の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

イサーンへ旅する(マハーサーラカーム)

2015年03月20日 | マハ・サラカーム

午後3時15分、ワット・サワン・ワリー・パッタナラームを後にし、国道23号線を、東へ走ります。約70kmでマハーサーラカームです。

午後4時20分、マハーサーラカーム到着です。取敢えずタクシラ・ホテルに泊まります。一泊1100バーツです。









部屋に掛けられた絵は、半人半鳥で美しい歌声の天女のキンナリーです。ときおり地上に舞い降りて、水浴びなどをして遊んでいます。

時間も早く、ホテル周辺を散策してみます。

店のテレビをたくさんの人が囲んで盛り上がっています。ムエタイが放映されています。
お金が賭っているので皆さん熱くなっています、

散髪屋さんです。大人60バーツ、子供が30~40バーツです。バンコクでは大人100バーツです。

立派なショッピングセンターがあります。



一着59バーツです。地方へ来ると物価もずいぶん安くなります。

まだ午後5時ですが、来たついでにKFCで夕食にします。こちらは全国統一というより世界統一価格で、バンコクでも割高感があります。
同じように世界統一価格のマクドは立地場所によって価格が多少異なりますが、ハンバーガー1個で屋台の食事なら2、3回は食べられます。





巨大なドブネズミです。



マハーサーラカームのバスターミナルです。

川淵でタバコを吸っていると、サムローの運転手もタバコを吸いに寄ってきました。そこで、市内周遊を持ち掛けます。
客をとる順序があるようで、客待ちをしている別のサムローを呼びに行きました。

やって来たサムローです。市内周遊1時間200バーツで交渉成立です。
マハーサーラカームの市内には見るべき観光地はありません。運転手も悩んで、どこへ行けばいいか相談をしています。聞いているとワット・スワイが良いのではないかということになりました。

出発です。

まず時計台を周り北へ向かいます。



やって来たのは「ワット・パー・ワン・ナーム・イェン」です。

チーク材の立派な礼拝堂です。

建設中の仏塔です。



午後5時50分、夕陽が沈みかけています。



帰路はホテルまで送ってもらいます。


イサーンへ旅する(コーン・ケン)

2015年03月18日 | コーン・ケン

3月15日付の「ロイター」のニュースで『スペインの「世界一怖い遊歩道」、改修を経て14年ぶり開通へ』という記事がありました。スペイン南部のマラガ近郊の峡谷にある「エル・カミニート・デル・レイ」(王の小道)は1901年から05年に建築された3kmの歩道で、岩壁の地上100mの位置にあります。
写真は改修前です。横に走る筋が遊歩道で、一部が崩落しています。

写真を見て「桟道」という言葉が浮かび、中国の「蜀の桟道」をネット検索すると、蜀の桟道よりすごい「崋山長空桟道」に行き当たりました。写真を見ただけで体が委縮してしまいました。
蜀の桟道も宝鶏から漢中まで235kmといいますから、写真を見ただけで背筋が寒くなる場所もあるのでしょうが、崋山長空桟道は高度1000mの位置に板3枚を並べた桟道で、桟道を渡った所に道教の祠があるそうです。だから、この桟道は一方通行ではなく、体をすり合わせての往来になります。
相当誇張されているのでしょうが、年間100名以上が転落死するそうです。いくら中国とはいえ転落事故が多発すれば立ち入り禁止になると思いますが。
ちなみに、スペインの遊歩道は5名の死亡事故で2001年に閉鎖されたようです。


さて、冒頭の写真はタイの桟道です。イサーンの最東北県ブンカーンの「プー・トーク」の断崖に造られています。今回はプー・トークを巡る旅を紹介します。

プー・トークまではバンコクから825kmの走行で到着しましたが、まずは往路からです。

午前8時、まずはガソリン・スタンドに併設されているコーヒー・ショップでアイス・コーヒーを購入です。
椅子に腰かけている恐竜坊やはガソリン・スタンド「PTT]のマスコット人形です。

バンコクから北へ抜ける高速道路、通称「ラムイントラ線」です。平日の朝夕は大渋滞をする通勤道路ですが、日曜の朝は走行車もまばらです。

午前9時15分トイレ休憩です。



ピーナッツを買います。タイのピーナッツは殻の中に4、5個豆が詰まっており、塩水で湯掻いています。一袋20バーツです。

「サイ・マイ」と呼ぶ砂糖菓子です。

タイ産ブドウのジュースです。5本が100バーツ。糖分が少ないようです。



こちらはゆで卵ではなく焼き卵です。生卵を串刺しにして焼きます。
一串、20バーツです。



国道一号線を北上すると、建設中の大仏があります。国道沿いにあって、通るたびに気になっていたのですが、今回は寄ってみました。

大きな庭石がごろごろしています。







光背の所で3名が作業中です。作業者の大きさから仏像の巨大さが類推できます。

午前10時、国道2号線をコラート台地へ登って行きます。連休は言うに及ばず、土曜日でも大渋滞する登坂路ですが、出発が日曜日のため通行量も少なく快適走行です。



正午になりました。食事休憩です。タイの建築法は商店、工場等は敷地面積でトイレの数を規制しています。工場などは敷地も広く膨大な数のトイレを設置しなければならず、建築申請時はトイレを後日建設ということで認可を受けます。現実に即していない法律ですが、ガソリンスタンド等はこの法律のおかげでたくさんのトイレが設置されており、日本のサービスエリアのような機能を果たしています。
ここでは衣料品を商っています。

タイでは人気の高い歌手「カラバオ」です。何故か日本語です。

駐車中の車のダッシュボードに僧侶の像が鎮座しています。交通安全のお守りです。

昼食です。



敷地の隅にヤンマーのトラクターが展示されていますが、呼称は「クボタ」です。クボタのタイ進出は早くて知名度が高く、一般にトラクターを「クボタ」と呼びます。日本で言えば、紙おむつが「パンパース」であったり、古いところでは「ウォークマン」のようなものです。

トラクター横の地面にたくさんの花が落ちています。

糸を束ねた房のような花ですが、早朝に落花するようです。
前日、チャンタブリーの海岸で結婚式があり、行く途中の午前6時30分頃にラヨーンのガソリン・スタンドに寄りました。そこに、この花より一回り大きな同形状の花があり、盛んに落下していたのです。清掃の女性が掃いているのですが、すぐに降り積もるという状態でした。
誰に聞いても花の名前を知りませんでした。

木には蕾はありますが、花は一つもありません。全て落花しています。

柿のような実が付いています。



「チュワン・チョム」です。一年中花を咲かせ、切りつめても芽を出し、切った枝をそのまま挿しておいても発根する丈夫な花木です。品種改良によってたくさんの種類があります。
チュワン・チョムの鉢植えを専門に扱う店もあり、花のコンテストもよく開催されています。

「ダー・ラー」です。ショウガ科の植物で、東南アジアには約25種類が分布しています。
真紅の花が多いですが、ここのはピンク色をしています。

「ラントム」です。

午後1時を過ぎると気温は39℃まで上昇してきました。
タバコを吸うため車の窓を開けると熱風が入って来ます。

今日の宿泊地は決めておらず、まだ時間も早く、走行も400kmを越えたので休憩がてら、昨年訪れた寺院のシム(布薩堂)をもう一度見ていくことにします。
午後2時30分です。

「ワット・サワン・ワリー・パタナラーム」です。
1867年の建立で、シムは1923年にベトナム人の職人によって煉瓦と漆喰で建築されています。幅5m、奥行き7.3mの小さな建物です。
壁画はお釈迦様の前世の物語、ジャータカ(本生譚)で堂外は「シンサイ物語」、堂内に「パー・ウェットサンド物語」が1953年に描かれています。

■壁画の内容は、「イサーンのシム(布薩堂)・ワット・バン・フアノーン」(2014年6月23日投稿を参照してください。

カメラが新しくなり、少しは撮影技術も向上したかと思ったのですが、昨年の写真と比べると、全く同じ撮り方しかいていないのに、我ながら驚いています。
カメラのおかげで画像が少し良くなっているので、そのまま掲載します。









シムの正面です。



窓から見る堂内の壁画です。





堂内へ入って来ました。お線香と賽銭を供えておきます。







境内に咲いていた花です。
「Japanese Beed Tree」という名前です。
「日本の数珠玉の木」ですが、実が数珠玉になるのでしょうか、日本では見かけない花木です。タイでは「リー・アン」と呼ばれています。

「夾竹桃」です。

アユタヤ世界遺産フェスティバル(5)

2015年03月17日 | アユタヤ


ワット・マハタートを背景にライト&サウンド・ショー『アユタヤ 特色に溢れた古の都 ~栄光は永遠に色褪せない~』が開催されます。
2014年は12月12日から12月21日までの期間中に土日と最後の金曜日は2回、合計15回上演されました。

午後7時、定刻通りの開演です。
日本語版パンフレットによると、4幕の構成で、第一幕が「素晴らしき位置」『アユタヤの特徴は海へ繋がるチャオプラヤー川、パーサック川、そしてロッブリー川の3本の川に囲まれ、中洲内に位置されてため多彩な自然、資源を豊かにめぐまれ、都の建設地としては大変相応しかった。』という語りから始まります。
文面はパンフレットからそのまま転載しています。

第二幕「素晴らしき建築」『ラマティボディー1世王(ウートン王)によるアユタヤの創始当時の都の建設、他国と違い、特色を持っている文化的な建築で彫刻・美術などについて語られます。』









第三幕」「素晴らしき暮らし」『創立され長い歳月を経て平和が訪れたアユタヤでは、色々な国と盛んに交易が行なわれ、特色ある文化・伝統の業を造り出す余裕が生まれました。そんな豊かになり、油断のアユタヤをみて、敵国が攻撃してきた。その結果は、当時のスリヨタイ王妃が犠牲になってしまった。その後、アユタヤは敵国に2回も支配され、1569年と1767年には独立戦争が行なわれた。』









1351年、周辺都市国家を統一したスパンブリーのウートン王はアユタヤに王都を建設ます。ウートーン王は版図をクメール帝国へ拡大、アンコール・トムを攻撃し、人口希薄なアユタヤへたくさんの捕虜を連行します。
アユタヤの統治機構や美術様式はクメールから導入されました。





スコータイを併合、マレー半島も支配下に置き、交易国家として富を蓄えていきます。

中央の着物を着ているのは日本人でしょうか・・・。

侵略してきたビルマ軍です。
ビルマでは国家統一を果たしたタウングー王朝(1531年~1752年)が、さらに領土を拡大するため、1548年からチャクラパット国王が統治するアユタヤへ侵攻します。

ビルマに劣勢であったアユタヤを救うため戦闘に加わる、男装をした王妃シー・スリヨータイの登場です。

騎象のシー・スリヨータイです。

チャクラパット国王を助けて果敢に戦うシー・スリヨータイです。









ビルマ軍の槍先に斃れるシー・スリヨータイです。

槍で刺され象の鼻が血で赤く染まって行きます。
実際は、王の象が倒れ、助けに寄ったシー・スリヨータイはビルマ兵の草刈鎌によって殺害されたようですが、シー・スリヨータイの実在自体を証明する考古学的な資料はなにもありません。







甦った不死身(?)のシー・スリヨータイです。
タイの国難を救った四大女傑の一人で、2001年にはシリキット王妃がスポンサーとなり、スリヨータイ王妃の生涯を描いた映画「スリヨータイ」が制作され、大ヒットします。
以降、ナレースワンの映画など大時代劇映画が制作されます。山田長政を描いた「サムライ・アユタヤ -ヤマダ-」という映画もありました。





その後、ビルマはラーンナーへ侵攻、一大勢力を誇ったラーンナーも1558年に陥落、以後200年間ビルマの属国となります。北方を支配したビルマは、ラーンナーの軍勢を率いて南下、ピサヌロークを制圧します。
ピサヌロークの領主マハータンマラーチャーは息子ナレースワンを人質として差し出します。
1569年にアユタヤもビルマの攻撃で陥落します。

ビルマはマハータンマラーチャーをアユタヤの王に据えます。新王家による第20代国王が誕生します。

1571年、ナレースワンは帰国を許され、ピサヌロークの領主に任ぜられます。
勢力の弱まったアユタヤに対してクメールは反撃を始めます。アユタヤのビルマ軍もクメールからの防衛目的のアユタヤの軍備増強は認めるしかありませんでした。
この時の軍事強化で確立したのがムエタイだと言われています。
以前は軍事教練場面があったのですが、今回は省かれているようです。

ナレースワン大王の登場です。





ビルマではタウングー王朝のバインナウン王が逝去、国内が不安定になったのを見計らい、ナレースワンがビルマに対して挙兵します。



両軍の象が爪先立って気勢をあげます。戦闘開始です。



象も闘います。

象の演技もたいしたものです。









ナレースワンはビルマ軍を駆逐し、アユタヤの独立を獲得します。





1767年、コンバウン王朝(1752年~1885年)となったビルマがアユタヤを攻略、417年続いたアユタヤは滅亡します。

王都アユタヤはビルマ軍の略奪と破壊で廃墟となります。









アユタヤに再び独立をもたらしたのは、潮州系華人のタークシン王です。
潮州系中国人の支援を得てタイ人軍勢と共に1767年トンブリーのビルマ要塞を奪還、続いてアユタヤ周辺のビルマ勢を排除しました。





アユタヤのビルマ軍を駆逐したトンブリー王朝のタークシン王(在位:1767年~1782年)です。

第四幕「栄光なる世界遺産のアユタヤ」『長い歴史を持ち過去に大いに繁栄していたアユタヤを見て、世界に価値があると認めたUNESCOが1991年12月にあゆたやを歴史の街として世界遺産に登録したという喜ばしい出来事について語られます。』【日本語訳:アユタヤラチャパット大学 日本語学科】












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閉幕です。出演者が舞台の前に勢揃いします。







象さんがサービスの演技を披露です。



美女たちが舞台下に並んでくれました。記念撮影です。





騎馬兵たちもいます。



こちらは警備のお巡りさんです。



ライト・アップされたワット・プラ・ラームの仏塔です。ウートン王の火葬場として第2代国王ラーメスワン(在位:1369年~1370年)によって建立されました。
第34代国王ボーロマコート時代に改修工事が行われ、美術様式は殆どボーロマコート時代の様式に変更されています。


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帰路ワット・チャイ・ワタナラームで夜景を撮影しました。


アユタヤ世界遺産フェスティバル(4)

2015年03月16日 | アユタヤ

入場チケットです。最前列のど真ん中です。200バーツです。
チケットの裏面です。

時代劇、正式には「ライト&サウンド・ショー」のパンフレットです。日本人鑑賞者が多いようで、毎年日本語のパンフレットが用意されています。

取敢えず座席位置を確認しておきます。

時代劇会場の西隣には、仏塔の周りに出店があります。まずは夕食です。

仏塔のさらに西側にも舞台があります。舞台上では開演の準備中です。

食券代わりに、彼女たちの間に盛られている陶貝(貝貨)を買います。

陶製の貝です。1個10バーツになっています。
何に使ったかは分かりませんが、サンカロークでも陶製の貝が出土しています。

子供も本日はお手伝いです。
カキを炒めたホイ・トートを売っています。

彼女はお菓子を練っています。

きれいに盛られたお菓子です。





ホイ・トートと鶏のから揚げ買いました。





鳥のから揚げとホイ・トートだけでは到底満腹にはならず、ごはんにタイカレーを掛けたものを頂きます。

仏塔の基壇に腰掛けて、タイ舞踊を見ながら食事です。


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出番を待つラーマキエンの役者さんたちです。
毎年仏塔西側の舞台は催しの内容が違うようですが、今年は「ラーマキエン」です。タイ舞踊に続いて開演されます。

右が魔王「トッサカン」です。
猿軍も面の色や表情によってそれぞれ名前があるようです。




舞台は魔王に妃シータを誘拐されたラーマ王子がハヌマーン率いる猿軍と奪還の方法を話し合っています。











魔王のランカ国へ偵察に向かうハヌマーンです。

まだ人通りも少なく、観客も僅かです。

場面が変わり、ハヌマーンと魔王の二人劇です。



後ろに立っている白服の人が、面を被った役者の台詞をしゃべります。



ハヌーマンと魔王は森の隠者に出会います。
隠者はマイクを持って自ら話しますが、三者のやり取りがおもしろく、会場が沸きます。





見せ場の魔王軍とラーマ王子軍の戦闘場面を前に、時代劇会場へ移動します。

時代劇の開場は午後7時からです。混雑を避けるため午後6時40分に移動します。出店が並ぶ通路は、大勢の人出になっています。

会場手前では、象のショーが催されています。しばらく見ていくことにします。



「白象の腹くぐり」、霊験があらたかな白象のお腹の下を3回くぐりながら願いを唱えると叶うそうです。でもこの白象はお化粧で白くなっているだけです。
ご利益のほどは別にして、みんな楽しんで象の下をくぐって行きます。

妃スリヨータイをビルマ軍との戦闘で失った、第18代国王チャクラパットはビルマの侵略に対して軍の増強を図ります。戦用の象狩りを盛んに行ない、白象を7頭集め「白象王」と呼ばれるようになりました。
ビルマ王はその内の2頭を要求、チャクラパットが拒否したためビルマ軍はアユタヤを侵略し、白象を4頭奪取、多数の人質と共にアユタヤはビルマの属国となります。

アユタヤ世界遺産フェスティバル(3)

2015年03月13日 | アユタヤ
メイン会場に北接する「ワット・タミカラート」に来ました。
伝説ではアヨーティヤー王国のサーイ・ナムプン王(北方年代記では在位1027年~1056年)の王子タンミッカラートが王位(1056年~1107年)に就いてからワット・ムッカラートを建立したと言われています。
後に寺院の名前は建立者の名前に変更されました。
いずれにしてもアユタヤ王朝建国以前、もしくはアユタヤ王朝初期の建立で、王宮の隣に立地することからアユタヤ時代の重要寺院であったことが窺えます。
1767年のビルマ侵攻で王宮とともに激しく破壊され、以後放棄されますがラーマ5世の治世に再興されました。

ワット・タミカラートが歴史資料として初めて登場するのは、第18代国王チャクラパット(在位:1548年~1569年)が第16代国王シーシン(在位1548年)を反逆罪でワット・タミカラートに幽閉を命じたことです。
(「ウィキペディア」によるとシーシン王はクメール人ウォ-ラウォンサーによって毒殺された第14代国王チャイラーチャー(在位:1543年~1547年)、自身の殺害計画を事前に察知し処刑した第15第国王ヨートファー(在位:1547年~1548年)に替わって擁立されまれましたが、すぐにウォーラウォンサー自身が第17代国王として即位します。しかし、アユタヤ王家でない国王に不満を抱く高官ピレーンテープ(1569年、第20代国王として即位)たちに即位42日後に暗殺されます。)

門をくぐった左手に新しい礼拝堂があり、寝仏が安置されています。







仏足跡です。かかとの部分は割れてありません。

青銅製のウートーン様式の大仏頭です。発掘されたオリジナルはチャオ・サム・プラヤー国立博物館の入り口正面に安置されています。
頭髪の生え際の処理、つながった眉毛、角ばった顔つきはクメール様式の影響を受けているのが良く分かります。

仏塔の前の倚座像は1590年にビルマからの独立を回復したナレースワン大王です。
供えられた闘鶏はここでお祈りして宝くじが当たったり、商売で大金をつかんだ人がお礼参りしたものです。

仏塔の基壇は方形で、各面に13頭、合計52頭のクメール様式の漆喰製獅子像が支えます。
仏塔の調査の結果、仏塔内部にはアユタヤ時代初期に建築された相似形の小型仏塔があり、それを覆う形で現在の形に改築されているのが判明しています。











崩れた尖塔部が地面に落ちています。

煉瓦と漆喰で建設された長方形の「ソン・ターム礼拝堂」で前後に柱廊玄関を備えています。







アサヒカズラです。一般にピンク色の花を咲かせていますが、ここでは白色です。やはり、プアン・チョムプーと呼ぶのでしょうか・・・。

パパイヤの花です。

駐車場の立木部分は発掘されていないので、寺院壁でしょうか、積んだ煉瓦がそのままで、陶片が散乱しています。