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全国城めぐり宣言 第49回 「甲斐国 新府城」資料編

2024年10月09日 23時45分56秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 新府城とは
 新府城(しんぷじょう)は、現在の山梨県韮崎市中田町にあった連郭式平山城。別名・韮崎城。1973年に国史跡に指定され、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。2017年に「続日本100名城」の第127番に選定された。

 甲府盆地西部に位置し、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。
 石垣を使用していない平山城で、本丸・二ノ丸・東三ノ丸・西三ノ丸・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ。ちなみに本丸・二ノ丸は城主である武田勝頼の父・武田信玄の居館・躑躅ヶ崎館の本丸・西ノ丸に相当し、規模も同程度であることから、政庁機能を持つ城郭でもあったと考えられる。

 近年は発掘作業や間伐など整備がなされ、甲州流築城術の特徴である丸馬出や三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認できるようになった。また陶磁器類も出土している。支城として白山城(同市神山町)と能見城(同市穴山町)がある。

 武田勝頼時代の武田家の築城の特徴として、側面や背後を断崖や川に囲まれた台地の突端部を利用して戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流す構造が挙げられる。
 具体的には、正面の丸馬出より城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせ、そこに横矢を射て攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を排除できる構造で、同様な構造の代表的な城に遠江国では諏訪原城・小山城、信濃国では大島城がある。ただし、新府城の場合は支城である能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ、上に挙げた諸城と比べても、その規模は群を抜いて大きい。また、能見城の防塁は複雑に屈曲し、最大限に横矢を射られる構造となっている防塁が多数配置されている。
 ただし、諏訪原城は発掘調査から現在見られる縄張は徳川家が整備したことが判明しており、新府城の北側防塁も武田家ではなく天正壬午の乱時に徳川家が構築したものとの説がある。

 このように大規模な構造から、新府城とその支城群は、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提となっていたようで、実際に天正壬午の乱においては、徳川家康軍が北条氏直軍に対峙する本陣として使用されていた。
 また、新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は、江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられる。
 新府城は、使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7~8km、東西2km 周辺の自然地形全体が軍事的効果を持っていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城だった。

 戦国時代に甲斐国守護・武田家は本拠地を石和(現・笛吹市石和町)から甲府へ進出して、川田(現・甲府市川田町)に居館を移転した。
 第十五代当主・武田信虎の時代には甲斐国内を統一して戦国大名化し、古府中に居館である躑躅ヶ崎館が築かれ、家臣団を集住させて城下町を形成した。
 第十六代当主・武田晴信(信玄)の時代には領国拡張と平行して城下町の整備拡張がさらに進み、躑躅ヶ崎館は政庁の役割を持つ府中として重要な役割を果たすようになった。
 続く第十七代当主・武田勝頼の時代にも整備は行われているが、後背に山を持つ府中は防御に適しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃国、上野国西部、駿河国へと拡大した武田家の領国統治にとって不足であったため、首府の移転が計画されたと考えられている。
 新府城が位置する韮崎は甲府盆地北西端に位置しているが、戦国時代に拡大した武田領国においては中枢に位置し、躑躅ヶ崎館の府中よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられている。また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し、さらに釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、新城築造の背景にあったと考えられている。

 天正三(1575)年五月二十一日の設楽ヶ原合戦において、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗し、それ以降、武田勝頼は領国支配の強化に傾注した。
 天正時代に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』によれば、天正九(1581)年三月には甲斐国河内や駿河国江尻を領する武田家一門衆の穴山信君(梅雪)が、主君・勝頼に新たな築城を献策したという。
 その一方で、新府城の築城に関する史料上の初見は『長国寺殿御事跡稿』(真田宝物館所蔵文書)で、同年正月二十一日に、武田家重臣・真田昌幸が配下の国衆に人足動員を命じた記述とされる。この書状を根拠に新府城の普請奉行を昌幸とする説もあるが、昌幸は勝頼の命により人夫動員を通達したものに過ぎず、昌幸普請奉行説を慎重視する意見もある。
 中世~近世初期の古文書集『武州文書』によれば、同年九月に新府城の普請は完了したという。このため、穴山信君の献策は前年の天正八(1580年)七月のこととする説もある。
 普請が完了した同年末には勝頼が新府城へ入城し、武田家の本拠地は躑躅ヶ崎館から新府城に移転した。

 天正十(1582)年二月、武田勝頼は信濃国での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田信長・徳川家康連合軍に阻まれて帰国した。織田軍はさらに甲斐国へ侵攻し、武田勝頼は三月には重臣・小山田信茂の岩殿城に移るために、新府城に火をかけて放棄した。
 その後、勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(現・大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(現・甲州市)へ追い詰められ自害し、武田一族は滅亡した。

 武田家の滅亡後、織田家は甲斐国と信濃国諏訪に家臣の河尻秀隆を配置し、秀隆は岩窪城(現・甲府市岩窪町)を本拠としたという。しかし同年六月に本能寺の変が発生し、秀隆は混乱のなかで横死する。これにより甲斐・信濃両国の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生し、三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が甲斐国へ侵攻した。天正壬午の乱において徳川軍は新府城跡を本陣に、能見城など七里岩台上の城砦に布陣した。それに対して北条軍は都留地方を制圧し、若神子城(現・北杜市須玉町)に本陣を置くと周辺の城砦に布陣し対峙した。同年十月には徳川・北条同盟が成立し、北条家は甲斐国から撤兵する。
 これにより甲斐国は徳川家が領有し、甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした。
 天正十八(1590)年の小田原合戦により北条家が滅亡すると、豊臣政権に臣従していた家康は関東地方へ移封される。甲斐国は羽柴秀勝・加藤家・浅野家が領し、豊臣政権大名時代に躑躅ヶ崎館を中心とする城下町の南端にあたる一条小山に新たに甲府城が築城され、新たな甲府城下町が形成された。その後、関ヶ原合戦を経て甲斐国は再び徳川家が領し、近世を通じて甲府城は甲斐国の政治的中心地となり、新府城は廃城となった。

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