羽前国 成沢城とは
永徳三(1383)年に、最上家の開祖である室町幕府羽州探題・斯波兼頼(1316~79年)の嫡男・山形右京大夫直家(?~1410年)の六男・大極兼義によって築かれたといわれる。 兼義は父・直家の命により成沢の地に封ぜられ、はじめ永徳元(1381年)年、須川のほとりに泉出城(現・山形県山形市成沢西)を築いて居城としたが、すぐに成沢城を築き移ったという。
成沢城は須川の東岸、山形盆地の南東に位置し、蔵王山系から西へ張り出した尾根の突端部の丘(比高60m )に築かれた城で、置賜・上山方面から山形平野への入口を押える最前線に位置していた。東西350m 、南北600m の規模の城郭である。
山城には曲輪や土塁が設置され、その間に大手道を効果的に通すことによって、巧みに防御する構造となっている。また、東に広がる平地部には城主や家臣の屋敷があり、それらを取り囲むように成沢川が流れ、さらに外側に堀が廻らされる惣構え形式の大規模な城域となっていた。
成沢城には主な曲輪が二ヶ所あるが、標高が高い南の曲輪が本丸(主郭 東西90m 、南北35m )となり、本来山頂であったところを削って平らにしたと考えられる。現在、南の麓にある八幡神社は元はこの山頂に鎮座し、成沢城築城に際し麓に移転したと伝えられる。
標高が低い北の峰は二ノ丸(副郭 東西35m 、南北110m )になり、二ノ丸は主に北方面に対する防御を担っていた。
北や西の尾根筋には麓から小規模な曲輪が続き、これらと連動して敵の侵攻を防いだと考えられる。
斜面を削る際に意図的に造られた崖のことを切岸も残っている。
土塁も一ヶ所残っているが、本来はもっと西に向かって長く続いており、この土塁は本丸か二ノ丸のどちらかが敵の手に落ちても、残りの曲輪に敵が侵入するのを防ぐ目的で作られたと考えられる。
成沢城の場合、街道が走る西側に城郭の正面である大手口があると考えられるが、東側にも大手口があったという伝承がある。これは、成沢城の東にそびえる信仰の山・瀧山への参道が東にあったため、その重要性から東にも大手口の伝承が残っているとみられる。
天正六(1578)年、上山城主・上山満兼(?~1580年)は大名・伊達輝宗(1544~85年)に通じて最上義光(1546~1614年)の山形へ侵攻する。この時の成沢城主は最上家重臣・氏家尾張守守棟(1534~95年)の従兄・成沢道忠(1509?~?年)で、最上義光は伊良子宗牛(?~?年)という老将を成沢城へ送り込み、籠城を命じた。 義光は援軍として柏木山へ陣を進め、伊達・上山軍も成沢城に押えを置いて柏木山へ進軍した。両軍の先陣が松原で激突し合戦が始まったが、柏木山に伏せていた最上方の鉄砲隊が伊達氏の旗本衆めがけて撃ちかかると伊達・上山軍は乱れ、最上方の延沢能登守満延(1544~91年)と氏家守棟の軍勢が押し出すと、支えきれずに上山城まで退いた。これを「柏木山合戦」という。慶長十九(1614)年の主君・義光の没後、道忠は新当主となった最上家親(1582~1617年)を廃して家親の異母兄・清水義親(1582~1614年)を立てようとしたが、不成功に終わって陸奥国石田沢(現・宮城県塩釜市)に亡命した。
また、慶長五(1600)年に直江兼続(1560~1620年)率いる上杉軍が最上領に攻め入った際の城主は坂紀伊守光秀(?~1616年)だったが、この合戦に勝利したのち光秀は長谷堂城主となり、成沢城には従弟の氏家守棟が入った。しかし、元和八(1622)年に最上家が国替えになると成沢城は廃城となった。
現在、八幡神社の奥の院のある南の峰が本丸、馬頭観音の建つ北の峰が二ノ丸で、その中央から西へ下りる道を大手という。山全体に削平地が広がっており、二ノ丸の東側に下りた場所に横堀が残っている。
城山の北側から東側へ回り込む道を進むと成沢城址公園の入口があり、駐車場も完備している。最寄り駅は JR蔵王駅。
永徳三(1383)年に、最上家の開祖である室町幕府羽州探題・斯波兼頼(1316~79年)の嫡男・山形右京大夫直家(?~1410年)の六男・大極兼義によって築かれたといわれる。 兼義は父・直家の命により成沢の地に封ぜられ、はじめ永徳元(1381年)年、須川のほとりに泉出城(現・山形県山形市成沢西)を築いて居城としたが、すぐに成沢城を築き移ったという。
成沢城は須川の東岸、山形盆地の南東に位置し、蔵王山系から西へ張り出した尾根の突端部の丘(比高60m )に築かれた城で、置賜・上山方面から山形平野への入口を押える最前線に位置していた。東西350m 、南北600m の規模の城郭である。
山城には曲輪や土塁が設置され、その間に大手道を効果的に通すことによって、巧みに防御する構造となっている。また、東に広がる平地部には城主や家臣の屋敷があり、それらを取り囲むように成沢川が流れ、さらに外側に堀が廻らされる惣構え形式の大規模な城域となっていた。
成沢城には主な曲輪が二ヶ所あるが、標高が高い南の曲輪が本丸(主郭 東西90m 、南北35m )となり、本来山頂であったところを削って平らにしたと考えられる。現在、南の麓にある八幡神社は元はこの山頂に鎮座し、成沢城築城に際し麓に移転したと伝えられる。
標高が低い北の峰は二ノ丸(副郭 東西35m 、南北110m )になり、二ノ丸は主に北方面に対する防御を担っていた。
北や西の尾根筋には麓から小規模な曲輪が続き、これらと連動して敵の侵攻を防いだと考えられる。
斜面を削る際に意図的に造られた崖のことを切岸も残っている。
土塁も一ヶ所残っているが、本来はもっと西に向かって長く続いており、この土塁は本丸か二ノ丸のどちらかが敵の手に落ちても、残りの曲輪に敵が侵入するのを防ぐ目的で作られたと考えられる。
成沢城の場合、街道が走る西側に城郭の正面である大手口があると考えられるが、東側にも大手口があったという伝承がある。これは、成沢城の東にそびえる信仰の山・瀧山への参道が東にあったため、その重要性から東にも大手口の伝承が残っているとみられる。
天正六(1578)年、上山城主・上山満兼(?~1580年)は大名・伊達輝宗(1544~85年)に通じて最上義光(1546~1614年)の山形へ侵攻する。この時の成沢城主は最上家重臣・氏家尾張守守棟(1534~95年)の従兄・成沢道忠(1509?~?年)で、最上義光は伊良子宗牛(?~?年)という老将を成沢城へ送り込み、籠城を命じた。 義光は援軍として柏木山へ陣を進め、伊達・上山軍も成沢城に押えを置いて柏木山へ進軍した。両軍の先陣が松原で激突し合戦が始まったが、柏木山に伏せていた最上方の鉄砲隊が伊達氏の旗本衆めがけて撃ちかかると伊達・上山軍は乱れ、最上方の延沢能登守満延(1544~91年)と氏家守棟の軍勢が押し出すと、支えきれずに上山城まで退いた。これを「柏木山合戦」という。慶長十九(1614)年の主君・義光の没後、道忠は新当主となった最上家親(1582~1617年)を廃して家親の異母兄・清水義親(1582~1614年)を立てようとしたが、不成功に終わって陸奥国石田沢(現・宮城県塩釜市)に亡命した。
また、慶長五(1600)年に直江兼続(1560~1620年)率いる上杉軍が最上領に攻め入った際の城主は坂紀伊守光秀(?~1616年)だったが、この合戦に勝利したのち光秀は長谷堂城主となり、成沢城には従弟の氏家守棟が入った。しかし、元和八(1622)年に最上家が国替えになると成沢城は廃城となった。
現在、八幡神社の奥の院のある南の峰が本丸、馬頭観音の建つ北の峰が二ノ丸で、その中央から西へ下りる道を大手という。山全体に削平地が広がっており、二ノ丸の東側に下りた場所に横堀が残っている。
城山の北側から東側へ回り込む道を進むと成沢城址公園の入口があり、駐車場も完備している。最寄り駅は JR蔵王駅。
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