長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

読書メモ 『幽霊を捕まえようとした科学者たち』 第1章

2016年09月03日 20時18分45秒 | すきな小説
ノンフィクション小説『幽霊を捕まえようとした科学者たち』(2006年 デボラ=ブラム)


エマヌエル=スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg 1688~1772年)
 エマヌエル=スヴェーデンボリは、スウェーデンの貴族・科学者・神学者・神秘主義思想家である。多くの場合、姓は「スウェーデンボルグ」と表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くがイギリスの大英博物館に保管されている。スウェーデンボリによる霊界の描写は、現代人に起こる臨死体験と共通点が多いとされる。両者に共通する点は、広大なトンネルを抜ける体験や光体験、人生回顧や時空を超えた領域を訪れる体験などである。


実録幽霊体験談集『自然の夜の側』(1848年刊行 イギリス)
 児童文学者キャサリン=クロウが編集した実録幽霊体験談集。イギリス国内でベストセラーとなり、「ポルターガイスト」という言葉が一般化した。


ハイズヴィル事件
 1848年3月にアメリカ合衆国ニューヨーク州ハイズヴィル村で発生した、フォックス家の姉妹の周辺で発生した超常現象事件。フォックス姉妹が、霊と交流できると告白したことで一大交霊ブームを引き起こし、近代スピリチュアリズムのきっかけを作った。
 次女マーガレット(1838~93年)と三女キャサリン(1841~92年)の2人は、後に超常現象のひとつとされる「ラップ現象」を起こす事が可能で、死者の霊と音を介して対話や交信できる霊媒師として有名になり一大センセーションを巻き起こした。また、その現象に対して当時のマスコミや大学研究者を巻き込んでの騒動や論議となったことでも有名となった。
 この事件がきっかけとなり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて顕著になった交霊会や心霊主義による心霊現象研究が盛んとなった。特にアメリカやイギリスでこういった研究やイベントが盛んとなり、ヨーロッパ各国や日本にも、研究目的、好奇問わず広まってゆくこととなる。


1850年代初頭
 1840年代にアメリカで発祥した交霊会(テーブル・トーキング)がヨーロッパ諸国で大流行する。
1851年~
 霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム(18歳~)の交霊術が話題となり、イギリス国内にとどまらずヨーロッパ各国で一大ブームを巻き起こす。
1853年
 ヨーロッパの宗教界や物理学者マイケル=ファラデー(62歳)が、当時大流行していた交霊会を批判する書物や論評を発表する。


マイケル=ファラデー(Michael Faraday 1791~1867年)
 マイケル=ファラデーは、イギリスの化学者・物理学者で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。ファラデーは高等教育を受けておらず、高度な数学もほとんど知らなかったが、史上最も影響を及ぼした科学者のひとりとされている。「科学史上最高の実験主義者」とも呼ばれる。ファラデーはイギリス王立研究所初代フラー教授であり、死去までその職を務めた。
 ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している。


ダニエル=ダングラス=ホーム(Daniel Dunglas Home 1833~86年)
 ダニエル=ダングラス=ホームは、イギリスの有名な霊媒師。幼少時から霊能力があり、また結核にもかかっていた。 近代以降でもっとも強力な物理的霊媒師であり、生涯一度もイカサマだという証拠を掴まれたことはなく、部屋の暗さや静けさなども問題にしなかった。現象が起きないときも平然としており、慌てたりごまかそうとするようなことはなかった。
 彼の心霊現象を見た者の人数が桁はずれに多く、さまざまな王室の人々や著名人も含む。またウィリアム=クルックスのような研究者の調査にも快く応じている。それでもヒュームを詐欺師として非難する者は多かった。
 物理的現象は非常に数多く報告され、スケールが大きい。空中浮遊、身長が30センチ近くも伸びること(脚や腕などもそれぞれ伸びた)、真っ赤に燃える石炭で顔を洗ってみせたり、同席した者にも同じように触れさせること、テーブルやソファなどの重い家具が動くこと、ラップ音やさまざまな音、匂い、楽器の演奏、手が現れて出席者と握手したり品物を運んだり楽器を演奏したりとさまざまな動作をすること、光や火球が飛ぶこと、部屋が地震のように激しく振動すること、霊の全身が物質化して出席者に見られること、入神して(知らない言語でも)話すこと、霊の姿を見て会話すること、等々である。
 霊との通信内容に関しては他の一般的な霊媒師とそれほど際立った違いはなく、同時代のアンドリュー=ジャクソン=デイヴィスやウィリアム=ステイントン=モーゼスなどのように一貫した思想を伝えることはなかった。
 性格は穏やかで紳士的、禁欲的だった。経済的に逼迫したときにも、心霊現象を見世物にしたり相談に乗って金儲けをしたことは一度もなかった。機会があれば一般人にも現象を無料で見せていたという。


1857年
 アメリカのハーヴァード大学研究チーム、ニューヨーク州バッファローの霊媒師アイラ&ウィリアム=ダヴェンポート兄弟の霊媒ショーのトリックを暴けず心霊ブームに拍車をかける。
1858年7月
 イギリスの博物学者チャールズ=ダーウィン(1809~82年)とアルフレッド=ラッセル=ウォレス(1823~1913年)、共同で「自然淘汰説」を発表する。
1859年11月
 チャールズ=ダーウィン(50歳)、『種の起源』を出版する。
1860年2月
 イギリスの生物学者トマス=ヘンリー=ハクスリー(1825~95年)、ダーウィンの進化論を弁護する議論をイギリス国教会と展開し、科学界と宗教界との対立を激化させる。
1864年
 イギリスの詩人ロバート=ブラウニング(Robert Browning 1812~89年)、交霊会のトリックを暴露する詩『霊媒スラッジ氏』を発表する。


アルフレッド=ラッセル=ウォレス(Alfred Russel Wallace 1823~1913年)
 アルフレッド=ラッセル=ウォレスは、イギリスの博物学者・生物学者・探検家・人類学者・地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を2つの異なった地域に分ける分布境界線「ウォレス線」を特定した。そのため「生物地理学の父」と呼ばれることもある。チャールズ=ダーウィンとは別に独自の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を決断した。また、「自然選択説」の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした19世紀の主要な進化理論家のひとりである。その中には自然選択が種分化をどのように促すかという「ウォレス効果」と、「警告色」の概念が含まれる。
 心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させた。イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者のひとりでもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は『マレー諸島』(1869年)として出版され、19世紀の科学探検書として最も影響力と人気がある一冊だった。
 ウォレスは1861年に義兄に宛てて、「人類の多数にとってある種の宗教は必要である」と書いた。ウォレスはまた骨相学を強く信じており、若い頃から催眠術にも関心を持っていた。レスターの学校では生徒たちを使って実験を行った。彼はまず催眠術の実験から始めた。これは論争の的であった。ジョン=エリオットストンのような初期の催眠術の実験者は医学界と科学界から厳しく批判された。ウォレスの催眠術に関する経験は後年の心霊主義の調査に引き継がれた。
 1865年に姉ファニーと共に心霊主義の調査を始めた。まず文献を調査し、その後は交霊会で観察した現象をテストした。そしてそれらは自然的な現象であるという信念を受け入れた。ウォレスは少なくともいくつかの交霊会での現象は本物だったと確信していた。たとえ多くの詐欺の告発が行われても、トリックの証拠が提出されても、彼にとって問題ではなかった。
 歴史家と伝記作家は、いったい何がウォレスに心霊主義を受け入れさせたかで意見が一致していない。ある伝記作家は婚約者に婚約を破棄された時に受けた衝撃を示唆した。他の研究者はそれに対して、物質界と非物質界、自然界と人間社会のあらゆる現象に対して科学的で合理的な説明を見つけたいというウォレスの願望を強調した。心霊主義は完全に唯物論的で機械論的な科学にさらされており、イギリス国教会のような伝統的な教義を受け入れがたいと感じていた教養あるビクトリア朝時代の人々の心に響いた。しかしウォレスの視点を深く追求した研究家は、これはウォレスの科学や哲学の問題ではなく、宗教に関する問題だったと強調した。
 心霊主義と関係した19世紀の知識人には若い頃のウォレスが憧れた社会改革者ロバート=オーウェンや、物理学者ウィリアム=クルックス、ジョン=ウィリアム=ストラット、数学者オーガスタス=ド=モルガン、スコットランドの出版業者ロバート=チェンバースなどがいた。
 ウォレスの心霊主義の公然とした支持と、心霊主義に向けられた詐欺の告発に対する擁護は1870年代に彼の科学的評判を傷つけた。以前は親しいであった同僚の科学者たち、例えばベイツ、ハクスリー、ダーウィンとの間は緊迫し、彼らはウォレスがあまりに信じやすいと感じた。他の人々、生理学者ウィリアム=カーペンターや動物学者レイ=ランケスターは、この問題に関して公然とウォレスの敵対者となった。ウォレスと他の心霊主義擁護の科学者(特にウィリアム=クルックス)は、当時のマスコミから広い批判を受けた。


ヘンリー=シジウィック(Henry Sidgwick 1838~1900年)
 ヘンリー=シジウィックは、イギリスの哲学者・倫理学者である。
 1859年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのフェローに選ばれ、そこで古典学の講師になり、10年間その職に就き、1869年、その職を以前から彼が注目していた道徳哲学の講師職と交換した。
 同年、イギリス国教会の信仰告白を拒否したため、フェローシップを辞退した。彼は講師職は維持し、1881年に名誉校友に選ばれた。1874年、初めて世間での評判を勝ち取った『倫理学の諸方法』を出版した。1875年、トリニティの道徳・政治哲学の講師に指名され、1883年に哲学のナイトブリッジ教授に選ばれ、さらに1885年にケンブリッジ大学はもう一度彼をフェローシップに推挙した。
 シジウィックは教職員や著述家としてだけでなく、大学の運営や、多くの社会・慈善事業に積極的に貢献していた。また、「イギリス心霊現象研究協会」の設立者のひとりであり初代会長で、形而上学協会の会員だった。彼の名が最も知られているのは、女性の高等教育の促進への貢献である。
 彼は心霊現象に深い関心を持っていたが、彼の活動力は宗教と哲学の研究に優先的に注がれていた。イギリス国教会のもとで育ったシジウィックは、伝統的なキリスト教からは離れ、1862年には早くも自分を無神論者とみなしている。従って彼はキリスト教を「社会学的視点からは不可欠でかけがえの無いもの」とみなしてはいたが、自身が宗教を受容することはできなかった。


フレデリック=ウィリアム=ヘンリー=マイヤース(Frederick William Henry Myers 1843~1901年)
 フレデリック=ウィリアム=ヘンリー=マイヤースは、イギリスの古典文学者・詩人・心霊研究の開拓者。また初期の深層心理学研究における重要な研究者であり、ウィリアム=ジェイムズ、ピエール=ジャネ、カール=グスタフ=ユングらに影響を与えたと言われている。
 幼いころからギリシャ語、ラテン語を中心とする古典教育を受け、14歳で詩のコンテストに優勝するなど才能を示し、次代を担う詩人になると期待されていた。詩人として立つ夢とその重責の間で葛藤し、最終的に詩人となることをあきらめるが、彼の詩人としての本質やロマン主義復興の影響は、後の心霊主義の研究にも表れている。『聖パウロ』(1867年)、『洗礼者聖ヨハネ』(1868年)など数多くの詩作に加えて、古典語の知識を生かしたプラトン、ホメロス、アイスキュロス、ルクレティウス、ウェルギリウス、ホラティウス、オウィディウスなど古代ギリシア・ローマ文学の研究、ワーズワースの評伝などの業績が知られている。
 牧師の息子であったが、信仰と理性を和解させることができず、キリスト教から離れた。青年期は同性愛者であったという。キリスト教を離れたことで、霊魂が死によって消滅するという不安に悩み、1873年以降は知人が開いていた交霊会に積極的に参加し、オックスフォード大学出身の霊媒師ウィリアム=ステイントン=モーゼスの交霊実験に感銘を受ける。霊魂の死後存続の予感から、その証明のために心霊主義の研究を行い、彼の神なき世界において神のような存在であった恋人アニー=イライザの死を契機に、本格的に心霊主義を研究するようになった。1882年には、師であるヘンリー=シジウィックらと共に「イギリス心霊現象研究協会(SPR)」を創立した。
 当初は死者の霊との交流を目指していたが、心霊現象そのものについても思索を深めていった。精力的に心霊研究を行い、イギリス心霊現象研究協会の会報に論文を発表し、当初は全ての論文に目を通し学術的水準の高さを保った。全2巻からなる大著『人間の人格とその死後存続』(死後刊行)は、彼の心霊研究の集大成であると共に、心霊主義の契機となったハイズヴィル事件(1848年)以降の心霊現象全体を統一的に俯瞰する内容であり、「潜在意識」、「天才における潜在意識の奔出」、「催眠現象」、「自動現象」などが扱われている。後の心霊学に多大な影響を与えた。彼の「心霊主義(超心理学)」の研究と「サブリミナル・セルフ(閾下自我)」というアイデアは当時大きな影響を与えたが、主流派の科学者には受け入れられなかった。
 マイヤーズは科学界からは白眼視され、宗教からは非難されていた事象を研究し、宗教の根本教義に関わる魂の死後存続や、キリストの復活を始めとする諸現象を、科学的に証明しようと考えた。人格の一部は、外見上身体組織とは独立した仕方で作動でき、分離した人格はメタエーテルの場でその活動が顕在化すると考えた。これが霊であり、存続する個人エネルギーの顕現であるとした。人間の識閾上の部分でのコミュニケーション(知的・意識的交渉)が存在するのと同じように、識閾下の部分(無意識)でのコミュニケーションが存在するに違いないと考え、テレパシーはそこに関わってくるのではないかと推測した。よって、人間は互いに四肢(メンバー)であり、識閾下の部分で常に交渉しているのだから、テレパシーは愛の証明になり、これが聖者たちの共同体の地上における始まりであると考えたのである。
 彼が創案した「超常 supernormal」、「テレパシー telepathy」などの用語は現在も使われている。霊による現象と、霊媒師や同席者の潜在意識やテレパシーによる現象を区別しなければならないと考え、厳密な調査や実験を行った。この考え方は後の SPRの懐疑主義、特に心霊現象のほとんどは潜在意識とテレパシーによるものだとする姿勢につながったとも言われる。


1868年
 ウィリアム=ジェイムズの弟の小説家ヘンリー=ジェイムズ(25歳)、自身初の恐怖小説『古衣装の物語』を発表する。
1869年4月
 アルフレッド=ラッセル=ウォレス(46歳)、「自然淘汰には神の存在が関係している」という論文を発表し、ダーウィン(60歳)やハクスリー(44歳)と対立する。


ウィリアム=クルックス(Sir William Crookes 1832~1919年)
 サー・ウィリアム=クルックスは、イギリスの化学者・物理学者である。タリウムの発見、陰極線の研究に業績を残している。
 1848年にイギリス王立化学大学に入学し、ドイツから来たアウグスト=ホフマンの下で有機化学を学んだ。グスタフ=キルヒホフの分光学研究に刺激を受け、自らも分光学に転じた。1861年には、分光分析により、硫酸工場の残留物からタリウムを発見した。
 1875年ころから、陰極線(放電現象)に興味を持ち、従来より真空度の高い放電管を作って研究を行った。クルックス管を発明し、この中に羽根車をおいて陰極線をあてて回転させた実験は有名である。この実験により、陰極線は帯電した微粒子からなることを明らかにした。この微粒子はその後「電子」と名づけられ、その性質が明らかにされていった。
 クルックスはクルックス管で実験を行うと、周囲の写真乾板を露光させる現象があることを認識していたが、それを深く追求はしなかったため、X線発見の機会を逸してしまった。15年後、同様の現象を見出したレントゲンにより、X線が発見された。
 物理学に留まらず、様々な分野における研究を行った。例えばテンサイからの砂糖製造の研究、フェノールの防腐作用の発見(1866年)、ダイヤモンドの起源に関する研究、都市排水に関する研究といったものである。また、1860年代後半から心霊現象の研究をはじめた。「心霊現象研究協会(SPR:Society for Psychical Research)」の創設メンバーに加わり、1896年には第4代会長に就任した。
 1871年、信奉者の間で「霊媒の王者」と呼ばれていた霊媒師ダニエル=ダングラス=ホームについて研究し、「ホームの心霊現象にはトリックの片鱗すら見出せなかった」との結果を発表した。 また、1872年からその真偽をめぐり論争が起っていたロンドンのフローレンス=クックという17歳の女性霊媒師についても研究を始めた。クックが自身のエクトプラズムを使って物質化させたというケイティ=キングと名乗る霊の脈拍を測ったり、何十枚もの写真撮影を行なった。そして、クルックスはクックの起こす現象は本物であると発表した。多くの科学者はクルックスは騙されたか、発狂したのだと考えた。それらに対し、クルックスは「私はそれが可能だと言ったのではなく、事実だと言ったのだ。」と反論した。クルックスは妻と共に、クックが1904年に他界するまで面倒を見続けた。


1874年
 化学者ウィリアム=クルックス(42歳)、霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム(41歳)の霊媒ショーにトリックが無いとの結論を下し、未知のエネルギー「心霊力」の存在を論文で発表するが、ダーウィン(65歳)、ハクスリー(49歳)、イギリス学術協会会長ジョン=ティンダル(54歳)ら科学界の主流派からは徹底的に非難される。
 ダーウィン、ハクスリーの主催した霊媒師の交霊会を検証しトリックを暴く。
1875年
 ケンブリッジ大学の哲学者ヘンリー=シジウィック(37歳)、古典文学者フレデリック=マイヤース(32歳)、心理学者エドマンド=ガーニー(28歳)、霊媒師の霊媒ショーの研究を始める。
1876年
 霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム(43歳)、同業者のトリックを暴く著作を発表し、心霊現象肯定派のウィリアム=クルックス(44歳)と対立する。
 クルックス、霊媒師フローレンス=クック(20歳)との不倫関係疑惑をマスコミに騒がれ心霊現象研究から身を引く。


ジョン=ティンダル(John Tyndall 1820~93年)
 ジョン=ティンダルは、イギリスの物理学者・登山家である。物理学者として一般に知られる業績としては、「ティンダル現象」を発見したことである。その他にも、赤外線放射(温室効果)、反磁性体に関して突出した業績を残した。
 登山家としては、アルプス山脈5番目の最高峰ヴァイスホルンの初登頂に成功した(1861年)。また、マッターホルンの初登頂を競い、1862年に山頂から標高230m下の肩にまで達した(その後エドワード=ウィンパーが1865年に初登頂した)。1868年にはマッターホルンの初縦走に成功している。なお、登山の元々の目的は物理学者としてアルプスの氷河を研究することであった。


フローレンス=クック(Florence Cook 1856~1904年)
 フローレンス=クックは、イギリスの有名な霊媒師。イギリス最初の完全物質化霊媒として有名。化学者ウィリアム=クルックスによる調査を受けた。
 1回だけ非常に原始的なトリックを暴かれたことがあり、また同じく物質化現象を起こすことがあった霊媒師ダニエル=ダングラス=ヒュームが「あれは本物ではない」と述べたという説もある。 一方で大量の証言、綿密な調査報告、写真があり、むしろあのトリックは何だったのか謎だという意見もあり、未だに真偽が取り沙汰されている霊媒のひとりである。
 ロンドンのイーストエンドに生まれ、幼少時から霊を見たり、その声を聞いたりすることがあったが、本人は想像だと思っていたという。15歳の時に自宅で交霊会を開くようになる。1872年4月、自宅でトランス状態に入ったところ「ケイティー=キング」と名乗る霊が現れ、以後3年間訪れて様々な現象を示すことを約束する。
 1873年、交霊会に出席したウィリアム=ボルクマンが、「ケイティー=キング」がフローレンスに似ていたため詐欺だと怒り、霊を掴む。驚いた他の出席者が慌ててボルクマンを取り押さえると、霊は消えた。ボルクマンがすぐにキャビネットを開けてみると、縛られたままのフローレンスが鼻血を出していたが、無事だった。ボルクマンはその後すぐ別の霊媒師と結婚したため、意図的にフローレンスの交霊会を妨害したのではないかという嫌疑がかけられた。なお、「ケイティー=キング」の容貌はあまり一定していなかった。基本的にはフローレンスに似た年恰好だったが、肌や髪の色が変わったり、顔立ちが変わったりすることもしばしばあったという。
 1874年2月、ウィリアム=クルックスがフローレンスと「ケイティー=キング」に関する調査を発表。しかし同年5月21日、「ケイティー=キング」が二度と現れないことを宣言して去る。フローレンスもその直後に結婚し、霊媒をしばしば休業するようになる。「ケイティー=キング」が去った後は「マリー」と名乗る霊が現れるようになり、交霊会で踊ったり歌ったりするパフォーマンスを行っていた。
 1904年4月24日のフローレンスの死の後、ウィリアム=クルックスは「自分の死後存続に対する確信の多くは、彼女の確かな霊媒能力による。」と再度宣言した。


エドマンド=ガーニー(Edmund Gurney 1847~88年)
 エドマンド=ガーニーは、イギリスの心理学者・作家。
 初期SPR を支えた研究者のひとり。古典、音楽、医学、法律など様々な領域を学ぶ。1883年からは心霊研究に没頭し、特に催眠やテレパシーを研究。テレパシーはガーニーによって最初に報告された。「彼は、あらゆる十分な技能をもって催眠の心理学的側面を研究した、最初のイギリス人である。」(マイヤース)
 鋭い知性とユーモアと暖かい人柄で友人が多く、ウィリアム=ジェイムズ、サミュエル=バトラー、ジョージ=エリオットなどと親交があった。聖職者の家庭に生まれ、少年時代に両親と死別、さらに姉妹の3人がボートの事故で死去。ガーニー自身も躁鬱病と顔面の慢性神経痛を抱えていた。ヴィクトリア朝文化の楽観的な雰囲気の中、ガーニーの著述には醒めた悲観的なものが多く、異彩を放っている。1888年6月に死去。いつも顔面の神経痛の緩和に使っていたクロロホルムの誤用による事故死だったが、後に自殺説も取り沙汰された。

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