武蔵国 石神井城とは
石神井城(しゃくじいじょう)は、現在の東京都練馬区石神井台にあった城。東京都指定文化財史跡。
平安~室町時代に石神井川流域を支配していた豊島家の室町時代の居城だった。
石神井城の築城時期は定かではないが室町時代中期であったと考えられている。鎌倉期以降に宇多家や宮城家らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びつつ石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島家が築いた城で、以後この地は豊島家の本拠地となった。豊島家は貞和五(1349)年に石神井郷の支配を開始したものの、応安元(1368)年に関東管領上杉家に所領を一時没収されており、その後応永二(1395)年に返却されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれも応永年間の建立と伝えられていることから、石神井城もこの応永二年の返却後に築城されたとする説が有力である。
平安時代以来、武蔵国の豪族として名を馳せていた豊島家は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉家の家宰の太田家と対立を深め、文明九(1477)年の長尾景春の乱で太田道灌資長(1432~86年)に攻められ落城した。この合戦において、当時の豊島家当主の豊島勘解由左衛門尉(泰経?)は石神井城、その弟の豊島平右衛門尉(泰明?)は練馬城に籠城して太田道灌と対峙したが、同年四月十三日に練馬城を攻撃された後に江古田原合戦で惨敗を喫して平右衛門尉は討死し、勘解由左衛門尉は石神井城に帰還した。
翌十四日に道灌は、石神井城と石神井川をはさんで約700m の距離にある小高い丘の愛宕山(現在の早稲田大学高等学院中学部周辺)に陣を張り石神井城と対峙し、十八日に和平交渉が開始されたが、豊島家が和平条件の石神井城の破却に応じなかったことから二十一日に道灌は攻撃を再開し、勘解由左衛門尉はその夜に城を捨てて逃亡した。勘解由左衛門尉は翌年一月に平塚城(現在の東京都北区上中里)で再起を図るが、道灌の再攻撃により戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている。なお、「石神井城の落城時に城主の娘の照姫が三宝寺池に身を投げた」と伝えられているが、これは明治二十九(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』の内容が流布したものであり、照姫は全くの架空の人物である。
石神井城は、石神井川と三宝寺池(現在の石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状台地上に位置する。ただし、同時期に築城された他城郭と異なり、台地の先端ではなく基部に占地し、堀切を用いて東西の両端を遮断している。
現在、城域一帯は開発が進み旧態は失われているが、土塁と空堀を廻らせた内郭(本丸)の跡がわずかに残っており、発掘の結果、屈折した堀と土塁によって城内が複数の郭に区画されていた「連郭式平山城」の構造であったことが判っている。天守構造はない。
この城の最終形が完成したのは、太田道灌との緊張関係が高まった15世紀半ばで道灌の江戸城に対抗する城として大掛かりな改修が行われた可能性が高い。
城は東西に約1km 延びる舌状台地の西端から中央部にかけて築かれており、内郭の規模は南北約100〜300m・東西約350m で、面積は約3万坪。北は三宝寺池、南・東は石神井川という天然の水堀によって守られていた。内郭が台地の先端ではなく中央部付近に築かれたのは、豊富な水量を持つ三宝寺池に接した方が生活面においても防衛面においても優れていたためであったと考えられる。なお、人工の防御構造は全て西向きに造られており、これは北・南・東からの侵入が物理的に不可能であったことを示している。台地の西側の付け根部分は、幅約9m、深さ約3.5m(土塁頂部との高低差推定7m)、延長約300m にも及ぶ大規模な水堀によって断ち切られており、その先は小規模な空堀と土塁が内郭まで続く構造となっていた。
江戸時代の文化・文政年間(1804~29年)に編まれた地誌『新編武蔵風土記稿』には、「櫓のありし跡にや、所々築山残れり」とあるが、現在もその名残りとして水堀跡の内側に若干の高まりが見られる。また、水堀の西と内郭の東にも何らかの付属施設があったと考えられている(東側に「大門」の地名がある)。
1998~2003年に実施された発掘調査では、内郭の空堀が「箱堀」で、深さ約6m・上幅約12m・下幅約3m であることが判明し、人為的に一部が埋められた跡も確認されたが、これは道灌に降伏した際の処置とする説が有力である。土塁の基底部幅は16.3m、高さ約3m(城が存在していた当時の高さは推定約6m )。また、内郭の土塁内側からは1間×1間の掘立柱建築物、3間以上の総柱または庇付き建物の可能性がうかがえる柱穴が検出された。そのほかには直径約4m、深さ約3m の巨大な地下式坑が検出され、これは食料貯蔵庫の跡と推定されている。内郭への出入りは西側に「折(おり 真横から矢を射掛けるための構造)」が存在することから、木橋によって行われていたとみられる。また、土塁中からは道灌との合戦時期に近い15世紀頃の常滑焼片が出土しており、内郭は戦闘に備えて急遽増築されたものとも考えられている。内郭からは遺物として12世紀以降の陶磁器、かわらけ、瓦、小刀、砥石などが出土したが、陶磁器は日常品が少なく白磁四耳壷・青白磁梅瓶・褐釉四耳壷などの威信材が目立った。これについては戦闘前に貴重品を内郭に運び込んでいたためとする説もあるが全体的に生活痕が乏しく、そのため近年では、内郭は生活の場ではなく非常時の籠城用施設であったとする見方が有力となっており、城主である豊島家の平時の居館の位置については、内郭に隣接し土塁や空堀が配置されていた「三宝寺裏山付近」と推測されている。なお、土塁の南側に切れ込みが観察されるが、これは虎口ではなく近世に入ってから造られた通路である。
現在、内郭は遺構保護のためにフェンスが設けられており、無許可で立ち入ることはできない。
石神井城跡から発掘された考古資料は現在、石神井公園近くの「石神井公園ふるさと文化館」で出土品を見ることができる(入館無料)。
石神井城の遺構としては現在、内郭の空堀と土塁が石神井公園内に残っている。また、三宝寺池の西南端付近に空堀跡、その南側の住宅地内に物見櫓の痕跡(円形の高まり)が認められる。
アクセスは、西武池袋線・石神井公園駅から徒歩15分。
石神井城(しゃくじいじょう)は、現在の東京都練馬区石神井台にあった城。東京都指定文化財史跡。
平安~室町時代に石神井川流域を支配していた豊島家の室町時代の居城だった。
石神井城の築城時期は定かではないが室町時代中期であったと考えられている。鎌倉期以降に宇多家や宮城家らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びつつ石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島家が築いた城で、以後この地は豊島家の本拠地となった。豊島家は貞和五(1349)年に石神井郷の支配を開始したものの、応安元(1368)年に関東管領上杉家に所領を一時没収されており、その後応永二(1395)年に返却されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれも応永年間の建立と伝えられていることから、石神井城もこの応永二年の返却後に築城されたとする説が有力である。
平安時代以来、武蔵国の豪族として名を馳せていた豊島家は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉家の家宰の太田家と対立を深め、文明九(1477)年の長尾景春の乱で太田道灌資長(1432~86年)に攻められ落城した。この合戦において、当時の豊島家当主の豊島勘解由左衛門尉(泰経?)は石神井城、その弟の豊島平右衛門尉(泰明?)は練馬城に籠城して太田道灌と対峙したが、同年四月十三日に練馬城を攻撃された後に江古田原合戦で惨敗を喫して平右衛門尉は討死し、勘解由左衛門尉は石神井城に帰還した。
翌十四日に道灌は、石神井城と石神井川をはさんで約700m の距離にある小高い丘の愛宕山(現在の早稲田大学高等学院中学部周辺)に陣を張り石神井城と対峙し、十八日に和平交渉が開始されたが、豊島家が和平条件の石神井城の破却に応じなかったことから二十一日に道灌は攻撃を再開し、勘解由左衛門尉はその夜に城を捨てて逃亡した。勘解由左衛門尉は翌年一月に平塚城(現在の東京都北区上中里)で再起を図るが、道灌の再攻撃により戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている。なお、「石神井城の落城時に城主の娘の照姫が三宝寺池に身を投げた」と伝えられているが、これは明治二十九(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』の内容が流布したものであり、照姫は全くの架空の人物である。
石神井城は、石神井川と三宝寺池(現在の石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状台地上に位置する。ただし、同時期に築城された他城郭と異なり、台地の先端ではなく基部に占地し、堀切を用いて東西の両端を遮断している。
現在、城域一帯は開発が進み旧態は失われているが、土塁と空堀を廻らせた内郭(本丸)の跡がわずかに残っており、発掘の結果、屈折した堀と土塁によって城内が複数の郭に区画されていた「連郭式平山城」の構造であったことが判っている。天守構造はない。
この城の最終形が完成したのは、太田道灌との緊張関係が高まった15世紀半ばで道灌の江戸城に対抗する城として大掛かりな改修が行われた可能性が高い。
城は東西に約1km 延びる舌状台地の西端から中央部にかけて築かれており、内郭の規模は南北約100〜300m・東西約350m で、面積は約3万坪。北は三宝寺池、南・東は石神井川という天然の水堀によって守られていた。内郭が台地の先端ではなく中央部付近に築かれたのは、豊富な水量を持つ三宝寺池に接した方が生活面においても防衛面においても優れていたためであったと考えられる。なお、人工の防御構造は全て西向きに造られており、これは北・南・東からの侵入が物理的に不可能であったことを示している。台地の西側の付け根部分は、幅約9m、深さ約3.5m(土塁頂部との高低差推定7m)、延長約300m にも及ぶ大規模な水堀によって断ち切られており、その先は小規模な空堀と土塁が内郭まで続く構造となっていた。
江戸時代の文化・文政年間(1804~29年)に編まれた地誌『新編武蔵風土記稿』には、「櫓のありし跡にや、所々築山残れり」とあるが、現在もその名残りとして水堀跡の内側に若干の高まりが見られる。また、水堀の西と内郭の東にも何らかの付属施設があったと考えられている(東側に「大門」の地名がある)。
1998~2003年に実施された発掘調査では、内郭の空堀が「箱堀」で、深さ約6m・上幅約12m・下幅約3m であることが判明し、人為的に一部が埋められた跡も確認されたが、これは道灌に降伏した際の処置とする説が有力である。土塁の基底部幅は16.3m、高さ約3m(城が存在していた当時の高さは推定約6m )。また、内郭の土塁内側からは1間×1間の掘立柱建築物、3間以上の総柱または庇付き建物の可能性がうかがえる柱穴が検出された。そのほかには直径約4m、深さ約3m の巨大な地下式坑が検出され、これは食料貯蔵庫の跡と推定されている。内郭への出入りは西側に「折(おり 真横から矢を射掛けるための構造)」が存在することから、木橋によって行われていたとみられる。また、土塁中からは道灌との合戦時期に近い15世紀頃の常滑焼片が出土しており、内郭は戦闘に備えて急遽増築されたものとも考えられている。内郭からは遺物として12世紀以降の陶磁器、かわらけ、瓦、小刀、砥石などが出土したが、陶磁器は日常品が少なく白磁四耳壷・青白磁梅瓶・褐釉四耳壷などの威信材が目立った。これについては戦闘前に貴重品を内郭に運び込んでいたためとする説もあるが全体的に生活痕が乏しく、そのため近年では、内郭は生活の場ではなく非常時の籠城用施設であったとする見方が有力となっており、城主である豊島家の平時の居館の位置については、内郭に隣接し土塁や空堀が配置されていた「三宝寺裏山付近」と推測されている。なお、土塁の南側に切れ込みが観察されるが、これは虎口ではなく近世に入ってから造られた通路である。
現在、内郭は遺構保護のためにフェンスが設けられており、無許可で立ち入ることはできない。
石神井城跡から発掘された考古資料は現在、石神井公園近くの「石神井公園ふるさと文化館」で出土品を見ることができる(入館無料)。
石神井城の遺構としては現在、内郭の空堀と土塁が石神井公園内に残っている。また、三宝寺池の西南端付近に空堀跡、その南側の住宅地内に物見櫓の痕跡(円形の高まり)が認められる。
アクセスは、西武池袋線・石神井公園駅から徒歩15分。
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