長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

今さらですが……  『ぬらりひょんの孫』にささげるバラード  勝手に事故調査委員会報告書 第一次

2013年09月22日 23時17分42秒 | ゲゲゲの鬼太郎その愛
 どうぉ~もどぉ~もこんばんは! そうだいでございます。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました。
 今日も、私の周辺は平和に時が流れていきました。連休ですねぇ。最近、連休が多いですよね。でも、私は基本的に仕事なんですよね~。そんなもんよね。はい、ありがたいありがたいっと。


 最近になって突然思い出したように……っていうか、文字通りに突然思い出して「あっ、やらなきゃ!」と始めた妖怪任侠アクションマンガ『ぬらりひょんの孫』の後半戦についてのあれこれでございます。
 まぁ~……天下のおジャンプ様で連載された作品だし、その上2シーズンもアニメ化されたわけなんですから超有名な物語でもありますし、すでに連載終了しているんですから、今さらわたくしめがしゃしゃり出てあ~だこ~だ言ってもあんまし意味はないんでしょうがね。
 でも、やっぱりなんと言いましても2013年10月現在の時点で、この作品が私の愛する大妖怪ぬらりひょん閣下を扱った作品の最新ヴァージョンであることを考えますと、ハイ終わりましたかそうですかと軽く受け流すわけにはいかないのであります。しかも、「ああいう」終わり方でしょ……

 物好きなそこのあなたならばすでにご存知の通り、我が『長岡京エイリアン』ではかつて2年前の2011年に、9月から12月にかけて33回もの長きにわたって「妖怪ぬらりひょんの歴史」というテーマで、現在流布している「日本の妖怪の総大将」というイメージの裏に隠されていた真実のぬらりひょんの履歴をたしかめました。そして、その時点では『ぬらりひょんの孫』が人気絶頂期ともいえる「千年魔京編」を扱ったアニメ第2期の放送中で、マンガ自体も「百物語組編」の前半戦の真っただ中という状況になっていたため、そもそももとをただせば『ぬらりひょんの孫』について感じたことをぶつぶつつぶやくのが最初の目的だったはずなのに、結局はその行く末をちゃんと見極めることができないまま終結してしまっていたのでした。

 とまぁ、そういうわけでついに今回、世間的には何を今さらな感が強いながらも、個人的にはず~っと心の底の片隅にひっかかり続けていた(そして正直、忘れてしまっていた)『ぬらりひょんの孫』の総まとめに取り組む運びになったわけなんですなぁ~。あぁ~前置きが長い長い!!


 じゃあさっそく内容に入りますけど、前回2011年に「ぬらりひょんサーガ」をあれこれいじくっていた段階では、私はこの『ぬらりひょんの孫』にかんしては、実はおじいちゃんのほうに夢中になりすぎてはっきりまとめられないまま終わってしまったのでしっかり言及してはいなかったのですが、だいたい、

・妖怪ネタのトピックが盛りだくさん過ぎてひとつひとつをちゃんと扱えきれていない
・主人公の奴良リクオが、初代総大将のぬらりひょんや二代目総大将の奴良鯉伴のカッコよさに埋もれてしまう
・「千年魔京編」のクライマックスにラスボスとして登場したのが安倍晴明という人選が気にいらない
・「百物語組編」の幹部キャラクターが全体的に魅力が薄い

 とまぁ、こんなところをつぶやいていたのですが、それから2年の歳月が経過した現在も、結局言いたいのは上の4ポイントが中心なんですよねぇ~。私という存在がいかに成長のない人間であるのかが如実に証明される事実に直面して驚愕してしまいました。がっくし!

 ということで、2013年の今になって、改めていってみようかぁ~!!


問題その1、「大男、総身に知恵がまわりかね」

 これはもう、なんっつっても「千年魔京編」くらいから無尽蔵に出来してきた問題で、この章段だけでも「九尾の狐」やら「土蜘蛛」やら「大江山酒呑童子」やら「鞍馬山の大天狗」やらと、もうそれだけで余裕でフィクション1作品ぶんのヴォリュームになりそうなテーマがてんこもりな上に、ここぞとばかりにぞろぞろと出しゃばってきた陰陽師・花開院一族と謎の存在「鵺」、そして初代総大将ぬらりひょんと羽衣狐との、400年前の大坂夏ノ陣(1615年)での因縁と、もうむちゃくちゃ。
 ただ、この「千年魔京編」はコミックスで言えば第7~16巻(10巻ぶん)という余裕のペースで語られていたため、それでも「いちおう全体はおさえた」という感じで円満に終結はできていたと思います。限界ギリギリという危なっかしさはありましたけど。

 ところが! だいたいこのへんを限度とおさえておくべきだったのに、その後の「百物語組編」と「御門院一族編」でさらに際限なく膨張してしまった作品世界!!
 「都市伝説」「くだん」「百物語」「山ン本五郎左衛門」「奴良鯉伴」「人間と妖怪の対立」「九相図」、そして「安倍晴明」「秘術泰山府君祭」「天海僧正」「ひるこ」「恐山」「九州熊襲妖怪」「葵螺旋城」……

 んもォ~、だめ。おなかパンクします。
 結果として、すべての要素が物語の焦点を「どうぞ、どうぞ……」とダチョウ倶楽部の如くに譲り合うかのような中途半端なバトンタッチを繰り返してしまったがために、こんなにおいしい素材が目白押しになっているのに、そのほとんどが「奴良リクオが強くなったから、なんとかなりました!!」という理屈にならない理屈でしめられてしまっていたのです。

 あと、この一連の流れはクライマックスでまた性懲りもなく蒸し返されるように、なにはなくとも「千年魔京編」で語られた、「羽衣狐と安倍晴明との愛憎ホームドラマ」を知っていなければぜんぜん理解できない展開で大団円を迎えることとなります。つまり、コミックス第7巻以降は、すべてがなんにも解決してないまんま最終25巻までズルズルひと続きになっていると観てもさしつかえありません。

 ということは、だいたいコミックス20冊ぶんの内容をちゃんとおぼえていないと、ラストのあれこれがわかんなくなるわけなんですな……

 こんなに読みにくいマンガって、ある? よっぽど好きじゃなきゃついてけないって、こんなの!
 いちげんさんお断りもいいところですよ……あんなに一般うけしそうな画風なのに、こんなに敷居の高いストーリーラインにしてどうするんでしょうか。

 でも、このマンガの大問題は、その論理で言っても普通の考え方で言っても、いっちばん大事にしなきゃいけないはずの、『ぬらりひょんの孫』を初期から好きでチェックしているファン層を、かな~りないがしろにするようなツラい展開を強いているんですな! それが次の問題のこと。


問題その2、「どんどん膨張する妖怪世界と、どんどんいらなくなる人間世界」

 結局は個人的な好みの問題になってしまうんですが、私は初期の浮世絵町サイズで展開する物語が大好きだったし、家長カナというごく普通の少女がヒロインとしてちゃんと機能して、清継くん率いる「清十字怪奇探偵団」がコメディパートをがっちりフォローしているという、ささやかながらも絶妙にバランスの取れた「実に少年マンガらしい少年マンガ」の時期が大好きでした。今になって振り返ってみれば、浮世絵中学校の校内でクライマックスバトルを迎えていた「四国八十八鬼夜行編」の、なんとスリムでかっこいいことか。

 第一、奴良リクオという主人公をちゃんと「4分の3人間」という視点で生かすためには、そのリクオの日常である「中学生」をしっかりストーリーに乗せなければいけないわけであって、彼が「4分の1妖怪」であることをひた隠しにしなければいけないスリルと緊張は、作品全体の格好の潤滑油になっていたかと思うんです。
 要するに、『ぬらりひょんの孫』は人間世界と妖怪渡世のやりくりに四苦八苦してこその『ぬらりひょんの孫』なんじゃないかと思うんですね。そこを「妖怪の孫ですけど、何か?」となってしまっちゃあ、作者がせっかく用意したおもしろ要素を、みすみす自分でドブに捨ててしまうようなものだと思うんです。
 例えとして適当かどうかはわかりませんが、この「妖怪で人間」という設定を「ヒーローで教師」に置き換えた過去の作品に、『ウルトラマン80』(1980~81年)と『地獄先生ぬ~べ~』(1993~99年)という2作品があります。前者はこの両立の困難さに直面して早々に「教師」の部分を放棄してしまいましたが、後者は連載のかなり後期にいたるまで実に根気強くこの設定を大事にし続けていました。その結果、どちらが今現在も多くの人々の記憶に残る作品になっているのか……言うまでもないことでしょう。「苦労は買ってでもしろ」という世界の摂理が、ここでもしっかりと息づいていますね。いや、『ウルトラマン80』もおもしろいっすけど!

 もちろん、奴良リクオの「妖怪と人間の橋渡し」という存在意義は確かに最終回までありはしましたが、その片方である「人間」の意見がほとんど聞けないまま「一に妖怪、二に妖怪、三、四がなくて五に晴明。」というバッカみたいなスーパーバトルのつるべ打ちになってしまった「千年魔京編」以降の物語は、まさに人間の読者を置いてきぼりにするのもはなはだしい乖離感を生じさせていたと思うんです。
 「千年魔京編」ということで、舞台が浮世絵町じゃなくなったことで人間側のレギュラーメンバーがほとんど出てこられなくなったのも痛いし、「百物語組編」でまた東京に戻ってきたと思ったら、わけのわかんないバトルのどさくさにまぎれて「リクオは妖怪の総大将でした~」っていう真実がグッダグダでなしくずしに知れ渡っちゃうし……ああなっちゃったら、「百物語組編」を最終エピソードにしないと作品として締まらないと思うんですが、そのまんま続行しちゃったしね。

 ただ、この問題は作者も非常に気にしていたようで、連載の後期になっても、大きなバトルの合間には必ずことあるごとに人間のレギュラー陣がリクオの家に集まって、妖怪世界の近況を聞くというインターリュードが差し込まれるようになってはいたのですが、そんな付け焼刃でレギュラー陣がキャラクターとして機能したり、初期ファンが納得するほど、プロのマンガ世界は甘くないと思うんですよ。それはもう完全に、初期の活き活きとしたおもかげを残していない、「へぇ~、そうなの。がんばってね。」という相槌しか返さないパペット要員なのであって、そこには身勝手な作者の、一方的に別れておきながらしばらくして「いや、元気かなと思って……」などというビチグソなメールを送りつけてくる元カレのような下劣な態度しか見えないのではないのでしょうか。うっせーバカ! てめーが捨てたせいで絶賛失業中だよ!! ってしか言えないよね、生きてる人間じゃなくてマンガのキャラクターなんだから。そんなの、優しさじゃない。

 椎橋先生は、2010年7月に刊行された『ぬらりひょんの孫 キャラクター公式データブック 妖(あやかし)秘録』の中でのロングインタビューで、

「第7巻以降は(単行本のカバーを外したところのマンガで)カナちゃんのサブシリーズをやっていますので、本編で『カナちゃんの出番が少ない……』と思われている方は、ぜひそこのマンガを読んでみて下さい。」

 と語っていたのですが、その考え方って、どうなんでしょうか。私はものすごく納得がいかないんです、ものすごく。
 つまり、ヒロインがヒロインとしてまったく機能していないという状況を、週刊連載の段階では「やむなし」と容認してるってことですよね? それでいいんだろうか。
 これはもう、個性のない家長さんが悪いんじゃないです。「ふつうの人間」が活きる余地を残さなかった作者が悪いと思うんですよ。

 要するに、百物語組だのの安倍晴明だのと妖怪たちとのスーパーバトルがどんだけスーパーなのかを一般人が身に迫って実感しなきゃあ、スーパーにした意味がまるでないわけなんですよ。「100億エスクード」とか「8兆ヌエボソル」とか言われたって、具体的に「何円なのか」がわかんなきゃスゴさが伝わんないでしょ!?
 そこは、人間に距離が近い妖怪とか特殊技能を持った陰陽師が解説したってダメなんですよ。地に足をつけた生活をしている何の特別な能力もないふつうの人間が、ただ話を聞くだけじゃなくしっかりと実感した上で、今の状況とか、「晴明が復活したら人間世界がどうなるのか」を読者に共感させなきゃいかんのですよ。

 つまりはスピードワゴンがいないんだよ、広瀬康一がいないんだよ、エンポリオがいないんだよッ、『ぬらりひょんの孫』にはァアッッ!!

「きみはマ=クベ大佐の下に長年いて何を学んだのだ……」

 また、私の大好きなこの名セリフが脳裏をよぎりました。いや、『ジョジョ』の登場人物はもう、登場してるって時点でどっかが確実に普通じゃないですけどね。


 無論のこと、連載の中期以降は家長さんに代わって、「普通の人間じゃない」という使い勝手の良さで、妖怪の雪女つららと陰陽師の花開院ゆらが充分すぎるほどにヒロイン枠を固めて進んでいったわけなのですが、なんか寂しいことだと思うんですよね、椎橋先生が自らに課した「ごくふつうの人間との交流」という重要なハードルを捨てていってしまったのは。
 そこを両立させて乗り越えた地平にこそ、妖怪と人間の共存というテーマを本当に貫徹した『ぬらりひょんの孫』の姿はありえたと思うんです。そしてそれは、現実の結果ほどハデハデで高カロリーな作品にはならなかったでしょうが、実現不可能な話じゃなかったと思います。


問題その3、「百物語組編の決定的なブレーキ」

 またしてもマンガじゃなくて特撮の例えになってしまうんですが、『ウルトラセブン』(1967~68年)の最終回における主人公の告白がどうしてあんなに効果的だったのか?
 極端な言い方をしてしまいますと、それは主人公の言ったことの内容が素晴らしかったからではありません。パリやモスクワといった世界都市が次々とゴース星人の魔手によって一瞬にして壊滅し、地球規模の危機が迫っている段階のあの渦中で、主人公が真実をちゃんと語ることができる「静寂な時間」が実に周到に準備されていたからなのです。激しい侵略攻撃と巨大ヒーローのバトルアクションの間隙をぬって始まる静かなドラマ。この緩急の設計がしっかり演出されているからこそ、あの最終回は今なお輝きを失っていないのです。

 それが、ひるがえって『ぬらりひょんの孫』はどうかときたら、どうだいあんた……

 バトルの最中になしくずしに妖怪だとわかって、どうすんだっつうの。もったいないにもほどがある札の切り方ですよね。そりゃあ劇的だし、一見ドラマチックな展開に見えなくもないんですが、それを知ったヒロインのリアクションがものすごくおざなりになっちゃうんですよね。闘ってるんだからそれどころじゃない!みたいな流れになって。

 このくだりに限らず、「千年魔京編」に続いて、というか、それ以上にさまざまな要素が大洪水になってしまった「百物語組編」は、もうホントに全体的にまんべんなく采配が失敗し続けるという、大事故連発エピソードになってしまったと感じました。こんなに打つ手打つ手がことごとく裏目に出る展開もないと思います。はっきり言って、それまで奴良リクオと作者がせっせと積み上げてきた「人気の貯金」は、この「百物語組編」であっという間に残高ほぼゼロに帰したと見ていいでしょう。

 私の言いたい失敗ポイントを簡単にまとめあげてみますと、まず、なにはなくともラスボスであるはずの「魔王・山ン本五郎左衛門」の魔王としての器の小ささが最初っから最後まで鼻につきますね。ていうか、魔王と畏れられる資格がありません、こんな奴。子ども1人ぶんの命を奪うのにも3分以上かかってるシューベルトの『魔王』にも劣る口ばっかし野郎ですね。

 言うまでもなく、『稲生物怪録』(1749年)に登場する原典の山ン本五郎左衛門は正真正銘モノホンの風格を持った魔王です。それを、なぜに『ぬらりひょんの孫』は「もと人間で、個人的な恨みで死後に魔王になった。」というサイズにまで縮小してしまったのか……本当に理解に苦しみます。もと人間だとしても、恨みの正当性とボルテージの上がり方次第では、かの崇徳院のように立派な魔王になることもできるわけなのですが、欲得にまみれた人間が私利私欲で何をわめこうが無駄というものです。

 つまるところ、おそらく作者は前の「千年魔京編」であまりにも魅力的過ぎるラスボスを出してしまったがために、今回は品性下劣で誰からもまったく支持されない悪人中の悪人をラスボスにしてみたかったんだと思うんです。百物語組の構成員のほぼ全員が、山ン本を慕って加入した妖怪でなく、山ン本の肉体の一部が妖怪化したものか、それがまた生んだ妖怪である、という設定も山ン本の人望(妖怪望)のなさを明確にしていますね。
 でも、その本体に右ならえで、柳田、圓潮、鏡斎、珠三郎、雷電と……幹部の一人一人までもが魅力なく描かれちゃうと、ねぇ。なんかペラいんだよなぁ、キャラクターの厚みが。京妖怪連合みたいなバックグラウンドを捨ててるんですよね、山ン本の一部という出生の背景が。

 それとは対照的に、前半の江戸時代パートで、やけに力を入れて二代目・奴良鯉伴をカッコよく描きすぎたのも、一時的なプラスにはなっても、『ぬらりひょんの孫』全体のバランスを考えると大きなマイナスにしかなっていないと思います。
 あなたは、やたらイケメンの「鯉伴&若き日のぬらりひょん」ペアと、「メガネをかけた中学生男子とジジイぬらりひょん」ペア、どっちのほうが人気が出ると思いますか? 奴良鯉伴の際限のないヒーロー描写は、『ぬらりひょんの孫』本来の半熟ヒーローの成長物語にとっては百害あって一利なしだと思うんです。鯉伴は山ン本の天敵であると同時に、リクオにとっても非常に厄介な存在になってたんじゃないでしょうか。

 あとはまぁ、リクオに襲いかかる人間側の面々の描写が、テンプレートみたいにコッテコテなチーマーとオタクの集合でつまんなかったですね。『ジャンプ』みたいなマンガの世界でまで見たい顔じゃないですよ、あんなの。そういう層がネット上のうわさだけであんなに積極的にリクオを追いかけるほどやる気を出すとも思えませんしね。炎上祭りと実際の暴徒化は違うと思います。

 VS 鏡斎戦あたりでの渋谷の惨状も、う~ん……かなりがんばって作画してはいたんでしょうが、ああいう百鬼夜行による人間の虐殺描写は、言うまでもなく『 GANTZ』の「大阪編」で他ならぬぬらりひょんその人がイヤンというほどにやらかしてたじゃないですか。それを思い出しちゃうと、もちろん『ジャンプ』の連載作品だという制約もあるんでしょうが、椎橋寛先生と、かの「超絶おっぱいマエストロ」奥浩哉神先生との格の違いをまざまざと見せつけられるだけの結果になっちゃいますよね。実際に妖怪が人間を襲撃するという非常に重要なポイントなんですが、な~んか薄っぺらく見えてしょうがない。

 それで案の定、最終的にラスボス山ン本は部下の裏切りにあっちゃって、青行燈とかいう実に意味のない中継ぎをへてやっと現代に復活したかと思ったら、なんやかやでパワーアップしたリクオに一蹴されて滅び去ってやんの。

 グダグダなんですよね、行き当たりばったりなんですよね、何もかもが。
 一見、努力に努力を重ねてひとつひとつのバトルをエキサイティングに描ききっているかのようには見えます。見えるんですが、その回その回を盛り上げるのに必死になりすぎて、全体的な展望というものがまったく存在していないんです。挙句の果てには、それまで築き上げてきた伏線やらスリルまでをも、なし崩し的に食いつぶしちゃってるんですから、フォローのしようも応援のしようもありゃしません。自分の胃酸で自分を溶かしちゃってるみたいな話ですよね。

 『ぬらりひょんの孫』のコミックス第24巻には、2012年7月という連載末期に発表された最後のキャラクター読者人気投票の結果が収録されているのですが、「百物語組編」で初登場したキャラクターの中でいちばん人気を獲得したのは、「第26位」の柳田(36票)。1位の奴良リクオが3201票だったそうなので、100分の1ほどの人気しかありません。それがトップなんですからね。

 なんか、ねぇ……けっこう時間を割いて連載したっていうのに、こんなに報われない話もなかなかないですよね。でも、それにはそれなりの原因があったということで。

 「凶悪さ」と「人望のなさ」って、フィクションの世界ではまったく別次元のものなんですよねぇ。そこが見事にごっちゃになってしまった百物語組の面々に、合掌。

 あ、あと最後にひとつだけ。
 「妖怪くだん」の予言がはずれた理由って、まったく語られてないですよね。
 百物語組の捏造だったってことで、いいんですか? そんなにくだんを軽い扱いにして、バチでも当たるんじゃないですか? あぁ、バチはもう充分すぎるほどに当たってるか。


問題その4、「全然ドキドキしない夜雀と三目八面の正体」

 これは別に夜雀(よすずめ)と三目八面(みつめやづら)2人に限った問題ではないのですが、ようするにこの『ぬらりひょんの孫』というマンガは、やたら安易に「実は裏切り者」というカードを切りすぎるんです。しかも、実は裏切り者というからには、そのキャラクターが潜入先の組織にしっかり根を張った「裏切りそうにない」イメージを持っていなければ効果的でないはずなのに、裏切るヤツにかぎっていかにも裏切りそうな雰囲気満点のワケのわかんないのばっかりなんですよね!
 夜雀でしょ、三目八面でしょ、鏖地蔵(みなごろしじぞう)でしょ、圓潮でしょ……どいつもこいつも部下にしたくねぇ!! あぁ、あいつだったら裏切るだろうなぁ、ってな感じでサプライズ感ゼロですよ! 夜雀なんか、性別がメスだろうがオスだろうがファッキンどーでもいいですもんね。キャラクターに魅力が全然ないから。
 なんかしゃべれや!! 言いたいことはオノレで言わな売れへんで!!

 四国八十八鬼夜行編だろうが京妖怪連合編だろうが百物語組編だろうが、いちいち章が変わるたんびに誰かが裏切ってたら、どんなに好意的な読者でも飽きますって! 消費者をバカにしてんのかって話ですよ。裏切り者をそれらしくなくカモフラージュするという基本作業すらせずに登場させてんですから、もはやつける薬もありません。つまんねーったらありゃしねーってのよ!!

 先ほど私は、椎橋先生が大した意味も無く魔王・山ン本五郎左衛門を貶めたと怒りましたが、これは三目八面にも言えることなんじゃないかと思います。いや、これは三目八面のほうが被害がひどい!
 三目八面はもともと四国の出身で、しかもひょっとしたらあの伝説の凶龍「八岐大蛇」の血族かもしれない大妖怪なんですよ!?
 それがいったい、どこをどう解釈すればあんな風に、縁もゆかりもない千葉を拠点とするチンケなおっさん妖怪になってしまうのか……非礼にも程があります! ちゃんとその「畏れ」ってやつを描ききってくださいよ、差別しないでさぁ!!



 ……さぁ、こうやってここまでたっぷり字数を割いて進めてまいりましたが、まだ言いたいことの半分くらいしか言えてません!!

 ということで、後半戦はまた次回にさせていただきまする~。
 愛です、愛ゆえの長さでございます!

 ちゃんと最後まで読んでくださるそこのあなた……あんたも好きねぇ~♡
 もうちょっとだけ、お付き合いくださいませ!
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