演劇集団キャラメルボックス 2017サマープレミア 『スロウハイツの神様』(2017年7月5~16日 東京池袋・サンシャイン劇場)
実は今日、実にありがたいご縁があって、すごく観たかったこの作品を観劇するために東京に日帰りで行きました。
いや~、東京暑かったね!! 地元の山形も同じ35℃だったみたいなんで、わざわざあっちい所に来ちゃったっていう感じでもなかったんですが、大都会は暑さを反射する反射する! どこも吸収してくんないもんねぇ。よくあんな場所でわいわいがやがや集まれるもんですわ……と、3年前まで千葉に住んでいた奴がほざいております。暑さと人口密集にホントに弱くなっちゃいました……夏の日本武道館なんか、よく行ってたもんですよ。
舞台版『スロウハイツの神様』は、すっごく良かったですね。
文庫本上下巻の小説を正味2時間きっちりの舞台にするんですから100%そのままになんてできるわけがないんですが、それでも相当なレベルの高さで小説の原作を「完全舞台化」している作品だな、と観ました。
カットやアレンジはあるにしても、味わいやその作品を楽しんでいる時の、観る側の「体温の上昇具合」が小説版とほぼおんなじなんですよね! 脚本を担当した成井さんの作家性がオリジナルな解釈を付け加えるというものじゃなくて、「私は原作のここを演劇化したいと強く思ったからこれを選んだ。」という、人に何かを熱心に伝えようとするボルテージの高さで前面に押し出されているわけです。これは非常にわかりやすい。観た映画の面白いところをすっごくわかりやすく説明してくれる人みたいなスマートさと丁寧さがあるというか。
辻村深月先生のような、小説ならではの構成のマジックをフル活用している作品世界を、小説以外の別の表現形式に変換するのは非常に難しい作業かと思います。特に長編小説なんてボリュームが大きいし。映画で言えば『ツナグ』は群像劇のバランスの取り方がやや不揃いだったように感じたし、『太陽の坐る場所』はそもそも原作小説の構成を初めから放棄していたために、ちょっと監督の主張が独り相撲を取っている印象はありました。
でも、今回の舞台版はかなり原作に近かったなぁ。近いけど、舞台版にした意義もちゃんとあった。こんなに「笑いあり涙あり」の王道なエンターテインメント作品であるとは思いませんでした。確かに、登場人物のひとりの、どこからどう見ても滑稽な孤軍奮闘が、笑いと一緒に涙を誘っちゃうんだよなぁ。それが神々しく輝いちゃうんだよなぁ。そこが見事に演劇化されてました。あそこらへんの芋づる式の伏線回収の気持ち良さったら、ないですよね!
こう観てみると、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』でも強く感じたのですが、辻村先生のお話に対する向き合い方は非常に古典的だと思います。
と言うのは……物語の中で、ある時にギアの掛かり方が音を立てて「ガチャッ!!」と変わるというか、「ハイここからクライマックス入りまーす!」という感情の2部構成がすごくわかりやすいんですよね。これがもうアレなのよ、野村芳太郎監督の映画版『砂の器』みたいなわかりやすさ!! わぁ、ジェットコースターが下りに入ったぁ!みたいな。
とことん古典的なところを突き詰めれば、亡者の一人語りに入る能楽(もちろん三島由紀夫の『近代能楽集』も)だとか、コナン=ドイルの『緋色の研究』みたいなギアチェンジが堂々と21世紀現代を舞台とした作品の中でなされる世界、それが辻村深月ワールドなのではないかと、今回の舞台化を拝見して改めて感じ入ったる次第。
ある日ある時に突然やってくる、「あの人、そうだったんだ……」という新しい一面の発見によって、見慣れた隣人の顔がその瞬間からまるで違った感じに見えてくる感動をつぶさに拾い上げ、そこにこそ人生の奇跡が潜んでいるという事実を物語る世界。みごとですねぇ。
実に恥ずかしながら、キャラメルボックスのお芝居を観るのは今回が初めてだったのですが、やっぱり本物の熱量には他の追随を許さないオリジナルな魅力が満ちていると感じました。その、もはや伝統芸能的にさえなっている「全力投球感」に、長らく食わず嫌いな印象を抱いていたのですが、これはこれで素晴らしいんですよね。
いい一日でした……時の流れと、東京のラーメンの味の濃さを痛感した夢のような日でした。暑さでかなりげんなりした表情のホットパンツ姿の白人さん、もう何十人見たろ。
実は今日、実にありがたいご縁があって、すごく観たかったこの作品を観劇するために東京に日帰りで行きました。
いや~、東京暑かったね!! 地元の山形も同じ35℃だったみたいなんで、わざわざあっちい所に来ちゃったっていう感じでもなかったんですが、大都会は暑さを反射する反射する! どこも吸収してくんないもんねぇ。よくあんな場所でわいわいがやがや集まれるもんですわ……と、3年前まで千葉に住んでいた奴がほざいております。暑さと人口密集にホントに弱くなっちゃいました……夏の日本武道館なんか、よく行ってたもんですよ。
舞台版『スロウハイツの神様』は、すっごく良かったですね。
文庫本上下巻の小説を正味2時間きっちりの舞台にするんですから100%そのままになんてできるわけがないんですが、それでも相当なレベルの高さで小説の原作を「完全舞台化」している作品だな、と観ました。
カットやアレンジはあるにしても、味わいやその作品を楽しんでいる時の、観る側の「体温の上昇具合」が小説版とほぼおんなじなんですよね! 脚本を担当した成井さんの作家性がオリジナルな解釈を付け加えるというものじゃなくて、「私は原作のここを演劇化したいと強く思ったからこれを選んだ。」という、人に何かを熱心に伝えようとするボルテージの高さで前面に押し出されているわけです。これは非常にわかりやすい。観た映画の面白いところをすっごくわかりやすく説明してくれる人みたいなスマートさと丁寧さがあるというか。
辻村深月先生のような、小説ならではの構成のマジックをフル活用している作品世界を、小説以外の別の表現形式に変換するのは非常に難しい作業かと思います。特に長編小説なんてボリュームが大きいし。映画で言えば『ツナグ』は群像劇のバランスの取り方がやや不揃いだったように感じたし、『太陽の坐る場所』はそもそも原作小説の構成を初めから放棄していたために、ちょっと監督の主張が独り相撲を取っている印象はありました。
でも、今回の舞台版はかなり原作に近かったなぁ。近いけど、舞台版にした意義もちゃんとあった。こんなに「笑いあり涙あり」の王道なエンターテインメント作品であるとは思いませんでした。確かに、登場人物のひとりの、どこからどう見ても滑稽な孤軍奮闘が、笑いと一緒に涙を誘っちゃうんだよなぁ。それが神々しく輝いちゃうんだよなぁ。そこが見事に演劇化されてました。あそこらへんの芋づる式の伏線回収の気持ち良さったら、ないですよね!
こう観てみると、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』でも強く感じたのですが、辻村先生のお話に対する向き合い方は非常に古典的だと思います。
と言うのは……物語の中で、ある時にギアの掛かり方が音を立てて「ガチャッ!!」と変わるというか、「ハイここからクライマックス入りまーす!」という感情の2部構成がすごくわかりやすいんですよね。これがもうアレなのよ、野村芳太郎監督の映画版『砂の器』みたいなわかりやすさ!! わぁ、ジェットコースターが下りに入ったぁ!みたいな。
とことん古典的なところを突き詰めれば、亡者の一人語りに入る能楽(もちろん三島由紀夫の『近代能楽集』も)だとか、コナン=ドイルの『緋色の研究』みたいなギアチェンジが堂々と21世紀現代を舞台とした作品の中でなされる世界、それが辻村深月ワールドなのではないかと、今回の舞台化を拝見して改めて感じ入ったる次第。
ある日ある時に突然やってくる、「あの人、そうだったんだ……」という新しい一面の発見によって、見慣れた隣人の顔がその瞬間からまるで違った感じに見えてくる感動をつぶさに拾い上げ、そこにこそ人生の奇跡が潜んでいるという事実を物語る世界。みごとですねぇ。
実に恥ずかしながら、キャラメルボックスのお芝居を観るのは今回が初めてだったのですが、やっぱり本物の熱量には他の追随を許さないオリジナルな魅力が満ちていると感じました。その、もはや伝統芸能的にさえなっている「全力投球感」に、長らく食わず嫌いな印象を抱いていたのですが、これはこれで素晴らしいんですよね。
いい一日でした……時の流れと、東京のラーメンの味の濃さを痛感した夢のような日でした。暑さでかなりげんなりした表情のホットパンツ姿の白人さん、もう何十人見たろ。
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