の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

不思議な形の器

2022年08月03日 | 陶磁器(タイ)






サンカローク初期の焼締陶で61号窯陶器と呼ばれる壷です。
壷口の左右にも小さな口があります。本品は高さ25cm、口径12.5cm、胴径18.5cm、底径9.5cmの小型部類になります。
さて何に使ったよく分らない器型ですが、よく似たものは結構現存しています(下写真)。
壷は本来モノを貯蔵するためですが、この形状は貯蔵には不向きで、結局祭器というカテゴリーで落ち着いています。
当時のスコータイは多民族の集まりであったが、祭器であれば、どの民族がどんな祭礼に使ったのだろうか。
61号窯でしか作られておらず、その後のサワンカロークの焼き物にはみられず、他の地域の古窯にも存在しません。また、その前の時代も知りません。
私の知識不足もありますが、現在の寺院や祭事でも本品の影響を受け継いだと思われる器は見たことがありません。

そんな訳の分らん焼き物をアップしてみました。

下は博物館展示の類似品です。
本体回りの小さな口は3本から6本まで一定ではなく、器体の大きさによるようです。


サンカローク博物館所蔵


61号窯保存学習センター所蔵


61号窯保存学習センター所蔵


個人所蔵


次はミャンマーの灰釉と緑釉の掛け分け瓶(?)です。全高16.7cm、口径5.4cm、胴径11.3cm、底径6.8cmで肩部に六カ所の穴があります。形状からすれば液体を入れ、穴に何かを挿したのでしょうか。
私の想像力が乏しく花しか思い浮かびませんが、呼称は花器、それとも祭器....よく分らないものは祭器と呼べば片づきそうです。








次ぎもミャンマーの無釉陶で表面がよく研磨された陶器です。
口が二つ有って水差かと考えたのですが、この形状では両方の口から水が溢れ出て、水差の機能を果たしません。
なんだか不思議な形状です。
斜めに付いた口が黒くなっているので、そこから灯心を挿してランプとして使われたのかとも思います。










参考に水差です。こんな形でないと水は注げません。
上はサンカロークの鉄絵面取水差です。注水口と取手は補修しています。
下はカロンのは白磁水差ですが、酸化炎で黄変しています。ワンヌアのバーンワンモン村の住民が窯跡から掘り出した品です。高台の一部は欠けていますが、注ぎ口がよくも無事だったと思います。









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器ではありませんが、これは何だと思う品の最後です。
シーサチャナライのパヤーン窯の物原から回収された残欠です。
足のようにも見えますが、こってりと流れた厚めの釉薬が気になります、どう見ても緑釉です。
タイで緑釉を用いたのはカロンだけと言うのが定説ですが、シーサチャナライでも生産、若しくはトライしていたのでしょうか。





上の釉薬の塊とよく似た青磁釉の残欠があったのでアップしておきます。
シーサチャナライの北東8kmにあるバーン モーン スーン村のサトウキビ畑でトラクターが掘り起こした品で青磁小壷や褐釉小壷などもあったそうです。
仏像の足のようにも見えますが、足の下の台座部分は焼成中に破損しています。
両足のつま先幅は5.6cm、前後長は6.8cmとなっています。






最近見たオークション出品の東南アジア古陶磁器

2022年07月23日 | 陶磁器(タイ)
「最近見たオークション出品の東南アジア古陶磁器」、このタイトルはブログ「世界の街角」さんが不定期に投稿されている、ネットオークションの怪しげな東南アジア古陶磁器に警鐘を鳴らしておられるコーナーですが、そのタイトル名を無断で借用しました。
あるきっかけで、「開運!なんでも鑑定団」を最近は毎週見ています。日本で放送された翌日には海外でも視聴できます。
鑑定品の入手経路がネットオークションも多く、真作と鑑定され、高額評価される古美術もたくさんあるようです。勿論、贋作と言い渡され笑いを誘うこともありますが、出品者にとっては顔面から血の気が引き、笑い事では済まされないと思うのですが...。

東南アジア古陶磁器もネットオークションにたくさん出品されており、来歴が気になる真作もあるが、もっと気になるのは怪しげな品物の来歴です。
特にミャンマーの白釉緑彩盤、タイ北部のカロン鉄絵皿と称される陶器が日本に相当数ある不思議です。
そんな怪しげ骨董品への入札者が ”0” であることを確認すると、なぜか安心する次第です。

「世界の街角」さんは「本物を見なさい」とよく書いておられるが、わざわざ東南アジアに行かなくても、バンコクの東南アジア陶磁器博物館の創始者が悔やむように、タイで発掘された古陶磁器の美品の半数以上が日本に持ち出されているのですから、日本の博物館でも展示品に触れることが出来ます。

前置きが長くなりましたが、最近見たネットオークションに立て続けで交趾焼と称する鳥形の水差が出品されていました。その数日後に友人からタイの山岳地帯で交趾焼の鴨の水差が出た、と写真が送られてきました。











私の中国陶磁器の知識は少なく、交趾焼はベトナムの焼き物止まりでしたが、ウィキペディアで検索してみると、近年の調査で中国福建省南部が実際の産地と判明したようです。ただ、活動時期は明末から清朝となっており、本品が副葬品として使われた時代とはかなり時間差があります。
いずれにしても、14世紀から15世紀の陶磁器が出土する山岳地帯の墳墓に、おそらく当時は色彩鮮やかで希少、かつ高級品であったろう外国の陶器を埋めたのは誰だったのか気になるところですが、考古学的にも貴重な一品です。

赤みを帯びた胎土で型成形後に羽模様を線刻し、緑、黄、紫(茶色)の交趾釉で低下度焼成された全長20cm少しの水差です。
ネットオークションに出品されていたのは大きさも同じで、形状も酷似しており、山岳地帯出土品の写しのようです。胎土と線刻の細密さ、釉薬が違います、出土品はもう1羽の頸が右羽の下から伸びて左に頭を寄せていますが、出展品は左右に頭が垂れかかっています。実に不思議な造形です。







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2022年10月9日、写真3枚を追加しました。

サンカロークの鉄絵花文盤

2022年05月25日 | 陶磁器(タイ)

チャオサームプラヤー国立博物館(アユタヤ)所蔵


スコータイ様式の仏像の特徴に頭頂の肉髻上に火炎状のラスミー(宝珠光)を戴きます。
ラスミーに「文字のし」を倒立させた渦巻模様があります。ウナローム プラ プッタループ スコータイまたはレーク ガーオ タイと呼ばれる仏陀の知恵と悟りへの道を示すシンボルだと言われています。
ヒンドゥー教由来の印でドヴァラヴァティー王国時代にインドから伝わったと考えられています。
ドヴァラヴァティー仏像の頭にも使われているそうです。
仏像の螺髪は全て右巻、スコータイ様式のウナロームは右巻、ウトーン様式は左巻と教えられたのですが、過去に撮した写真をチェックした結果では、そんな法則はなさそうです。


チャオサームプラヤー国立博物館(アユタヤ)所蔵


サンカローク窯初期に見込みに蘭の花を描き、立ち上がりに双魚文が描かれた盤が出現します。
その花と上に伸びる蛇行線がウナロームだと言われています。前に上梓した巻き貝文は製作時代的にドヴァラティー文明の関与は否定できますが、ウナロームはドヴァラヴァティー文明から引き継いだものでしょう。因みに高台内に書かれる文字はモン文字です。

ーーー閑話休題ーーー
(吉川利治「スコータイに対するクメールの影響:遺跡と刻文に関する分析」より)
 ラームカムヘーン大王がタイ文字を考案してタイ語、タイ文字のラームカムヘーン大王石碑が1292年に刻まれます。その後の人材が凡庸だったのかタイ文字の普及は進まず、次ぎに見つかっている古い碑文はマンゴー林寺院に由来する5基の碑文です。4基は1361年のリタイ王の出家の状況が刻まれた石碑でタイ語-タイ文字が2基そしてタイ語-クメール文字、クメール語-クメール文字で伝える内容はほぼ同じです。もう一基はパーリ語-クメール文字でリタイ王を讃える内容が刻まれています。
タイ語-クメール文字の石碑がなくなるのはラームカムヘーン大王石碑誕生から245年待たなければなりませんでした。
これはスコータイ王朝の中枢でクメール語やクメール文字を用いる人が活動し、タイ語とともにクメール語が公用語になっていたと吉川論文は述べています。
タイ語-クメール文字は1528年まで続くそうです。
ラームカムヘーン大王石碑から半世紀以上の空白期間があり、2番目に古いマンゴー林寺院石碑が14世紀の中頃に登場、以降はたくさんの石碑が刻まれいることから、スコータイ史の始まりを14世紀中頃と吉川先生は推定されています。スコータイの代表遺跡も14世紀後半から15世紀後半説を採っておられます。
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 1300年にラームカムヘーン大王の朝貢使節が多数の中国陶工を連れて帰国した、と言うのが通説になっています。数倍から数十倍返しと言われる下賜だったのか資料は何も残っていないようですが、サンカローク窯の隆盛と時代的な矛盾はないようです。

タイ国内のクメール支配下のクメール的なものはわざわざロッブリー様式と言い換えるぐらいだから、スコータイ朝の公用語がクメール語だった、と唱えればタイの学会からは抹殺されるでしょうが、窯業ではモンやクメールの影響を排除して、エビデンスも不十分な中国人起源とする不思議です。






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青磁釉から透明釉に変化しても花文の意匠はまだ変化していません。

















一番下は蛇行線(ウナローン)が申し訳程度の大きさになっています。

完品が2点ありますが、いずれも焼成温度が不足で鉄絵の発色が悪く、釉薬がカセています。
骨董商によっては二度窯(再焼成)で下絵を鮮明にし透明感をよみがえらせます。半真半贋の手間の掛からない製品が真作として市場に出回ります。
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発展の過程でしょうか、鉄絵青磁にもウナローンのないものもあります。



















下3点は輪郭線で花文を描き、周りに釉薬を置いて白抜き模様を作っています。後で発展する白釉褐彩刻花文の原点でしょうか。
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やがて花の主流は菊花文になり、立ち上がりの魚文がなくなります。ベトナムの影響でしょうか高台内にチョコレート色の鉄泥漿を施したものも現れます。
































最後は台付鉢の底部分です。内面にも丁寧に鉄泥漿が塗られています。
陶工の自信作だったのでしょう、盤面の絵付けが気になる陶片です。
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最後にシーサチャナライで出土した中国の陶磁器を添えておきます。
後期サンカローク窯の鉄絵花文が中国磁器を模倣したことが如実に分ります。
とすれば、初期の青磁鉄絵花文との関係はどうなか、葉は全く異なり、花序は同一であるが神聖なウナローム模様はサンカロークの創作と考えるのか…




サンカロークの窯道具 2

2022年05月01日 | 陶磁器(タイ)
サンカロークの窯道具の続きです。
サンカロークでは窯構造、器類、技法は常に革新されていますが、窯道具は器類に合わせた小変更はあるものの、基本は筒型トチンを使い続けていました。










窯跡周辺に散乱する夥しい筒型トチンです。















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写真には小さなトチンしかありませんが、実際に使用された大きなものは1m近いのがあります。
かってスコータイの骨董商の家へ遊びに行ったとき、数十本の1m近い筒型トチンを洗っていました。これだけ長い無傷のトチンは今後二度と出てこないから買え、買えと奨めるのですが、大きすぎて置き場に困るのと、バッゲージにも収まりきらないので断念しました。
洗ったトチンは息子の嫁が同業者に売りに行ったのですが、彼女は1本3、000バーツと言われていた売価を、800バーツで売却してきました。お金を受け取った骨董商のぼやくこと、ぼやくこと。
たしかにその後あんな立派なトチンは見たことがありません。


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本稿をアップしたときは、上記を説明する写真が見当たらなかったのですが、その後出てきました。筒型トチンの大きさを知るため写真を追加します。(2022年12月29日)





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先端がつままれているのは寺院の棟飾りのような下が二股になった物を跨ぐように置いたと考えられます。
先端がプロペラ状になっているトチンは特殊な製品形状に合わせたのでしょう。

爪付の置き台は初期の青磁鉄絵盤に一時期使われましたが、目跡の残る製品も少なく、ごく短期間の採用でした。

円盤状のハマは陶人形や直径数センチの平底の小壷を置いたのでしょう。小壷でも高台径が2cmを越えると筒型トチン跡が残っています。










窯跡を歩くと窯道具以外にもいろんな物が落ちています。
一番上はサンカローク窯の青磁ですが、澄んだ空色の綺麗な青磁片です。
中国磁器もたくさん見られます。

下の工事写真は古窯跡区域からかなり離た場所でしたが、窯道具や陶片が出土しています。



















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巻き貝の意匠は6世紀から11世紀のドヴァーラヴァティー王朝時代にも仏教や王権と関連したシンボルとして銀貨や粘度のシールに使われています。
陶片は中国磁器とパ ヤーン窯の中国磁器の巻き貝を模倣した碗片です。窯業活動が終焉を迎える16世紀のものだと考えています。この頃になると輸出に関わっている中国商人の要求でしょうか、中国磁器の模倣がたくさん生産されます。








青磁の精緻な彫りと綺麗な発色です。製作に関わった職人の落胆ぶりが窺い知れます。
遺跡出土品を見ると上がりの良い製品は王族や寺院へ納入されていたようです。

サンカロークの窯道具 1

2022年04月28日 | 陶磁器(タイ)
シーサチャナライ歴史公園横を流れるヨム川上流にサンカローク古窯を発掘保存する42、123号窯保存学習センターと61号窯保存学習センターがあります。
42号窯跡の遺構は5層で昇焔式窯から煉瓦で幾度も築き直された横焔式単室窯があります。窯壁が薄く地下または半地下式でしょう。
61号窯跡は粘度で築かれた横焔式地下窯です。保存学習センターの周りには最終段階の煉瓦製横焔式地上窯がたくさんあります。シーサチャナライには千基以上の窯跡があると言われています。
窯業期間はスコータイ王朝成立後の1350年頃から1584年までとされています。
しかし、スコータイ王朝が始まる前の約300年間はモン・クメール人が定住し寺院遺跡を残しています。スコータイ都城はモン人がクメール様式を基本に建設したと言われています。
陶器生産を始めたのもモン族だと考えられており、開窯は10世紀頃まで遡っても良いかと思うのですが…
昨年末に訪れたスパンブリーでは10世紀頃にアンコール地域がら持ち込まれ灰釉陶器がたくさん出土していました。
スコータイ王朝の台頭とともにクメールの窯業技術がサンカロークに移転したと唱える研究者もいます。

クメール帝国はなぜかシーサチャナライより北へは進出していません。








写真上から昇焔窯、粘度製の横焔式穴窯 (61号窯)、焚口近くに壷が並んでおり、燃焼室と焼成室の段差がないけれど、単に燃焼室が土砂で埋まっているだけなのだろうか。
最終段階の煉瓦製の横焔地上式穴窯から燃焼効率を上げた二重壁の穴窯です。











61号窯と呼ばれる窯で焼成された焼締め壷です。
一番上は口径:21cm、胴径28.5cm、底径13cm、高さ35cmとなっています。下の左右に小さな口を持つ壷は祭器です。口径12.5cm、小さな口との間 (最大幅):24cm、胴径18.5cm、底径:9.5cm、高さ25cmのやや小ぶりの壷です。なお、小さな二つの口は本体へ貫通しています。
装飾として蕨文が貼り付けていますが、ライ・ウと呼ばれています。突起が上にあるのがウ・ユーン、下にあるのがウ・ホーイ、横向きがウ・ノーンでいずれも吉祥文です。

焼締めを一般に「61号窯」と呼んでいますが、実際に同類の焼締め陶片はコ ノーイ窯、パ ヤーン窯址でも見つけることが出来ます。



















初期段階のコ ノーイ窯で生産されたモン陶と呼ばれる、灰黒色系陶土で作られた陶器です。口縁同士で融着した皿は直径:35cm、底径:11.5cmあります。
灰色味をおびた深い緑色の青磁台鉢陶片は直径:22cmあります。かなり薄手に作られた上手の作品です。
スコータイの村落遺跡から出土です。
なお、14世紀のタイ湾の沈没船にもモン陶が積まれていました。

青磁双耳瓶は口径5.5cm、胴径18.5cm、底径:12cm、高さ:26cmあります。
次の青磁四耳壺はヨム川の川上がり品で釉の発色はよくありません。口径:15cm、胴径:28.5cm、底径13cm、高さ:33cmです。
一番下の青磁四耳大壷は口径:12.5cm、胴径:34cm、底径15cm、高さ36cmです。肩に掛かった自然釉の流れが印象的です。








次の段階はトチンと爪付のハマを用いた重ね焼きの白泥を掛けた鉄絵青磁が始まります。
サンカローク窯で使われたハマは矩形が多かったようです。
見込みに残る目跡が嫌われたのでしょうか、使用されたのはごく短期間だったようです。

















発展して青磁釉が透明釉に変わります。陶土も白色系が使われ出しました。

スコータイ窯では魚文を筆頭に花文や日輪文など意匠は多くなく、時代が下がるにつれ簡略化目立つのに対して、サンカロークでは新しい絵柄や技法に積極的に取り組んでいます。
やはりモン人の創造力でしょうか…











やがて緻密な彫り込の印花青磁釉が登場します。鉄分の少ない上質の半磁器のような胎土になっています。

サンカローク窯には6段階の技術発展が見られると言われていますが、パヤーン窯址を歩くと、区域毎に鉄絵、青磁、白釉等と窯跡周辺に散乱する陶片が異なっています。同時期にも様々な技法で生産が続いていました。
発展段階と紹介した写真の時代順が一致しているかどうかは分りません。また、サンカローク窯では壷、甕、瓶、皿、鉢、水差、合子、動物や人物の象形、寺院装飾など多くの器種が様々な技法で生産されており、これらを分類するとサンカロークがもっと理解できると思います。
























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パーヤン窯では碗や合子など袋物が生産されると褐釉、白釉褐彩刻花、寺院装飾等に白釉も登場します。









練り込みはハリプンチャイ窯の低温焼成が有名ですが、サンカローク窯でも高温焼成で生産されていました。

窯道具を上梓するつもりが多様なサンカローク窯の製品で終わってしまいました。窯道具は次回で…