シーサチャナライ歴史公園横を流れるヨム川上流にサンカローク古窯を発掘保存する42、123号窯保存学習センターと61号窯保存学習センターがあります。
42号窯跡の遺構は5層で昇焔式窯から煉瓦で幾度も築き直された横焔式単室窯があります。窯壁が薄く地下または半地下式でしょう。
61号窯跡は粘度で築かれた横焔式地下窯です。保存学習センターの周りには最終段階の煉瓦製横焔式地上窯がたくさんあります。シーサチャナライには千基以上の窯跡があると言われています。
窯業期間はスコータイ王朝成立後の1350年頃から1584年までとされています。
しかし、スコータイ王朝が始まる前の約300年間はモン・クメール人が定住し寺院遺跡を残しています。スコータイ都城はモン人がクメール様式を基本に建設したと言われています。
陶器生産を始めたのもモン族だと考えられており、開窯は10世紀頃まで遡っても良いかと思うのですが…
昨年末に訪れたスパンブリーでは10世紀頃にアンコール地域がら持ち込まれ灰釉陶器がたくさん出土していました。
スコータイ王朝の台頭とともにクメールの窯業技術がサンカロークに移転したと唱える研究者もいます。
クメール帝国はなぜかシーサチャナライより北へは進出していません。
写真上から昇焔窯、粘度製の横焔式穴窯 (61号窯)、焚口近くに壷が並んでおり、燃焼室と焼成室の段差がないけれど、単に燃焼室が土砂で埋まっているだけなのだろうか。
最終段階の煉瓦製の横焔地上式穴窯から燃焼効率を上げた二重壁の穴窯です。
61号窯と呼ばれる窯で焼成された焼締め壷です。
一番上は口径:21cm、胴径28.5cm、底径13cm、高さ35cmとなっています。下の左右に小さな口を持つ壷は祭器です。口径12.5cm、小さな口との間 (最大幅):24cm、胴径18.5cm、底径:9.5cm、高さ25cmのやや小ぶりの壷です。なお、小さな二つの口は本体へ貫通しています。
装飾として蕨文が貼り付けていますが、ライ・ウと呼ばれています。突起が上にあるのがウ・ユーン、下にあるのがウ・ホーイ、横向きがウ・ノーンでいずれも吉祥文です。
焼締めを一般に「61号窯」と呼んでいますが、実際に同類の焼締め陶片はコ ノーイ窯、パ ヤーン窯址でも見つけることが出来ます。
初期段階のコ ノーイ窯で生産されたモン陶と呼ばれる、灰黒色系陶土で作られた陶器です。口縁同士で融着した皿は直径:35cm、底径:11.5cmあります。
灰色味をおびた深い緑色の青磁台鉢陶片は直径:22cmあります。かなり薄手に作られた上手の作品です。
スコータイの村落遺跡から出土です。
なお、14世紀のタイ湾の沈没船にもモン陶が積まれていました。
青磁双耳瓶は口径5.5cm、胴径18.5cm、底径:12cm、高さ:26cmあります。
次の青磁四耳壺はヨム川の川上がり品で釉の発色はよくありません。口径:15cm、胴径:28.5cm、底径13cm、高さ:33cmです。
一番下の青磁四耳大壷は口径:12.5cm、胴径:34cm、底径15cm、高さ36cmです。肩に掛かった自然釉の流れが印象的です。
次の段階はトチンと爪付のハマを用いた重ね焼きの白泥を掛けた鉄絵青磁が始まります。
サンカローク窯で使われたハマは矩形が多かったようです。
見込みに残る目跡が嫌われたのでしょうか、使用されたのはごく短期間だったようです。
発展して青磁釉が透明釉に変わります。陶土も白色系が使われ出しました。
スコータイ窯では魚文を筆頭に花文や日輪文など意匠は多くなく、時代が下がるにつれ簡略化目立つのに対して、サンカロークでは新しい絵柄や技法に積極的に取り組んでいます。
やはりモン人の創造力でしょうか…
やがて緻密な彫り込の印花青磁釉が登場します。鉄分の少ない上質の半磁器のような胎土になっています。
サンカローク窯には6段階の技術発展が見られると言われていますが、パヤーン窯址を歩くと、区域毎に鉄絵、青磁、白釉等と窯跡周辺に散乱する陶片が異なっています。同時期にも様々な技法で生産が続いていました。
発展段階と紹介した写真の時代順が一致しているかどうかは分りません。また、サンカローク窯では壷、甕、瓶、皿、鉢、水差、合子、動物や人物の象形、寺院装飾など多くの器種が様々な技法で生産されており、これらを分類するとサンカロークがもっと理解できると思います。
* * * * *
パーヤン窯では碗や合子など袋物が生産されると褐釉、白釉褐彩刻花、寺院装飾等に白釉も登場します。
練り込みはハリプンチャイ窯の低温焼成が有名ですが、サンカローク窯でも高温焼成で生産されていました。
窯道具を上梓するつもりが多様なサンカローク窯の製品で終わってしまいました。窯道具は次回で…
42号窯跡の遺構は5層で昇焔式窯から煉瓦で幾度も築き直された横焔式単室窯があります。窯壁が薄く地下または半地下式でしょう。
61号窯跡は粘度で築かれた横焔式地下窯です。保存学習センターの周りには最終段階の煉瓦製横焔式地上窯がたくさんあります。シーサチャナライには千基以上の窯跡があると言われています。
窯業期間はスコータイ王朝成立後の1350年頃から1584年までとされています。
しかし、スコータイ王朝が始まる前の約300年間はモン・クメール人が定住し寺院遺跡を残しています。スコータイ都城はモン人がクメール様式を基本に建設したと言われています。
陶器生産を始めたのもモン族だと考えられており、開窯は10世紀頃まで遡っても良いかと思うのですが…
昨年末に訪れたスパンブリーでは10世紀頃にアンコール地域がら持ち込まれ灰釉陶器がたくさん出土していました。
スコータイ王朝の台頭とともにクメールの窯業技術がサンカロークに移転したと唱える研究者もいます。
クメール帝国はなぜかシーサチャナライより北へは進出していません。
写真上から昇焔窯、粘度製の横焔式穴窯 (61号窯)、焚口近くに壷が並んでおり、燃焼室と焼成室の段差がないけれど、単に燃焼室が土砂で埋まっているだけなのだろうか。
最終段階の煉瓦製の横焔地上式穴窯から燃焼効率を上げた二重壁の穴窯です。
61号窯と呼ばれる窯で焼成された焼締め壷です。
一番上は口径:21cm、胴径28.5cm、底径13cm、高さ35cmとなっています。下の左右に小さな口を持つ壷は祭器です。口径12.5cm、小さな口との間 (最大幅):24cm、胴径18.5cm、底径:9.5cm、高さ25cmのやや小ぶりの壷です。なお、小さな二つの口は本体へ貫通しています。
装飾として蕨文が貼り付けていますが、ライ・ウと呼ばれています。突起が上にあるのがウ・ユーン、下にあるのがウ・ホーイ、横向きがウ・ノーンでいずれも吉祥文です。
焼締めを一般に「61号窯」と呼んでいますが、実際に同類の焼締め陶片はコ ノーイ窯、パ ヤーン窯址でも見つけることが出来ます。
初期段階のコ ノーイ窯で生産されたモン陶と呼ばれる、灰黒色系陶土で作られた陶器です。口縁同士で融着した皿は直径:35cm、底径:11.5cmあります。
灰色味をおびた深い緑色の青磁台鉢陶片は直径:22cmあります。かなり薄手に作られた上手の作品です。
スコータイの村落遺跡から出土です。
なお、14世紀のタイ湾の沈没船にもモン陶が積まれていました。
青磁双耳瓶は口径5.5cm、胴径18.5cm、底径:12cm、高さ:26cmあります。
次の青磁四耳壺はヨム川の川上がり品で釉の発色はよくありません。口径:15cm、胴径:28.5cm、底径13cm、高さ:33cmです。
一番下の青磁四耳大壷は口径:12.5cm、胴径:34cm、底径15cm、高さ36cmです。肩に掛かった自然釉の流れが印象的です。
次の段階はトチンと爪付のハマを用いた重ね焼きの白泥を掛けた鉄絵青磁が始まります。
サンカローク窯で使われたハマは矩形が多かったようです。
見込みに残る目跡が嫌われたのでしょうか、使用されたのはごく短期間だったようです。
発展して青磁釉が透明釉に変わります。陶土も白色系が使われ出しました。
スコータイ窯では魚文を筆頭に花文や日輪文など意匠は多くなく、時代が下がるにつれ簡略化目立つのに対して、サンカロークでは新しい絵柄や技法に積極的に取り組んでいます。
やはりモン人の創造力でしょうか…
やがて緻密な彫り込の印花青磁釉が登場します。鉄分の少ない上質の半磁器のような胎土になっています。
サンカローク窯には6段階の技術発展が見られると言われていますが、パヤーン窯址を歩くと、区域毎に鉄絵、青磁、白釉等と窯跡周辺に散乱する陶片が異なっています。同時期にも様々な技法で生産が続いていました。
発展段階と紹介した写真の時代順が一致しているかどうかは分りません。また、サンカローク窯では壷、甕、瓶、皿、鉢、水差、合子、動物や人物の象形、寺院装飾など多くの器種が様々な技法で生産されており、これらを分類するとサンカロークがもっと理解できると思います。
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パーヤン窯では碗や合子など袋物が生産されると褐釉、白釉褐彩刻花、寺院装飾等に白釉も登場します。
練り込みはハリプンチャイ窯の低温焼成が有名ですが、サンカローク窯でも高温焼成で生産されていました。
窯道具を上梓するつもりが多様なサンカローク窯の製品で終わってしまいました。窯道具は次回で…
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