ウィリアム=フレッチャー=バレット(Sir William Fletcher Barrett 1844~1925年)
サー・ウィリアム=フレッチャー=バレットは、イギリスの物理学者。ウィリアム=クルックスやオリバー=ロッジほど物理学の分野で華々しく活躍したわけではないが、堅実な研究で評価された。イギリスとアメリカ両国での「SPR」創立に貢献。テレパシーやダウジングについての研究報告が多い。なお父は聖職者で、バレットも生涯敬虔なクリスチャンだった。
催眠状態で引き起こされる現象に興味を持ち、最初は幻覚説、次にテレパシー説を展開した。40年近く研究した後、暗示や無意識、テレパシーだけでは説明できない超常現象があるという結論に達し、1918年には霊魂説を採った。
1876年、32歳で生物学会にラップ音に言及した論文を提出するが拒否される。ただ人類学部門だけは議長だったアルフレッド=ラッセル=ウォレスの決定票などでその論文を受理した。1881~82年にかけて、イギリスの SPR設立の主導者のひとりとなる。また、1884年9月にはアメリカに旅行し、アメリカSPR 設立のきっかけも作る。
1887年、バレットがテレパシー研究の対象としてきた霊媒師クリーリー姉妹のトリックがヘンリー=シジウィック夫妻によって暴露される。1890年代にはダウジング研究を始める。1904年、SPR第7代会長に就任する。
1876年10月
動物学者レイ=ランケスター(29歳)、霊媒師ヘンリー=スレイドの石板書記交霊術を詐欺で告発し有罪判決を下させる(スレイド弁護側の証人にはアルフレッド=ラッセル=ウォレスもいた)。
1882年2月
哲学者ヘンリー=シジウィック(44歳)、古典文学者フレデリック=マイヤース(39歳)、心理学者エドマンド=ガーニー(35歳)、ケンブリッジ大学で「イギリス心霊現象研究協会」を設立する。初代会長はヘンリー=シジウィック。幽霊担当はマイヤース、ガーニー、ヘンリーの妻エレノア。テレパシー担当はウィリアム=バレット。会員は約200名であり、詩人アルフレッド=テニスン、作家ルイス=キャロル、アメリカの作家マーク=トウェインも入会していた。
エレノア=ミルドレッド=シジウィック(Eleanor Mildred Sidgwick 1845~1936年)
エレノア=ミルドレッド=シジウィックは、イギリスの数学者。
義兄に当たるレイリー卿の物理実験に協力、イギリス会報に3つの論文を発表。ニューナム・カレッジ校長としても有名。当時のイギリスを代表する女性のひとりで、SPRにも強い影響力を持っていた。しかし交霊会での現象に恵まれず、長期間、心霊現象は生者のテレパシーによるものだと考えていた。非常に厳格で理知的だったという。
SPRへの参加後は、1888~97年に会報と議事録を編集。1901年に評議員となり、1907~32年に名誉事務局長。1885~94年の 「幻覚の国勢調査」に協力、膨大な資料を精力的に編纂した。1932年には『SPRの歴史』を発表した。
リチャード=ホジソン(Richard Hodgson 1855~1905年)
リチャード=ホジソンは、イギリスの法律学者。1882年の SPR創立時からのメンバーで、ASPR(アメリカSPR、のちに SPRアメリカ支部)の共同創立者。優れた知性と極端な懐疑主義で知られた。彼の初期の調査はすべて否定的結果に終わったため、霊媒師パイパー夫人を10年ほど調査するまでは、「ほとんどすべてのプロの霊媒たちは、多少とも互いに結託した、卑しい詐欺師の一団である。」と信じていた。なお、1884~85年に当時隆盛を誇っていた神智学のブラヴァツキー夫人を調査して否定的な報告書を提出したり、1895年、ケンブリッジで行われた霊媒師ユーサピア=パラディーノの交霊会に出席して詐欺だと確信したエピソードなどが知られている。
1887年5月、ホジソンはヘンリー=シジウィックの説得に応じて ASPRの新事務局長に就任し、併せてパイパー夫人の調査をするため、アメリカ合衆国ボストンに派遣された。まもなく、ASPRに加入した詩人で作家のジョージ=ペラムと知り合い、親しい友人となった。
1889年、パイパー夫人の調査をするうち、その誠実さを認識したホジソンは、さらに夫人にとって未知な環境での交霊会を観察するため、イギリスに招待した。夫人は厳重な監視下で88回の交霊会を開き、多くの SPRメンバーが死後存続を確信したが、ホジソンはまだ懐疑的な姿勢を保っていた。
1892年、親友のジョージ=ペラムが事故死。その1ヶ月後、彼の霊がパイパー夫人の交霊会に出現した。ホジソンはすぐには信用せず、ペラムの友人を何人も匿名で交霊会に参加させ、会話の内容を確認した。ペラムは旧知の友人たちをすぐに見分けて名前を呼んで話しかけ、話し方は生前の特徴をよく備えていた。また、子供の頃に会ったきりだった者はわからない様子だった。生前会ったことがない者が混ざっていると、「面識がない」ときっぱり言い切った。ペラムについてさまざまな角度から検証したホジソンは、ついにパイパー夫人の霊媒能力だけでなく、死後存続も真実であると確信するようになった。
1897年、パイパー夫人を通じて現れる霊が「レクター」と名乗り、これ以上ペラムを当てにしないよう警告した。その後はレクターが主な通信相手となった。
ヘレナ=ペトロヴナ=ブラヴァツキー (Helena Petrovna Blavatsky 1831~91年)
ヘレナ=ペトロヴナ=ブラヴァツキーは、「近代神智学」を創唱したロシア帝国の人物で、神智学協会の設立者のひとりである。
彼女の生涯には多くの謎があり、特に1874年にアメリカで活動を始めるまでの前半生はまったくヴェールにつつまれ、多くの神話に彩られている。ブラヴァツキー自身が残したメモや日記、周囲に語った事柄、親族など近しい人々の証言などが再構成され一般にも流布しているが、矛盾が多く、一見荒唐無稽とも思われる事件の連続であり、真偽については議論を呼んできた。神智学協会や支持者は正しさを証明しようとし、批判者は虚偽であることを暴こうとし、現在も毀誉褒貶が激しい人物である。
神智学協会は、「偉大な魂(マハトマ)」による古代の智慧の開示を通じて諸宗教の対立を超えた「古代の智慧」、「根源的な神的叡智」への回帰をめざしていた。その思想は、キリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。「神智学(theosophy)」は、キリスト教世界にすでにあった概念で、「隠された神性の内的直観による認識」を意味している。協会のスローガンは「真理にまさる宗教はない」であり、神智学は宗教ではなく神聖な知識または神聖な科学であるとされる。
ブラヴァツキーに始まる近代神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒し、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。ニューエイジ思想やオカルティズム、新宗教への影響も大きい。
1884年に、SPRのリチャード=ホジソンがインドの神智学協会本部に赴いて調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけた「ホジソン・レポート」が1885年に公表された。これによりブラヴァツキーは詐欺師であるという認識が広がった。
1885年
アメリカの哲学者ウィリアム=ジェイムズ(43歳)ら、「アメリカ心霊現象研究協会(ASPR)」を設立する。初代会長は天文学者のサイモン=ニューカム(50歳)。
ASPR会長ニューカム、『サイエンス』誌上でイギリスSPR の研究結果を徹底的に批判し対立する。ASPRの中心人物であるジェイムズ、ニューカムの論調を非難する。
ウィリアム=ジェイムズ(William James 1842~1910年)
ウィリアム=ジェイムズは、アメリカ合衆国の哲学者・心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ=ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)などのアメリカ文学にも影響を与えた。チャールズ=パースやジョン=デューイに並ぶプラグマティスト(実用主義者)の代表的存在として知られている。弟は小説家のヘンリー=ジェイムズ。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。
日本の哲学者である西田幾多郎の提唱した「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。夏目漱石も影響を受けていることが知られている。後の認知心理学における記憶の理論、トランスパーソナル心理学に通じる『宗教的経験の諸相』(1902年)など、様々な影響をもたらしている。ジェイムズは1875年にはアメリカで初の心理学の講義を開始し研究室を設けた。ドイツのヴィルヘルム=ヴントが研究室を用意したのは、この4年後の1879年である。
またジェイムズは超常現象に対しても興味を持ち、「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている。」と発言した。後にイギリスの作家コリン=ウィルソンは、これを「ウィリアム=ジェイムズの法則」と名づけた。
レオノーラ=エヴェリーナ=パイパー(Leonora Evelina Piper 1859~1950年)
レオノーラ=エヴェリーナ=パイパーは、アメリカの女性霊媒師。イギリス心霊現象研究協会(The Society for Psychical Research、略してSPR)が協会発足初期に調査対象とした有名な霊媒のひとり。
パイパーは、1884年に信仰治療師のもとを訪れた際にトランス状態に陥り、ネイティヴアメリカンの霊からメッセージを受け、これをきっかけに内輪の交霊会を開催し始めたという。パイパーは特に、知るはずのない交霊会参加者の個人的な秘密を告げる能力に長けており、このほかに自動書記やサイコメトリーの能力も発揮したという。
ASPRのウィリアム=ジェイムズは1885年からパイパーの交霊会に参加し、その能力を本物と確信したことで、心霊研究の道に入ったという。1887年には SPRのリチャード=ホジソンの調査を受け、2年後の1889年には SPRの依頼により、ジェイムズとホジソンの調査を受けるためにイギリスへわたった。
ホジソンは、かつてブラヴァツキー夫人による神秘現象を詐術と暴いたことがあり、パイパーに対しても当初は懐疑的な立場をとっており、周囲からもブラヴァツキー同様にパイパーのトリックを暴くことを期待されていた。しかし、1892年3月に実施されたパイパーの交霊会において、パイパーが先月2月に事故死したばかりのホジソンの亡き旧友ジョージ=ペラムの名を名乗り、交霊会の参加者たちしか知りえないことを語る様子を見て、パイパーのもとに旧友の霊が現れたと認め、死後生存の証拠を得たと考えた。SPRの懐疑派の代表的人物といえるホジソンが、心霊主義を肯定する立場をとってパイパーの能力を本物と認めたことは、SPRにとっては大事件であった。こうした実績から、パイパーをアメリカを代表する霊媒のひとりとする声もある。同様にパイパーを通じて心霊主義を支持した学者にはオリバー=ロッジ、フレデリック=マイヤースらがいる。
また、心霊主義に関心を持っていたことで知られる作家のコナン=ドイルは、1899年にパイパーがトランス状態で「世界各地で恐ろしい戦乱が生じます」と語ったことを、1914年開戦の第一次世界大戦を示したことだと指摘しており、パイパーをダニエル=ダングラス=ホームと並ぶ世界最高級の霊媒師として高く評価している。
ただし、SPRの初代会長であるヘンリー=シジウィックらは、ホジソンの旧友の霊が交霊会参加者について語ったとされる件を、パイパーがテレパシーで参加者たちの思考を読み取ったとの解釈できるなどの理由で(超ESP仮説)、本件を心霊主義の確固たる証拠と認めることはなかった。パイパーの支配霊のひとりはフランス人の「フィニィ医師」の霊とされるが、フランス語をほとんど話すことができず、医学の知識もなかったとの批判もある。ホジソンがパイパーの調査を開始した際も、同席していたウィリアム=ジェイムズがパイパーの指導霊と話す際、ジェイムズが少しでも流暢なフランス語を話すと、この霊は返答に詰まったという。また、ホジソンが2人の子供をもうけて長生きすると予言したが、これも当たることはなかった。
1886年6月
イギリスの有名な霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム、結核により死去(53歳)。
フランク=ポドモア(Frank Podmore 1856~1910年)
フランク=ポドモアは、イギリスの作家。社会主義運動でも有名。
超常現象の信憑性には、オクスフォード大学在学中から個人的に確信を抱き、終生関心を持っていた。しかし思想としてのスピリチュアリズムには疑問を抱き、社会主義者ロバート=オーエンに傾倒。現在のイギリス労働党の基礎となった「ファビアン・ソサエティ」創立に協力し、「スピリチュアリズムのよきライバル」と言われた。なお、心霊現象研究協会には創立時から長期間関わり続け、科学的厳正さと文才で、行き過ぎた超常現象賞賛に対してブレーキの役割を果たしたという。
1882年、SPR創立時に評議員に選ばれ、その後27年間在籍し続けた。またフレデリック=マイヤースと共同で名誉幹事をつとめる。1886年、マイヤース、エドマンド=ガーニーと共同執筆で SPRの研究報告書『生者の幻像(Phantasms of the Living)』を出版する。
1906年、文筆活動に専念するため、25年間つとめた郵政官僚を退職。理想的社会主義者のロバート=オーエンに傾倒し、「社会主義とスピリチュアリズム双方の父」と賞賛する。
1910年8月、イングランド地方の有名な保養地モルヴァン丘陵の泉で溺死。54歳。同性愛スキャンダルに巻き込まれたことによる自殺説も流れた。
オリヴァー=ロッジ(Sir Oliver Joseph Lodge 1851~1940年)
サー・オリヴァー=ロッジは、イギリスの物理学者・作家。初期の無線電信の検波器に用いられたコヒーラ検波器の発明者である。また点火プラグの発明もした。エーテルの研究でも知られる。また、心霊現象研究協会のメンバーで、心霊現象を肯定する立場での活動、著述もおこなった。
ロンドン大学で科学を学び、1881年にリヴァプール大学で教鞭を取るようになる。1900年にリヴァプールを離れてバーミンガム大学に移り、1919年の引退までそこに留まった。イギリスの生んだ世界的物理学者であると同時に、その物理学的概念を心霊現象の解釈に適用した最初の心霊学者でもあった。
ロッジは、目に見えない世界こそ実在で、それはこの地球をはじめとする全大宇宙の内奥に存在し、物質というのはその生命が意識ある個体としての存在を表現するためにエーテルが凝結したものに過ぎないと主張した。その著書は大小あわせて20冊を超えるが、いずれも現実界は虚の世界で霊界こそ実在界であるという、仏教でいう色即是空の哲学に貫かれている。
彼は霊の世界について50年以上も研究し、その結果ますます宇宙を支配する超越的知性すなわち神への畏敬の念を深めたと述べている。科学的探究がかえって宗教心を深める結果となったのである。もちろんここでいう宗教心は、特定の宗教に限るものではない。早世した自身の息子レイモンドと交霊しえたと信じた著作『レイモンド』は日本でも大正時代に野尻抱影らが翻訳し、川端康成などに影響を与えた。
ある心霊現象に係わる詐欺容疑の訴訟問題で、ロッジは証人として法廷に立ったことがある。その時、「霊の世界というのは一種の幻覚ですね」と尋問されて、ロッジは首を横に振って、「この世こそ幻影の世界なのです。 実在の世界は目に見えないところにのみ存在します。」と返答した。
1886年10月
イギリスSPR、テレパシーと霊体に関する研究報告書『生者の幻像』全2巻を刊行する(本文エドマンド=ガーニー、序文フレデリック=マイヤース)。しかし多くのマスコミからは評価されず。
1887年1月
アメリカSPR のウィリアム=ジェイムズ(45歳)、イギリスSPR の『生者の幻像』を『サイエンス』誌上で高く評価するが、多くの科学者は批判する。
1887年4月
アメリカ・ペンシルヴェニア大学の超常現象研究機関「セイバート委員会」(委員長は心理学者のハワード=ファーネス)、霊媒師や石板書記を徹底的に批判する研究報告書を発表する。
1887年
イギリスの小説家オスカー=ワイルド(33歳)、恐怖小説『カンタヴィルの亡霊』を発表する。
1888年6月
イギリスSPR のエドマンド=ガーニー、調査先の行楽地ブライトンでクロロホルムの誤用により事故死。享年41歳。
1888年10月
ハイズヴィル事件の有名な霊媒師マーガレット=フォックス(50歳)、40年前のラップ現象はトリックであったことを告白する。
1889年
パリで開催された国際実験心理学会議の分科会で心霊研究が議題となり、SPRの提案により欧米6ヶ国が参加する国際的な「幻覚統計調査」の実施が決定される。
1889年11月
霊媒師マーガレット=フォックス(51歳)、昨年の自らのトリック告白を金銭目的の虚偽として撤回する。
霊媒師レオノーラ=パイパー(30歳)、SPRの要請により心霊現象研究のためにロンドンに渡る。
霊媒師エウサピア=パラディーノ(35歳)、イタリア・ナポリで精神科医ロンブローゾ(64歳)の調査を受けるがトリックではないと判断される。
1890年
匿名人物「霊媒師A」による心霊現象トリック暴露本『ある心理霊媒師の暴露』が出版され話題となる。
1892年
ウィリアム=ジェイムズの弟の小説家ヘンリー=ジェイムズ(49歳)、SPRの故エドマンド=ガーニーをモデルとした恐怖小説『エドマンド=オーム卿』を発表する。
1892年8月
SPR、国際実験心理学会議で「幻覚統計調査」の結果を発表し、幽霊の存在を裏付ける(人は偶然の430~440倍の確率で幽霊らしき存在に出遭う)。
1893年12月
アメリカの哲学者ウィリアム=ジェイムズ(51歳)、SPR第3代会長に就任する。
1894年
SPRのシャルル=リシェ(44歳)、フレデリック=マイヤース(51歳)、オリヴァー=ロッジ(43歳)ら、リシェの別荘のある地中海のルボー島で霊媒師エウサピア=パラディーノ(40歳)の調査研究を行い(ルボー島実験)、パラディーノの霊能力を本物であると認める。
1895年4月
SPRのリチャード=ホジソン(40歳)、SPR会報でルボー島の研究結果を徹底的に否定する。
SPR、パラディーノをイギリス・ケンブリッジに招いて霊媒実験を実施するが、ホジソンにより霊能力はトリックであると断定される。
1895年12月
ウィリアム=クルックス(63歳)、SPR第4代会長に就任する。
1897年5月
イギリスの小説家ブラム=ストーカー(50歳)、長編恐怖小説『ドラキュラ』を発表する。
1897年12月
リチャード=ホジソン(42歳)、「第2次パイパー報告」で初めて霊の存在を認める。
1898年
小説家ヘンリー=ジェイムズ(55歳)、恐怖心理小説『ねじの回転』を発表する。
1898年10月
物理学者ウィリアム=クルックス(66歳)、イギリス学術協会の会長に就任するが、変わらず霊や超能力の存在を主張する。
シャルル=ロベール=リシェ(Charles Robert Richet 1850~1935年)
シャルル=ロベール=リシェは、フランスの生理学者。1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。アレルギー研究の父でもある。
パリ大学に入学後、医学を学び外科医を目指すが、生理学を志すようになる。1869年に医学博士号を取得後、1878年には理学博士号も取得。1879年にパリ大学医学部生理学講師に着任、1887年には生理学教授となる。1913年、アナフィラキシー・ショックの研究によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。体温調整機能の研究も業績の一つである。1927年に大学を引退後は、平和論の推進、航空科学の研究、精神感応術の研究を進めた。
心霊現象の研究でも知られ、1905年には心霊現象研究協会(SPR)の第8代会長もつとめている。1893年には当時話題になっていたイタリア人霊媒師エウサピア=パラディーノを調査する過程で、エーテル体を物質化または視覚化する半物質を発見し、「エクトプラズム」という新語をつくりだしたことでも知られている。
チェーザレ=ロンブローゾ(Cesare Lombroso 1835~1909年)
チェーザレ=ロンブローゾは、イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者である。「犯罪学の父」とも呼ばれることがある。
ロンブローゾは心霊研究家(心霊主義者)としての顔も持っていた。1891年、彼を含む6名の学者からなる委員会は、当時の有名な物理霊媒師であったエウサピア=パラディーノがミラノで開催した交霊会に立ち会って調査を行い、彼女が起こした心霊現象について「真実である」と判断した。
ネリー=タイタス事件
1898年10月にアメリカ合衆国ニューハンプシャー州で発生した超常現象事件。失踪した少女の霊を感じ取った近所の主婦ネリー=タイタスが少女の遺体を発見した。事件を公表した ASPRのウィリアム=ジェイムズは、ネリーの霊視能力を科学的に確かに存在していると認めた。
1900年8月
SPRの創設者ヘンリー=シジウィック、死去(62歳)。
1901年1月
SPR第5代会長フレデリック=マイヤース、死去(57歳)。
イギリス帝国皇帝ヴィクトリア1世、崩御(81歳)。
1902年
ウィリアム=ジェイムズ(60歳)、自身の哲学講義を基にした『宗教的経験の諸相 人間性の研究』を発表する。
1905年12月
ASPRのリチャード=ホジソン、死去(50歳)。
1906年1月
霊媒師レオノーラ=パイパー(47歳)の交霊会に、死亡した直後のリチャード=ホジソンの霊が出現する。
1906年12月
オリヴァー=ロッジらSPR、レオノーラ=パイパーをロンドンに招き2回目の検証実験を行う。
1908年12月
SPR、イタリア・ナポリで霊媒師エウサピア=パラディーノ(54歳)の交霊会の検証実験を行い、パラディーノの霊能力を改めてトリックでないと認める。
1909年
SPRのウィリアム=バレット(65歳)、霊媒師パイパーやパラディーノに関する長年の研究をまとめた著書『新しい思想世界の入り口で』を発表する。
1909年12月
ハーヴァード大学の心理学者ヒューゴー=ミュンスターバーグ(46歳)、パラディーノの交霊会のトリックを暴露し、SPRのウィリアム=ジェイムズを批判する。
1910年8月
ウィリアム=ジェイムズ、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州の自宅で死去(68歳)。
1918年
霊媒師エウサピア=パラディーノ、死去(64歳)。
1919年
故ヘンリー=シジウィックの義弟であるノーベル賞物理学者レイリー男爵ジョン=ストラット(77歳)、SPR第13代会長に就任する。
サー・ウィリアム=フレッチャー=バレットは、イギリスの物理学者。ウィリアム=クルックスやオリバー=ロッジほど物理学の分野で華々しく活躍したわけではないが、堅実な研究で評価された。イギリスとアメリカ両国での「SPR」創立に貢献。テレパシーやダウジングについての研究報告が多い。なお父は聖職者で、バレットも生涯敬虔なクリスチャンだった。
催眠状態で引き起こされる現象に興味を持ち、最初は幻覚説、次にテレパシー説を展開した。40年近く研究した後、暗示や無意識、テレパシーだけでは説明できない超常現象があるという結論に達し、1918年には霊魂説を採った。
1876年、32歳で生物学会にラップ音に言及した論文を提出するが拒否される。ただ人類学部門だけは議長だったアルフレッド=ラッセル=ウォレスの決定票などでその論文を受理した。1881~82年にかけて、イギリスの SPR設立の主導者のひとりとなる。また、1884年9月にはアメリカに旅行し、アメリカSPR 設立のきっかけも作る。
1887年、バレットがテレパシー研究の対象としてきた霊媒師クリーリー姉妹のトリックがヘンリー=シジウィック夫妻によって暴露される。1890年代にはダウジング研究を始める。1904年、SPR第7代会長に就任する。
1876年10月
動物学者レイ=ランケスター(29歳)、霊媒師ヘンリー=スレイドの石板書記交霊術を詐欺で告発し有罪判決を下させる(スレイド弁護側の証人にはアルフレッド=ラッセル=ウォレスもいた)。
1882年2月
哲学者ヘンリー=シジウィック(44歳)、古典文学者フレデリック=マイヤース(39歳)、心理学者エドマンド=ガーニー(35歳)、ケンブリッジ大学で「イギリス心霊現象研究協会」を設立する。初代会長はヘンリー=シジウィック。幽霊担当はマイヤース、ガーニー、ヘンリーの妻エレノア。テレパシー担当はウィリアム=バレット。会員は約200名であり、詩人アルフレッド=テニスン、作家ルイス=キャロル、アメリカの作家マーク=トウェインも入会していた。
エレノア=ミルドレッド=シジウィック(Eleanor Mildred Sidgwick 1845~1936年)
エレノア=ミルドレッド=シジウィックは、イギリスの数学者。
義兄に当たるレイリー卿の物理実験に協力、イギリス会報に3つの論文を発表。ニューナム・カレッジ校長としても有名。当時のイギリスを代表する女性のひとりで、SPRにも強い影響力を持っていた。しかし交霊会での現象に恵まれず、長期間、心霊現象は生者のテレパシーによるものだと考えていた。非常に厳格で理知的だったという。
SPRへの参加後は、1888~97年に会報と議事録を編集。1901年に評議員となり、1907~32年に名誉事務局長。1885~94年の 「幻覚の国勢調査」に協力、膨大な資料を精力的に編纂した。1932年には『SPRの歴史』を発表した。
リチャード=ホジソン(Richard Hodgson 1855~1905年)
リチャード=ホジソンは、イギリスの法律学者。1882年の SPR創立時からのメンバーで、ASPR(アメリカSPR、のちに SPRアメリカ支部)の共同創立者。優れた知性と極端な懐疑主義で知られた。彼の初期の調査はすべて否定的結果に終わったため、霊媒師パイパー夫人を10年ほど調査するまでは、「ほとんどすべてのプロの霊媒たちは、多少とも互いに結託した、卑しい詐欺師の一団である。」と信じていた。なお、1884~85年に当時隆盛を誇っていた神智学のブラヴァツキー夫人を調査して否定的な報告書を提出したり、1895年、ケンブリッジで行われた霊媒師ユーサピア=パラディーノの交霊会に出席して詐欺だと確信したエピソードなどが知られている。
1887年5月、ホジソンはヘンリー=シジウィックの説得に応じて ASPRの新事務局長に就任し、併せてパイパー夫人の調査をするため、アメリカ合衆国ボストンに派遣された。まもなく、ASPRに加入した詩人で作家のジョージ=ペラムと知り合い、親しい友人となった。
1889年、パイパー夫人の調査をするうち、その誠実さを認識したホジソンは、さらに夫人にとって未知な環境での交霊会を観察するため、イギリスに招待した。夫人は厳重な監視下で88回の交霊会を開き、多くの SPRメンバーが死後存続を確信したが、ホジソンはまだ懐疑的な姿勢を保っていた。
1892年、親友のジョージ=ペラムが事故死。その1ヶ月後、彼の霊がパイパー夫人の交霊会に出現した。ホジソンはすぐには信用せず、ペラムの友人を何人も匿名で交霊会に参加させ、会話の内容を確認した。ペラムは旧知の友人たちをすぐに見分けて名前を呼んで話しかけ、話し方は生前の特徴をよく備えていた。また、子供の頃に会ったきりだった者はわからない様子だった。生前会ったことがない者が混ざっていると、「面識がない」ときっぱり言い切った。ペラムについてさまざまな角度から検証したホジソンは、ついにパイパー夫人の霊媒能力だけでなく、死後存続も真実であると確信するようになった。
1897年、パイパー夫人を通じて現れる霊が「レクター」と名乗り、これ以上ペラムを当てにしないよう警告した。その後はレクターが主な通信相手となった。
ヘレナ=ペトロヴナ=ブラヴァツキー (Helena Petrovna Blavatsky 1831~91年)
ヘレナ=ペトロヴナ=ブラヴァツキーは、「近代神智学」を創唱したロシア帝国の人物で、神智学協会の設立者のひとりである。
彼女の生涯には多くの謎があり、特に1874年にアメリカで活動を始めるまでの前半生はまったくヴェールにつつまれ、多くの神話に彩られている。ブラヴァツキー自身が残したメモや日記、周囲に語った事柄、親族など近しい人々の証言などが再構成され一般にも流布しているが、矛盾が多く、一見荒唐無稽とも思われる事件の連続であり、真偽については議論を呼んできた。神智学協会や支持者は正しさを証明しようとし、批判者は虚偽であることを暴こうとし、現在も毀誉褒貶が激しい人物である。
神智学協会は、「偉大な魂(マハトマ)」による古代の智慧の開示を通じて諸宗教の対立を超えた「古代の智慧」、「根源的な神的叡智」への回帰をめざしていた。その思想は、キリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。「神智学(theosophy)」は、キリスト教世界にすでにあった概念で、「隠された神性の内的直観による認識」を意味している。協会のスローガンは「真理にまさる宗教はない」であり、神智学は宗教ではなく神聖な知識または神聖な科学であるとされる。
ブラヴァツキーに始まる近代神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒し、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。ニューエイジ思想やオカルティズム、新宗教への影響も大きい。
1884年に、SPRのリチャード=ホジソンがインドの神智学協会本部に赴いて調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけた「ホジソン・レポート」が1885年に公表された。これによりブラヴァツキーは詐欺師であるという認識が広がった。
1885年
アメリカの哲学者ウィリアム=ジェイムズ(43歳)ら、「アメリカ心霊現象研究協会(ASPR)」を設立する。初代会長は天文学者のサイモン=ニューカム(50歳)。
ASPR会長ニューカム、『サイエンス』誌上でイギリスSPR の研究結果を徹底的に批判し対立する。ASPRの中心人物であるジェイムズ、ニューカムの論調を非難する。
ウィリアム=ジェイムズ(William James 1842~1910年)
ウィリアム=ジェイムズは、アメリカ合衆国の哲学者・心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ=ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)などのアメリカ文学にも影響を与えた。チャールズ=パースやジョン=デューイに並ぶプラグマティスト(実用主義者)の代表的存在として知られている。弟は小説家のヘンリー=ジェイムズ。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。
日本の哲学者である西田幾多郎の提唱した「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。夏目漱石も影響を受けていることが知られている。後の認知心理学における記憶の理論、トランスパーソナル心理学に通じる『宗教的経験の諸相』(1902年)など、様々な影響をもたらしている。ジェイムズは1875年にはアメリカで初の心理学の講義を開始し研究室を設けた。ドイツのヴィルヘルム=ヴントが研究室を用意したのは、この4年後の1879年である。
またジェイムズは超常現象に対しても興味を持ち、「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている。」と発言した。後にイギリスの作家コリン=ウィルソンは、これを「ウィリアム=ジェイムズの法則」と名づけた。
レオノーラ=エヴェリーナ=パイパー(Leonora Evelina Piper 1859~1950年)
レオノーラ=エヴェリーナ=パイパーは、アメリカの女性霊媒師。イギリス心霊現象研究協会(The Society for Psychical Research、略してSPR)が協会発足初期に調査対象とした有名な霊媒のひとり。
パイパーは、1884年に信仰治療師のもとを訪れた際にトランス状態に陥り、ネイティヴアメリカンの霊からメッセージを受け、これをきっかけに内輪の交霊会を開催し始めたという。パイパーは特に、知るはずのない交霊会参加者の個人的な秘密を告げる能力に長けており、このほかに自動書記やサイコメトリーの能力も発揮したという。
ASPRのウィリアム=ジェイムズは1885年からパイパーの交霊会に参加し、その能力を本物と確信したことで、心霊研究の道に入ったという。1887年には SPRのリチャード=ホジソンの調査を受け、2年後の1889年には SPRの依頼により、ジェイムズとホジソンの調査を受けるためにイギリスへわたった。
ホジソンは、かつてブラヴァツキー夫人による神秘現象を詐術と暴いたことがあり、パイパーに対しても当初は懐疑的な立場をとっており、周囲からもブラヴァツキー同様にパイパーのトリックを暴くことを期待されていた。しかし、1892年3月に実施されたパイパーの交霊会において、パイパーが先月2月に事故死したばかりのホジソンの亡き旧友ジョージ=ペラムの名を名乗り、交霊会の参加者たちしか知りえないことを語る様子を見て、パイパーのもとに旧友の霊が現れたと認め、死後生存の証拠を得たと考えた。SPRの懐疑派の代表的人物といえるホジソンが、心霊主義を肯定する立場をとってパイパーの能力を本物と認めたことは、SPRにとっては大事件であった。こうした実績から、パイパーをアメリカを代表する霊媒のひとりとする声もある。同様にパイパーを通じて心霊主義を支持した学者にはオリバー=ロッジ、フレデリック=マイヤースらがいる。
また、心霊主義に関心を持っていたことで知られる作家のコナン=ドイルは、1899年にパイパーがトランス状態で「世界各地で恐ろしい戦乱が生じます」と語ったことを、1914年開戦の第一次世界大戦を示したことだと指摘しており、パイパーをダニエル=ダングラス=ホームと並ぶ世界最高級の霊媒師として高く評価している。
ただし、SPRの初代会長であるヘンリー=シジウィックらは、ホジソンの旧友の霊が交霊会参加者について語ったとされる件を、パイパーがテレパシーで参加者たちの思考を読み取ったとの解釈できるなどの理由で(超ESP仮説)、本件を心霊主義の確固たる証拠と認めることはなかった。パイパーの支配霊のひとりはフランス人の「フィニィ医師」の霊とされるが、フランス語をほとんど話すことができず、医学の知識もなかったとの批判もある。ホジソンがパイパーの調査を開始した際も、同席していたウィリアム=ジェイムズがパイパーの指導霊と話す際、ジェイムズが少しでも流暢なフランス語を話すと、この霊は返答に詰まったという。また、ホジソンが2人の子供をもうけて長生きすると予言したが、これも当たることはなかった。
1886年6月
イギリスの有名な霊媒師ダニエル=ダングラス=ホーム、結核により死去(53歳)。
フランク=ポドモア(Frank Podmore 1856~1910年)
フランク=ポドモアは、イギリスの作家。社会主義運動でも有名。
超常現象の信憑性には、オクスフォード大学在学中から個人的に確信を抱き、終生関心を持っていた。しかし思想としてのスピリチュアリズムには疑問を抱き、社会主義者ロバート=オーエンに傾倒。現在のイギリス労働党の基礎となった「ファビアン・ソサエティ」創立に協力し、「スピリチュアリズムのよきライバル」と言われた。なお、心霊現象研究協会には創立時から長期間関わり続け、科学的厳正さと文才で、行き過ぎた超常現象賞賛に対してブレーキの役割を果たしたという。
1882年、SPR創立時に評議員に選ばれ、その後27年間在籍し続けた。またフレデリック=マイヤースと共同で名誉幹事をつとめる。1886年、マイヤース、エドマンド=ガーニーと共同執筆で SPRの研究報告書『生者の幻像(Phantasms of the Living)』を出版する。
1906年、文筆活動に専念するため、25年間つとめた郵政官僚を退職。理想的社会主義者のロバート=オーエンに傾倒し、「社会主義とスピリチュアリズム双方の父」と賞賛する。
1910年8月、イングランド地方の有名な保養地モルヴァン丘陵の泉で溺死。54歳。同性愛スキャンダルに巻き込まれたことによる自殺説も流れた。
オリヴァー=ロッジ(Sir Oliver Joseph Lodge 1851~1940年)
サー・オリヴァー=ロッジは、イギリスの物理学者・作家。初期の無線電信の検波器に用いられたコヒーラ検波器の発明者である。また点火プラグの発明もした。エーテルの研究でも知られる。また、心霊現象研究協会のメンバーで、心霊現象を肯定する立場での活動、著述もおこなった。
ロンドン大学で科学を学び、1881年にリヴァプール大学で教鞭を取るようになる。1900年にリヴァプールを離れてバーミンガム大学に移り、1919年の引退までそこに留まった。イギリスの生んだ世界的物理学者であると同時に、その物理学的概念を心霊現象の解釈に適用した最初の心霊学者でもあった。
ロッジは、目に見えない世界こそ実在で、それはこの地球をはじめとする全大宇宙の内奥に存在し、物質というのはその生命が意識ある個体としての存在を表現するためにエーテルが凝結したものに過ぎないと主張した。その著書は大小あわせて20冊を超えるが、いずれも現実界は虚の世界で霊界こそ実在界であるという、仏教でいう色即是空の哲学に貫かれている。
彼は霊の世界について50年以上も研究し、その結果ますます宇宙を支配する超越的知性すなわち神への畏敬の念を深めたと述べている。科学的探究がかえって宗教心を深める結果となったのである。もちろんここでいう宗教心は、特定の宗教に限るものではない。早世した自身の息子レイモンドと交霊しえたと信じた著作『レイモンド』は日本でも大正時代に野尻抱影らが翻訳し、川端康成などに影響を与えた。
ある心霊現象に係わる詐欺容疑の訴訟問題で、ロッジは証人として法廷に立ったことがある。その時、「霊の世界というのは一種の幻覚ですね」と尋問されて、ロッジは首を横に振って、「この世こそ幻影の世界なのです。 実在の世界は目に見えないところにのみ存在します。」と返答した。
1886年10月
イギリスSPR、テレパシーと霊体に関する研究報告書『生者の幻像』全2巻を刊行する(本文エドマンド=ガーニー、序文フレデリック=マイヤース)。しかし多くのマスコミからは評価されず。
1887年1月
アメリカSPR のウィリアム=ジェイムズ(45歳)、イギリスSPR の『生者の幻像』を『サイエンス』誌上で高く評価するが、多くの科学者は批判する。
1887年4月
アメリカ・ペンシルヴェニア大学の超常現象研究機関「セイバート委員会」(委員長は心理学者のハワード=ファーネス)、霊媒師や石板書記を徹底的に批判する研究報告書を発表する。
1887年
イギリスの小説家オスカー=ワイルド(33歳)、恐怖小説『カンタヴィルの亡霊』を発表する。
1888年6月
イギリスSPR のエドマンド=ガーニー、調査先の行楽地ブライトンでクロロホルムの誤用により事故死。享年41歳。
1888年10月
ハイズヴィル事件の有名な霊媒師マーガレット=フォックス(50歳)、40年前のラップ現象はトリックであったことを告白する。
1889年
パリで開催された国際実験心理学会議の分科会で心霊研究が議題となり、SPRの提案により欧米6ヶ国が参加する国際的な「幻覚統計調査」の実施が決定される。
1889年11月
霊媒師マーガレット=フォックス(51歳)、昨年の自らのトリック告白を金銭目的の虚偽として撤回する。
霊媒師レオノーラ=パイパー(30歳)、SPRの要請により心霊現象研究のためにロンドンに渡る。
霊媒師エウサピア=パラディーノ(35歳)、イタリア・ナポリで精神科医ロンブローゾ(64歳)の調査を受けるがトリックではないと判断される。
1890年
匿名人物「霊媒師A」による心霊現象トリック暴露本『ある心理霊媒師の暴露』が出版され話題となる。
1892年
ウィリアム=ジェイムズの弟の小説家ヘンリー=ジェイムズ(49歳)、SPRの故エドマンド=ガーニーをモデルとした恐怖小説『エドマンド=オーム卿』を発表する。
1892年8月
SPR、国際実験心理学会議で「幻覚統計調査」の結果を発表し、幽霊の存在を裏付ける(人は偶然の430~440倍の確率で幽霊らしき存在に出遭う)。
1893年12月
アメリカの哲学者ウィリアム=ジェイムズ(51歳)、SPR第3代会長に就任する。
1894年
SPRのシャルル=リシェ(44歳)、フレデリック=マイヤース(51歳)、オリヴァー=ロッジ(43歳)ら、リシェの別荘のある地中海のルボー島で霊媒師エウサピア=パラディーノ(40歳)の調査研究を行い(ルボー島実験)、パラディーノの霊能力を本物であると認める。
1895年4月
SPRのリチャード=ホジソン(40歳)、SPR会報でルボー島の研究結果を徹底的に否定する。
SPR、パラディーノをイギリス・ケンブリッジに招いて霊媒実験を実施するが、ホジソンにより霊能力はトリックであると断定される。
1895年12月
ウィリアム=クルックス(63歳)、SPR第4代会長に就任する。
1897年5月
イギリスの小説家ブラム=ストーカー(50歳)、長編恐怖小説『ドラキュラ』を発表する。
1897年12月
リチャード=ホジソン(42歳)、「第2次パイパー報告」で初めて霊の存在を認める。
1898年
小説家ヘンリー=ジェイムズ(55歳)、恐怖心理小説『ねじの回転』を発表する。
1898年10月
物理学者ウィリアム=クルックス(66歳)、イギリス学術協会の会長に就任するが、変わらず霊や超能力の存在を主張する。
シャルル=ロベール=リシェ(Charles Robert Richet 1850~1935年)
シャルル=ロベール=リシェは、フランスの生理学者。1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。アレルギー研究の父でもある。
パリ大学に入学後、医学を学び外科医を目指すが、生理学を志すようになる。1869年に医学博士号を取得後、1878年には理学博士号も取得。1879年にパリ大学医学部生理学講師に着任、1887年には生理学教授となる。1913年、アナフィラキシー・ショックの研究によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。体温調整機能の研究も業績の一つである。1927年に大学を引退後は、平和論の推進、航空科学の研究、精神感応術の研究を進めた。
心霊現象の研究でも知られ、1905年には心霊現象研究協会(SPR)の第8代会長もつとめている。1893年には当時話題になっていたイタリア人霊媒師エウサピア=パラディーノを調査する過程で、エーテル体を物質化または視覚化する半物質を発見し、「エクトプラズム」という新語をつくりだしたことでも知られている。
チェーザレ=ロンブローゾ(Cesare Lombroso 1835~1909年)
チェーザレ=ロンブローゾは、イタリアの精神科医で犯罪人類学の創始者である。「犯罪学の父」とも呼ばれることがある。
ロンブローゾは心霊研究家(心霊主義者)としての顔も持っていた。1891年、彼を含む6名の学者からなる委員会は、当時の有名な物理霊媒師であったエウサピア=パラディーノがミラノで開催した交霊会に立ち会って調査を行い、彼女が起こした心霊現象について「真実である」と判断した。
ネリー=タイタス事件
1898年10月にアメリカ合衆国ニューハンプシャー州で発生した超常現象事件。失踪した少女の霊を感じ取った近所の主婦ネリー=タイタスが少女の遺体を発見した。事件を公表した ASPRのウィリアム=ジェイムズは、ネリーの霊視能力を科学的に確かに存在していると認めた。
1900年8月
SPRの創設者ヘンリー=シジウィック、死去(62歳)。
1901年1月
SPR第5代会長フレデリック=マイヤース、死去(57歳)。
イギリス帝国皇帝ヴィクトリア1世、崩御(81歳)。
1902年
ウィリアム=ジェイムズ(60歳)、自身の哲学講義を基にした『宗教的経験の諸相 人間性の研究』を発表する。
1905年12月
ASPRのリチャード=ホジソン、死去(50歳)。
1906年1月
霊媒師レオノーラ=パイパー(47歳)の交霊会に、死亡した直後のリチャード=ホジソンの霊が出現する。
1906年12月
オリヴァー=ロッジらSPR、レオノーラ=パイパーをロンドンに招き2回目の検証実験を行う。
1908年12月
SPR、イタリア・ナポリで霊媒師エウサピア=パラディーノ(54歳)の交霊会の検証実験を行い、パラディーノの霊能力を改めてトリックでないと認める。
1909年
SPRのウィリアム=バレット(65歳)、霊媒師パイパーやパラディーノに関する長年の研究をまとめた著書『新しい思想世界の入り口で』を発表する。
1909年12月
ハーヴァード大学の心理学者ヒューゴー=ミュンスターバーグ(46歳)、パラディーノの交霊会のトリックを暴露し、SPRのウィリアム=ジェイムズを批判する。
1910年8月
ウィリアム=ジェイムズ、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州の自宅で死去(68歳)。
1918年
霊媒師エウサピア=パラディーノ、死去(64歳)。
1919年
故ヘンリー=シジウィックの義弟であるノーベル賞物理学者レイリー男爵ジョン=ストラット(77歳)、SPR第13代会長に就任する。
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