の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

ワット・ウォラチェット(アユタヤ)

2016年02月27日 | アユタヤ
2014年正月旅行の最終回です。
サム・チュック百年市場を午後3時21分スタート、国道340号線を56km南下し、国道3263号線を35km東行するとアユタヤ郊外を南北に走る国道347号線に行きつきます。交差点を直行し、すぐの右手に「ワット・ウォラチェット」はあります。
アユタヤ遺跡群の中で、一番西に位置する遺跡です。
午後4時40分、休憩がてらに寄っていきます。



西陽が射して、遺跡の煉瓦がより赤くなります。



六角の小仏塔です。

漆喰が残っています。

クメール風の仏塔です。










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結界石に囲まれた遺構です。
僧侶を同伴した3名の女性がお参りしています。

基壇には大きな仏頭が安置されています。









礼拝堂にも壊れた仏像が並んでいます。





午後5時16分帰路につきます。
* * * * *

9日間の総走行距離は1,997kmでした。

アユタヤ世界遺産フェスティバル(5)

2015年03月17日 | アユタヤ


ワット・マハタートを背景にライト&サウンド・ショー『アユタヤ 特色に溢れた古の都 ~栄光は永遠に色褪せない~』が開催されます。
2014年は12月12日から12月21日までの期間中に土日と最後の金曜日は2回、合計15回上演されました。

午後7時、定刻通りの開演です。
日本語版パンフレットによると、4幕の構成で、第一幕が「素晴らしき位置」『アユタヤの特徴は海へ繋がるチャオプラヤー川、パーサック川、そしてロッブリー川の3本の川に囲まれ、中洲内に位置されてため多彩な自然、資源を豊かにめぐまれ、都の建設地としては大変相応しかった。』という語りから始まります。
文面はパンフレットからそのまま転載しています。

第二幕「素晴らしき建築」『ラマティボディー1世王(ウートン王)によるアユタヤの創始当時の都の建設、他国と違い、特色を持っている文化的な建築で彫刻・美術などについて語られます。』









第三幕」「素晴らしき暮らし」『創立され長い歳月を経て平和が訪れたアユタヤでは、色々な国と盛んに交易が行なわれ、特色ある文化・伝統の業を造り出す余裕が生まれました。そんな豊かになり、油断のアユタヤをみて、敵国が攻撃してきた。その結果は、当時のスリヨタイ王妃が犠牲になってしまった。その後、アユタヤは敵国に2回も支配され、1569年と1767年には独立戦争が行なわれた。』









1351年、周辺都市国家を統一したスパンブリーのウートン王はアユタヤに王都を建設ます。ウートーン王は版図をクメール帝国へ拡大、アンコール・トムを攻撃し、人口希薄なアユタヤへたくさんの捕虜を連行します。
アユタヤの統治機構や美術様式はクメールから導入されました。





スコータイを併合、マレー半島も支配下に置き、交易国家として富を蓄えていきます。

中央の着物を着ているのは日本人でしょうか・・・。

侵略してきたビルマ軍です。
ビルマでは国家統一を果たしたタウングー王朝(1531年~1752年)が、さらに領土を拡大するため、1548年からチャクラパット国王が統治するアユタヤへ侵攻します。

ビルマに劣勢であったアユタヤを救うため戦闘に加わる、男装をした王妃シー・スリヨータイの登場です。

騎象のシー・スリヨータイです。

チャクラパット国王を助けて果敢に戦うシー・スリヨータイです。









ビルマ軍の槍先に斃れるシー・スリヨータイです。

槍で刺され象の鼻が血で赤く染まって行きます。
実際は、王の象が倒れ、助けに寄ったシー・スリヨータイはビルマ兵の草刈鎌によって殺害されたようですが、シー・スリヨータイの実在自体を証明する考古学的な資料はなにもありません。







甦った不死身(?)のシー・スリヨータイです。
タイの国難を救った四大女傑の一人で、2001年にはシリキット王妃がスポンサーとなり、スリヨータイ王妃の生涯を描いた映画「スリヨータイ」が制作され、大ヒットします。
以降、ナレースワンの映画など大時代劇映画が制作されます。山田長政を描いた「サムライ・アユタヤ -ヤマダ-」という映画もありました。





その後、ビルマはラーンナーへ侵攻、一大勢力を誇ったラーンナーも1558年に陥落、以後200年間ビルマの属国となります。北方を支配したビルマは、ラーンナーの軍勢を率いて南下、ピサヌロークを制圧します。
ピサヌロークの領主マハータンマラーチャーは息子ナレースワンを人質として差し出します。
1569年にアユタヤもビルマの攻撃で陥落します。

ビルマはマハータンマラーチャーをアユタヤの王に据えます。新王家による第20代国王が誕生します。

1571年、ナレースワンは帰国を許され、ピサヌロークの領主に任ぜられます。
勢力の弱まったアユタヤに対してクメールは反撃を始めます。アユタヤのビルマ軍もクメールからの防衛目的のアユタヤの軍備増強は認めるしかありませんでした。
この時の軍事強化で確立したのがムエタイだと言われています。
以前は軍事教練場面があったのですが、今回は省かれているようです。

ナレースワン大王の登場です。





ビルマではタウングー王朝のバインナウン王が逝去、国内が不安定になったのを見計らい、ナレースワンがビルマに対して挙兵します。



両軍の象が爪先立って気勢をあげます。戦闘開始です。



象も闘います。

象の演技もたいしたものです。









ナレースワンはビルマ軍を駆逐し、アユタヤの独立を獲得します。





1767年、コンバウン王朝(1752年~1885年)となったビルマがアユタヤを攻略、417年続いたアユタヤは滅亡します。

王都アユタヤはビルマ軍の略奪と破壊で廃墟となります。









アユタヤに再び独立をもたらしたのは、潮州系華人のタークシン王です。
潮州系中国人の支援を得てタイ人軍勢と共に1767年トンブリーのビルマ要塞を奪還、続いてアユタヤ周辺のビルマ勢を排除しました。





アユタヤのビルマ軍を駆逐したトンブリー王朝のタークシン王(在位:1767年~1782年)です。

第四幕「栄光なる世界遺産のアユタヤ」『長い歴史を持ち過去に大いに繁栄していたアユタヤを見て、世界に価値があると認めたUNESCOが1991年12月にあゆたやを歴史の街として世界遺産に登録したという喜ばしい出来事について語られます。』【日本語訳:アユタヤラチャパット大学 日本語学科】












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閉幕です。出演者が舞台の前に勢揃いします。







象さんがサービスの演技を披露です。



美女たちが舞台下に並んでくれました。記念撮影です。





騎馬兵たちもいます。



こちらは警備のお巡りさんです。



ライト・アップされたワット・プラ・ラームの仏塔です。ウートン王の火葬場として第2代国王ラーメスワン(在位:1369年~1370年)によって建立されました。
第34代国王ボーロマコート時代に改修工事が行われ、美術様式は殆どボーロマコート時代の様式に変更されています。


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帰路ワット・チャイ・ワタナラームで夜景を撮影しました。


アユタヤ世界遺産フェスティバル(4)

2015年03月16日 | アユタヤ

入場チケットです。最前列のど真ん中です。200バーツです。
チケットの裏面です。

時代劇、正式には「ライト&サウンド・ショー」のパンフレットです。日本人鑑賞者が多いようで、毎年日本語のパンフレットが用意されています。

取敢えず座席位置を確認しておきます。

時代劇会場の西隣には、仏塔の周りに出店があります。まずは夕食です。

仏塔のさらに西側にも舞台があります。舞台上では開演の準備中です。

食券代わりに、彼女たちの間に盛られている陶貝(貝貨)を買います。

陶製の貝です。1個10バーツになっています。
何に使ったかは分かりませんが、サンカロークでも陶製の貝が出土しています。

子供も本日はお手伝いです。
カキを炒めたホイ・トートを売っています。

彼女はお菓子を練っています。

きれいに盛られたお菓子です。





ホイ・トートと鶏のから揚げ買いました。





鳥のから揚げとホイ・トートだけでは到底満腹にはならず、ごはんにタイカレーを掛けたものを頂きます。

仏塔の基壇に腰掛けて、タイ舞踊を見ながら食事です。


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出番を待つラーマキエンの役者さんたちです。
毎年仏塔西側の舞台は催しの内容が違うようですが、今年は「ラーマキエン」です。タイ舞踊に続いて開演されます。

右が魔王「トッサカン」です。
猿軍も面の色や表情によってそれぞれ名前があるようです。




舞台は魔王に妃シータを誘拐されたラーマ王子がハヌマーン率いる猿軍と奪還の方法を話し合っています。











魔王のランカ国へ偵察に向かうハヌマーンです。

まだ人通りも少なく、観客も僅かです。

場面が変わり、ハヌマーンと魔王の二人劇です。



後ろに立っている白服の人が、面を被った役者の台詞をしゃべります。



ハヌーマンと魔王は森の隠者に出会います。
隠者はマイクを持って自ら話しますが、三者のやり取りがおもしろく、会場が沸きます。





見せ場の魔王軍とラーマ王子軍の戦闘場面を前に、時代劇会場へ移動します。

時代劇の開場は午後7時からです。混雑を避けるため午後6時40分に移動します。出店が並ぶ通路は、大勢の人出になっています。

会場手前では、象のショーが催されています。しばらく見ていくことにします。



「白象の腹くぐり」、霊験があらたかな白象のお腹の下を3回くぐりながら願いを唱えると叶うそうです。でもこの白象はお化粧で白くなっているだけです。
ご利益のほどは別にして、みんな楽しんで象の下をくぐって行きます。

妃スリヨータイをビルマ軍との戦闘で失った、第18代国王チャクラパットはビルマの侵略に対して軍の増強を図ります。戦用の象狩りを盛んに行ない、白象を7頭集め「白象王」と呼ばれるようになりました。
ビルマ王はその内の2頭を要求、チャクラパットが拒否したためビルマ軍はアユタヤを侵略し、白象を4頭奪取、多数の人質と共にアユタヤはビルマの属国となります。

アユタヤ世界遺産フェスティバル(3)

2015年03月13日 | アユタヤ
メイン会場に北接する「ワット・タミカラート」に来ました。
伝説ではアヨーティヤー王国のサーイ・ナムプン王(北方年代記では在位1027年~1056年)の王子タンミッカラートが王位(1056年~1107年)に就いてからワット・ムッカラートを建立したと言われています。
後に寺院の名前は建立者の名前に変更されました。
いずれにしてもアユタヤ王朝建国以前、もしくはアユタヤ王朝初期の建立で、王宮の隣に立地することからアユタヤ時代の重要寺院であったことが窺えます。
1767年のビルマ侵攻で王宮とともに激しく破壊され、以後放棄されますがラーマ5世の治世に再興されました。

ワット・タミカラートが歴史資料として初めて登場するのは、第18代国王チャクラパット(在位:1548年~1569年)が第16代国王シーシン(在位1548年)を反逆罪でワット・タミカラートに幽閉を命じたことです。
(「ウィキペディア」によるとシーシン王はクメール人ウォ-ラウォンサーによって毒殺された第14代国王チャイラーチャー(在位:1543年~1547年)、自身の殺害計画を事前に察知し処刑した第15第国王ヨートファー(在位:1547年~1548年)に替わって擁立されまれましたが、すぐにウォーラウォンサー自身が第17代国王として即位します。しかし、アユタヤ王家でない国王に不満を抱く高官ピレーンテープ(1569年、第20代国王として即位)たちに即位42日後に暗殺されます。)

門をくぐった左手に新しい礼拝堂があり、寝仏が安置されています。







仏足跡です。かかとの部分は割れてありません。

青銅製のウートーン様式の大仏頭です。発掘されたオリジナルはチャオ・サム・プラヤー国立博物館の入り口正面に安置されています。
頭髪の生え際の処理、つながった眉毛、角ばった顔つきはクメール様式の影響を受けているのが良く分かります。

仏塔の前の倚座像は1590年にビルマからの独立を回復したナレースワン大王です。
供えられた闘鶏はここでお祈りして宝くじが当たったり、商売で大金をつかんだ人がお礼参りしたものです。

仏塔の基壇は方形で、各面に13頭、合計52頭のクメール様式の漆喰製獅子像が支えます。
仏塔の調査の結果、仏塔内部にはアユタヤ時代初期に建築された相似形の小型仏塔があり、それを覆う形で現在の形に改築されているのが判明しています。











崩れた尖塔部が地面に落ちています。

煉瓦と漆喰で建設された長方形の「ソン・ターム礼拝堂」で前後に柱廊玄関を備えています。







アサヒカズラです。一般にピンク色の花を咲かせていますが、ここでは白色です。やはり、プアン・チョムプーと呼ぶのでしょうか・・・。

パパイヤの花です。

駐車場の立木部分は発掘されていないので、寺院壁でしょうか、積んだ煉瓦がそのままで、陶片が散乱しています。




アユタヤ世界遺産フェスティバル(2)

2015年03月12日 | アユタヤ
アユタヤ世界遺産フェスティバルのメイン会場はワット・マハタートの西側になります。時代劇が開演される夕刻までまだ時間があり、アユタヤ観光では代表的なワット・マハタートにも立寄ります。
東向き寺院ですが、観光客が入れるのは南側にある小門からです。
「アユタヤ王朝年代記」によるとアユタヤ王朝第3代国王ボーロマラーチャーティラート1世(パグァ王)(在位:1370年~1388年)によって1374年に建設が始まり、次代ラーメースワン王(在位:1369年~1370年)の治世に寺院が完成したと言われています。



広大な境内にはたくさんの礼拝堂や仏堂、仏塔が残っていますが、クメール風仏塔はソムタム王の時代に崩壊、プラサート・トーン王によって修復されましたが、ラーマ5世の治世に再び崩れました。

ワット・マハータートは1767年のビルマ侵略で壊された仏塔が菩提樹に絡まれて、木の成長と共に持ち上がっているのが有名です。





以前は境内のあちこちに大きな仏頭が置かれていたのですが、現在は別の場所で保管されているようです。





礼拝堂の壁面は窓ではなく、明かりとりのスリットにしてあるのもこの寺院の特徴です。

崩壊した仏塔です。発掘調査で仏塔の地下17mに地下室があって仏舎利、黄金の仏像や装飾品が納められていまし。発掘された遺物はチャオ・サン・プラヤー国立博物館で展示、公開されています。
また、盗掘穴が地下10mまで掘ってあったそうですが、岩盤に突き当り掘るのを諦めたようです。

回廊の壁面に並ぶ仏像群です。基壇のうねりが激しく、基礎工事に問題かあったようです。
崩壊の激しい寺院ですが、ビルマ軍の略奪だけではないようです。





漆喰細工の残る仏塔もたくさん見られます。




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闘鶏です。1569年、アユタヤは執拗に侵略を繰り返すビルマの軍門に下ってしまいます。
1574年、ナレースワンはビルマに対して独立を宣言、攻め寄せるビルマ軍をことごとく撃破します。
1590年から1605年まで第21代国王に就任、後にナレースワン大王と称されています。
大王が好んだのが闘鶏です。
現在も闘鶏が盛んですが、これは博打好きのタイ人の性でしょう。

嘴と研ぎ澄まされた爪で一瞬の内に攻撃が加えられます。











時代劇のチケット発売は午後5時からです。出直すことにします。