意味は、ものにあるのか。人がものに意味をつけているのか。
人がいなければ、ものに意味はないのか。石ころに意味があるのか。花に意味があるのか。花自体に意味がないとしたら、人は花に何の意味をつけているのか。
花というフォルダ(分類の意)は、花と呼べる性質を有するものを放り込んでおく便 利な架空のポケットみたいなものだ。
フォルダは、名称とその規則(フォルダに集めるものを取捨選択する規則)から成立している。フォルダには名称がなければフォルダとしては成立しないし、フォルダに規則がなければ何が入っているか分からないフォルダとなってしまうので、フォルダとしては機能しない。
花をフォルダの名称とすれば、花の意味はフォルダの規則ということとなる。花というフォルダは、花という名称と、この名称の元に集めるものを取捨選択するルールから成立している。人が花というフォルダの意味を問うときは、このルールを問うている。
このフォルダの構造は面白い。花のフォルダの中には、バラ、タンポポ、ボタンなどのフォルダが無数にある。フォルダの中にフォルダがあってバラのフォルダには、またオールドローズ、イングリッシュローズ等々のフォルダが詰まっている。このフォルダは、人によって任意に分割され続々と増え、またそのフォルダがあったことが忘れさられていく。
社会の構成にそっくりだ。世界があり、民族があり、国家があり、地域があり、会社があり、部があり、係があり、個人がいる。
個人の中にも、日本人、男、会社員、父、ゲームオタク等々の構成がある。
この構成は、フォルダという枠から色々なものを覗いてしまうと、フォルダの性質からこうなってしまう。
そうとすれば、社会における色々な物事もフォルダに分類され、分類された物事の意味というものは、それぞれのフォルダのルールということになる。
意味をこのフォルダの名称と規則により考えるなら、フォルダは人がつくるものだから、人が意味を作っていることになる。
ただフォルダを作っても、中に入れるものがなければ、そのフォルダは機能しない。だから中に入るものは、フォルダとは別に存在しなければいけない。この点で、フォルダの中に入るものは、それ自体で成立しているし、フォルダに入るものがないのなら、そのフォルダは成立していない。
私というフォルダを作った時には、私というフォルダの名称と中に入るものを分別する規則が必要だ。私というフォルダの名称は、よく使っているが、私という規則は普段は使わない。
私というフォルダは、成立がしているが、規則がよく理解できないフォルダだ。
この規則は、フォルダを作るのが人である以上は、自分でこの規則を作らなければならない。フォルダは中にものを入れて初めて成立するのであるから、中にいれるものを何にするかは、自分で決めて、自分で集めなくてはならない。
私が何者か分からないというのは、フォルダの規則が自分で自覚できないことだろう。
生きる意味とかいうことを尋ねる人もいるが、同じフォルダの構造から考えれば自分でルールを決めて、自分で中身を集めなくてはならない。
ことばの中には、私とか、生きる意味とかいう、名称はあるがその規則がはっきりと定まっていないフォルダがある。逆にこのフォルダの規則を明確に定められた社会は、全体主義的性格によって、個人が規定されたことになる。
このよく分からない種類のフォルダは、規則を意味とすることができるのか。中身を意味とすべきか。もう少し考える必要がある。
ものの中に見出される意味について、今度よく考えてみよう。何故ものの中に意味を人は見つけることができるのだろう。