85~90%で10~15%の錫を入れ融点を下げているようです。
原料となる銅はバーン・チアン北西約100kmのメコン川沿いのノーン・カーイ県、サムコーンにあるプーロン遺跡で紀元前1000年頃に採掘が始まっています。「プーロン」では銅鉱石を石製ハンマーで採掘した坑道跡や鉱石の粉砕、製錬、そして斧の鋳型も発見されており、製品の鋳造まで行われていたようです。こうして生産された青銅のインゴットや製品はメコン川やメコン川支流を利用して運搬されたようです。
また、発掘された青銅装身具や鉄製装身具には麻、綿で織られて染色された布片が付着しています。

発掘された人骨も展示されています。
人骨からはどのような人種が居住していたのかは特定できないようです。



発掘時の様子が復元されています。



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博物館前には土器の複製品が売る土産物店が並んでいます。大きめの壺でも200バーツ前後と、非常に安価です。



博物館から出て左へ1km程行った寺院(ワット・ポー・シー・ナイ)の境内に発掘した状態のままが展示されています。入館すると係員が何かごそごそと探しているなと思ったら、しばらくして中国語の解説が流れ出しました。
中国人でないことを説明して、放送を中止してもらいました。



ずいぶん浅い地層に遺跡があります。
余談ながら2003年にこの一帯を襲った大洪水は、この遺跡にも大被害をもたらしています。発掘時の状態とはかなり異なったものになっているのではないでしょうか。サンカロークの古窯址も大量のグラスウールで新しく作り直していましたが、掘り下げた土の表面は自然のようには見えません。
国立博物館は洪水被害によって大改造され、展示品も増加し、明るく見やすくなっていました。





人骨の上や周りは、副葬品の土器で埋め尽くすのが特徴のようです。





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宿泊はウドン・ターニー市街の外れにある「チャルーン・ホテル」です。一泊朝食付きで900バーツです。ホテルの窓から見る夕景です。


ロイ・ルア・ファイ(灯明舟流し) 3

2014年01月14日 | ナコーン・パノム

■「ロイ・ルア・ファイ」(灯明舟流し)の後編です。毎年、参加する灯明舟はその区域の経済状態によって異なるそうです。2012年は16隻、2013年は14隻が参加しています。
2012年の花火を上げながら流れていく灯明舟を掲載します。

満月の月明かりの中を母舟から放たれた小舟が流れていきます。

メコン川に灯明を灯した舟がゆっくりと流れていきます。写真の説明は必要ないかと思うので省きます。















































午後10時55分、最後の灯明舟が流れてきました。灯明の点火から4時間半が経っており、燃え尽きた灯明がちらほらと見受けられます。灯明の明るさもかなり弱まってきているようです。
3時間で16隻の灯明舟が流れて行きました。
約11分に1隻の舟が花火の色や手法を変えて流れていくため、3時間があっという間に過ぎ去ってしまいました。

入国ゲートをくぐってホテルへ戻ります。午後11時を周ったところです。

ベトナム時計台です。記念写真を撮影する人がたくさんいます。

川岸へ通じる道路は帰路に就く人、飲んでから帰る人であふれています。

ロイ・ルア・ファイ(灯明舟流し) 2

2014年01月13日 | ナコーン・パノム
■「ロイ・ルア・ファイ」(灯明舟流し)です。数万個の灯明で飾り付けられた舟が満月に照らされたメコン川を下っていきます。
かって、ナコーン・パノムを中心に北部イサーン、中部ラオスにまたがる「シー・コタブーム」という国があり、その頃から続く祭りだと言われています。
対岸のラオスでも「ロイ・ルア・ファイ」が催されています。

午後5時です。川の中ほどまで灯明舟が曳航されていきます。「ロイ・ルア・ファイ」祭りの開始時間は午後7時です。開始までまだ2時間あります。

午後5時25分、陽が沈み、空が紫色に染まる頃、先頭の舟に灯明に点火されました。

全ての灯明が灯るのに30分以上かかっていました。

後方でも灯油が燃えて黒煙が立ち昇っています。

午後5時53分、十五夜の月が顔を出します。

ドラえもんの「コーム・ローイ」です。みんなが注目しています。

午後6時57分、打上げ花火が上がって「ロイ・ルア・ファイ」の開始です。出入国チェックポイントを出て船乗り場へ行く階段で観戦です。帰国、入国する人を乗せた船が入ってきます。この場所からだとトイレに行くにもパスポート・コントロールを通らなければなりません。

それぞれの灯明舟が流れる順序に従って配置についています。







それぞれの灯明舟が、花火の手法を変えながらメコン川を流れていきます。










全長100m近くあった灯明舟ですが、メコン川に浮かぶと大きさを感じません。















こちらは対岸のラオスの灯明舟です。国力の差でしょうか、灯明舟は距離があるとはいうものの、かなり小さく映ります。

ロイ・ルア・ファイ(灯明舟流し) 1

2014年01月10日 | ナコーン・パノム
■陰暦11月の満月の日は、三か月間、寺に籠って修行をしていた僧が修行を終え、初めて外出が許される日「出安居」(オーク・パンサー)です。
「オーク・パンサー」を祝った催しが各地で行われます。
イサーンのメコン川沿いの町、「ナコーン・パノム」では竹組をした舟(筏)に灯明を灯しメコン川を下っていきます。「灯明舟流し」(ロイ・ルア・ファイ)です。
行事の一つに3km距離を競うボート・レースもあります。十三夜の日に催されます。

このあたりは川幅が1km以上ありそうで、流れも比較的緩やかです。競技は2艘から4艘で行われます。
手前の艇は競技を終えスタート付近へ戻ってきたところです。
奥に並んだ3艘がスタートラインに就いたところです。
川の中ほどで行われるため写真には小さくしか写りません。

スタートしました。









競技が終了、艇を陸に揚げてきました。皆、戦いを終え疲れ切った様子です。



こちらの艇を担ぐ人たちはにこやかです。成績が良かったのでしょうか・・・。


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■明日が満月の日です。早朝河岸を歩いてみました。

灯明舟が岸辺に繋がれています。
「舟」としましたが、ドラム缶で浮力を持たせ、竹を用いて櫓に組み上げた「筏」です。年々大型化しているそうで、最大のものは全長96m、高さ29m、幅15mで灯明の数が3万個です。



絵柄に合わせてぶら下げれれている灯明です。
缶コーヒーの空き缶に穴をあけ、灯芯を差し込み、灯油を満たしています。

早朝から作業にかかっている舟があります。舟までかなりの距離があるのですが、写真を写していると全員ピースサインを出してくれます。



岸では空き缶に灯油入れの作業中です。余談ながらタイの灯油は識別のため、水色に着色されています。

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■午前10時、再び灯明舟の係留場所へ来ました。





この舟は作業の人影も少なく、仕上げ段階に入ったようです。手前の人物がボードに貼られたデザイン図を見ながら調整の指示をしています。

舟幅12m、高さ29mの灯明舟もあるようですが、見るからに不安定な構造です。頂上の旗が烈しくはためいていますが、突風が吹いたり、川中まで曳航するタイミングが狂えば転倒しそうです。

こちらもマイク片手に作業をチェックしています。





川岸から空き缶の灯明がバケツに入れられ灯明舟状の作業者へケーブルを利用して送られます。

灯油を入れビニールで覆って舟にぶら下げる空き缶が、まだたくさん残っています。
参加する区域の人は1年間、毎日缶コーヒーを飲み続けないといけないようです。





灯明舟のデザイン図です。タイ・ラオス第三友好橋と国王陛下の肖像です。



こちらも灯油入れの最中ですが、用意された空き缶はたくさん残っています。
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■灯明舟準備作業の写真は2011年10月12日の「ロイ・ルア・ファイ」を掲載しました。
この年の11月にはナコーン・パノムとラオスのター・ケークを繋ぐ「タイ・ラオス第三友好橋」の開通が予定されているため、友好橋を扱ったデザインの灯明舟がたくさんありました。