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全国城めぐり宣言 第51回 「武蔵国 練馬城と古城の塔」資料編

2024年12月10日 23時19分40秒 | 全国城めぐり宣言
武蔵国 練馬城とは
 練馬城(ねりまじょう)は、東京都練馬区向山にあった室町時代の日本の城である。東京都指定旧跡。
 城跡は、1926~2020年に営業していた遊園地「としまえん」を経て、2023年5月に都立練馬城址公園が開園した。

 築城年代は不明であるが、14世紀末に豊島家が石神井城の支城として築いたものと考えられている。また、この城にはかつて「矢野将監」という人物がいたため(時期不明)、「矢野屋敷」や「矢野山城」とも呼ばれていたという。そのほか、「海老名左近」という人物がその後に練馬城またはその北側の谷に居を構えたという伝説も残されている。なお、『豊島名字之書立』(年月日不詳)には豊島家の人物として「ねりまひやうこ(練馬兵庫)」や「ねりま弥次郎」の名が記されているが、練馬城との関係は詳らかではない。

 豊島家は文明八(1476)年に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して関東管領の山内・扇谷両上杉家と戦った。この乱において、上杉方の江戸城と河越城の中間に位置していた練馬城は、近隣の豊島家の石神井城とともに、江戸・河越城間の連絡を遮断する役割を果たした。
 翌文明九(1477)年四月十三日、扇谷上杉家の家宰・太田道灌資長は江戸城を出撃し、練馬城とその周辺に攻撃した。これに対して練馬城主の豊島平右衛門尉泰明は、石神井城にいる兄の豊島勘解由左衛門尉泰経に連絡を取り全軍で出撃し、江古田原で合戦となった。この結果、豊島方は平右衛門尉泰明が討死し、生き残った勘解由左衛門尉泰経と残兵は石神井城へと敗走した。練馬城がその後どのようになったかは明らかとなっていないが、城主の討死や兵の石神井城への敗走により無人状態となり、そのまま廃城したものと考えられる。

 練馬城は、石神井川の南岸に位置する丘陵を利用して築かれた平山城である。城域は石神井川に流れ込む湧水が形成した侵食谷によって東西を刻まれ、南北に伸びた舌状台地を利用している。台地を東西に断ち切る石神井川の急崖をもって城の北の守りとしており、台地続きの南側を防御正面としていたと推定される。かつては南方の台地付け根部分に大きな空堀が存在したとされるが、現存していないため詳細は不明である。
 1927年刊行の『東京近郊史蹟案内』によれば、内郭(本丸)の規模は東西約110m、南北約95m であったとされる。北東部には75平方m 程の平坦部があって物見櫓跡と推定されており、以前には鬼門を守る「城山稲荷」が奉られていた(現在は移築されている)。土塁の幅は10~15m で高さは約3m、土塁頂上は通路として利用されていたという。また南方では馬出の跡も確認されている。城は、太田道灌との緊張関係が高まる中で石神井城とともに「対の城」として、大掛かりに改修された可能性が高い。遺構は近年まで若干残されていたが、1989年の「としまえん」内のプール施設などの建設により完全に消滅した。建設前の発掘調査では、最大で幅約10m・深さ約4m の空堀や土塁跡などが検出されている。
 かつては、練馬城を囲むように土塁と空堀が築かれていたとされるが、地表に遺構はほとんど残っていない。

 現在、城跡は「練馬城址公園」として段階的に整備されており、としまえん時代の2003年から開業した温泉施設「庭の湯」は営業を継続し、石神井川の北側区画では「ワーナーブラザース・スタジオツアー東京 メイキング・オブ・ハリー・ポッター」が営業している。
 アクセスは、西武池袋線・豊島園駅から徒歩5分。


古城の塔とは
 1926年のとしまえん開園時から存在している建築物。設計は、初期としまえんの設計者である戸野琢磨(1891~1985年)。イギリスの古城を模した建築物で、当初は食堂として使われていたいたが、イベントホールや喫茶店など用途が変わり、近年は年間フリーパス「木馬の会」の運営事務所として利用されていた。
 2020年のとしまえん閉園後に解体される予定であったが、地元団体や日本建築学会関東支部の要望により保全が検討され、2024年現在も結論は出ていない。現在はコスプレイヤーの撮影スポットとしても知られ、JCF(ジャパンコスプレフェスティバル)で「最大の人気スポット」として紹介されている。

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