日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

私の中の社会 7

2010-11-03 17:10:36 | 私とは何か
 私の中の社会とは、私の価値観、倫理観、ルールの積み重ねだ。美術、音楽、これらの趣味もこれまでの経験から好みが作りだされている。
 私が満足するものが、私にとって最も大切なものと言えると思うが、この満足も私が決めているようで、やはり社会的な規定の作用を受けている。
 私は、社会の評価を受けたいと思うことは少ない。むしろ社会の評価から離れたところで一人整然としたような存在でありたいと思うが、このような心も隠遁者という価値観へのあこがれにすぎない。
 私を規定すること、私とは何かを説明しようとすれば、今のところは、私が受け入れた社会規範が私なのかと思う。
 推論は正しいように思うが、おもしろくない。
 
 私は、不満を見つけてはそれを解決しようとし、より新しい不満を見つけてはそれに飛びついているのか。日々の生活でも、同じ作業の繰り返し。色々なものに不満を見つけては、それを目標にしているのかもしれない。
 それであれば、不満でいること、不満であることに良い意味を与えてやれば、意味ある生活になるのかもしれない。
 
 

小さな社会 6

2010-11-03 08:04:06 | 私とは何か
 世界は広く、小さな社会が互いに重複し、小さな社会から構成された社会である。
 世界の大きさは、私が見る視点によってその広さが変化する。ミクロに顕微鏡を覗き込んでも世界は存在するし、会社に行っても世界は存在するし、テレビで見てもその先に世界は存在する。
 私を視る作業は、この視点を虫眼鏡で内側に覗き込むことだ。私は、これまでに自分が歩いてきた社会が反映されている。むしろ私の中には社会そのものが構成されているのかもしれない。
 私が、大事とするものは、これまでの社会的規範や価値が反映されているし、その逆で嫌悪するものにも社会的規範、価値が反映している。ただ人々は、これまでに歩いてきた、「私」が選択した方向によってその社会的規範、価値が個々に違いがあるのだと思う。似た方向性の選択をした人々は似た価値観、共感を持ちやすい。
 私の個性とは、つまるところ私の歴史の中でその時々の社会に参加し自分が受け入れた社会的規範、価値の積層だ。この積層を変化させることは難しい。今現在もこの積層をつんでいる最中であるし、変化させるにも変化を起こさせるのも私自身であるので、本当に変化を起こしているのかも分からない。というよりも変化させたつもりが、今受け入れた社会的規範を新たに積み重ねているだけだろう。
 これでは、社会から独立に存在する個人的な価値というものは存在しえない。
 
 朝食ができたので、これくらいにしよう。
 私の一部は朝食とそのおいしさかもしれない。