の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

シュエーズィーゴン・パヤー

2014年10月31日 | ミャンマー



移動の度に水掛けの狂騒に出会います。そのため毎回、冒頭が水掛け祭りの写真になってしまいます。
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ニャウンウー町のエーヤーワディー川近くに建つ、仏塔シュエーズィーゴン・パヤーに到着です。

門前でも水掛けです。







参拝者に提供される冷水です。

参道をを通り仏塔へ向かいます。







ビルマを統一しパガン王国を建国した初代国王アノーヤター(在位:1044年~1077年)が建築に着手し基壇まで造ります。仏塔が完成するのはパガン王国の最盛期で第三代国王チャンスィッター(在位:1084年~1113年)の統治になってからです。

アノーヤター王は1057年にモン族のタトン王国を仏典を得るために攻略、仏典とともにマヌハ国王、王妃、王族をはじめ僧侶、職人などの住民30000人を捕虜としてパガンに連行しています。
マヌハ王はシュエーズィーゴン・パヤーに奴隷として奉納されたとも言われています。また、この寺院裏にはごく近年まで奉納された奴隷の子孫たちの集落があったようです。

バガン初期の仏塔や寺院は連行されたモン族の建築様式が織り込まれます。モン文化の脱却したビルマ独自の建築様式の出現は第7代国王ナラパティスィードゥー(在位:1174年~1211年)の時代を待たなければなりません。
三層基壇に円筒の塔をもつシュエーズィーゴン・パヤーはビルマ様式の仏塔の原型といわれています。

パガン王国の実像は残された碑文や王統史から解明されています。文字を持たなかったビルマ族がモン文字からビルマ文字を作り、碑文を著すのはナラパティスィードゥー王からです。それ以前はパーリー語、サンスクリット語が用いられていましたが、チャンスィッター王に関する碑文はモン語が使われています。

アノーヤター王を継いだのは子のソウルー王(在位:1077年~1084年)ですが、1084年のモン族の反乱で落命します。その後を継いだのがアノーヤター王に就いてビルマ統一に武勲のあったチャンスィッター王で、血縁関係のない新しい王統が誕生したようです。
チャンスィッターの出自はモン族かモン族にゆかりのある人物だろうと考えられています。





写真は832年に南詔軍の侵略で落城した推定されているピュー族の王都で、今年「ハリンジー遺跡」「ベイタノー遺跡」と共にミャンマーで初めて世界文化遺産に登録された「タイェキッタヤー遺跡」に残るボウボウヂー・パヤーです。
5~7世紀に建立された、五層の方形基壇に建つ、高さ50m、周長80mの仏塔です。

パガン王朝では基壇部が高くなり、次に基壇に龕が設けられ仏陀像が安置され、円筒塔部が小さくなります。龕はさらに大きくなり礼拝堂となって仏塔と一体化するのがビルマ様式の発展です。







基壇の四隅の獅子像は、横から見ると一頭ですが、正面から見ると両面に後ろ足を広げた二頭に見えるそうです。

塔頂の傘蓋です。
仏塔にはタトン王国から持ち帰った釈迦の額の骨と仏歯が納められていると伝えられています。









入口を飾るのは100年以上前に造られた、ヴェサンタラ・ジャータカを表した木彫です。



より良い来生を、祝福された来生を願って、切実な祈りを捧げる女性です。一般に女性の方が信仰心は篤いようです。


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三層の基壇には周囲には仏陀の前世の物語を表すジャータカの陶板が埋められています。

基壇に嵌められたジャータカの陶板です。陶板には釉が塗られています。













■「謎の仏教王国パガン」大野 徹著を参考にしました。

ニャウンウー市場

2014年10月30日 | ミャンマー
■バガンの北東にニャウンウー町があります。町中にあるニャウンウー市場は近隣住民へ食品、食材から日用雑貨など生活用品がそろう大きな市場です。
バガンツアーでは訪問個所に必ず織り込まれているようです。
東南アジアでは特に際立った特徴がある市場ではありませんが、折角の機会でもあり市場の様子を紹介します。
エアー・マンダレーの機内誌にあったバガンの地図です。
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移動のたびに水掛け祭りの風景が入ります。






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ニャウンウー市場へ到着です。
移動中にガイドさんが、市場に着くと太さ2、3cmのコーン煙草を吸った老婆がカメラを持った人の前をうろつき、写真を撮影するとお金を要求しますよ。かって、コーン煙草を吸っている所を写した英国人が、小銭をチップとして与えてから、小遣い稼ぎができることを悟ったようです。
車を降りると早速現れました。記念に写してもよかったのですが、後から金銭を要求されるのも口惜しいので撮影していません。

市場に入りました。



穀物や青菜を扱う区域です。
乾燥地域の痩せたバガンの土地で収穫されたものでしょうか、どの野菜も貧弱な大きさばかりです。





手前は玉ねぎです。

光線が当たった所が黄色く発色していますが、朱いトマトです。

緑色したのはなすびです。

エーヤワディー川の魚でしょうか、乾物もあります。



売っている女性も太めですが、バナナもかなり太くて短い種類です。バガン周辺はバナナが栽培できそうにはないので、遠方から運ばれてきたようです。表面が擦れて黒く変色しています。



おなじみのキンマを包むコショウ科の葉っぱです。タイではバイ・プーと呼びます。



日用雑貨店の看板娘です。

花を売っています。

写真が切れていますが、左端の腰かけた女性は日よけ代わりに蓮の葉を被っています。

ミャンマー女性の必需品、タナカです。





何の花でしょう・・・?

こちらは乾燥した花のようです。タイ人に聞いてもどちらも分かりませんでした。

手前は「タマリンド」の新芽のようです。



魚醤屋さんです。

皆さん頭の上にバランス良く荷物を載せ、歩いて行きます。

顔いっぱいにタナカを塗られた少女です。水を掛ける相手を待っています。
5歳ぐらいの少女も仏門に入ります。やはり頭は丸めます。旅行中に坊主頭の少女にもたくさん出会いました。







こちらは豆屋さんの軒先です。初めて見る豆がたくさんあります。





日用雑貨店です。



青い筒状のものは葉巻煙草です。

縫製屋さんです。懐かしい脚踏みミシンです。



噛み茶の葉です。





この男性はビルマの計量用分銅「オピウム・ウエイト」を売っていました。

買った分銅の時代は分かりませんが、16世紀頃から使われ、19世紀にはもっぱらアヘンの計量に使われたそうです。
聖鳥「ハムサ」です。右端はしなくてもよい研磨をしていたのですが、形が気に入ったのでつい買ってしまいました。
ちなみに重さは、右から314g、161g、8gとなっています。

この女性は蒸し菓子を売っています。よく売れるようで残り僅かになっています



鮮魚売り場です。エーヤワディー川で捕った魚の量り売りをしています。
売場は女性ばかりで、男性はもっぱら漁が仕事のようです。

買った魚はその場でさばいてくれます。









お米屋さんです。

若い女性は皆から水を浴びせられるようです。





おでこに葉っぱを貼り付けていました。薬草なのか、お呪いなのか分かりませんが、写真を嫌がって写させてくれませんでした。

仏教国です。僧侶のDVDがたくさん並んでいます。

買った品物は乗合車両の屋根に積み帰宅します。男性も屋根の上です。

バガン・タヨウピェー寺院

2014年10月27日 | ミャンマー



エーヤワディー川が大きく流れを変える角部の1.6平方キロメートルをパガン都城壁が取り囲みます。現在は城壁が崩れ基礎部だけとなっていますが、残る東門から推定して高さ8mの煉瓦済みの堅牢な都城壁であったと推定されています。
パガンの寺院遺跡は都城壁を超えて40万平方メートルの土地に広がっています。
空港からと都城壁まで約12kmありますが、まず向かったのは空港から4kmにあるミンナンドゥー村近くの「タヨウピェー寺院」です。
パガン王朝末期の第11代国王「タヨウピイェー」(在位:1255年~1287年)によって建立されました。
正式な名前は「ナラティーハパテ王」です。しかし、王統史は俗称である「タヨウピイェー」と記録されています。
「タヨウ」とは漢民族、「ピイェー」は逃げるを意味し、「漢民族から逃げた王」と後世に不名誉な名前を付けられています。
パガンを訪れた、朝貢を要求する元の使者をナラティーハパテ王は斬殺します。1286年、元は報復として軍勢をパガンへ進行させますが、王都の防衛を困難と考えた王は、襲来前にパガンを脱出、敵前逃亡をします。
1287年に元の侵攻でパガンは落城、滅亡します。

翌年ナラティーハパテ王は庶子のピェー太守に囚われ毒殺されて、正式な王統は終焉します。
その後、パガン王国はシャン族によって支配され、地方の太守程度の国力で名目上3代続きますが、1369年に第14代ソームンニッ王が粛清され、ビルマ族のパガン王朝は完全に途絶えます。

碑文からタヨウピイェー王は二つの寺院と仏塔を一基建立していますが、このタヨウピェー寺院は規模も小さく、パガン王朝末期の財政緊迫状態を象徴しているようです。
歴代国王や王族、貴族、役人は競って寺院建立や農地、奴隷、家畜等を積徳行為として寺院に寄進、王土3分の1が免税の寺領となり税収の減少、また、米作地帯のチャウセー地方はシャン族に侵食されてパガン王国の統治が行き届かなくなっていたようです。



日緬友好協会の碑です。保存修復をしたのでしょうか・・・。





精緻な漆喰装飾が施されています。年間降雨量600ミリという乾燥地が、漆喰装飾や壁画を創建時のまま後世へ伝えています。
しかし、信仰の篤い国民は、積徳行為として有名寺院の漆喰装飾、壁画の書き直し、金箔の貼り直し等の寺院補修を繰り返し喜捨しています。たとえ、それが史跡に指定されていようが、信仰が優先され保存補修と言う発想はないようです。





仏塔入口の左右の龕に安置されているのは守護神「ドワラパラ」でしょうか・・・。
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一階と二階の四方に安置されている、白色大理石に僧衣を漆で着色した降魔印の仏陀坐像です。









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仏塔と一体化した四方の礼拝堂入口や回廊は壁画で埋め尽くされています。
方角によっては素地である漆喰が剥落し、不鮮明となった壁画もたくさんあります。

























アーチ式天井に描かれた千体仏です。
アーチ状に石材や煉瓦を組んだ天上は東南アジアではミャンマーしかありません。他の地域では石材や煉瓦を少しづつずらした積み上げ式でアーチ形状を造っています。





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階段を上り基壇の上に出ます。

二階の基壇上から見る仏陀像です。

基壇から見るバガンの仏塔群です。この一帯には大きな寺院はありませんが、赤煉瓦の遺構は果てしなく続き、小さな仏塔が不規則に乱立しています。
パガン遺跡には524の仏塔、寺院や窟院が911、僧院416、経蔵等が379、合計2230の大小の建築物が残っています。













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参道の左右には土産を扱う店が並んでいます。この店は仏画を売っています。

机の前に座り布に象の絵を描いている男性が描いた仏画です。

出来上がった象の絵をお土産にプレゼントされました。
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約1時間タヨウピェー寺院で寛いだ後、朝のニャウンウー市場へ移動です。

バガン五千坊へ

2014年10月03日 | ミャンマー

ミャンマー第二日目です。午前4時半起床、空港には午前5時到着しました。
午前6時15分発、エア・マンダレー「6T 401」便でニャウン・ウー空港へ向かいます。飛行時間は1時間20分です。
早朝発のためホテルが用意してくれた朝食を食べながら搭乗待ちです。立派な紙袋に入っていたので期待した朝食ですが、ご覧の中身でした。

搭乗待ちをする国内線ロビーです。



午前5時55分、搭乗機へ向かいます。まだ陽は昇っていません。









午前6時1分搭乗です。





機内誌です。知らない遺跡や観光地が載っているので持ち帰ります。

眼下にバガン遺跡が見えます。右上はエーヤワディー川です。機体のプロペラが視界の邪魔をします。





午前7時29分無事着陸しました。





同時刻にヤンゴン空港を飛び立ったエア・バガンの「W9 143」便も到着しました。

ニャウン・ウー空港です。



ニャウン・ウー空港の表玄関です。
観光客はバガン遺跡の観光料金、10USドルを空港内で徴収されます。



出迎えのガイド、キンさんです。

運転手君です。



早朝のバガン遺跡へ向かいます。
すれ違った中型トラック、荷物も運べ、人も運ぶ、一石二鳥です。

まず、向かうのは旧バガンの東、空港との中間にあるミンナンドゥー村近くのタヨウピェー寺院です。
車窓から途中の遺跡群を撮影です。
バガン王国が栄えたころには、五千を超える寺院や仏塔が建立された様です。
現在残るのは二千以上、とも三千とも言われています。














シュエダゴン・パヤーの夜景

2014年10月02日 | ミャンマー
ヤンゴンのシンボル「シュエダゴン・パゴダ」です。
エーヤワディー川河口のデルタ地帯に位置するヤンゴンは、現在は人口400万人を超えるミャンマー最大の都市となりましたが、都市として発展し始めたのは1852年の第二次英緬戦争でイギリス占領下になってからです。
第三次英緬戦争でビルマ全土を占領したイギリスは、英領ビルマの首都として公共サービス、社会的インフラをロンドンと比肩される水準まで発展させました。
第二次大戦前には人口50万人の都市になります。しかし、人口の約55%はインド人、もしくは南アジア人が占め、30%ほどがビルマ人、他はカレン族、中国人、英国人やその混血でした。

かってはダゴンと呼ばれ、下ビルマを支配していたモン族が6世紀頃から居住した小さな漁村でした。
シュエダゴン・パゴダもその頃の建立だと考えられています。
18世紀になるとアワのタウングー王朝は再三襲撃してくるアユタヤ、跳梁する中国人匪賊、国内的には繰返される王位簒奪や盗賊によって疲弊していました。1752年に力を蓄えたモン族が王都アワを陥落させ、エーヤワディー川流域の残存勢力の壊滅にとりかかります。しかし、ビルマ族の小規模集団を糾合したアラパウンパヤーはモン軍を反撃します。手薄になった下ビルマにアユタヤ軍が侵入したことによりモン軍は撤退します。アラバウンパヤーは1754年にアワを奪回、上ビルマのモン族を一掃して1755年にダゴンを攻略します。モン語の地名「ダゴン」をビルマ語の「ヤンゴン」(宿敵全滅)に改めます。
1757年にはモン族の首都ペグーが陥落してビルマ族の統一第三王朝が成立します。

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午後6時13分です。カンドージー湖上に1972年建設の、王室船を模したカラウェイ・パレスでミャンマー・ダンスを見ながらの夕食に向かいます。

池の畔ではまだ水掛けの最中です。



カンドージー湖はイギリス植民地時代にヤンゴン市街へ水を供給するため造られた人造湖です。周囲8km、水深は50cmから1m余りあって、北のインヤー湖から地下水道によって導水されています。
池の西にはシュエダゴン・バゴダがあり、池の周りにはカンドージー自然公園、ヤンゴン動物園があって水族館や遊園地が併設された、市民の憩いの場となっています。

カンドージー湖から見るシュエダゴン・パゴダです。



湖畔にはホテルやレストランもあります。



カラウェイ・パレスです。





ビルマ兵姿のドアマンです。

王と妃の衣装で出迎えです。女性が手味持っている容器には水が入っています。ミャンマーでは水を浸した木の葉でお腹に水を掛けられました。





午後6時35分、テーブルに着くとビルマダンスは始まっていました。
他のお客はまだ少ないようです。その後入って来たのは中華系タイ人の団体ばかりでした。
ツアー会社ご用達のレストランのようです。



水を給仕してくれた女性です。

料理はビュッフェ方式です。せっかくですからミャンマーの伝統料理をいただきます。



こちらの女性はココナッツの果肉をとっていました。

シャン族の鳥の踊りです。





背景にヒマラヤ山脈が描かれています。最北の山岳部に暮らすカチン族の踊りです。カチン族はビルマ族と同族で言葉や生活はよく似ているそうです。
仏教徒ではなく、精霊崇拝の踊りでしょうか・・・。



時代がかなり下ってきました。

象使いと象の踊り?



ビルマの竪琴です。





壁板の彫刻です。

人形劇です。

人形を操る人も目立っています。黒子ではありません。

帰りにもう一度美女の撮影です。





コンバウン王朝の王と妃です。


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午後7時40分、表は暗くなり、ライトアップされた、シュエダゴン・パゴダが浮かび上がります。

シュエダゴン・バゴダ山門近くに建っていた仏塔です。