住職の独り言

~ご縁に触れて~

.おもいちがい十ヶ条

2008年03月07日 | Weblog
高いつもりで低いのが教養
 低いつもりで高いのが気位
 深いつもりで浅いのが知識
 浅いつもりで深いのが欲望
 厚いつもりで薄いのが人情
 薄いつもりで厚いのが面皮
 強いつもりで弱いのが根性
 弱いつもりで強いのが自我
 多いつもりで少ないのが分別
 少ないつもりで多いのが無駄

「凡夫」といふは、
  無明煩悩われらが身にみちみちて、
  欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、
  ねたむこころおほくひまなくして、
  臨終の一念にいたるまでとどまらず、
  きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
                     (一念多念証文)
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何をモノサシに・・・ 

2008年03月07日 | Weblog
正月を迎えると、今年はどんな年になるのだろう。
 こんな事したい、こう在りたいと心に思うものであります。
 正月の正の字は「正しい」という字であります。
 私たちは何を「正」の基準(モノサシ)にしているのでしょうか。
 何を「モノサシ」にするかで、
 人生が違ったものになるのではないでしょうか。
 法律・道徳・・・色々ありましょうが、
 ややもすると自分の経験や見聞きしてきたこと、
 学歴・社会的地位・健康・収入・・・を基準にして、
 他を裁いたり意見を言ったりすることが多々あります。

 お釈迦様は
 「一部分を知ったからと言って全体を知ったと思ってはならない」
 と教えて下さいましたが、
 誠に私たちの日々は自分中心に一部分を知って、
 全体を知ったか如く、
 自分中心に思いこんでいる愚かな凡夫であります。

 聖徳太子は
 「世間虚仮・唯仏是心」と言われ、
 親鸞聖人は
  煩悩具足の凡夫、
  火宅無常の世界は、
  みなもてそらごとたわごとまことあることなきに、
  ただ 念仏のみぞまことにておわします。
 と言われました。

 そこで言われる基準(モノサシ)は仏法でありましょう。
 仏法を通して見る「正」と、
 私達の色メガネを通して見る「正」とは明らかに違います。
 この一年「本当の正」(真実)に出会ってみませんか。
 きっと今までと違った本当の人生の拠り所(本物)が見つかるはずです。
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坊主丸儲け・・お布施の行き先

2008年03月07日 | Weblog
年回法事を勤めさせて頂いて、皆さん「お布施」を包まれる。
 お布施の意味はさておいて、表書きは「お布施」であってほしい。
 家庭により表書きがなかったり、志、お礼、感謝・・様々である
 一番気分が悪いのが「お経料」である。

 お布施は、年回法事をお勤めさせて頂くのに、
 料金表がある訳でもないし、
 お経を読んだ料金でもない訳であります。
 また、頂いたお布施が個人の収入になる訳でもありません。
 お布施の行き先は、宗教法人としてのお寺の収入であり、
 阿弥陀さまのものであります。
 僧侶は阿弥陀さまにご進納下さった
 尊い浄財をお預かりして来るのであります。

 そして、その浄財により
 お寺の生活や寺院施設の護持や運営
 仏法繁盛のために使わせて頂くのであります。
 ですから、お寺に税務署が来て浄財を
 個人的に不正使用してないか調査もあります。
 どうか、これを読まれた方は「お経料」と書かないで
 「お布施」として下さい。
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四十九日

2008年03月07日 | Weblog
先日初めてのご縁を頂いた方のお葬儀を勤めさせて頂いた。
 その時の出来事、
 「葬儀が終わると外国に行かなくてはなりません。
 ついては、葬儀と一緒に初七日・四十九日も一緒にお願いします。
 お布施は別に払いますから」と葬家の方から依頼され困惑した。
 まァ初七日位ならわかるけど、四十九日まではチョット・・・
 喩えが悪いかも知れないけど、新車を買って、
 納車の時に一万キロ点検もやって下さいと言うのと同じ事。
 そんなこと出来ますか!
 ご法事は何のためにやるの、
 故人のため・・・残された方の務めとして・・・

 宗派の規範集には「追善回向の仏事ではなく、
 今は亡き故人を偲び、それを縁として仏恩報謝の懇念を深める」
 と明記されている。
 その時も言ったことであるが、
 「四十九日法要は何もお寺さんにお経を読んでもらわなくても、
 お経本を差し上げますから、人数にこだわらず、
 集まれる人だけで、四十九日という時間の経過した中で、
 故人を偲び、みんなでお経を読み、
 御文章を拝読するだけでもいいですから、
 四十九日頃して下さい。」と言ったことである。
 その点、鹿児島の方は、親戚同志で
 初七日、二・七、三・七・・と分担し、
 それぞれの家の近くで浄土真宗のお寺を探し、
 ご縁をもたれる。
 故人を縁として仏法のご縁に遇われる事はいいことだと思う。
 ちなみに、今までの最高は、
 一周忌と三回忌を一緒にお願いしますと言われたことである。論外!
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あいさつ

2008年03月07日 | Weblog
一月下旬の大雪が降った時、早朝より雪かきをしていると、
 見知らぬ人がお寺の前を行き過ぎてゆく、
 本堂に向かって合掌礼拝して行く人、
 歩道の雪を掃除している私に申し訳なさそうに
 会釈して行く人と様々である。
 そんな時「おはようございます」と声をかけて下さる方があり、
 私も「おはようございます」と挨拶する。
 初めての人に声をかけるのはチョット恥ずかしいけど、
 今度はこちらから「おはようございます」と声をかけると
 「おはようございます」と声が帰ってくる。
 なんとも気持ちのいいものである。

 ご法事で伺った時は、
 玄関で迎えて下さった方に形ばかりの挨拶の後、
 まっすぐお仏壇の前に行き、
 ご本尊(阿弥陀如来)にお念仏でご挨拶し、
 そして向きを変えてあらためて、
 家の方にご挨拶します。
 だって、この家を護って下さっている如来様だもの・・・
 世間では、家の人が仏壇を護っているかのように言われるが、
 とんでもない思い違い。法語で

  我が心のうち
  阿弥陀さまをあるじとし
  凡夫の心を
  あるじとすることなかれ

 というのがあったが、凡夫の心が
 あるじとなると「私がお仏壇を護っている」となり、
 阿弥陀さまがあるじとなると「唯、お敬いするだけ」でありましょう。
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素直になりたいな 

2008年03月07日 | Weblog
テレビディレクター、テリー伊藤さんは
 「お笑いって、自分の弱さや、だめなところをさらけ出すこと。
 会社のトップの自殺が目立つけど、
 虚勢を張らず弱さをさらけ出せばいい。
 太平洋戦争の御前会議で
 『やばいっすよ。アメリカにやられますよ』という人がいたら、
 世の中変わっているとおもうけどなあ」と言っておられたが、
 我を張らず素直になりたいな。
 素直になるには、無我なる仏の智慧を聞信させて頂くのが妙薬。

 如実知見は
 お釈迦様のおさとりの心
 すべてのものを
 ありのまま見なさいと言うこと
 ありのままそのまま見たら
 苦は起こらない
 花が咲いたら花をそのまま見る
 花が散ったら
 散る様をそのまま見る
 そのまま ありのままに
 ありのまま見ないで
 花が散るのは嫌だ
 散らせたくないと思うのが苦
 諸行無常の世
 どうにもならないことを
 あれこれ思い悩む心が
 愚痴となり苦となる
 悩んで物事が解決するなら
 どんなに悩んだっていいけれど
 年をとりたくないと言っても
 無理なこと
 病気になって
 くよくよ悩んでないで
 素直に受け入れたら
 素直になると
 当たり前と思ってたこと
 気がつかなかったことが
 見えてくる
 無我にはなれないまでも
 素直になりたいな

 二十世紀は、人と人、国と国、自然と人類等々
 対立と争いの世紀と言われたが、
 二十一世紀はもっともっと全てが仲良くなれたらいいね。
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最大積載量「女房子供が喰えるだけ」

2008年03月06日 | Weblog
先日、前を走るトラックに最大積載量
 「女房子供が喰えるだけ」と記されていた。
 「おいおい、どれだけ積めば気がすむんだよ!」
 思わず苦笑し、運転手さんの顔が見たくなりました。
 運転している方は、家族のために一生懸命働いているんですね。
 とてもほほえましい一時だった。
 阿弥陀の願いは私を迷いの世界からさとりの世界へ運ぶこと。

 しかれば大悲の願船に乗じて・・ 無明の闇を破し、
 すみやかに無量 光明土に到りて大般涅槃を超証す

 群萌を運戴して生死を出すがゆえに

 あまねくよくもろ もろの凡聖を運載 するがゆゑに

 ひさしくしづめるわれらをば弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならず わたしける

 生死大海の船筏なり

 父母が子供をいとおしく決して見捨てることが出来ないように、
 阿弥陀さまはいのちの全体をかけて私を心配していて下さいます。
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腹がたつ事

2008年03月06日 | Weblog
悪口を言われると腹が立つ、腹が立つのは自分の都合。
 自分の心に、心地よくないから腹が立つ。
 腹が立つのは、お粗末な、いたらない私の心・・・・
 でも、悪口を言った人のその言葉によって、
 自分のお粗末な心(怒りの煩悩)が姿を現す。
 もしかしたら悪口を言ったその人は、
 私のお粗末な自分の心を、
 私に知らせる為の如来さまのお使いなのかなァ・・・
  作家の吉川英治さんは
  「我以外皆我師」
    ー自分以外はみな自分の師であるー と言われ、
 親鸞聖人は
  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとへに親鸞一人がためなりけり (歎異抄)

 というお言葉に、お味わいさせて頂くことであります。
 しかし、如来さまのお使いと思いつつも腹が立つのは治まらない・・・・
 「煩悩熾盛の凡夫」という言葉が身に浸む。
 念仏は そのままこいよのお呼び声 南無阿弥陀仏
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人の手本にはなれないが見本にはなれる

2008年03月06日 | Weblog
北陸に高光大船というみんなから尊敬される念仏者が
 「自分は人の手本にはなれない、
 だけど見本ぐらいにはにはなれるだろう」
 と言われたという。
 私はこの言葉に何かホッとする安らぎをおぼえる・・・
 手本になることは立派なことには違いない・・・
 だけど阿弥陀さまの智慧に照らされた私の姿は、
 自分中心で煩悩三昧(欲・怒り・愚痴)の日々であり、
 とても手本になれるような姿(身口心)は
 一つもない恥ずかしい自分を知らされる。
  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実の我が身にて
  清浄の心はさらになし (親鸞聖人和讃)

 見本という私は、立派な自分を取り繕う訳でもなく、
 ありのままの自分でいいんですね!

  よろづのことにつけて、
  往生にはかしこきおもいを具せずして、
  ただほれぼれと弥陀の深重なること、
  つねにおもひいだしまゐらすべし。(歎異抄)

 阿弥陀様のご本願は「手本になれない」私を
 「見本のまま(このままの私)」を救う為の願いでありました。
                        南無阿弥陀仏
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幽霊とは、私自身の姿だった!

2008年03月06日 | Weblog
一時期テレビで心霊写真等々の番組がよく放映されていた。
 お寺にも心霊写真なるものを処分してほしいとよく来られたものである。
 私も最近知ったことであるが、幽霊には三つの特徴があるそうです。
 一.髪の毛が、長く後ろに伸びている。
  「後ろ髪を引かれる」という言葉 があるように、
  過ぎ去った事や自分の周りの心配事に心を奪われている。
 二.両手が前に垂れている。
  「取り越し苦労」という言葉があるように、将来、未来のことにあれこれと
  悩んで、無駄な心配をして心を奪われている。
 三.足がない。
  過去のことに未練を残して、いつまでも振り切れず、
  未来のことが気がかりで我が身の現実がお留守になって見えない状態を、
  足がないと表現されている。

 そうすると幽霊とは、あっちこっちに心を奪われ、
 地に足が着いてない私自身の姿でありましょう。

 ◇鏡の前に立てば姿がうつる、教法の前に立てば心がうつる。
 という法語があったが
 阿弥陀如来の御本願は、私達が早く迷いの現実に気づき、
 真実の世界にめざめてゆくことを、願いつづけておられます。
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