の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

アユタヤ世界遺産フェスティバル(2)

2015年03月12日 | アユタヤ
アユタヤ世界遺産フェスティバルのメイン会場はワット・マハタートの西側になります。時代劇が開演される夕刻までまだ時間があり、アユタヤ観光では代表的なワット・マハタートにも立寄ります。
東向き寺院ですが、観光客が入れるのは南側にある小門からです。
「アユタヤ王朝年代記」によるとアユタヤ王朝第3代国王ボーロマラーチャーティラート1世(パグァ王)(在位:1370年~1388年)によって1374年に建設が始まり、次代ラーメースワン王(在位:1369年~1370年)の治世に寺院が完成したと言われています。



広大な境内にはたくさんの礼拝堂や仏堂、仏塔が残っていますが、クメール風仏塔はソムタム王の時代に崩壊、プラサート・トーン王によって修復されましたが、ラーマ5世の治世に再び崩れました。

ワット・マハータートは1767年のビルマ侵略で壊された仏塔が菩提樹に絡まれて、木の成長と共に持ち上がっているのが有名です。





以前は境内のあちこちに大きな仏頭が置かれていたのですが、現在は別の場所で保管されているようです。





礼拝堂の壁面は窓ではなく、明かりとりのスリットにしてあるのもこの寺院の特徴です。

崩壊した仏塔です。発掘調査で仏塔の地下17mに地下室があって仏舎利、黄金の仏像や装飾品が納められていまし。発掘された遺物はチャオ・サン・プラヤー国立博物館で展示、公開されています。
また、盗掘穴が地下10mまで掘ってあったそうですが、岩盤に突き当り掘るのを諦めたようです。

回廊の壁面に並ぶ仏像群です。基壇のうねりが激しく、基礎工事に問題かあったようです。
崩壊の激しい寺院ですが、ビルマ軍の略奪だけではないようです。





漆喰細工の残る仏塔もたくさん見られます。




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闘鶏です。1569年、アユタヤは執拗に侵略を繰り返すビルマの軍門に下ってしまいます。
1574年、ナレースワンはビルマに対して独立を宣言、攻め寄せるビルマ軍をことごとく撃破します。
1590年から1605年まで第21代国王に就任、後にナレースワン大王と称されています。
大王が好んだのが闘鶏です。
現在も闘鶏が盛んですが、これは博打好きのタイ人の性でしょう。

嘴と研ぎ澄まされた爪で一瞬の内に攻撃が加えられます。











時代劇のチケット発売は午後5時からです。出直すことにします。

アユタヤ世界遺産フェスティバル(1)

2015年03月11日 | アユタヤ
■日本へ行ったり、イサーンを周ったりして、多少疲れ気味で更新が滞っていました。
イサーンはブンカーンにある「プー・トーク」という修行僧の瞑想の山へ登りに行ったのですが、バンコクからブンカーンまで876km、気温は3月に入ったばかりだと言うのに午前10時には36℃を越え、昼過ぎには40℃まで上昇する酷暑でした。
プー・トークの旅行記は後日に紹介します。
今回は毎年12月に催される、ユネスコの世界文化遺産登録を記念したアユタヤ世界遺産フェスティバルの時代劇を紹介します。

■アユタヤ歴史公園に行くコースはいつも環状高速道路から国道32号線を北進してスパンブリーへ向かう国道356号線で左折、チャオプラヤー川を越えて右折し再びチャオプラヤー川を渡って島内に入ります。
島内に入る手前の道沿いに「ワット・チャイ・ワッタナラーム」があります。2011年の大洪水以来訪れていなかったので、久しぶりに立ち寄ることにします。
アユタヤ王朝は1351年から1767年のビルマに征服されるまで33代、416年間続いた小タイ族の王国です。ただ、同一王統ではなく、簒奪によって5回王家が替わっています。
ワット・チャイ・ワッタナラームは後期アユタヤ時代の1630年に「簒奪王」として有名な第27代プラサート・トーン王(在位:1629年~1656年)によって建立されました。平民の出自であるプラサート・トーンは自身の栄光と王権を神格化するるために王室寺院とし建立します。
寺院はビルマ軍の侵攻で略奪、荒廃するまで修改築が繰り返されています。

第24代ソムタム王(在位:1611年~1628年)に仕えたプラサート・トーンは、王の死後王位継承権の筆頭にあった弟のプラパン・シーシンを幽閉し、嫡子のチェーターティラートを擁立、8ヶ月の在位で、アーティッタヤウォンに禅譲を迫るものの37日後には自身が王に就任、その間にソムタム王の血族やソムタム王派の閣僚を処刑します。
ソムタム王からの信認が篤く、親衛隊長兼武官長に就任していた山田長政もナコーン・シータタムラマートの領主としてアユタヤから遠ざけられて毒殺されてしまいます。その後アユタヤの日本人町もアユタヤ兵に襲撃され壊滅します。

基壇中央に高さ35mのクメール風の主祠塔、周りに4基の小祠塔が建ち、回廊の四隅とその間に8基の尖塔が建っています。


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2011年のワット・チャイ・ワッタナラームです。
11月になり道路はまだ冠水はしているものの車両走行が可能になりやって来ました。
まだ水深は2m以上あります。
基壇の煉瓦が白く変色している所が1m以上ありますが冠水の痕です。






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回廊の尖塔内には各面に一体、合計12体の仏像が安置されていますが、いづれもビルマ軍の略奪、破壊で激しく損傷しています。



回廊には120体の座仏が安置されていたと言われますが、やはり破壊で頭部や腕を失って、完全なものはありません。







回廊の尖塔内の天井近くには壁面装飾が残っています。



回廊の尖塔の背面には漆喰彫刻の仏伝図が残っています。







祠塔の東、チャオプラヤー川に面して礼拝堂があり、基壇の上には2体の仏像が安置されています。
お顔は修復によって新たに添えられたもののようで、胴体との一体感がありません。

注意書きの看板が立っていますが、日本語というのが気に入りません。胴体の上に顔を載せて記念撮影をしたい気持ちも分かりますが・・・。